あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

【仮説】古武術身体操作の原理④:気の原理仮説

気とので合い

 院長先生はうつ伏せに寝ているわたしの左側方に立ち、わたしの腰の上方で両手のひらをかざし、しばらくそのままじっとしていました。

 1分か2分ほどして、院長先生の丹田の辺りに飲み込んだ空気が飲み込まれたような、飲み下ったような、そんな気配と、空腹でお腹が鳴るというのとは違ったグゥ~っという小さく短く唸るような音がして、それから1拍。

 「今これ、なんの時間?」と強い疑念を抱いたその直後、不意にわずかに全身なぜだか鳥肌が立ったと認識した次の瞬間、総毛立ちました。

 全身の毛穴という毛穴から、蛇口を全開にしたかのような勢いで、エネルギーが噴出して止みませんでした。

 「これが”気”…か?」と思いながら、根っからの貧乏性が顔を出し、「このエネルギー噴水ダダ漏れもったいない」からと、なんとか体に押し留めようと思うのですが、どうにもならず。

 その後すぐ「もったいない」と思うことがなくなりました。というのも、この”気”は自分の体にあったものが漏出しているのではなく、周りにある気が院長先生を介して流入しているもので無尽蔵で尽きることがないので「もったいない」との心配には及ばない、ということがはっきりと感じられたからです。

 

 それだけではなく、このときわたしは終始うつ伏せでU字形の枕に顔を埋めて目もつぶっていたので、本当に院長先生は両手をかざしていたのかは、触れてもいないですし、わたしの背面での出来事でもあるので知りようがないのですが、それでもはっきりとわかったのです。見えていたのです。

 この治療院で”気”による治療ができることも、気による治療をしているところも見たこともありませんでしたし、「これから気を流します」といった事前アナウンスもなく、おそらくそのときわたしの体調というのか気の状態があまりにも悪くて不憫に思ったのでしょう、なんの予告もヒントもなく気を流されたのです。

 今までその存在を疑っていたのですが、否応なくあからさまに気を実感させられてしまっては、これはもう信じるより他ありません。

 

 それから数カ月後、あのときの総毛から気が吹き出す全身同時多発鳥肌状態の「今ならなんでもできそう」、そう、それはまるでマリオのスター状態、と思わせるような万能感と多幸感を味わいたくて、今度はこちらからお願いして気を流していただいたのですが、前回ほどの噴出は感じられず、わずかに漏出、鳥肌も立ちきらず、という感じでした。

 あの感覚を毎日でも味わいたい。

 あの感覚の先にみずからが気を操ることのできる境地があるのだとおもいます。

 気を扱えるひとはあの感覚を自分の思うままにいつでもどこでも味わえるのだとしたら、羨ましくて仕方がありません。

気と脱力

 アルカリ性体質やマイナスイオンという概念は近年つくられたものではありますが、ここに気の概念のヒントがあるのではないかとおもいました。

 人間社会では乱れがちなイオンや磁場、電場が自然では整っていたり、いずれかに過多の状態、たとえばマイナスイオン過多な空間であったり、ゼロ磁場であったりするのが自然なのではないかとおもいます。

 

 そして、そのような偏った空間に気の流れが乱れたひとが入ることで、たとえば温度や圧力のように、つまり、熱や分子が移動して一様になろうとするように、ひとの気も誘導されて整うのではないでしょうか。

 酸素カプセルや水素水の効果も、もしかしたらそういったものなのかもしれませんね。そもそもマイナスイオンも酸素カプセルも水素水も、その効果の確たる根拠も原理も不明ではありますが。

気の粒子仮説

 森林浴などではフィトンチッドによりリラックス効果があるといわれます。フィトンチッドに限って言えば、この場合は物質によりひとはリラックス状態へと誘われます。

 似たようなところでは、快関係にあるひと同士で触れたり触れられたりすると分泌されやすいと言われる通称「幸せホルモン」、オキシトシンというものも知られています。

 

 気においても、気功や気導術を使えるひとによる施術が治癒やリラックス効果を発揮することがあります。

 また気においては、触れずに相手を倒したり、相手の目の前にいながら存在を消したり、視線だけで相手を崩したり、といったこともあります。

 

 わたしは、気におけるこれらの現象も”脱力”ということから考えられるのではないかと思います。

 気功師の極端な脱力状態により気と呼ばれるなにかが周りと比べて極端に少ないのか、あるいは多いのか、いずれかに過多であるかもしれないですし、相殺されているような状態であるかもしれませんが、その状態からさらに、達人ともなるとそれを誘導・誘発できるようになるのではないかとの仮説です。

気の波動仮説

 ヨガや瞑想の熟達者の脳波を調べると一般的にはα波やθ波に保たれる脳波がδ波の状態にまで至れるようです。

 

 ハイパーソニックには人体に有益な様々な効果がありますが、もしかしたら気は物質というよりは振動や波なのかもしれません。脱力により一定の振動を引き出せるのかもしれませんし、反対に、ある振動により脱力に導けるのかもしれませんし、いずれにせよ相互関係にあるとおもいます。

脱力あれこれ

 武術では大地から力を得、また相手の力を大地へと受け流すという考えや教えがあるようで、そのせいか、特に古武術では無闇に飛んだり跳ねたりすることを嫌う傾向があるようにおもいます。

 力を得たり流したりというのは電気のアースのようで、earthに触れているところがそっくりです。

 

 武術の中でも特に相手の力を利用する護身術や合気道などでは、相手に掴んでもらった方が、こちらは相手を掴むという力も、さらには掴むという動作もキャンセルできるので一手間省けて、そればかりか、相手はこちらを掴んで力をくれてさえいるので、それをありがたく使わせていただくということなのだそうですが、やはりここでも肝となるのは脱力なのではないかとおもいます。

 北斎の「九十才にして猶其奥意を極め一百歳にして正に神妙ならんか」のように、研鑽を重ね、年を経た武術の達人が気力精力に満ちた若い頃よりも強く速く動けるというのは力によらない、むしろ脱力の賜物なのではないでしょうか。

 

 武術の試合や組手といったものは見たことがないのですが、それでも疑問におもうことがあるのです。痛くないのかな?達人であろうと痛いのは変わらないでしょう?注射の痛みは変わらないとおもうのです。そこで立てた仮説です。

 打撃を受けたときの表面・皮膚上の圧力・痛みは変わらないのだけれど、脱力して受けて力を流してしまえば人体・芯・皮下への圧力は最小限にできるのではないでしょうか。

 これを実現するために脱力するには、受け流せないかもしれないと疑わないこと、痛いかもしれないとおもって痛みに耐えようとしないこと、ここで接触するだろうと待ち構えないこと、そういった意思をできるだけ働かせないことを要するとおもわれます。でなければ力が入ってしまいますから。

 

 わからないですよ。わからないですが、「隙がない」というのはムラのない全身脱力状態なのかもしれません。

 「隙だらけ」というのは「隙のあるところが多い」というだけのことで、隙のないところも一部あり、全身隙状態というわけではないでしょう?と、すると、全身脱力状態は一見「隙だらけ」か「隙しか」ないように見えるかもしれませんが、そんなものが一様な一塊としてあったら、あるいは一様に自然と溶け込んでいたとしたら、そこに隙はあるでしょうか。ということです。

真理か願望か

 守破離は世阿弥が提唱し千利休の広めたもので、芸事や武芸においては「型を守り、型を破り、型から離れ型に囚われない」とも「師の教えを守り、教えを破って応用し、教えから離れとらわれない」とも説明されます。

 言語化はされていないだけで世阿弥よりももっと遡れるのではないかとおもいます。

 

 人間は手取り足取り教えられることなく歩くことを覚え、修業の道へと入ると、これまでの歩き方とは異なる重心の位置であるとか腕振り、身体の動かし方、身体の形などを教えられます。

 その教えを通じて骨で立つことを覚え脱力を覚えると、それまで筋力で動かし形を保っていた教えの真理を理解し、それとともにその教えのもと脱力して動くこととの間に矛盾が生じ、理屈を理解しているがためにみずから検証し応用し正解もわかるので端からも自身からも独自とおもわれる身体操作法に則り動くようになります。

 

 型通り動くにしても脱力して動くにしても意識がはたらきます。

 この意識をなくすこと、意識から離れること、そうして自然に動くこと、ときにそれは型にも何にも囚われない動きとなるでしょう。

 

…と、わかったようなことをいっていますが、わたしは未だ古武術の技を1つとして再現することのできない未熟者未満の門外漢の傍観者です。

 これまで述べてきたことはすべて仮説に過ぎません。こうであったらいいな、言語化できたらいいなという願望が多分に含まれているのかもしれません。

 

 これまで古武術の術理や原理が言語化されなかったのは、それが不可能であるからだとはおもうのですが、それでも仮にそれが可能であったなら、身体操作のできるひとが急増し、怪我が減り健康も増進し、失われた技や新しい技が見出されることでしょう。

 

 いつかわたしも古武術の技のひとつも会得したいものです。そうでなければ、この仮説は一つとして、自分では検証できないのですから。