ポケットをたたくとおかねがふたつ♪
寄付を税控除の対象から外してみればわかること。
慈悲の心や公共心からではなく、ステータスやブランドイメージの確立、もっと直裁には経費圧縮かただの資産運用術に過ぎないということが。
日本は先進諸外国に比べて寄付金額が少ない狭量で自己責任論の強い社会だと分析されることが多々ありますが、これは単に寄付した場合の免除される税額に違いがあるというのが大きなところなのではないかと思います。
諸外国の寄付に対する税免除額を日本並みにしてみたら中・低所得の個人は別として、高所得者の個人や企業からの寄付は激減するのではないかな?
企業戦略としての寄付って、困っている人のもとに国からお金が回ってくるのか、企業からお金が回ってくるのかという違いが主なところで、より極端な言い方をすれば、税控除の対象となる寄付というのは結局のところ企業を介して国から回っているだけのことではないのかな?全額ではないけれどね。
企業に対して収益に合わせた累進的で妥当な税制を敷いて課税すれば、企業寄付って必要ないのではないのかな?むしろ仕組みを複雑にして効率を悪くしているようにさえ感じられます。
とはいっても国は万全ではなく、必要なところに必要なだけの支援が回らなかったり、試算が杜撰で無駄が多かったり、見落としたり、簡単に腐敗してあやしさ増してピンハネしたりとなかなかにいかがわしいからそんな理想論語れないんですけれどもね。
ポケットマネー
ところで、昔から違和感のある言葉にポケットマネーというのがあります。
とくに個人事業主の方にお金を出していただくようなとき、経費として計上することもなく"ポケットマネー"で支払っていただくことがありますが、個人事業主にポケットマネーってある?「財布は別にしましょう」と税理士さんか会計士さんかに言われるでしょうけれども、実際それをしておられる方は少ないのではないでしょうか?
それじゃあその"ポケットマネー"って一体何なのさ?となるのです。
そうして行き当たった疑問が「お金はだれのもの?」だったのでした。
もしもお金に公共性がなく、その人だけの独自の貨幣・通貨であったとしたら、そんなものには価値がなく流通しません。
そもそもこれは問題設定に問題があるのですが、つまり、信用があって流通するものが貨幣であるというのにその定義に反してその条件を覆した問題提起をしているのですから。
まあそれはそれとして、公共性を前提として天下を巡るお金、公共性・信用を剥奪されればなんの価値もないそのお金はだれのものでしょう?そのお金を手にしているその人のもの?硬貨・紙幣の所有権者?
貨幣の所有権者?
貨幣の所有権ってだれのものなのでしょう?
貨幣は権利証。お金の所有権は交換する権利にあるのであって、その金属片、その紙切れ自身にあるわけではありませんよね。
だというのに皆こぞって財産としてその貨幣の所有権争いに没頭し、貨幣の所有権を訴えています。
信用貨幣を積み上げたところで信用が増すというわけでもないのに。
なぜこんなものの顔色を窺って生活しなければならないのでしょう。
今や硬貨や紙幣として姿形を成さず、ただの数字が行き交うだけで経済に大きな影響を与え、それに一喜一憂しているということもあります。
ただ刷ったらいいだけのものを刷らず、刷りすぎたら減らしたらいいのにそれもしない。数字が足りないというだけのことを財源がないといって命を脅かし、数字が大きすぎるというだけのことで沸騰して湧き上がるあぶくのように狂乱する。
こんな素性の知れないあやしいヤツなのに「財政出動」とでも言おうものならぎゃーぎゃーわめき、「BI」なんて口走った日にはぶーぶーブタにされる。じゃなかったカバにされる。
"日本国籍を有する"国民全員に物価に応じて生きてるだけで来月も生きられるぐらいの金額を毎月給付したらいいのに。
絵に描いた我慢
はたらかない人が増えてもいいじゃない。それでも社会が回るなら。
ムリに仕事をつくって人を回して無駄をつくるぐらいならいっそなにもしないでじっとしててくれた方が資源が節約できてよっぽど社会貢献になるんじゃないの?
怠惰という社会貢献があってもいいじゃない。(←響きは斬新じゃない?)
恣意的な強欲
投資や何かで自らのお金を出資した場合、自分で自分のお金を使わない、お金を使う機会を譲ったからその我慢料として利子やリターンが発生するというお金や金利の擁護説(禁欲・制欲・節欲・待忍説と呼称が定まっていませんが)がありますが、それがなぜか実体があり数量の増減する資源には適用されない不思議。
エントロピーの理論 なぜ金を貸すと利子がつくのか | 永井俊哉ドットコム
禁欲説はお金にははたらいても資源にははたらかないみたいね。
禁欲説もお金にはたらかされているんでしょうかね?
空白地帯つぶし
原発停止で電力不足になるというのなら、各戸ソーラー発電を中心としたエネルギー自給化を進めればいいじゃない。
なんだか電気が足りないからつくっているというよりも、電気があるから使おうとさせているのではないかと思ってしまうことがあります。
片付けがあまり上手でない方は買いますばかりでものが増える一方。そして部屋がものであふれると「いるもの」と「いらないもの」の仕分けもせずに「収納場所がない」と判断しのたまい棚を買い増す傾向があるでしょう?
そうして収納スペースができるとまた買いまし、ものが増えていく。
収納場所がないから棚を買っているのか、棚を買って新たに収納場所ができたから買いましているのか、傍から見てるとよくわからない。
こんな方まわりにいませんか?
あんがい今お隣にいたりしてね。
電気だけに限らず、資源についてはな〜んかこんなようなところがあるように感じるんですよね〜。
遊び足りないぎりぎり設定
電気を最も使う鉄鋼業などの企業は集約して生産性高めて無駄を省いたらいいじゃない。
それで「雇用が…」「仕事が…」って、だからなにもしなくても生きられるようにBIにしたら?
それじゃあ産業が衰退する!とくるんでしょ?
やってみたこともないのになぜそんなに自信を持って言い切れるのかがわからない。
それにこう思うのです…
失業率の上昇は労働力が有効に利用されていない経済の停滞した状態だとされています。この指標おかしくない?ムリがない?
仮に人類皆就労の世の中というのを想像してみると…不気味じゃない?
その世界では労働力が十分に活かされていると思う?
人力総出って生産性高いと思う?
思えないでしょ?
別に誰も皆就業を掲げているわけではありませんが、目標設定おかしいんじゃないのかなあ?
そんな社会も生物もどこを探してもないよ。
遊びがないことは危ないこと
余力も余地もなくちょうど回っている社会は常にぎりぎりの危うい状態なんじゃあないの?
無駄のない社会は窮屈であるばかりか危険だよ。
車のハンドルやブレーキに遊びがなく、デジタルのようにon・off、急発進と急停止、フルパワーとゼロパワーでは危ないでしょ?
工作機械なんかにも遊びがあるっていうじゃない?そしてその遊びがあるからこそ精密機械でさえ及ばない極微細で繊細な加工が可能だということもあるでしょ?
これは"遊び"とは言わないのかもしれないけれど、遠隔操作による手術支援ロボットにはメスを入れたり鉗子でつまんでいる抵抗を意図的に再現することによって精緻な手術ができるようにしているでしょ?
遊びがないと危険だし、遊びがあるから高度な操作が可能になっているのです。
それなのにな〜んか遊びを目の敵にして虱潰しにつぶしていってない?
効率や生産性を求めすぎるがあまりかえって非効率になっていることがあるのではないかと思います。
まだ私たちが気づけていない一見効率的に見えて、実は遊びがないために無駄や低品質を招いてしまっていることもあるのではないかと思います。
生きることを保障した後に力を発揮するツール
お金が生きることに関わりすぎています。
お金が生きることにまで食い込まないのなら、お金は非常に有効なツールとなります。
どんなツールかといえば、それは指標。
お金の動きを見ることで需要と供給をはかることができ、無駄が省けて資源を有効利用できるようになります。
現代のお金もそのような指標として使われていますが、でもなにかが違う感じがするでしょう?
需要と供給が思ったほど実状をあらわさず正確でなかったり、もっと資源の有効利用や最適な配分が実現されてもよさそうなものなのにそうなっていません。
そこが、お金が生きるということ、貨幣が生死に影響しすぎているからなのではないかと睨んでいるところなのです。
生きること、生活に困らない状態でお金が流通する社会であれば、より正常に何に資源を使おうかという取捨選択・セレクション機能が正常にはたらいて、清涼な金流れを実現できるのではないかと思うのです。
お金が本領を発揮するのはお金を使うひとの生命・生活が保障された後のこと。
お金があまりにも生命・生活に干渉していると人々から公共心を剥奪しそこかしこでパイの取り合い合戦が起きるのは必然ではなかろうかと思うのです。
最低限の生命・生活が保たれていればお金は投票券のようにはたらき、需要と供給をより真当に反映し、より適切な資源配分を実現するのではないでしょうか。
クラウドファンディングの進展を見ておりますと、これからのお金の未来、より投票券のように機能するお金、投票型のお金の有効性が顕になってくるのではないかと期待させるところがあります。
問題のほとんどがお金に還元できる
少子高齢化はさまざまな問題を引き起こしますが、派手に一つに絞っていっていまうと、将来、財政を担う世代の負担があまりにも大きく賄いきれないこと、財源を産む若者がいなくなって経済社会を支えられなくなることです。
高齢者施設で老人介護をされている方の高齢が介護している方よりも高齢であるという例もそうめずらしいものではなくなってきました。大変ではありますが、高齢者にだってできることはたくさんあります。
外国の脅威がなく、お金の心配がないのなら、あまりにもあまりにも極端な少子高齢化社会でなければそうそう問題にはなりません。
格差は問題ではありません。
ひどい格差社会ではあっても皆が生きられるのなら、不自由のない暮らしができるのであれば格差に問題はありません。格差おおいに結構。問題は貧困です。
生活は多少苦しくてもなにもしなくても生きられるぐらいの収入が保障されていれば、多くの問題が解消とまではいかないまでも、緩衝ぐらいはしてくれるのではないかと思います。
お金に換算できる問題はお金に還元されます。
なにかと言えば財源!財源!!
ほんとうに問題は財源にあるのでしょうか?
財源を確保できなければ停滞してしまう仕組みに問題があるのではないでしょうか?
課税による規制は射幸心を煽る
ペットの殺処分をなくすためにはどうしたらいいか?という質問に対して「ペット税」と答える方が多いようですが、それで規制できるのは低所得層。
なにかを規制する方法を考えましょうというと多くの人がまず課税を唱えますが、それでいいの?
課税による規制ではお金があれば関係ありません。この方策で喚起できるのは道徳心ではなく所得ベースの選民思想めいたものではないでしょうか。
資本主義成分がなんとおどろきのレモン3個分!
資本主義がうまく機能していないのは、それは資本主義に問題があるのではなく、資本主義が徹底されていないことに問題があるのだとおっしゃられる方がおります。
また、民主主義が衆愚政治に陥るのは民主主義が足りないからだとおっしゃられる方がおります。
資本主義一辺倒というのもあやういところがありますので、いくぶんか社会主義的な要素を含んだものの方がバランスがよろしいかと思うのですが、それはここでは脇に置くとして、それでも現代の資本主義がうまく機能していないのは、民主主義が衆愚政治へと向かうように、資本主義が足りない、資本主義成分が不足している結果なのではないかな?と思うところです。
どっちの主義でショー。どちらがユートピアでしょう?どっちもどっちでしょう。
自立心の罠
"いいくらし"として求められているのはサーバントのいる、サーバントありきの社会に依存した生活ではないでしょうか。
自立した生活、自立できる社会というのは大切ですが、みずからの手で道具や衣服、住居をつくり食糧を得て調理していた太古の人類からしたら現代人の"自立"はあまりにも自立できていない依存したものに見えることでしょう。
もっとも、太古の人類は互いに直接的・密接的に協力し合って生活していて、他の生き方を知らず、生き方の選択肢がなかったので、たとえ現代人より多くのことを自らなさなければならない生活を送っていたのではあっても、どれだけ現代人の目からしたら自立した生活をしていたのだとしても、自分たちの生活が自立したものだという感覚がなく、そもそもそのような概念をもっていなかったことでしょうけれどもね。
いずれにせよ太古の人類には協力し合うことはあっても仕え使われるという主従、マスター-サーバントの関係はなかったことでしょう。
隷従と自立のあいだ
日がな一日テレビを見ておりますと、ここのところ「差別撤廃強化月間?」と思われるほど差別や格差、支配や弾圧について描いた話を目にします。
たとえば『世界で一番美しい瞬間(とき)「コットンが大地を純白に染めるとき アメリカ ミシシッピ」』。綿花といえばアメリカでのプランテーションで重労働を強いられた黒人奴隷を思い浮かべることでしょう。
そしてこの番組の後半ではこんな印象的な言葉(字幕)が紡がれていました。
小学生の頃先生が言ったのを覚えています。私の父が綿花農家だと。すると子どもたちは大笑いしました。そこで先生が言ったんです。「ちょっと待ちなさい。農家と言っても誰かの土地を耕しているのではありませんよ。彼は自分の土地を持っているんです。彼は家族のために相当なお金を稼いでいるんですよ」って。そうしたらもう誰も笑っていませんでしたね。それは小さな子供にとってあることを知るひとつの経験でした。アフリカ系アメリカ人でも他の人のために働くのではなく、自身の農園を持っている人がいるんだということを。
私も父が農園を30年間も続けてきたことを誇りに思います。だから私は自分の子どもたちにいつも言うんです。「おじいちゃんは黒人の歴史の一部なのよ」と。本当にそうなんです。
やんわりした日本語訳になっていますが「…他の人のために働く…」というところになんともいや〜なしこりが残ります。
またこちらの映画も放送されていました。
(個人的な感想ですが、黒人奴隷の悲惨さを伝えるという面では成功していると思いますが、ストーリー性はちょっと弱いかな。)
ソトを拒絶する内心
移民・難民に門戸を開き外国人が国内で増加すると、当初サーバント職につくのは移民・難民だったものが、ますますの移民・難民数の増加に伴い国内の雇用機会が圧迫されていき、後々ネイティブの国民であっても生活に窮する者や賃金の低いサーバント職につかなければならないものが出てきます。
中・上流階級からすればサービスの質が保たれるのならたいして気にはしないでしょう。
ということは、同族であってもサーバントとすることを厭わないのです。
サービスが低下するぐらいならむしろ歓迎することでしょう。
生活保障は正当な拒否権を保障する
バラエティ番組などをみておりますと、時間とお金をもてあましたごく一部のお金持ちが下卑たお金の使い方をしている様子を紹介しているものがあります。
このような姿を見ていると「人間は自堕落な生きもので、こんなんでお金ばらまいちゃったら際限なく資源を食い尽くしちゃうよ。今もそういうちょっと変な人もいるけれど、それは一部に限定されているからそれほど大きな影響が出ていないんだよ。」と想像される方もあるのではないでしょうか?でもほんとにそう?そうなるでしょうか?
なぜ富豪の要求を拒否できないのでしょうか?それは生活がかかっているからではないでしょうか。
たしかにお金をばらまいたところではじめのうちは今と変わらず、むしろ今よりもお金のあるところにはよりお金が集まり、お金のないところにはよりお金がなくなるということはないでしょうが、お金がないという状況は変わらないことでしょう。
しかし制度が浸透して意識が変わってくると、「それってどうなの?」という要求や行為に対して"拒否"できるようになってくるのではないでしょうか。なぜならそれをしても明日も生きていけるからです。
文化のめざめ
cultureの語源colere(ラ)は「(地を)耕す」という意味でした。
文化というのは人の手が加えられてなるものなんでしょうね。
また、もとは中国語(漢語)であった「文化」。「文化」という言葉には現代のような「慣習、習俗、芸術」といった類の意味はなく、もともとは「暴力によらない統治」「文治教化」という意味でした。
お金というのも文化。グローバル化も文化。規制緩和も文化。自立も文化。でも人の欲がそこにいかがわしいものを加えてしまうから間接的に暴力の呼び水となってしまい、"文化"から離れ、"文化"が分化されてお金やグローバル化や規制緩和といったものが文化から切り離されて、今では文化とはなかなか見なされづらくなっているのではないかと思います。
ちなみに、文化から分化派生したものにcult(カルト)があるそうですよ。
文化(culture)は、何故カルト(cult)から始まるのか?
また、「文化」の語源から見ると「文化大革命」の文化からの分化っぷり、文化からの甚だしい乖離にはえげつないものがありますね。
いつのまにか暴力性を纏ってしまった文化。
この文化から暴力性を剥いでいって道具や手段といった特質が薄らぎ、再びだれしもが認める文化となったとき、そのときは今よりも平和な世界になっているのではないかなと思います。
あるいは今のお金に変わる新たな文化が現代の種々の問題を解決していくのではないかと思います。
現代では漠然と口にされる文化。
貨幣ほどの力はないと侮られている文化。
文化は問題を打ち砕く矛となり、文化が平和を守る盾となり、文化が花開くとき、文化だけが矛盾を乗り越える人類の味方となるのではないかという風に言葉を飾ってみました。
文化的まとめ
項目事に話題が飛んでしまっているように見えますが、これはいま流行のパクリや豪快な引用の多用でつぎはぎになってしまったということではなく、わたしが飽き性で忍耐がなく、なににもまして単に編集能力がないというだけのことです。
振り返ってみますとお金に反対したり賛成したり、「お金をなくそう!」と言っているのかと思えば「お金は有用だ!」と言っているようでもあって、なにがいいたいのかわからないことでしょう?
それに表題の「お金はだれのもの?」という問いに対する明確な答えが提示されておらずやきもきされている方もあるのではないでしょうか?
なので最後にまとめらしきものを書いておきます。
問い:お金はだれのものか?
答え:お金は社会性の非常に高いもので、社会性なしには成立・流通しないものであるからだれのものでもありません。
補則:異端的宗教も文化から産まれた文化であるように、多種多様に分化した文化の結合、たとえば貨幣という文化に利子という文化が結合したことによって、または富の蓄積と占有という文化が合わさることでお金・財を保有できるという文化が形成され、現代ではお金を所有できるものとされている。
要は「文化しだい」ということで、これまでの長文がなんだったのか?と、身も蓋もない結論に至ったのでした。
気持ち悪くてごめんなさい。
長々ととりとめのない話をしてまいりましたが、なかには甘ったるい理想論の甘言を耳目にたらふく食べさせられて、とっても気持ちの悪い思いをされている方もあるのではないかと思います。
いらっしゃったとしたら奇遇ですね。わたしもちょうどそれと同じくらいの気持ち悪さを抱き続けてきたのです。貨幣に付与された性格や機能、またはそのために歪められた資本主義や人の強欲といったものに。
※このブログは読み手に媚びないかわりに配慮もしない個人的なメモ書きの羅列ですから、わるいところには目をつぶり、いいところがあったとしたらそこはうまいこと汲み取ってください。
書き手がめんどくさがって尽力することを放棄していますので、だいぶ荒っぽいですが読み手に丸投げつけたブログとなっております。