あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

自民党の正しい斬り方

自民党、つまり自由民主党。

これを自由-民主-党と切って読んでいるから本質を捉えそこねるのです。

このように読んでしまうとさも市民に重きをおいた人民のための政党かのような印象を抱いてしまいます。

 

しかしそうではない。

正しくは自由民-主-党と区切るのが本来の読み方です。

このように読めば党名が偽りを申しているのではなく、本音と建前的な美辞麗句を並べているのでもなく、ちゃんと端から公明正大嘘偽りなく堂々とその姿勢を明言していることがわかるのです。

 

つまりは自由民が主(あるじ)だと宣言している党であるということが。

ここで言われる”自由民”のなかに我々は一般人は含まれません。

自由民は日本国の市民権を持つものではなく「国会議員のうち自民党に所属する者のうち党三役あるいはそれに類する権力を持つもの」というごく限られた少数人のことを指します。

このことは今日浮上した裏金問題に限らず、オリンピックや万博など公共事業費のあとから増額、震災復興費の転用などなど、悪名有名なロッキード事件や森加計問題などの固有名をあげるまでもなく様々な証左や裏付けがなされています。

 

これまではその権勢によりメディアに圧力をかけたり統計データの仕様を操作したりスケープゴートをたてるなどして圧殺黙殺偽装自殺などの手法を駆使してきました。

今回この体勢が瓦解しはじめた発端は間違いなく憲政史上最長政権を握った安倍さんの死、いわゆる安倍晋三銃撃事件。

裏金問題を告発したのは上脇さんでありそれを報じたしんぶん赤旗であると報じられていますが、上脇さんは以前から裏金問題以外にも告発されていますし、赤旗は赤いですし…果たして銃撃事件以前であったらこれほどの問題となったでしょうか。

今日の裏金問題は昨日今日はじまったものではなく、何十年も前から横行していたことでメディアも何も知らなかったということはないでしょう。

これにはジャニーズ性加害問題にも通じる構図がみえます。

 

うねる空気

銃撃事件後、自民党と統一教会とのつながり(このずぶずぶの関係も何十年も前からはじまっていたけれど政治に黙殺され続けてきた)が公となり自民党のお金の流れに目が注がれて裏金問題の報道へと至る。

時代の流れ・雰囲気というものもあります。

SDGs然り、エコロジーや過剰開発への疑念、ジェンダーギャップや富の格差を是正しようという気運、働き方改革に少子高齢化問題、AIにブロックチェーン、インフレにデフレにバブル発生、コロナショックにワクチン疑惑、銃撃事件に統一教会、当事者からすれば事件や問題に大小はないけれど、その刻その時代の小さくとも長く続く問題やインパクトのある大事件、あらゆるものが大きくも小さくも影響しあってうねりとなって大波の一波となって顕現したのが今回の裏金問題。

地下の歪は長い年月を経ることでエネルギーが蓄積されて大地震となります。

 

ロウアーロイヤー

自民党のお金への汚さは長い年月を経て培われた後天的なものかもしれませんし生まれ持った先天的ものなのかもしれません。

いずれにしても体質。

それも何十年もの間ともに歩んできた体質。

そうやすやすとは体質改善は見込めないでしょう。

これまでも、また今も党内から体質を変えようと口先だけのひともいましたし粉骨したひともいましたが、やはり変わらなかった。

政治家にだけ問題があるわけではないでしょう。

一部の高級官僚にも問題があるでしょう。

「宮藤さんに言ってもしょうがないんですけど」の“法律事務所事務員の愚痴“を聞くと(※番組内でも言われていますがすべての法律家ではなく)アッパーレベルの人たちの生態があまりにロウアーなことに不安しか覚えません(この愚痴を聞いていたときアダム・スミスの国富論と道徳感情論がずっと念頭に浮かんでいました)。

 

令和の党質制限

体質改善の見込めない自民党は解党が妥当ではないかとおもいます。

それでは国家運営が立ち行かなくなり政情不安、国家混乱が起き外圧も強まり亡国の危機も招くだろうという懸念は至極当然もっともです。

野党に政権運営能力が備わっていればよいのですが、自民一強体制があまりにも長すぎて野党を育てられなかった日本においては、自民解党後に元自民党議員の協力を得て日本全体で奮起してなんとか元野党政権でやっていく方がいいのではないかとおもいます。

ただこれではそのうち元自民党体質を踏襲しかねないのでその対策と管理は怠らずにしないとね。

 

誰の絵?

それにしても今回のこの裏金問題は誰が絵を描いたのでしょう?

自然発生?…とは考えづらい。

抑圧されていたメディアの反転攻勢?…というのもなくはないでしょうけれど、それを利用した…

安倍派を一掃したい他派の自分の肉も少なからず切られるけれど骨を断つための算段か他党の切り札?…にしては政界への波紋が大きすぎるし、

投資家かフィクサーの策謀?…フランス料理風「世直しと利潤追求を兼ねて」というコースに仕立てるには調査内偵仕掛に調理とじっくりコトコト手間がかかりすぎる。

事の始まり・傷心

ひとの生涯は生まれることで始まるが、物語はひとが害されることで始まる。

 

映画や小説、アニメ、その多くはひとの死を中心として、またはそれを発端として物語が動き出す。昨今隆盛を極めている異世界ものなどその最たるもので、主人公が死ぬところから話が始まる。主人公が死ななければお話にならないのである。

 

こんなことをふと思ったのは、ここのところあまり読んでこなかった小説(物語)をいくつか読んでいて、たまたまなのか必然に突き当たったのか「しょっちゅうひとが死ぬなぁ…あっほらまた死んだ」「また殺し屋が出てきたよ。殺し屋ってそんな一般的なものなの?市民権得てるんだねぇ」なものが続き、振り返ってみると火サス(火曜サスペンス劇場)・2時間ドラマ、名探偵ポアロにコナン、極道・任侠、時代劇に大河ドラマ、ウルトラマンもゴジラも平家物語も古事記も、死ぬわ死ぬわまた死ぬわ。ばったばったとひとが死んでゆく。どれもこれもひとの死を巡ってお話が展開されてゆく、死にまでは至らなくとも”傷心”が物語のはじまりなのだということに今更ながら遅咲きながら気がついた。

ひとはひとの「死」が好きなんだ。ひとはひとの「死」に関心が高い、実は無自覚不覚にも興味津々なのだ老若男女問わず。

 

死を巡るというのは生を巡るということと同義、というか表裏一体。だからひとはひとの「生」にも関心があるのだ。ひとはひとの「生死」に惹かれている生き物なのだ。

 

 

自由と欲望の相似性

不老不死でも身体・自由を拘束されては苦しみ・不自由は常人よりも大きい。

死にたくとも自由には死ねないのだから。

したがって自由は不老不死に勝る。

 

自由とは自らの意思で決めること。

ただしその意思は教育や文化、情報などによって形成されてゆくもの。

となると自由は自由か?

自由の記憶、継承される自由、遺伝する自由、…。

自由は思考から生まれる。

 

老化しない、死にたくない、死なないという自由、あるいは願望。

願望は大きな括りの上では自由の一種。

何を望みその思考・選択肢・想像からなにを選ぶか、選べるかという自由。

 

思考のない生物は反応により動いているだけなので「~をしたい」という欲望がない。

つまり自由でもなければ不自由でもない。

そう感じることすらない。

そもそもその概念がないのだから。

 

また、思考をもちすべてが思い通りの自由自在であってもやがて欲は尽き、自由の概念をも失う。

というのも、思考と同時に、あるいは思考よりもはやく願望がかなってしまい、而して思考は反応となり、思考は失われるのだから。

 

思考のない生物と思考をもつ自由自在の生物とは畢竟、同じ極地へと至る。

 

自由から離れ、欲することもなく、ただただ反射や反応にのみ依った思考を失った生物となる。

欲からはなれることは自由(・不自由)からもはなれること。

 

無限が無限たりえるのはそれが可能であるからではなく、まさに可能性であるから。

無限は可能という虚偽へと誘う悪魔であり、可能性という希望を担保する天使。

自由は実現可能ではないかもしれないけれど、その可能性を失うことはない。

自由には種類がある。

どの階層、どの次元についての自由について話しているのかを捉えそこねると混乱するだけ。