イグ・ノーベル賞最有力候補!?
2016年、これで10年連続日本人受賞となるイグ・ノーベル賞。
その研究テーマは股のぞきをすると実際よりも小さく見えるという「股のぞき効果」についてでした。
ところで、お金を稼ぐとか回すとかそういったことではなく、貨幣、なかでも不換紙幣、またはそれによる信用創造・預金創造については矮小化されて見られている、あるいは見えているのではないかと思います。
するともしかしたら結構な数の人がお金の前で股のぞきしているのではないかと思われてきます。
矮小化して見える効果
イグ・ノーベル賞はひとを笑わせ考えさせる研究に与えられますが、そうであるのなら、2013年に真っ向から対立する二つの理論を同時受賞としたり、そもそも正規のノーベル賞ではないのに「ノーベル賞」を謀るノーベル経済学賞か、またはこのような状況をしれっとよしとしている金融資本主義がノミネートされたらいいのにね。
考えさせるというより混乱をもたらし苦悩させることの方が多くまったく笑えませんけれどね。
金融資本主義は毎年候補に名を連ねていながらもいつまでも、いつまでも受賞することのない、まるでノーベル文学賞でいうところのクンデラ的なポジションで(こっちはいい意味で、あっちはよくない意味でね)、常に最有力候補の座に君臨し続けてもおかしくなさそうな気がする。
転倒した視界
資源の適正配分のための金が転倒し、今や金を回すための資源利用・配分の様相を呈しています。
「無駄な公共事業も金を回すためには必要」などは好例でしょう。
そもそも資源はすべて誰のものでもない地球による、地球のものでしょう?
人が産み出せるのは子どもぐらいのもの。
でもその子どもを産む大人は食料を得て成長します。
そしてその食料は人間がつくるのだけれど…もとをたどれば土地が産みだしたもので、結局すべてが本来だれのものでもない地球の資源でできています。
これも「富は暴力か収奪による」といわれる由縁に一役買っているのではないでしょうかねぇ。
自分のものでないものに所有の名を付して転売しているだけなのですから。
動かざること山の如し
先送りした問題で1つとして解決したものはありません。
核も金も当代解決不可能と先送りされ続けてきました。
劇的な何かがおこらないかぎり先送り、見ないふりを決め込みます。
トランプ現象はその"何か"なのかもしれないので、もしかしたら山が動くかもね。
選択社会到来間近!?
そう遠くない将来、「生産」の意味が、生産様式が変わるとおもいます。
ヒトが直接手を加えてモノを産み出すということから、なにをつくってなにを実現するのか、またはなにをしないでなにを改廃するのかを決めるという生産方式へとね。
つまり、ひとが直接手を掛けて生産するということ、ひとの生産現場からの退出が進んでいくとおもうのです。本来であれば今現在、これがもっと進んでいてもよさそうなものだと思うのですけれども…。
七騎七千の仕事人
従業員100名足らずでも世界シェア80%を超えているということがあります。これはなにもニッチな商品、特殊な部材だからということではなく、身近な商品に使われている原材料や製造業界において主要なマテリアルとなっているものなどでも、意外にもそういうものが多いのです。
一騎当千。
7人の侍。
100人で世界70億人を相手にできる生産力・技術力があるのですから、人類が協力し合えば今とは比べものにならないほど効率的で無駄の少ない生産性の高い社会となるのではないでしょうか。
「社会主義万歳!」ということではありませんよ。
新・生産方式
直接生産に関わらないとして、ではどう生産するのかというと、たとえば、フリーチケットのようなものが毎月各人に定数(定額)付与されて、クラウドファンディングのように賛成するプランに投票し、目標額・規定票数に達したものがAIオートメーションかなんかで実行されていく…というような感じ。
中間(マージン)は省かれて最短距離に近づく
時間や場所を超えた証として貨幣を利用していますが、そのうちそれすらもまどろっこしいものとなるでしょう。
すでにその兆候が見え隠れしていますよね。
お金が財ではなくなり紐付のためのただの交換証となれば仮想通貨のセキュリティ保護や運用にかかる膨大なエネルギー浪費もなくなるでしょう。
やはり人間社会は、人間社会の政治というものは、ゆうに20年は遅れるようです。
今のままでは少子化対策は種々の問題を解決しないばかりか出生率の改善が逆にリスクを高めてしまう
人命(のゼロ)ベース
生活保障することで金銭のインセンティブをいくぶんかは、いや、おそらく多分に無効果できるのではないかとおもいます。そうるすための方法のひとつにBIがあるとおもいます。
一国または数国だけでは経済基盤や経済秩序に混乱をもたらし支障を来すでしょう。
しかし、全世界で一斉に実施できたとすれば、数ヵ国が独自に導入・移行していくというのよりかは混乱を最小限に留められるのではないかとおもうのです。
全世界同時BI導入となった際、軍拡に走ろうとする国も出てくるでしょう。
しかし誰がそれに従うでしょう?
いや、たしかにそのようなひと、そのような国はあるでしょう。
それでも少なくともそれまでよりかは、倫理と金銭とを天秤にかけたとき、倫理により従うようになる、より従えるような環境になっているのではないでしょうか。
今日は肯定、明日には否定
折に触れてはわたくしBIBIビビババVIVIBABA言っておりますが、さりとてそれでわたしはBIを信奉している。というわけではないのです。
ただ、現在の貨幣経済、お金の性格、通貨が産み出される仕組みに否定的であるために、貨幣制度を否定するためには意識を変える必要があり、その方法としてBIを肯定しているのであって、正確には、実はBIにすら否定的なのです。
多くのBI論者と異なりわたしはBIを目的にはしていません。
BIでさえまどろっこしくわずらわしいものとすること、強制や交換ではなくそれよりは贈与、贈与というよりも提供に近い経済を模索、目的とするところです。
ですからもちろん「BIは究極の社会保障」という考えには首肯いたしかねます。
というのもこの宣言、この考えでは依然、貨幣の軛から逃れられていない貨幣経済をベースとしたシステムを構想しているのですから。