あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

カブキとはマンガだっ!…だ?

歌舞伎とは漫画だ

 歌舞伎におけるストップモーション。見得[みえ]。

 この見得により感情の高まり、つまりは”見せ場”を強調します。

 

 マンガでは1コマ1コマすべてストップモーションではありますが、読み手の頭のなかでは動いていることでしょう。

 

 しかしながら、その動きですら"止まる"ときがあります。

 それは必殺技を繰り出すときや感極まったときなど、効果線や見開きなど、マンガ特有の技法を駆使してそのシーンを強調表現しているとき。

 

 見得を切るとき、場面は止まり。

 "キメる"ときには、シーンを止める。

 

 つまり

 

 "見せ場"は止まる!

 

マンガとはカブキだ

 赤は正義、青は悪、黒(茶)は妖怪であることを、そして模様により喜怒哀楽を視覚的にわかりやすく見せるカブキの隈取。

 カブキは大衆のもの、おそらく今以上に大衆演劇・娯楽であったカブキ。

 対象が大衆であるからうんちくがんちくほどほどに、知識があればより楽しめるけれど、知識がなくても楽しめるストーリー。

 

 ストーリー・筋書きさえわからなくとも、着物の柄や着崩し方、裏地や根付など、当時の流行カタログやファッション誌的な楽しみ方もあれば、よりパッションなイケメン役者、アイドルの追っかけという熱中の仕方、楽しみ方もあります。(ただ、なかには熱中が没頭になり命を落としてしまうひともいましたが…)

 

 マンガはモノクロなことが多いですが、巻頭カラーやアニメ化など、その色を見ることができることがあります。

 その色がそれまで個人的にイメージしていた色と違ってショックを受けたり、はたまた一致していて一喜してみたりしますが、そのことはおいておいて、これはマンガよりもアニメや特撮でより顕著にみられることですが、大抵の場合、主人公・リーダーは赤、主人公のライバルや相棒、敵役は青、悪役は黒、悪魔も黒で白は天使、女性はピンクでゴリゴリイエローはカレー好き。

 

 主人公は男前であることが多く、2次元萌えで、近年では2次元にどっぷり沈めてしまうキャラクターもいます。

 

 今や「レイヤー」と言えば画像処理ソフトよりも先にコスプレイヤーを思い浮かべるひとも現れるぐらいに浸透してきたコスチューム文化。

 とはいえ市中や日常に現れればまだその姿には違和感をもたれ、まだまだそのスタイルは奇抜で斬新で華美なものと映る先端のファッション。

 役割は色に出て。

 感情は色に出す。

 

 つまり

 

 性格は色になる!

 

 そしてひとはその色に溺れる。

 

かぶいたまんが

 ワンピース、ナルト、風の谷のナウシカ

 マンガがカブキになりました。

 果たしてその逆は?

 

 マンガが歌舞伎になるまでに、こんな過程を経てきたのではないかとおもいます。

 マンガを(ノベライズしたり脚本に起こして)アニメ化し、キャラクターショーとなり(実写の)舞台に掛けられて、歌舞伎にまでなる。といったところでしょうか。

 

 これら新作歌舞伎は成功しているようです。

 すくなくとも一昔前の実写化ハリウッド映画に比べれば大成功なのではないでしょうか。

 

 ここでちょっとおもうのが、いつからでしょう?実写版のヒット率が上がったのは?近頃では「これはひどい…」というものが相当減ってきたようにおもわれるのですが、いかがお感じでしょうか?

 

 それはさておき…

 

 カブキはマンガにしやすいのではなかろうか?

 先にみたように、共通点(と思しきところ)が多くみられるのだから。

 ただ現代ではカブキに造形の深い漫画家がいらっしゃらないのか、その試みはなされていないのか、あるいはあまり成功していないだけなのか…。

 

その他のしょ(っ)かん

 このようなことをふとおもったのは、BS日テレ『日本博 特別番組 能・文楽・歌舞伎の魅力!』をみたことに端を発します。

 他にもこのようなことを考えていました。

 

 文楽は人形を人のように滑らかに、あたかも人のように動かすことで驚きを与えます。

 最初はそんな自慢心というのか人を驚かせてやろうとの意図から発展してきたのではなかろうか?

 

 特に能はセリフまわしなど長いこと長いこと…。

 当時の人達もそんな話し方はしなかっただろうに。

 特に能の生まれた戦国乱世、そんな悠長なこと…。

 ではなぜ受け入れられたのか?

 勝者・覇者の余裕を示したかったのか、はたまた1日、特に夜長、あまりに長い夜、することもなく暇を弄びヒマ、このヒマをできるだけ埋められるよう長い節回しにしたのか、もっと単純に節という音、呼吸を味わっていたのか…。

 

 能や文楽、歌舞伎に興味はあれど、果たして貧乏性のいらちに楽しめるものなのか?そこが足踏みさせる要因のひとつ。

 

 これも読んでみたい…

マンガと歌舞伎をつなぐ架け橋

 はじめに「カブキとはマンガだっ!」と言い放ちつつも、マンガよりもアニメと親和性の高いことばかり言ってましたね。

 まあそれもこれも、マンガもアニメも特撮も、年代順ということからいっても歌舞伎という文化・芸能を通ってその系譜に連なるものでありますから、相性のよいところも多分にあっておかしくはないでしょう。

 

 マンガを歌舞伎で演じることは、マンガから歌舞伎へ、また歌舞伎からマンガへとひとの興味関心を動かす佳境であり、興行のことを考えるとおそろしく勇気のいることでもあったことでしょうが、とてもチャレンジングでよい取り組みだとおもいます。

 

 「歌舞伎とはマンガです」というキャッチーな言葉は歌舞伎への間口を広げるよいうたい文句だとおもいます。

 京劇三国志もあることですし、そのうちキングダムも歌舞伎となり、そののち時代物ともみなされるようになるほどに両者は近接していくかもね。

『新実在論』図解化計画 ーその思索と失策の過程―

 『なぜ世界は存在しないのか』というタイトルに惹かれ…というよりかは引っかかりを感じて一読してみました。

 

 読んでいてまず思ったことは、内容の重複があまりにも多くて辟易、わずらわしい、まどろっこしい、Eテレでの著者であるマルクス・ガブリエルさん(以下「ガブさん」)の語り口に反してアンシャープネス…出版するに際して紙幅が必要だったのかもしれませんし、推敲や編集がおそまつだったのかもしれませんが、ガブさんから送られてきた原稿を編集者が受け取った時系列順に並べましたというような連載小説やエッセイといった感が常につき纏いやがりました。

 

 ここまでが苦労させられたわずかばかりの腹いせの悪口や怒りの吐露といったところです。

 

はじめのいちず

 ただ、抱いたものは負の感情ばかりではなく――はじめにこんなことを言うと信じてはもらえないでしょうが、負の感情はほんとうにわずかで、概ねガブさんの広範な知識に感心していたものです――、朧気ながらイメージ図も涌いてきました。

 それがこんな感じの図です。

対象領域の中で存在が現象する図

※まだ「対象領域」と「意味の場」の違いがイマイチわかっておらず、また、「現象」という言葉に引っ張られすぎてヌォ~ンと対象が立ち現われて存在している感じが見て取れます。

 

 おのれの理解のために図にしてみたところ、生意気にもガブさんの主張の輪郭がより鮮明に見えてきた気がしてきたとともに、不明瞭・不明確、なにかまだ腑に落ちない点もクリアに観えてきました。

 

 その不明瞭な点、私が『なぜ世界は存在しないのか』を読んで新実在論を理解――できているかどうかは定かではないので、正確には解釈――するうえで最もネックとなったところは、「対象領域」と「意味の場」の違いや関係といったものです。

 

アップグレード

 そこで、「対象領域」と「意味の場」についてわかることがあるのではないか、また他のひとはどのように理解・解釈しているのかをみてみたかったので、本書の訳者あとがきにて紹介されているもののなかでネット上で読める論文にあたってみました。

 

 一通り読んでみて、個人的には、まったくの個人的感想としては、もしこれからこれらの論文を読んでみようというひとがいたら「中島新『新実在論マルクス・ガブリエル――世界の不在と「事実存在」の問題」』だけでいいと思うよ。ということ。

 

 この論文を読んでみて浮かんできたイメージ図がこんな感じ。

対象領域の中で存在が現象する図のところどころに実在論の目、反実在論の目、新実在論の目、形而上学の目が描かれている図

※はじめに思い浮かんだイメージに縛られて、より詳細になったというだけの感じ。「~の目」というのは、この図を基に考えると各主義主張の視点・視線というのはどこにあるのだろうか?とおもって描いたものでした。形而上学の目は「世界」を見、新実在論の目は「世界以外」を見、ポストモダン、ここには構成主義や観念論、存在論反実在論も含まれますが、その目は現象過程や現象した存在を見、実在論、ここには存在論実在論も含めましたが、その目はただひたすらに存在するもの、実存を見ているのではなかろうかと考えていました。

 

 ほんとうはガブさんの『新実在論』をはじめとした他の著作物や、他のなにをおいても『なぜ世界は存在しないのか』をドイツ語原文、せめて英訳でもいっとかないといけないよねぇ~…とはわかっていつつも、外国語はわからないし日本語でさえ危うい、そもそも新実在論を徹底的に理解してやろうというその熱意・熱量たるや皆無っ!

 

意味と感覚

 本書では「意味」と訳されているけれどガブさんは「感覚」や「感性」といった意味で使っていて、もしかしたら言葉遊びかウィットを発揮しているところなのかもしれないとおもうところがあったりなかったりするものですから…というよりデリダ脱構築を施して読み替えてみると単におもしろかったりするから。

 特に「なぜ思考それ自身は、そもそも感覚ではないとされなければならないのでしょうか[p.248]」「感覚とは客観的な構造であって、わたしたちのほうがそのなかにそんざいしているのです[p.249]」と、思考も感覚であると宣言した後のこの文…

わたしたちは、意味から逃れることはできません。意味は、いわばわたしたちの運命にほかなりません。意味は、いわばわたしたちの運命にほかなりません。この運命は、わたしたち人間にだけでなく、まさに存在するいっさいのものに降りかかってくるのです。

 人生の意味の問いにたいする答えは、意味それ自体のなかにありません。わたしたちが認識したり変化させたりすることのできる意味が、尽きることなく存在している――このこと自体が、すでに意味にほかなりません。[p.251]

 ここで使われている「意味」という語のほとんどを「感覚」という語と置き換えて読んでみると、本書全体の印象を一変するぐらいの破壊力があるでしょう?

 それほどの衝撃ではなくとも、なんとなく、これまでなにか無機質な感じのしていた新実在論に血が通った感じがしてきませんか?

 

 想像されたものも存在し、思考も実在する。存在とは意味の場に現象することですが、その「意味の場」の「意味」を読み替えて「感覚の場」とすると、なにかがあるという感触、手ざわり、ただそれだけで存在する、できる。なにかあたたかみやちょっとした肉感を感じませんか?

 

 このころにイメージした図がこんな感じのものでした。

対象領域から対象が存在する意味の場が現象している図

※3つの異なる次元があるような、階層構造になっているようなで、存在と意味の場と対象領域とがそれぞれ断絶しているような、そこここで跳躍しているようなで、描いているときから違和感。即破棄されたのでした。

 

 本書後半のこの辺りから、これまで「学問」の側に依っていた新実在論が急に「人間」の側に寄ってくる感じを受けるのは私だけでしょうか。

 

「学」は対象領域の問題

 こんなおもしろそうなところもあるものだからSinnfelderやExistenz、Gegenstandsbereichといった語の使われ方や訳し方、なかでもSinnの訳し分けなんかは特に気になるところだけど…そもそもわたし昔から実在論このみじゃあないの。

 

 ガブさんに批判され倒されてる形而上学、といってもこれも昔から抱いていた感情で、「学」というにはなにかおこがましい、というのも形而上学は「学」の名を冠するにしては曖昧なところがあるから。

 

 だからこれまでは、あまり聞かれることもないけれど、極稀に趣味や得意な教科、好きな学問領域を聞かれたときなんかは「得意(とはとてもじゃないけど言えないので)とは言えないけれど好きなのは形而上学…というより思想(とだけいうと新興宗教の信者なのではないかとおもわれることがあるので、慌てて付け加える)・哲学、それと宗教は好きじゃないけれど学としての宗教、宗教学には興味があるかなぁ…」なんて答え方をしてきました。

 

 本書を読んで形而上学の「学」に対して抱いていた感情に説明がつけられたことは僥倖でした。

 つまり対象領域の問題なのだと。

 ガブさんの新実在論では世界が存在しないから「学」たりえる哲「学」なのだけれど、形而上学では世界が存在するため正確には「学」とは言い難く哲学とも言い難いのだと。

 

 それでもわたしは形而上学・思想が好き。

 「男の浪漫」といったものは理解できないけれど、クラシックも割とロマン派が好みだし存外ロマンチストなのかもしれない。

 

 こんなことを考えていたとき思い浮かんだのがこのようなイメージです。

いくつかの対象を囲んだ対象領域から特定の対象が意味の場に現象して存在している図

※初頭効果にも似て、はじめに抱いたイメージに縛られていると感じはじめる。また「現象する」という語感から受けるスゥーッとかヌゥーッと現れる印象に引っ張られていることに抵抗感が出始めたころの図です。

 

ガブリエル:哲学に希望の福音をもたらす大天使

 新実在論は他の哲学理論や主義主張に比べると図示しやすく、また図解と相性がいいものだとおもいます。

 それは新実在論が単純だとか凡庸だからということではまったくなく、より数学的厳密さや論理的であるからです。

 

 マルクス・ガブリエルの新実在論の真骨頂は「意味の場」にあります。

 しかし、対象領域は対象領域で、これまた画期的です。

 その画期は哲学をちゃんと学問領域に据えたところにあります。

 

 ともすれば言葉を弄するばかりでなんの役にも立たないどころか言葉を弄んで人心を惑わせ、ときに胡散臭くも感じられてしまう哲学を、そういったものとは峻別し、物理学や数学など他の学問分野同様、論理的な強度・強靭さを備えた哲としているのが対象領域であり、マルクス・ガブリエルの新実在論なのだとおもいました。

 哲学の対象領域を明確にし、意味の場において現象させて示している姿は哲学の守護者のようでもあります。

 

 アリストテレスオルガノン』、スピノザ『エチカ』、フレーゲ『概念記法』、ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』などは特に実に論理的な強靭さをもって書かれている哲学書ですが、哲学を間接的に擁護はしていても正面切って庇護してはいなかったとおもいます。

 たとえばウィトゲンシュタインの「語りえぬものについては沈黙しなければならない」も、哲の限界と範疇とを示すものでもありました。

 

 ただの思いつきですが、新実在論ウィトゲンシュタインのこの言葉をもじっていえば「現象しえないものについては沈黙しなければならない」「現象しないものは存在してはならない」または「現象するものについては存在しなければならない」といったところでしょうか。

 

図が図ら図らと

 そんなこんなをおもいながら、でもやっぱりしっくりこない。「対象領域」と「意味の場」の関係が判然としない。一読したけどわからない。

 かといって二読も三読もしたくはない。

 仕方がないから『なぜ世界は存在しないのか』の本文のスリム化を図り理解をすすめようと企てる。

 

 まずは本文のより重要だと思われるところを抜き出す。

 すると350ページほど(電子書籍なので異なるかもしれませんが)の内容がA4用紙35枚分ほどに圧縮され、さらに「対象領域」や「意味の場」について言及されているところに焦点をあて、その他の部分に剃刀の刃を当ててゆくとA4用紙10枚分ほどになりました。

 この作業がどれほど煩わしかったことか…。

 

 この作業中たびたびよぎった言葉は――正確な語用ではないけれど――、「オッカム、オッカム、オッカムにしばかれろっ!」。

 

 こんなまとまりのない、内容の重複が多いくせになかなか理解のすすまない文を書きゃ~やがってーっ!こんにゃろー!!

 読み進めていくと順に次第にわかってゆくという風にうまいこと導けよぉ~もぉ~っ!

 

 ただしかし、そのお陰で、いや、そうでなくともそうであったと思い込まなければやってられない――たんに私の知性が足りなかったというのが苦労の根源なのですが…――苦心の末ムダ毛処理を終えたものをシゲシゲと眺めていたら…ついにガブさんの新実在論の尻尾を掴みました。

 

 そこへと至る試行錯誤の路々にひょっこり生えてきた図がキキララこちらら。

火山という対象が私の視野、あなたの視野、アストリート、ナポリ、ソレントという領域に包摂されている図私の右手とあなたの右手が右手や人体や人間という領域に包摂されている図

豚という存在する対象が動物や宇宙船内のものという対象領域の一部に含まれなおかつ食べられるという意味の場の一部にも含まれている図

反実在論という対象領域が実在論という対象領域に包摂されている図

※「現象する」重力から解き放たれてくると途端に図がペタァ~ッと平べったくなりました。

 

 このころやっとこさっとこ「現象する」という言葉の語感の呪縛が解けたのですが、そのきっかけとなったのがこちら…

 

現象からの解脱

 ある対象の集まりが対象領域を規定することもあれば、ある対象領域が種々の対象を包む・集める・規定することもあって、互いに分かちがたく相互依存関係にある。

 本書には書かれてはいないけれど、これは謂わばどちらも同じ地平にあるから、本来、不可分の相同のものであるから。

 

 たとえば「私」という対象領域と「あなた」という対象領域は互いに独立してはいても「人間」という共通の対象領域に含まれていたり、「地球」という意味の場に現象していたり、はたまた「哲学的趣向」という対象領域を共有していたりして、多数の対象領域や数多の意味の場が複層的に複雑に重なりあってみえても、そのすべてが同質なものなので、層状なのですがそうではなく、層ではないのですがそうなのです…

 

ということなのかな?とおもっていたころに描いた図がこちらです。

私、あなた、アストリート、火山という対象がイタリアという領域に包摂され、なおかつそのイタリアが地球という領域に包摂されている図

※「同じ地平にある」とか「すべてが同質」なんていうと形而上学っぽさが色濃く出てしまうので、「意味の場において現象する存在」という意味で同じ地平にあるとかすべてが同質であるということだとおもってくださいな。

 

 また、このころ先ほどの図にこんな矢印を加えていました。

実在論の目、反実在論の目、新実在論の目、形而上学の目のそれぞれから各領域を囲むように矢印が両方向に伸びている図

 「新実在論の目」を例にすると、青色の矢印は「現象して、現象するから存在」――図では下から上へと向かう矢印の通り「現象→存在」――、赤色の矢印は「存在するもの、実存するということは現象したから」――図で言えば上から下へと向かう「存在→現象」――、それぞれに現象と存在とで時間的先後関係があるようにみえ、また青と赤の矢印は逆向きで、先後関係も逆転するようにもみえるけれども、現象と存在とは同時的出来事であるばかりか、そもそも先後関係なんてないはず。


 先の同質ということと同時的というこの合せ技で、「現象する」のヌゥーッと語感から抜け出せたのでした。

 

 ちなみに、赤い矢印は「還元」(方向)なのかぁ?なんてことも考えていました。

 

文が文文と

 前回も提示した引用ですが、今回は初読時、読み進めていくとともに、その時々でどのようなことをおもっていたかと申しますと…ホワンホワンホワンホワワワワァ~ン

意味の場は、曖昧であったり、多彩であったり、相対的に規定不足であったりすることがありえます。これにたいして対象領域は、互いにはっきり区別された多数の可算的な対象からなっています。このようなことは、意味の場にたいしては無条件には言えません。[p.84]

 この記述から「意味の場」は曖昧なもので「対象領域」は輪郭のはっきりしたものだと(短絡的に)認識したかとおもうと、すかさず…

意味の場は、可算的な対象の集まりという意味での対象領域や、数学的に記述できる集合といういっそう精密な意味での対象領域として姿を現わすこともありえますが、捉えどころのない多彩な表情をもつさまざまな現象からなることもありえます。[p.85]

 という記述から「意味の場」は曖昧なものかと思ったら実は精密なもので、かと思えば「意味の場」は「対象領域」でもあるんだよー…と、(これまた短絡的に)認識を改めさせられる状況に(勝手に)陥り、「いったい「意味の場」ってなんなんだよぉ~。「意味の場」は「意味の場」なのか?それとも「対象領域」なのか?どっちゃね~ん。」となります。

 小説なんかでもそうですが、理解しづらい状況やわかりづらい表現というものは、さらに少し読み進めればわかるもの、言い換えられていたりするものだと思ってもう少し先へ進んでみると…

意味の場とは、何らかのもの、つまりもろもろの特定の対象が、何らかの特定の仕方で現象してくる領域です。これにたいして対象領域においては――集合においてはなおさらのこと――まさにこの点が捨象されます。二つの意味の場が同じ対象に関わることもありえますが、そのさい当の対象は、二つの意味の場それぞれで異なった仕方で現象するほかありません。[p.87]

 何かしらんけど、「対象領域」は何かを捨てちゃうみたいだし…

 意味の場がほかでもなく意味の場であることの理由は、たんにそれが意味の場であるということに尽きるわけではありません。だからこそ対象領域ではなく、意味の場を問題にしているのです。両者の違いは以下のようなものです。まず対象領域は、そこに立ち現われてくるのが何なのかを問わない傾向にあります。ブルックリンのどこかにある家を考えてみましょう。この家についてわかっているのは、七つの部屋があるということだけです。この七つの部屋が対象領域だと考えてください。いずれの部屋にも、いかなる違いもありません。いずれの部屋も、なかに何があろうと、部屋であることに変わりありません。空っぽの部屋であっても、やはり部屋には違いありません。これにたいして意味の場は、そこに現象する対象の配置や秩序なしには理解することができません。それは磁場のようなものです。磁場を眼で見るには、当の磁場に特定の対象が分布して、磁場の形を描き出してくれなければなりません。それと同じように意味の場も、そこに現象する対象によって規定されます。意味の場と、そこに現象する対象とは、互いを欠かすことができません。対象も、意味の場の意味に分かちがたく結びついているのです。[p.116]

 「対象領域」はハッキリとキリッとしたシャープなものかと思っていたのにどうもそうではなさそうで、「意味の場」はやはり「意味の場」であって「対象領域」ではないらしいし、……もぅ、わからん。違いがわからしまへん。

 

銘々明言

 後によく読んでみると「意味の場は(略)規定不足であったりすることがありえます。これにたいして対象領域は、互いにはっきり区別された多数の可算的な対象からなっています。このようなことは、意味の場にたいしては無条件には言えません。」と、「対象領域」はきっちりとしたもので、「意味の場」はきっちりとしたものでも曖昧なものでもありえるけれども、きっちりとしたものであるときにはちゃんと条件があるよ、と、明言しています。

 

 また、「意味の場は、可算的な対象の集まりという意味での対象領域や、数学的に記述できる集合といういっそう精密な意味での対象領域として姿を現わすこともありえますが、捉えどころのない多彩な表情をもつさまざまな現象からなることもありえます。」と、(「対象領域」とは、やはり、その範囲・領域がはっきりとしたものであることを間接的に示しつつ、)「意味の場」が状況によっては「対象領域」となることもあるし、「意味の場」がはっきりしたものとして現れる場合や、「対象領域」として現れる場合には、「対象領域」よりもさらに厳しい条件が課され、「対象領域」よりもよりくっきりはっきりとした輪郭線を描くこともあるよ。ということを明言しています。

 

 そしてその条件というのは、その「意味の場」に現象する対象、さらにはその配置や秩序によるものであり、加えてその対象は「意味の場」の意味とかたく結びついているのだと明言されています。

 

 このあたりの微細でセンシティブなところは、そうであるからこそ訳すのに苦労しただろうなぁと覗われ、またその労が実った絶妙な訳し方になっているなぁとおもうところです。はじめの一読目ではそんなことおもいもしなかったわぁ。

 

補遺ポイ

 前回の『図解!マルクス・ガブリエル』の内容は、このような紆余曲折を経て…

わたしの視野という対象領域を内包しつつも一角獣という対象を含む分すこしだけ大きいわたしの視野という意味の場の描かれた図

↑こんなのとかできたのでした。

 

 前回、書き終わった直後に、コラージュのような図のイメージが湧いてきたので、試しに上の図をそのようにリニューアルしてみたのがこちらです。

背景はイタリア国旗、少女の視界にヴェズーヴィオ山があり、想像ではヴェズーヴィオ山に一角獣がいる図

 「ヴェズーヴィオ山」の図のリニューアル版も作ってみようかと思っておりましたが、上の図に比べれば一見華やかでいい感じに見えるのですが、わかりやすくなったかといえば、そんなことはなく、また、おもったほどおしゃれな感じにもならなかったのでやめておきます。

 

附録

 理解不足や認識違いしているところもあるかもしれないので、今回のこの『新実在論図解化計画』が成功したかどうかはわかりませんが、しかしながら概ね満足です。

 ただ、今にして思うのは、本書要約ぐらいにしておけばよかったかなぁ…と。

 

 図示してしまうと実在(=事実存在)を実在(化)してしまい無限後退的な運動を駆動させてしまうきらいがあり好ましいものではないのでしょうが、それでも理解しやすくなり、また、問題点をより明確にする一助にはなるのではないかと思い今回のこの『新実在論』図解化計画に着手してみたのでした。

 

 不正確さがつきまとうので、このような試みはアマチュアの領分、素人だからこそ恐れも恥も外聞も知らず、無邪気にできるものなのではないかな?それが門外漢の強みというものではないかな?とおもいます。

 

補足

 前回、「「存在」という言葉は何を意味しているのか?ーー意味それ自体のこと」とあるとご紹介いたしましたが、これだけではまだわかりづらいのではないかと思いますのでちょっと補足です。

 

 意味が変われば存在が変わる。現象の仕方が変われば存在が変わる。

 存在が変われば意味が変わる。

 

 つまり、意味それ自体というのは「存在の多様な現象の仕方」のことです。

 

 ですから、「「存在」という言葉は何を意味しているのか」という問いには、「意味それ自体=存在の多様な現象の仕方」なのだと答えることができます。

 

 以上がわたしの失敗の過程です。

図解!マルクス・ガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』② ~「意味の場」について~

実在論における「意味の場」

 マルクス・ガブリエル著『なぜ世界は存在しないのか』の265ページの用語集にある新実在論における「意味の場」の定義は以下のようになっています。

意味(Sinn) 対象が現象する仕方のこと。

 

意味の場(Sinnfelder) およそ何かが現われてくる場。

 

意味の場の存在論(Sinnfeldontologie) 「およそ何かが現象している意味の場が存在するかぎり、何も存在しないということはなく、そこに現象している当の何かが存在している」とする主張。存在すること=何らかの意味の場に現象すること。

 

存在(Existenz) 意味の場の性質。その意味の場に何かが現象しているということ。

※ページ数は電子書籍のものを基としております。したがって、紙媒体や他のリーダーアプリのものとは異なるかもしれません。

 

「意味」の意味

 「意味の場」の特徴をみてゆく前に、「意味」についてみておきましょう。

 アーノルド・シュワルツェネッガーが、あるときにはニューヨークのヘラクレスだったが、またあるときにはカリフォルニア州知事だったということ、ここに矛盾はありません。どちらもそのとおりだからです。同じことが4という数にも言えます。4という数は「2+2」とも書けますし、「3+1」とも書けます(ほかにも無限に数多くの書き方ができるでしょう)。

 フレーゲは「2+2」や「3+1」を「与えられ方」と呼び、これを「意味」と呼んでいます。それによれば、同一性命題で等置される二つ(以上)の表現それぞれの「意味」は異なっているが、それらの異なった表現が指し示している当のものは同一である(すなわちシュワルツェネッガーや4という数)。同一性命題が実質的内容を備え、真であるとともに無矛盾であるとき、そこからわかるのは、同じもの(同じ人物、同じ事実)がさまざまに異なった仕方で表されうるということです。フレーゲの用いる「与えられ方」という言葉の代わりに、わたしたちは「現象」という言葉を用いることにしましょう。すると、意味とは対象が現象する仕方のことである、と定義することができます。

と、86ページで意味はこのように定義されています。

 

※本書ではsinnが意味でbedeutenが意義と訳されていますが、どちらかといえばその反対で、sinnに意義、bedeutenに意味と充てられることが多く、このことは訳者もことわっているところです。ここでは本書にならって意味をsinnとし、sinnfelderを意味の場として統一します。

 

 要は「2+2=4」と「3+1=4」のどちらも同じ4という対象を「2+2」や「3+1」という複数の表し方、与えられ方、現象の仕方があるよということです。

 そして「2+2」や「3+1」というのが4という対象の「意味」にあたります。

 

 同様に、「ニューヨークのヘラクレスと呼ばれていた俳優」と「第三九代カリフォルニア州知事」といった意味をもつ対象が「アーノルド・シュワルツェネッガー」だということです。

 

 ちなみに、引用にある「同一性命題」というのは「2+2=3+1」のようなものです。

 

生々しい意味と無味乾燥な対象

 「意味」についてはだいたいわかったものとして、本項では私が原語から感じる「意味の場」と「対象領域」のニュアンスの違いについて語らせてください。

 

 意味の場はSinnfelder、対象領域はGegenstandsbereichでfeld(英:field)にもbereich(英:erea)にもどちらにも領域や分野という語意があります。

※「意味」という語を一般的な用法、つまり「ある単語の内容」といった語意で用いるとややこしいので、これ以降、「対象の現象の仕方」という趣意を表すときに「意味」という語を用い、そうではない、一般的な用法、「ある単語の内容」という趣意を表すときには「語意」を用いることとします。

 

 feldは田畑、野原、戦場、競技場などの語意ももち、bereichは範囲、区域、地区などの語意ももっています。

 

 田畑や戦場という語からは(bereichに比べて)なにか生命力や活気、生々しさを感じないでしょうか?

 対して範囲や区域という語からは(feldに比べて)まったく息吹が感じられず、無機質で無味乾燥な、単に事実を表しているだけのものという印象を受けないでしょうか?

 

 先ほどある1つの同じ対象gegenstandでも意味sinnは多様な与えられ方をするということをみてきました。

 するとsinnからはfeld同様、生々しさを、そしてgegenstandからはbereich同様、無味乾燥な印象をもたないでしょうか?

 

 私には、SinnfelderとGegenstandsbereich、sinnとgegenstandばかりでなく、feldとbereichも互いにニュアンスの違いをもち、似たニュアンスをもったそれぞれの語が結びつくことで、その特徴を強調しているようにも見受けられるのです。

 

 ちなみに、他の資料等ではSinnfelderは「意味の場」ではなく、「フレーゲの用語の定訳語」[p.259]である「意義領野」が使われていることがあります。「意味の場」よりも「意義領野」の方が馴染みがあったりわかりやすいということであれば、語を置き換えてみてください。

 

存在の絶えることない多さ

 「意味」が多様な現象の仕方だとすると、「意味の場」とはなんでしょうか。

 

 「意味の場」とは「およそ何かが現われてくる場」のことだと定義されています。

 私的解釈ですが、端的に言って「なにかがある」ということが「意味の場」で、その「現われ方」が「意味」なのではないかとおもいます。

 

 誤解されやすいですがよりイメージしやすいと思われる言い方をすると、「なにかがあるという感覚」が「意味の場」で、その感覚の「現われ方」が「意味」といった感じです。

 

 ドイツ語sinnには意味や意義の他に知覚や感覚という語意があります。

 そしてまたsinnは英語のsense、フランス語のsensにあたり、およそ西洋のsinnにあたる語には、やはり知覚や感覚という語意があります。

 対して日本語の意味や意義という語には知覚や感覚という語意はありません。

 このことからsinnには日本語ネイティブにはわからない語感があり、また日本語ネイティブではsinnは知覚や感覚と訳した方が趣意は間違っていてもイメージしやすくなることもあるのではないかとおもいます。

 

 そこで提案です。

 もし「意味」という語に慣れなかったりイメージしにくいということであれば、はじめのうちは「感覚」という語をあててみてはいかがでしょうか?

 

 本旨に入る前に、もうひとつ、もう一語だけみておきましょう。

 それは「存在」です。

存在するとはどのようなことか、そして「存在」という言葉は何を意味してるのか[p.66]

という問いに対して、存在するとは意味の場の性質、「存在の意味、つまり「存在」という表現によって指し示されているものとは、意味それ自体にほかなりません」[p.250]と答えています。

 

 本書では『なぜ世界は存在しないのか』についてあの手この手のメレオロギーの手マレーヴィチの手を駆使して切々滾々と内容の重複多めで説いていますが、そのとき避けては通れないのが「存在」だからです。

 世界が存在しないことを説くにはぜひとも存在するとはどのようなことかを説く必要があるのです。

 

 存在とは「意味の場の性質」だとか「意味それ自体」だとか言われても、まだその論旨、輪郭がはっきりしないと感じるかもしれませんね。

 ですが今のところは、用語の確認をしたというぐらいの認識で、ここで立ち止まらずに進んでみましょう。

 

 ということで、一応、これで一通り主要な用語の確認が終わりました。

 前回の内容も含めてここに「対象領域」「意味」「意味の場」「存在」の主要な4つの材料が揃いましたので、これより図解に入っていきます。

 

「意味の場」の多様性

二つの意味の場が同じ対象に関わることもありえますが、そのさい当の対象は、二つの意味の場それぞれで異なった仕方で現象するほかありません。[p.87]

 新実在論における存在とは「意味の場に何かが現象している」ことで、「意味の場」とは「およそ何かが現われてくる場」のことでした。

 

 すると、対象がある意味の場に現象する・しているというのは、つまりは存在する・しているということで、1つの対象が2つの存在、2つの存在の仕方――2つどころか3つでも4つでも、複数の存在、多数の存在の仕方――をすることもありえるのだと言っています。

 

形而上学構築主義と新実在論のヴェズーヴィオ

 このことを形而上学構築主義と新実在論、それぞれの主張、それぞれの存在論を比較・説明している16ページに書かれているヴェズーヴィオ山を例にとったものを図にしましたので、そちらをみながら確認していきましょう。

形而上学の主張によれば、このシナリオに存在している現実の対象は、たったひとつだけです。すなわち、ヴェズーヴィオ山です。ヴェズーヴィオ山は一方でソレントから、他方でナポリから見られているが、これはまったくの偶然であって、ヴェズーヴィオ山にとっては(願わくは)ほとんどどうでもよいことである。ヴェズーヴィオ山に関心を寄せているのが誰かなど、ヴェズーヴィオ山それ自身にとっては問題ではない。これが形而上学です。

 これにたいして構築主義の想定によれば、このシナリオには三つの対象が存在しています。すなわち、アストリートさんにとってのヴェズーヴィオ山、わたしにとってのヴェズーヴィオ山、あなたにとってのヴェズーヴィオ山です。これらの背後に、現実の対象など存在していない。あるいは、そのような対象をいずれ認識することは、わたしたちには期待できないというわけです。

 これにたいして新しい実在論の想定によれば、このシナリオには、少なくとも以下の四つの対象が存在しています。

 

 1 ヴェズーヴィオ

 2 ソレントから見られているヴェズーヴィオ山(アストリートさんの視点)

 3 ナポリから見られているヴェズーヴィオ山(あなたの視点)

 4 ナポリから見られているヴェズーヴィオ山(わたしの視点)

ヴェズーヴィオ山という対象がわたしとあなたとアストリートさんというそれぞれの意味の場が重なり合うところに内包されている図

 形而上学では1の対象・もの自体としての「ヴェズーヴィオ山」だけが存在していると考えます。

 

 構築主義では1以外の、2~4のそれぞれの観察者から観察された対象の「ソレントから見られているヴェズーヴィオ山(アストリートさんの視点)」「ナポリから見られているヴェズーヴィオ山(あなたの視点)」「ナポリから見られているヴェズーヴィオ山(わたしの視点)」のそれぞれのヴェズーヴィオ山が、つまり3つのヴェズーヴィオ山が存在すると考えます。

 

 そして、新実在論では少なくとも1~4の4つのヴェズーヴィオ山が存在すると考えます。

 

 ここで「少なくとも」とわざわざ但し書きされているのは、とても狭い限定的な範囲に絞って、なおかつヴェズーヴィオ山の存在にだけ注目しているのだということを承知しておいてもうらためです。

 

 というのは、このような制限を設けないとあまりにも煩雑広大になってしまうからです。

 たとえばヴェズーヴィオ山を見ているのは「わたし」と「あなた」と「アストリートさん」だけではないでしょうし、「火山」や「イタリア」や「地球の地表」といった「意味の場」にも現象すると考えると、ヴェズーヴィオ山の存在(の仕方)は4つどころか、それこそ数限りなく存在することもありえるからです。

 

 このことは構築主義についても言えるのですが、構築主義は新実在論ほどその存在(の仕方)は多くはなりません。

 現在であれば(宇宙人や知的生命体の類を含めなければ、そもそもそれら観察者を人とするのかという問題がありますが…)最大で80億弱の存在(の仕方)となるでしょう。

 つまり「世界中の人がヴェズーヴィオ山を観察した場合」という有り得ない状況ではありますが。

 

どれもほんとうに存在する

 この例において、新実在論ではヴェズーヴィオ山という1つの対象が少なくとも4つの対象として存在すると想定されているのですが、これは「ヴェズーヴィオ山」という対象が例えば「イタリア」という意味の場に現象したヴェズーヴィオ山、「アストリートさんの視点」という意味の場に現象したヴェズーヴィオ山、「あなたの視点」という意味の場に現象したヴェズーヴィオ山、「わたしの視点」という意味の場に現象したヴェズーヴィオ山の4つのヴェズーヴィオ山が、それぞれ存在するということです。

 

イタリアという意味の場に現象するヴェズーヴィオ山 アストリートさんの視野という意味の場に現象するヴェズーヴィオ山あなたの視野という意味の場に現象するヴェズーヴィオ山 わたしの視野という意味の場に現象するヴェズーヴィオ山

 上の図ではそれぞれの意味の場に現象したそれぞれ異なる与えられ方をしたヴェズーヴィオ山を表しています。なのでヴェズーヴィオ山という対象を表す印を変えてみました。

 

 これを先のシュワルツェネッガーの例で言うと、たとえば「ニューヨークのヘラクレスは、後に第三九代カリフォルニア州知事になった」[p.86]を聞き間違えて「ニューヨーク州知事だったアーノルド・シュワルツェネッガー」を思い浮かべたひとがいたとして、そこには少なくとも「カリフォルニア州知事シュワルツェネッガーという人物」も「ニューヨーク州知事シュワルツェネッガーという人物」も存在するばかりか「ニューヨーク州知事シュワルツェネッガーという想像」までも存在します。

すべての見方が等しく真であるわけではないということです。わたしたちが考え違いをして、対象を不適切な意味の場に位置づけてしまうことは、しょっちゅうあります。間違いも、ひとつの意味の場です。間違いだからといって、それが存在しないことにはなりません。[p.236]

 つまり、単なる思い違いも、事実ではなくとも、嘘でも、シュワルツェネッガーと他の俳優とを人違いしていても、それらはすべて存在するのです。

 

 意味の場に現象したからにはすべてが存在します。

 そして、立ち現われてきたものは意味の場の性質を変えます。

 それは、意味の場が異なれば存在の仕方も異なり、それぞれ異なる存在であるということです。

 

似て非なる「意味の場」と「対象領域」

 ここでヴェズーヴィオ山の存在をめぐる想定の範囲を少し広げて考えてみましょう。

 ただし、この拡張は本書にはみられないものです。

 では、図です。イタリアのナポリからはわたしとあなたが、ソレントからはアストリートさんがヴェズーヴィオ山をみているとうい模式図

 ここでは例えば、「イタリア」という意味の場のなかの「ナポリ」という意味の場のうちに「わたしの身体」という意味の場、あるいは対象が現象しています。

 すなわち「わたし(の身体)がイタリアのナポリに存在する」ことがみてとれます。

 

 また同じ「ナポリ」という意味の場のなかにありながら「わたしの身体」と「あなたの身体」とは互いに独立した・区別された関係にあったりもします。

 

 これらのことから、「意味の場」は重なり合ったり排除し合ったり包摂していたり、また、場合によっては「対象」となったり、「対象領域」とちょうど同じ(領域・範囲)であったり――例え「対象領域」とまったく同じ領域であったとしても、それで「対象領域」になるということはありません。「意味の場」は「意味の場」であって「対象領域」ではないのですから――することもあって、「対象領域」と同じような性質・特徴があることがわかります。

 

「意味の場」と「対象領域」の差異

 「意味の場」と「対象領域」とは、いずれも領域であるということもあり、混同してしまいがちですが、それでもやはり別のものです。


 「意味の場」としての「わたしの視点」というのは首肯されるものと思われますが、「わたしの視点」を「対象領域」として(設定して)もいいのかは、おそらくまったくの間違いということにはならないと思うのですが、あまり好ましいものでもないような気がしなくもなくない――とはいえ本書に「居間」や「銀河」、「役所訪問という対象領域」や「わたしの左手という対象領域」という記述がみられるので、対象領域というものはそこまで厳重で強情でなくてもよさそうです――…。

 なぜそのように感じるかというと、「対象領域」には「意味の場」ほどの、謂わば柔軟性がないからです。

 

 いずれにしろ、ここでは「わたしの視点」は「対象領域」として成立するものとして話をすすめると、「わたしの視点」とはわたしの見ている風景、わたしの視野のなかにある対象のことですが、これらの対象は存在していますし、ゆえにというのか「わたしの視点」という「意味の場」に現象して(アストリートさんでもあなたでもなく、わたしの見ている通りに)存在しています。

 

 するとこのとき「わたしの視点」という「対象領域」と「私の視点」という「意味の場」の領域とは等しいものとなります。

 等しいものとなるのですが、それでも同じものではありません。

 

 同じにみえても決定的に違うところは、「意味の場」は何かを・ある対象を現象する・させる場ですが、「対象領域」は何かを現象させる場ではないということです。

 意味の場がほかでもなく意味の場であることの理由は、たんにそれが意味の場であるということに尽きるわけではありません。だからこそ対象領域ではなく、意味の場を問題にしているのです。両者の違いは以下のようなものです。まず対象領域は、そこに立ち現われてくるのが何なのかを問わない傾向にあります。ブルックリンのどこかにある家を考えてみましょう。この家についてわかっているのは、七つの部屋があるということだけです。この七つの部屋が対象領域だと考えてください。いずれの部屋にも、いかなる違いもありません。いずれの部屋も、なかに何があろうと、部屋であることに変わりありません。空っぽの部屋であっても、やはり部屋には違いありません。これにたいして意味の場は、そこに現象する対象の配置や秩序なしには理解することができません。それは磁場のようなものです。磁場を眼で見るには、当の磁場に特定の対象が分布して、磁場の形を描き出してくれなければなりません。それと同じように意味の場も、そこに現象する対象によって規定されます。意味の場と、そこに現象する対象とは、互いを欠かすことができません。対象も、意味の場の意味に分かちがたく結びついているのです。[p.116]

 ここが「対象領域」がブルックリンのどこかの家にある七つの部屋、部屋の中に何が置かれていようと単なる部屋にすぎないと例えられ、対して「意味の場」は部屋の中に置かれているものによって性質が変わる磁場のようだと例えられる所以です。

 

対象一つで一変する存在

わたしの視野という対象領域を内包しつつも一角獣という対象を含む分すこしだけ大きいわたしの視野という意味の場の描かれた図

 これだけではまだわかりづらいとおもいますので、このように考えてみましょう。

 状況は先の例と同じで、わたしがヴェズーヴィオ山を見ているとします。

 

 そのときわたしはヴェズーヴィオ山に一角獣が闊歩している姿を思い浮かべます。

 すると一角獣は実際には、わたしの視野には現われておらず見えてはいないのですが、想像上のわたしの視野には確かに存在しています。

 

 つまり、わたしの視野という「対象領域」には一角獣という対象は含まれませんが、わたしの視野という「意味の場」には一角獣という対象が含まれており、「対象領域」よりも「意味の場」の方が、謂わば広いということになります。

 

 「対象領域は、そこに立ち現われてくるのが何なのかを問わない傾向にあります。」というのは、「対象領域」は「意味の場」に比べて、いわば無機質なもので、より数学的・学術的で厳格な規則に則り、より機械的で厳密な共通する特徴ごとに仕分けられた領域だということです。

 

 一角獣という対象を1つ包含するだけでも「わたしの視野」という対象領域は崩壊します。一角獣が見えている視野ってなんじゃそりゃ?となるでしょ。

 

 これが「わたしの視野」という「意味の場」であれば一角獣が観えて存在しているんだからいいじゃないかとなります。

 

 そしてまた一角獣というたった1つの対象を包摂するだけでも、一角獣を含まない「意味の場」とはその特徴・性質が一変し、また一角獣なしではその「意味の場」の意味を理解することができなくなってしまいます。

意味の場は、曖昧であったり、多彩であったり、相対的に規定不足であったりすることがありえます。これにたいして対象領域は、互いにはっきり区別された多数の可算的な対象からなっています。このようなことは、意味の場にたいしては無条件には言えません。[p.84]

 

意味の場は、可算的な対象の集まりという意味での対象領域や、数学的に記述できる集合といういっそう精密な意味での対象領域として姿を現わすこともありえますが、捉えどころのない多彩な表情をもつさまざまな現象からなることもありえます。[p.85]

 

意味の場とは、何らかのもの、つまりもろもろの特定の対象が、何らかの特定の仕方で現象してくる領域です。これにたいして対象領域においては――集合においてはなおさらのこと――まさにこの点が捨象されます。二つの意味の場が同じ対象に関わることもありえますが、そのさい当の対象は、二つの意味の場それぞれで異なった仕方で現象するほかありません。[p.87]

 「捨象され」るというのは、そこに対象が立ち現われてくる謂わばホットな場であるのが意味の場であるのに対し、その対象がここに属すかどうかということしか問わない謂わばクールな場であるのが対象領域だからです。

 

 これではじめのSinnfelderとGegenstandsbereichとつながったでしょ?

 

ホットな意味の場とクールな対象領域

 繰り返しになりますが…

 「わたしの視野」という「対象領域」に一角獣がいるのはおかしいでしょう。

 現に一角獣が存在していて見えているのであれば何の問題もありませんが、わたしの視野という「対象領域」の中に一角獣が含まれているというのはそういうことです。

 つまり一角獣は身体をもった私達が触れることのできる生物として存在しているということになってしまいます。

 

 反対に、わたしが一角獣を想像して観ているというのに「わたしの視野」という「意味の場」に一角獣が現象していないとすると、いったいわたしは何を観ているというのでしょう?一角獣はどこに存在しているというのでしょうか。

 もしかしたら「あなたの視野」という「意味の場」に現象しているのかもしれませんが、それではわたしには一角獣は観えません。

 謂わば、わたしの(世界の)一角獣――わたしが観ているという存在の仕方をしている一角獣――は存在しないことになってしまいます。

 

対象が意味の場に与える決定打

 このことを「数字・数学」で考えてみましょう。

偶数と奇数が自然数に、そして自然数が整数に包摂されている図

 「自然数」という「対象領域」の中には「2」や「5」という対象がありますが、あるひとが「0」も自然数であると勘違いしているとします。

 すると自然数という「対象領域」にはもちろん「0」は含まれませんが、あるひとの自然数という「意味の場」においては「0」も含まれますし自然数として存在します――「論理的な偽であっても、現象していることに違いは」[p.84]ないのですから――。

 

 すると、「0」を含む自然数の「対象領域」というのは、自然数の定義に反しているため自然数の「対象領域」であるとは言えず、「対象領域」としては成立しません。せいぜいが「話の領域」の話となるでしょう。

 

 対して「0」を含む(あるひとの)自然数の「意味の場」というのは、自然数の定義に反してはいても、あるひとのなかではそのように想像され現象しているのですから、紛うことなく「意味の場」として成立しています。

 

 「0」を含むことで存在しうる自然数の「意味の場」の性質は異なります。

 また、「0」という要素が自然数の「意味の場」の性質を決定的に変えています。

 (対して「対象領域」では自然数に「0」を含むことはありません。それを絶対的に拒絶するので「対象領域」は変わりません。)

 

一角獣は存在する――対象と意味の場が存在

 そして今や、ここまでくれば

わたしが主張しているのは、存在とは、世界や意味の場のなかにある対象の性質ではなく、むしろ意味の場の性質にほかならないということ、つまり、その意味の場に何かが現象しているということにほかならないということです。[p.91]

というのがどういうことなのかがわかるのではないでしょうか。

 そしてまた、「意味の場と、そこに現象する対象とは、互いを欠かすことができません。対象も、意味の場の意味に分かちがたく結びついているのです。」[p.116]ということも。

 

 つまり、「意味の場の性質」とは、「わたしの視野」という意味の場に「一角獣」が含まれるかどうか、「自然数」という意味の場に「0」が含まれるかどうかということ。

 そのことが意味の場(の意味)を劇的に変え、また一角獣や自然数の0という(対象の)存在に関して決定的な影響を及ぼすのです。

 対象と意味の場とは切っても切れない蜜月関係なのです。

 

存在Q&A

 次に、これまでやや保留ぎみにしてきた感のある、新実在論における「存在」についてまとめておきましょう。

 とはいえ先に挙げたものの繰り返しです。

 ですが、「意味の場」についてわかった今なら、なにを言っているのか、また実はすでに端的にまとめられていたのだということがみてとれることでしょう。

 では、みてみましょう。

 

 

 Q1.なにが存在するのか?

 A1.すべてが存在します。ただし世界以外。

 

 Q2.どのように存在しているのか?

 A2.意味の場に現象することで存在しています。

 

 Q3.存在するとはどのようなことか?

 A3.意味の場の性質のことです。

 

 Q4.「存在」という言葉は何を意味しているのか?

 A4.意味それ自体のことです。

 

 

 Q1だけは次章で触れることを先取りして書いてしまいました。

 Q2 とQ3 は同じことなのでA2とA3を入れ替えても併記・統合してしまってもまったく問題ありません。なんならQ4、A4も。

 

 存在について意味の場は決定的な意味をもっていたのでした。

 

そして、なぜ世界は存在しないのか

 最後に「なぜ世界は存在しないのか」について簡単にみておきましょう。

およそ何かが存在するには、当の何かがそこに現象すべき何らかの意味の場が存在していなければならないからです。かくして、たったひとつの対象だけが存在しているとすると、およそ何の対象も存在していないことになってしまいます。一見したところ絶対に唯一の――完璧に「孤独な」――対象であっても、存在するためには何らかの意味の場に現象しなければならないからです。たったひとつというのは、存在しないのと同じです。[p.104]

 

いっさいのものがその前に歩み出ているような究極の背景それ自体などというものは存在しません。《黒の正方形》が象徴的に示してみせているように、どんな対象も何らかの意味の場のなかに現象しますが、当の現象の背景はそれ自体として現象することがありません。[p.234]

 なぜ世界は存在しないのか。

 要は、世界は現象しないから。あるいはあらゆる意味の場に現象してしまうからです。

 

 「あるいは」の前後で正反対のことを言っているようですし、「現象しないから」というのは「存在しないから存在しないのだ!」と同語反復になっていて何の説明にも、何の意味もないとおもわれるでしょうが、どういうことかというと、それは前回の「「対象領域」が囁く『なぜ世界は存在しないのか』」と概ね同じですが、ひとつの全体としての世界などない!それを求めても{世界のなかの[世界のなかの(世界のなかの…)]}と入れ子状態、無限後退に陥り、ついに現象しない「あるいは」あらゆる意味の場に現象してしまうということです。

 

 また…

つまりわたしは、世界は存在しないということだけでなく、世界以外のすべては存在するということも主張したいわけです。[p.20]

 

厳密に言えば、わたしはあらゆる世界像に意義を申し立てることになるでしょう。世界が存在しない以上、世界についてのどんな像も結ぶことなどできないはずだからです。

 しかし他方で、わたしの主張は、世界以外のあらゆるものが存在するのだから、存在するものは一般に期待されているよりもずっと多い、ということでもあります。[p.24]

と、世界以外のあらゆるものが現象している、または現象しうるのだからすべては存在するのだと主張しています。

 

 

 Q5.なにが存在するのか?

 A5 .世界以外のすべては存在します。

 

 Q6.どこに存在するのか?

 A6.どこでもないところで生じ存在しています。

 

すべては広大などこでもないところで生じるのだ(中略)わたしたちは宇宙のなかに存在しているが、その宇宙は空虚のなかに、つまりどこでもないところに存在しているのだ[p.34]

結局のところすべてはどこでもないところで生じるわけです。これは、まったく何も生じないということではありません。むしろ逆に、無限に数多くのことが同時に起こっているということです。[p.91]

 ということで、最後のビッククエスチョンおよびビックアンサーは以下のとおりです。

 

 

 Q7.なぜ世界は存在しない・しえないのか?

 A7.世界は現象しない・しえないからです。

 

図解!マルクス・ガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』① ~「対象領域」について~

実在論における「対象領域」

 マルクス・ガブリエル著『なぜ世界は存在しないのか』の273ページの用語集にある新実在論における「対象領域」の定義は以下のようになっています。

対象領域(Gegenstandsbereich) 特定の種類の諸対象を包摂する領域。そのさいには、それらの対象を関係づける規則が定まっていなければならない。

 

対象(Gegenstand) 真偽に関わりうる思考によって考えることのできるもの。そのさい、すべての対象が時間的・空間的な拡がりをもった物であるわけではない。夢のイメージや数も、形式的な意味において対象である。

※ページ数は電子書籍のものを基としております。したがって、紙媒体や他のリーダーアプリのものとは異なるかもしれません。

多重多層な対象領域

 「対象領域」とは特定の種類の諸対象を包摂する領域である。…と言われてもなかなかイメージしづらいとおもいますので、さっそく図解していきましょう。

 

 はじめに、37ページで説明されていることを図にしてみます。

政治の対象領域と自然数の対象領域が並び立っている図
 いまのところ「対象領域」というのはなにかしらの領域・範囲なのだというぐらいにイメージしてみてください。といってもすぐにイメージが固まってくることと思いますが。

 ではいきます。

 

 上の図は見たままです。ほぼ見たままのことを「対象領域」という語を使って言うとこんな感じになります。

 

 つまり…

 

 「政治」という対象領域と「自然数」という対象領域は互いに独立していますが、「政治」という対象領域の中に「市町村自治体」という対象領域が包摂されていたり、「自然数」という対象領域の内には「偶数」という対象領域が内包されていたりして多重多層的であったりもします。

 

 そしてまた、「政治」という対象領域と「自然数」という対象領域とは互いに独立しています。

 

 いかがですが?「対象領域」という語が使われているだけで見たままの説明でしょ?

 

 一つ注意を加えるとしたら、「自然数」はもちろんのこと、「政治」においても「有権者数」や「得票数」など、どちらにおいても「数」が扱われますから、「自然数」と「政治」という対象領域は一部で重なるところがある。…とは言えません。

 

 対象領域はそんな曖昧なものではないからです。端的に言って「自然数」の対象とする数字と「政治」の対象とする数字は別のものだからです。

 

 もし「自然数」と「政治」という対象領域に重なるところがあるとすれば、それは「意味の場」においてか、あるいは「話の領域」においての話となります。

 

 「意味の場」については次回、「話の領域」についてはのちに触れます。

 

 

 次に「対象」という言葉を加えて、もう少し説明を続けてみます。

 

 すると…

 

 「自然数」という対象領域の内には「2」や「8」という対象を含んだ「偶数」という対象領域が包摂されています。

 

 また、「自然数」という対象領域の内の「偶数」という対象領域は、「偶数」という対象領域として、「偶数」という対象領域のままであり続けることもありますが、「偶数」という対象となることもあります。

 

 「対象」という語が加わってややわかりづらくなったかもしれませんが、それでもまあ「対象」は要素や個体ぐらいにおもっていただければ、だいたいは理解できるのではないでしょうか。

対象と対象領域

 本書では「対象領域」と「意味の場」の違いや、「対象」と「意味の場」の結びつきについては記されています。が、「対象」と「対象領域」の関係について次のように言われているところはありません。

 それゆえこの章で申しますことは多分に過分で誤りであるかもしれません。

 こう但し書きしたところでわたしの思うところを綴ります。

 

 話をすすめる前に先ほどの図を少し書き換えます。

 「政治」の図についてはこの先での説明の便宜上、「自然数」の図については、49ページに「自然数という対象領域は、偶数という対象領域を包摂しています」とあるのでそのような図にしましたが、偶数のうちには-2や-4など負の数も含まれますので、「偶数」が「自然数」にすっぽり包摂されているのは不正確かつ不適切なので、より正確な図にします。それがこちらです。市町村自治体が政治という対象領域に包摂され、偶数と奇数が自然数に、そして自然数が整数という対象領域に包摂されている図。

 「2」や「8」という対象は「偶数」という「2で割り切れる整数」という規定・定義をもつ対象領域に属し、たんなる「2」や「8」という数字にすぎない対象に「2で割り切れる整数」という特徴を持つことをも教示してくれています。

 

 また、「偶数」という対象領域は「2」や「8」という対象の共通して持つ性質、つまりたとえば「2の倍数」という特徴を教えてくれて、「4」や「16」という対象も「偶数」という対象領域に属すのだという新たな知見をもたらしてくれます。

 

 ただこの例では「2で割り切れる整数」と「2の倍数」とでは違いがあまりにもわかりづらいので、「政治」の例で言い換えてみます。

 すると…

 

 「法律」や「公務員」という対象は「市町村自治体」という「地方の支配・統治の仕組み」という規定・定義をもつ対象領域に属し、たんなる「法律」や「公務員」という単語にすぎない対象に「地方の支配・統治の仕組み」という特徴をもつことをも教示してくれています。

 

 また、「市町村自治体」という対象領域は「法律」や「公務員」という対象の共通して持つ性質、つまりたとえば「法治国家」という特徴を教えてくれて、「予算」や「退屈」という対象も「市町村自治体」という対象領域に属すのだという新たな知見をもたらしてくれます。

 

 といった感じになるでしょうか。

 

 「地方の支配・統治の仕組み」や「法治国家」といった記述は本書にはなく、適切な言葉・規則が見つからなかったので、なんとなくそれらしくみえる言葉をあててみたというにすぎない不適切かつ不正確な表現ではありますし、わかりやすい例ではなかったとはおもいますが、先の対象領域は対象となることもあり、また反対に、対象は対象領域となることもあるということとあわせて考えますと、対象と対象領域の関係は相互補完的であり、相互依存的でもあるともいえるのではないでしょうか。

多彩な特徴をもつ対象領域

 次に、対象領域の多様さについてみていきましょう。

天文学と素粒子物理学と確率論というそれぞれの対象領域の一部が重なり合い、占星術は天文学とだけ重なり合うところのある図。

 この図は本書には記述のないもので、その認識に不正確な点があるかもしれませんが、想像しやすいのではないかと思うので、この図をもとに説明をすすめさせてください。

 

 「天文学」と「素粒子物理学」と「確率論」といった対象領域には重なるところがあります。例えば「宇宙はビックバンを起こして広がり、それとともに素粒子もひろがっていきましたが、その素粒子は確率的な振る舞いをする」というように各対象領域、各分野で共通するところがあるでしょう?

 

 また「占星術」は「天文学」という対象領域と共通するところはあっても「素粒子物理学」とは排他的な関係にあったりもします。

 例えば「占星術天文学も天体の観察から発展し、その歴史には共有するところがありますが、どれだけ目を凝らして夜空を眺めてみても、瞬く星々は見えども素粒子は見えません」といった――だいぶ無理のある苦しいたとえですが――感じで相容れないところがありますよね?

 

 このように、対象領域は重なり合ったり包摂していたりきっちり区別されていたりと多様なのですが、かといってなんでもありということではありません。

 

 対象領域には、重なり合うには重なり合うなりの、排除し合うには排除し合うなりの適切で明確な規定があります。

たとえば居間はひとつの対象領域であり、そこに特定の対象が現われてくることが期待されます。たとえばテレビ、アームチェア、読書ランプ、リビングテーブル、コーヒー染みなどです。[p.37]

生真面目な対象領域

 次に、対象領域の曖昧のなさについてみていきましょう。

存在論的還元を行うとは、問題となる対象領域の本質を話の領域に帰したうえで、この話の領域が、それ自身によって想定されているようには客観的でなく、むしろ特定の歴史的・社会経済的・心理学的な偶然事によって規定されているのを示してみせることです。ですから、多くの対象領域にたいして誤謬の理論が必要となります。誤謬の理論とは、問題になる話の領域の体系的な誤謬を明らかにし、当の領域の本質を一連の誤った想定に帰するような説明方法です。

 存在論的還元が行われるにあたっては、自然科学であれ、人文科学であれ、社会科学であれ、実質のある学問的な認識が前提となります。[p.52]

 これは存在論的還元について説明されているところですが、対象領域の特徴や曖昧さのなさについても言明されているところだと思うので引用しました。

 

 ここでは「対象領域とは実質のある学問的な認識が前提となっている客観的で強固なもので、本来、適切かつ明確で確立したものである」と言っています。

(やや誇張していますし、それよりなにより引用にある文を逆説的に解釈して対象領域の性質を抽出するというちょっとアクロバティックなことをしています。その成否、合否、芸術点はおまかせします。)

 

 対象領域の生真面目さは数学をはじめとした学問で考えるとわかりやすいとおもいます。

 

 たとえば、「偶数」という対象領域には「2」や「-4」は含まれますが「5」や「0.3」は含まれません。なぜなら「偶数」には「2で割り切れる整数」という明確で揺るがせない規則があるからです。この規則を変えてしまったり「0.3」を包摂してしまうことは明らかな間違いであり、それはもはや「偶数」でも、「偶数」という対象領域でもありません。

 

 同様に、「音楽」という対象領域には「和音」や「カノン」は含まれますが「2」や「-4」は含まれません。なぜなら「音楽」は音に関する学問分野であって数に関するものではないからです。もしも音楽が音を発することのない、また無音ということでもない数について研究する学問分野であるということになってしまったら、それはもはや「音楽」ではありません。

 

 ある楽曲の数学的解釈というものはあるかもしれませんが、だからといって「音楽」が「数学」という学問領域、「数学」の対象となることはありません。

 

 対象領域は論理的で厳格な仕分け人といったところです。人ではないですが。

 対象領域は学問領野だけを指すわけではないですが、概ねそのようなものだとイメージしていただければわかりやすいということがなんとなくわかっていただけたでしょうか?

わたしの左手の五本の指は、わたしの左手という対象領域に属しています。

 本章は、本書37ページのこの引用だけで事足りたかもしれませんね。

 さすがにこれは図にしなくてもいいですよね?

「話の領域」の物語

 対象領域には曖昧なところがありません。

 曖昧なところがあるようにみえるのは、それは「対象領域」ではなく「話の領域」であるからです。

 

 話の領域の「話」は原文ではGeschichteとなっているのではないかと思われるのですが、だとするとGeschichteには「話」以外にも「物語」や「出来事」、「歴史」といった意味もあり、「話の領域」よりも「物語の領域」の方がイメージしやすい方もいらっしゃるのではないでしょうか。

政治の対象領域と自然数の対象領域が並び立っている図
 この図ははじめに提示したものと同じもので、そのときにも言ったようなことを繰り返させていただきます。

 

 互いに他を排除する関係にあった「政治」と「自然数」という対象領域は、どちらも「数を扱う」ということが共通するのだから対象領域の一部が重なると見なしたり、はたまた対象領域というものの認識違いから「人間の思考の産物」という対象領域が「政治」と「自然数」というそれぞれの対象領域の一部と共通するところがあると見てしまうこともあるかもしれません。

 

 しかしながらこういった類のものは対象領域についての言説ではなく「話の領域」のおはなしです。

 

 と、こんなようなことを申しました。

 そして、今や、対象領域の生真面目さについてわかった(ものとします)今であれば、「政治」と「自然数」という対象領域に重なるところがあるという見解は明らかな誤りで不自然であるということがわかるのではないでしょうか。 

役所訪問という対象領域には、厳密な意味での物理学的な対象は現われてきません。役所訪問にさいして電子や化学的結合が問題になることはないからです。たしかに役所の事務室を科学的に分析したり、事務室という空間における二点間の正確な距離や、特定の対象の速度(たとえば時計の針の速度や、オフィスチェアの回転速度など)を測ったりすることはできます。しかし、このような研究は役所訪問とは別の何かでしょう。[p.37]

 「話の領域」というものが少々やっかいなのは、新たな科学的発明や画期的な証明法の発見などによって、これまでの認識や定説が覆ることもあり、それにともなって対象領域が本来あるべき姿へと変質したり、重なり合ったり、排除し合ったり、というようりも実は話の領域であったのだと判明することもあるというところ。

 

 さらには、「話の領域」は「対象領域」の認識としては間違いを犯しているのですが、だからといって存在しない・存在しえないというわけではないというところ。

 

 というのは、話の領域は、「話の領域」という「意味の場」においては存在する・存在しうるものだからです。

 ねっ!少々やっかいでしょ?

宇宙が世界のすべてではない

 対象領域が本領を本域で発揮するのが、まさしく本章でみていきます「なぜ宇宙は世界ではないのか」というところだとおもいます。

 

 こちらの図も本書に記述のないものをもとに作成していますので、例のごとく内容に不正確な点があるかもしれません。その点ご承知おきくださいましてご覧ください。

学問が思考に、思考が…に、…が素粒子に、素粒子が世界という対象領域に包摂された図。

 例えば、従来、形而上学構築主義では次のように、「天文学」や「素粒子物理学」、「確率論」や「占星術」などの対象領域は「学問」という対象領域の中にあり、その「学問」という対象領域は「思考」という対象領域の内にあり、…という対象領域の内にあり、…という対象領域は「素粒子」という対象領域に包摂されていて、そして最後には、すべての対象領域の対象領域である「世界(=宇宙)」というすべてを内包する1つの対象領域があるのだと分析されてきました。

 

 そうして「世界は存在する」のだとか、だから「世界はある1つの構成要素・素粒子からなる」と考えられたりして、世界の存在の有無であったり、その存在の仕方が断定されてきました。

 

 一見これは正しいように見えます。

 また、これまで「世界」は一般にこのようなものであると、このようなあり方をしていると考えられてきました。

 

 しかし、これは間違いです。少なくとも新実在論においては大間違いです。

 この誤りは対象領域というものの認識違いや対象領域の捉え違いによるものです。

 

 38ページで展開されている説明をもとに、新実在論の主張する世界像を図にしてみます。

宇宙が物理学に、物理学が世界?という対象領域に包摂された図。

 これまで素粒子によって世界が構成されていると考えられてきた世界像というのは、「物理学」という対象領域のなかにある「宇宙」という対象領域に属する世界観なのであって、新実在論による、または、正しい対象領域の認識による世界観では、「宇宙」は「世界」ではないばかりか「物理学」に内包する、謂わば、従来考えられてきたよりもはるかに(対象領域の)幅・範囲の狭いものです。

宇宙は、物理学の対象領域ないし研究領域にほかならない以上、けっしてすべてではない[p.38]

 

現実に存在するすべてのものは宇宙のなかにあるとか、すべての出来事は宇宙のなかで起こるといった考えは、数ある対象領域のひとつを世界全体と見なすという間違いを犯しています。[p.40]

 

宇宙のなかには存在しない対象が数多くある、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、ということです。(中略)数千億の銀河と、とんでもなく数多くの亜原子粒子とでできているのだとしても、それでも宇宙は思われているよりも小さいということです。[p.41]

 形而上学構築主義の主張する世界像においては、「物理学」は「宇宙」に内包するものでしたが、新実在論の世界像においてはその内包関係が逆転し、「宇宙」が「物理学」に包摂されています。

 

 この図で「世界?」と「?」がついているのは、新実在論では「世界は存在しない」からです。

 ただし、形而上学構築主義の主張する誤った世界像でさえ、新実在論では存在します。

 対象領域の捉え方としては間違いなのですが――または「誤った世界象」という対象領域であればありなのかもしれませんが――、たとえば「従来の世界観」という対象領域…というより「従来の世界観」という「意味の場」においては現象して存在しうるのです。

「対象領域」が囁く『なぜ世界は存在しないのか』

 「世界」の座にあった「宇宙」を正しく「物理学」の対象領域に帰せられたところで、次に、「世界」のありえなさについてほんの少しだけ触れておきましょう。

 

 『なぜ世界は存在しないのか』ということについて語るには、まず「存在」――どのように存在しているのか、「存在するとはどのようなことか、そして「存在」という言葉は何を意味してるのか」[p.66]といったことに――ついて語らなければなりませんが、ここではその前哨戦というわけではありませんが、対象領域の囁く「世界」のありえなさについて耳を傾けてみましょう。

 

 その前にまずは「世界」の定義から。

 (ハイデガー曰く)「世界とは、すべての領域の領域」[本書各所]のことです。

ここではさしあたり、こう定式化しておくことができるでしょう。世界とは、すべての領域の領域、すべての対象領域を包摂する対象領域である[p.48]

 その上で、

わたしの左手でもあり、アンゲラ・メルケルの愛読書でもあり、ノルトライン=ヴェストファーレン南部で最も高いカリーヴルストでもあり、さらにそのほかいっさいのものでもある――こんな主張が真となるような対象を探求するというのは、ともかくもきわめて異常な研究計画としか言いようがありません。

 こうなってしまう理由は、すべての性質をもつ対象が、何の基準もなしに当の対象それ自身であることにあります。(中略)どんな基準も、それぞれ特定の対象ないし対象領域に特有の区別に即しているわけです。基準のないところには、はっきりした特定の対象が存在しないのはもちろん、はっきりと規定されていない対象すら存在しません。輪郭の曖昧な未規定の対象も、あるいは相対的に未規定の対象(たとえば夕食で供せられる一定量のライス)も、やはり何らかの基準にしたがってそのような対象として定められ、何らかの仕方でほかの対象から区別されなければならないからです。

 したがって、たったひとつの実体、すなわちすべての性質を備えた超対象だけが存在するというのは間違っています。つまり一元論は間違っている。[p.77]

 これは、世界が一つの原理、または一つの要素、つまり超対象からなると考える一元論の誤謬を指摘しているところです。

 

 ここで言われていることは、対象領域というのは確立された規則によって対象同士を結びつけて包摂する領域のことだというのに、その肝心の規則がないじゃないかということ。

 何の基準もないから区別のしようもないし、判断のしようもないじゃないかということ。

 ルール無用時間無制限一人一本勝負は単なる妄想で勝敗の決めようがないじゃないかということ……

 

 ではなぜ規則がないのかというと、それこそズバリ、世界が一つの原理、一つの要素でできているとしてしまっているから。つまり一元論だから。

 

 一元論は端から誤謬を抱え込んでいるものなのですよ~だっ!と、言っています。こんな言い方はしていませんが。

 

 また、こんな言い方もしていませんが、「ねぇねぇ、超対象ってどんな対象領域に含まれるの?(対象は必ず対象領域に含まれなければならないということはないのかもしれませんが)超対象を包摂する対象領域ってあるの?」といったことも言えるのではないかとおもいます。

 

 そしてさらに、このようにも言っています。

 わたしたちのレストラン訪問には、このように数多くの対象領域、いわば個々の小世界が存在しています。それらの小世界は、現実には互いに関係することなく、たんに並んで存在しているにすぎません。つまり数多くの小世界は存在していても、それらのすべてを包摂するひとつの世界は存在していません。(中略)いっさいのものがほかのすべてと関連しているというのは、たんに間違いです。[p.21]

 

 ひとつの全体としての世界も、これに似た事情にあります。そのような世界が存在しないのは、いっさいの連関を包摂する連関が存在しないのと同じことです。すべてを記述し尽くす世界の規則や公式は、たんに存在しません。それは、わたしたちがそのようなものをいまだ見出していないからではありません。そのようなものがそもそも存在しえないからです。[p.22]

 この引用での前半部分は、先の「すべての性質をもつ対象」に通じるところのある記述で、後半部分では、謂わば無限後退に触れています。

世界――すべてを包摂する領域、すべての意味の場の意味の場――は存在しないし、そもそも存在することがありえないからです。[p.168]

 

わたしたちは果てしない事実の入れ子状態に陥ることになってしまいます。

 

{[(TはSとの相対的関係のなかにしかない)はSとの相対的関係のなかにしかない]はSとの相対的関係のなかにしかない}はSとの相対的関係のなかにしかない……。

 

 このモデルでは、すべてのものの相対的関係の準拠先となるものが、結局のところ存在しません。たしかにすべてが相対的ですが、その相対的なもののすべてが何らかの終極的なものと関係を結ぶという事態は、ついに成立しません。[p.170]

 対象領域はもちろん世界ではなく、すべての対象領域を包摂する対象領域などないのです。そのようなものを求める旅は空しく、(超対象はないという趣意・意味で)意味がないのだということが明らかとなりました。

 

 要は、ひとつの全体としての世界というものはないのだから世界は存在しないのだよ。ということです。

 

 まあそんなこんなで以上のことから、「(すべてを包摂するひとつの)世界」という対象領域はない。ということが言えるのではないかとおもいます。

 

 とはいえやはり、「存在」について語るには「意味の場」については避けては通れないというのに避けて対象領域ひとつを武器にやってきてしまったので、強く主張・断言・断定できず、せいぜいがこのようにしか言えません。

 

 「そう囁くのよ私のガイストが」

 

 では最後に、第Ⅰ章『これはそもそも何なのか、この世界とは?』の章末に記されているまとめを引用しておわります。

1 宇宙は物理学の対象領域である。

2 対象領域は数多く存在している。

3 宇宙は、数多くある対象領域のひとつにすぎず(大きさの点で最も印象的な対象領域であるとしても)、したがって存在論的な限定領域にほかならない。

4 多くの対象領域は、話の領域でもある。さらにいくつかの対象領域は、話の領域でしかない。

5 世界は、対象ないし物の総体でもなければ、事実の総体でもない。世界とは、すべての領域の領域にほかならない。[p.63]