美術は技巧、アートは鮮度が命
とくに日本において美術とアートとは常に同義ではありません。
また、すべての美術、アートがそうであるわけではありませんが、昨今の傾向として美術は技巧、アートは新規性を土台としているものとして使い分け・言い分けられているように感じます。
そこでここでは美術とアートとはそういったものだと措定して話をすすめます。
技巧の美術
日本において「美術家・芸術家」なるものは中世あたりまではいなかったのではないかとおもいます。
これは古代日本人には美意識や技能がなかったということではなく、作者個人の表現、自由な創造物、独立した意思の表出手段を行使する・行使できる方法や場所、環境がなく、その意味で美術家・芸術家は不在でした。
もしこのころ「美術家・芸術家」にあたるようなひとがいたとしたら、それは作成者ではなくむしろその依頼者に与えられる称号でした。
たとえば今でも「安土城は大工の棟梁・岡部又右衛門が造ったとは言われず、織田信長が築城した」とか「名跡や襲名のように独立した個人・個性よりも家や技芸が前面に出される」といったように、企画・発案者が製作・製造者に指揮してつくらせ、作者・製作者・生産者・クリエイターよりも発案・企画・制作・統括・責任者・(日本語での)プロデューサー・ディレクターが美術・芸術家として名を残しています。
企図した者ではなく実際に製作した者には美意識がなかったわけではけっしてありませんが(でなければたとえ指示下にあったとしてもあれほど美しいものを生み出すことはできなかったでしょう)、彼ら自身みずからを「職人」と自負・呼称していたのです。
今も昔も工房制作はわかりやすく、その作者名には企画・指揮者の個人名かその主催する団体名が冠され、実際に制作した個々個人の名や功績は論文共著者として末席に置かれることすらないほどに表には出てこない・出されないことの方が多いのです。
また職人のつくるものであったので、装飾美よりも用の美、より生活に近しいもので当時よりも後世、および当世において美を見いだされる機能的なもの、現代的な言い方をすれば機能主義的な意図を基礎にもつものがつくられました。鎌倉期の胴田貫などは好例ではないでしょうか。
権力者に依頼されてつくった精緻を極めた豪奢なものであっても(無理やりな苦しい解釈をすれば)「これだけの技能をもつものを抱え、存分にその力を発揮させられるだけの資金は芳醇、であるから楯突き反抗しても敵わないと無言のうちに視覚的に相手を威圧し悟らせ、反抗の目を未然に防ぐ」という実用性があり、権威の表出としての機能性があったともいえなくもなくもないかと…。
鮮度のアート
アート、特に現代アートは機能主義に反抗して生まれたという側面ももちます。それは機能面を追求し失われゆく人間性、産業資本主義の進展・浸透とともにライン製造・流れ作業の中に組み込まれてゆく人間身体、人間の機械化、製造する機械としての人間、こんな時代の風潮とも相まって、その反発力は少しずつ蓄えられ、あるとき臨界点を突破してアートシーンへも波及し反機能主義の機運が高まったことでしょう。(コピー技術や科学技術の発見や発展によって、機能主義を批判していたものが後に別の機能主義の上に立脚するようにもなりましたが…)ド派手な言い方をすれば、美術のルネサンス期が来たと鼻息荒くしたひともいたことでしょう。
そうして生まれた極端な気運「ひとの後追いは自由の束縛」と言わんばかりの新規開拓、フロンティア、とにかくまだだれもやっていない新しいことの探求、「新規性とは自由(性の発揮のこと)かな」と、目新しいもの、目を引くものが大量生産された時期がありました。
そして確かにそのころ美術界のゴールドラッシュ、プチバブル、アートバブルが起きたのでした。
※アートバブル(に限らずバブル全般)はダブついて行き場を失ったカネが堰を切ってアートシーンへと流れ込んできたという現象も伴うものでもありました。とくにこの頃のアートバブルは反機能主義と新規性の興隆、資本主義社会の進展による人間性の喪失感と資本(カネ)の飛躍的な拡大と増大といういくつもの大きな潮流が混流・混濁して現象したひとつの徴でした。
こうして足早に生まれた宿命か、❝鮮度❞が命のアートが乱立し、ゆえに時とともに急速に力を失ってゆく。“力“の半減期・減衰期がはやい。
一作品のうちにだけでも起こる価値の乱高下(たとえば作者がある事件を起こし、その希少性のために価値が高騰したり、または反対にその秘境卑劣さのゆえに価値が急落したり)や嗜好潮流の変化など、現代は人口も資本も増加の一途を辿っているためか投機的利便性も相まってその価値は増加か高止まり傾向にありますが、ひとたびこれらが縮減傾向を見せると市場は敏感に反応し下落。(これはアートだけに限らず美術全般においてもいえることですが)市場動向とあまり連動せず自立自存の価値を保ち続けられるアート・作品がどれほどあることでしょう。
美術には「術」の字があてられています。芸術ともなると「芸」と「術」のいずれも習得過程を経て得られる技巧を表す字があてられています。時間の厚み、修練や経験の厚み、そうして獲得し血肉化した技能・技芸。こうして作出されたものにはいやが上にも”力”が宿り、そうでないものと比して価値を有して後世へも残存する確率を高めることでしょう。
ただしこれは制作にどれだけの時間を要するかということではありません。それは「私はこの絵【黒と金色のノクターン - 落下する花火】を全生涯の経験によって描いた」とホイッスラーの豪語するが如く。
技巧を土台としているため時間の風雪に耐え、技量のある上での破壊や崩しだから成り立つものがあります。「守」「破」を経た上での「離」であるからこそ制作期間2日ほどであっても“力”が宿るのでしょう。
技能・技工を得るまでに費やした時間は甚大でも、それに比して、その技能・技工の発揮・発露に要する時間は僅かだということです。そしてまた、その時間を僅かとしているのも技能・技工のうち、その為せる技。(ちなみに、技能・技工というのは足し算ではなく掛け算で発現するものではないかとおもいます。技量が上がればより高度となり、要する時間は短縮される。)
“力“をもったアート
しかしながら、そんな拙速なアート、アートシーンにあっても力、“新規性“ともまた異なった魔力ともいいうるような強力な生力を宿したものがあります。それはたとえば“根気“、たとえば“物語(性)“といったものたち。
根気が力となる場合があります。おびただしい点、数え切れない水玉や丸、最後は偶然の女神に委ねられるにしてもその前までは入念な準備、知識の蓄積、意図、企図、企画、経験、試験、時間、それまでに、そこに至るまでに身につけた技量、努力の結晶。根気の振動、そこに込められた根気の波動が(目には見えなかったり、ときとして目に見える形で)“力“として付与されることがあります。
新しいことでもそれを続けるには技能の向上を要するものや数を重ねて自ずと技芸が亢進することがあります。
作品自体の良し悪し(だけ)ではなく、作者の言動や作品の来歴、製作工程・過程や時代や出来事との邂逅などなど…から“力“を与えられ、力を得ることが度々あります。
いつどこで誰がつくったかということで最高峰・最高度の価値を有するのは古代のひとの手からなる洞窟壁画や土器などでしょう。
また、美を追求してつくられたのではなく、日常品やそれにほんの少し加えられた❝遊び心❞や些細な装飾に後のひとが❝(用の)美を見出し❞た温故知新、民藝運動。
時代を画したデュシャンやウォーホル、ジョン・ケージら革新者。
作品自体に稚拙さや曖昧さ、容易さや完成度の低さがあってもそれを補ってあまりあるほどの歴史や物語といった力を纏っています。(新規性も”新規性“という物語が付加されているともいえるのでしょう。)
たとえばバンクシーの絵から物語性を取り除いたら、つまり名前や匿名性、神出鬼没や描かれた場所と意味など、その記号を取り払ったとき、その作品単体だけで、それでもその作品は現在のように評価されあれほどの高値で取引されるでしょうか。シュレッダーにかけて作品を棄損したら作者の意図とは裏腹に、さらに値を上げてしまうという新たな物語が生み出されるでしょうか。
ヒト感動ウイルス感染中
※ウイルスはヒトの誕生や生物の進化に寄与してきたということで
とはいえひとは新規性を求めます。ホーミー、ユニゾン、ベートーヴェンのピアノ(音階や音量、和音に技法など)探求、カノンは掠れボカロの勃興、テクノ、多重音声…と、今日においてもまだまだ新しい音を探している最中。
そうかと思えばクラシックは何度も何度も❝再演・再現❞されている。感動にあうために。美しさを求めて。
新規なアートは時を得て、技を経て芸術となる。
結局のところひとは、新しかろうが古かろうが、感動を欲する感動中毒罹患者なのでしょう。それが切れると新しさを貪ったり古いものを掘り返したりせずにはいられないというだけのことなのかもしれませんね。
それを信用と呼ばず期待と言おう
信頼に傷がつく、信頼を損なう、信頼関係に与信管理、信用調査に信用貸し、株式信用取引に信用創造…
信用や信頼なんて言葉を使うからややこしかったり勘違いしたりするのだ。
だからこれからは「信用」なんて言わず「期待」と言おう。
期待に傷つく、期待を損なう、期待関係に期待(値)管理、期待(値)調査に期待貸し、株式期待取引に期待創造…
信頼に傷がついたり損なったりするとヘビーな感じがするけれど、期待に傷がついたところで屁でもないし、期待を損なったところで「ごめんね~」ぐらいの軽みが出てきませんか?期待を裏切っているのでそれほどの軽みはないか…。
期待はライトでヘビー級な信用
「信用」を「期待」とした方が信用が(少し損なわれて)よりライトなものとなり、より意図した通り期待した通り、より実測・実感・経験に近く、より正しく世相を映したライトなものになる気がするのですよ。
これまでがあまりに「信用」に信用・信頼を寄せすぎ、多用・乱用しすぎているきらいがあって、当世、この浮世がなんだか気持ち悪く居心地が悪い感じがするのです。
社会は信用よりも期待でなりたっているのではないかとおもいます。
経済はその傾向がよりいっそう強いようにおもいます。
この国は来年もあるからこのお金は来年も価値を保持していられる。
お金を貸すのもそのひと(の返済能力)を信用しているからというよりも(利息付きで)返済される公算が高いと見込んでいるから、期待しているから。
「信用度」ではなく「期待値」と言ってしまえばいい。そのほうがよりドライでドラスティックな分、メンタル傷つけられる度合いと頻度が減るのではないかとおもうのですが…いかがですか?
「あなたには信用がない」と言われるより「あなたには期待がもてない」と言われるほうがまだましな気がする。
「信用がない」と言われると「(まだほんの2、3度あっただけでわたしの性格も内面も知らない)あなたに私のなにがわかるの!」と怒りを覚えること度々なのに対して「期待がない」と言われると「(実績も後ろ盾も、保険も担保も、若さも学歴もないから)ですよね~」となりませんか?
受け取り方はひとそれぞれかな?
でも、「期待」は「信用」ほど人格を傷つけない感じがするのです個人的には。
待望の神
神の神たるゆえん、それは実際に神であるかどうか(真実性・事実性)ということ以上に神であると信じられているかどうか(信仰・信頼・依存)にかかっている。と、罰当たりにもおもっています。
神の実在性を証明することはできないけれど、それを神であるとみなし信じることはできる。信者にはそれで十分。実在性も証明済みの事柄であり、間違いなく疑う余地なく確実に存在している。そして実際にそうである。唯名論的にはすでにQ.E.D.。証明不可能でも「おるもんはおんねやもん」と言い切られれば、少なくともそのひとの概念として(そういう❝形❞をとって)いてはるのです。
ゆえに神の神たるゆえんは信じられているかどうか。
こうして神と信者とは対等とも共依存関係であるともいえるかとおもいます。
すると神の新たな❝人物像❞が浮かび上がっては来はしないでしょうか。
つまり❝情報❞としての神。
神は従来考えられていたような創造主、世界や生物を生み出した存在なのではなく(正確には、そのような神の存在はたとえ神自身であっても証明不可能であるため考察対象外として…)信仰心が生み出す概念という情報としての神、振動としての神、振動する神、わたしたち振動するものと同じ地平に属する地続きの存在、信用されている神、期待された神、期待されている神という姿が浮かび上がっては来はしないでしょうか神だけに。
振動の美学
心震わす振動=感動
日本では「センスがある・ない」と言うとき、それは多くの場合「才能の有無」についての言及だったりしますが、英語のsenseは才能というより感覚のこと。才能はsenseというよりtalentのこと。
なにかを上手くできる ー 例えばスポーツとか ー や審美眼があるというのはセンス、talent才能があるからというより、その事物と、なんというのか相性がいいというのか、感得できるというのか、sense感覚が開いているというのか、…なにかそういうことなのではないかとおもうのです。
その何かわからないけれども感じ取っている何かというのは❝振動❞であり、震え震わされているその状況・状態が❝共振❞であり感動する・させるということなのではないかとおもうのです。
色や物、原子や光子は特有の振動をもっています。マクロなものもミクロなものも、森羅万象あらゆるものが振動し、個々特有の振動(波・振動数・振幅)をもっています。
ひとによって感動するもの、刺さる絵やビビッとくる曲が異なりますが、それはひともそれぞれ異なる振動をし、特有の振動をもっており、その振動とある対象の振動とが重なったとき ー 邂逅したとき ー いわば共振が起き、励起されて感性が働き、感覚が動かされて感動するのではないでしょうか。
するともしかしたら感動しているのは私たちだけではなく、そればかりか、対象の方もまた感動しているのかもしれませんね。そうだとしたらこれは互いに幸せなことで、もしかしたら感動という現象は偏愛でも執着でもなく、恋愛なのかもしれませんね。
※とはいえ自分が感動しているからといって常にその対象も感動しているとは限りません。でなければすべての片思いが無条件かつ自動的に相思相愛となりストーキング等の行為や心理をも肯定することになってしまうおそれがあります - 片方は恋の振動であっても他方は嫌悪や恐怖の振動であるかもしれないし、そういうことは往々にしてある - ので、その点をここで注意し強く否定しておきます。
絵画のきらめき
例えば印象派の絵画。
近くで見ると赤や青の割と独立した点々の数々が見えます。赤には赤の、青には青の、その色特有の周波数・振動(数)があります - ここで「割と」と但し書きしたのは、赤い点の下には黄色い点が塗られていたり、赤い点にちょっとだけ緑色が混ざっていたりするからです - 。
このような割と単色で赤色の波長や重ね塗りされた点々の数々、その色や場面、構成の発する振動に感動することも、またはそのようなひともいることでしょう。
ただしこちら - 色そのものに感動すること等 - は少数派でしょう。
印象派絵画の鑑賞法のボリシェヴィキたる定石は、やはり少し離れたところからの鑑賞。
ということで一歩、二歩、三歩…とほどよいところまで下がって見てみますと、昆虫の複眼で見た世界かと見紛うような点々だけの世界だったものが、輪郭を現し、形をなして立ち現れ、世界が励起してきます。
自らがほんの少し動いてみるとより起こりやすい現象ですが、静止しているはずの絵の中の景色が時に光きらめき、往々にして水面が揺らめき、人々が遠くで会話を楽しんでいる声が聞こえてきます(ここで私は特にモネの「ラ・グルヌイエール」を思い浮かべています)。
それ(点々の集まりに輪郭や揺らめき、煌めきをみること)は錯覚なのですが、確かにそこには静止画以上のもの、時間や変化、動きや息吹が今現在、描かれた過去から隔たってはいても実際にこの場に立ち現れてくる現実。この現象、この絵に心動かされて感動します ー 私はここに絵画の気概を見る気がするものです。つまり写真や複製品にはできない、(肉筆)絵画でなければできない表現を現すこと。抽象化や具象化、再構築に脱構築、誇張や省略、キュビスムにマニエリスムなどなどナドナドーナ~♪ - 。
同じ対象であっても近くで見たときと遠くで見たときとでは印象や感動の度合いが変わることがあります。それは赤方偏移のように遠ざかれば波長が伸びてより赤みを帯びて見えるように、振動数が変わるがために起こる現象ともいえるのかもしれませんね。
…と、まあ、このように、絵画において感動を誘引する主たる要素は色のもつ波長だけにかぎらず - むしろそれに反応するひとはマイナーであって - 、その画面全体の発する波長(構図や場面構成といわれるもの)やそこに駆使されている技巧や作者の意図といったおよそ波長や振動数といった数値変換できそうにないものも❝振動・波長❞をもち、ひとの感情を震わせ感動させる。
そしてまたひとそれぞれ好みがあり感動ポイントも異なる。そればかりか同じ対象、おなじ絵画であっても見る角度、物理的にであっても精神的にであっても、鑑賞時の距離(感)やそのときの鑑賞者の感情、状況、精神状態によっても感情の震える度合いや反応の仕方が異なる - これを鼻につく言い方をすると「感動には波動の個別選好性や動的浸潤性がある」といったところでしょうか。要はひとには波長の好みや見え方、感じ方が違うってだけのことですけれどね - 。
情報の振幅が加える心服
絵画よりもより想像しやすいのは音楽でしょう。
和音に心奪われるひともいれば旋律に心惹かれるひともいるでしょう。
物語に感動したり、またそれによって感服を増強されることもあるでしょう。
すなわち、その作品が生まれた時代背景や作者の心理状況、制作秘話や所有の来歴等々。
こういった作品そのもの、それ単体の評価や価値とは直接関係しないであろうはずの種々の要素もまた、人により、時により、関心感服を増幅することもあることでしょう。
これは色や原子といった、それ自体が振幅をもつものではない物語や知識、記憶といった情報にも、カタチは違えど振幅はあるということではないでしょうか。
「情報」という言葉は実に便利な言葉で、色の振動数や光の波長も、量子の相互作用も(色)情報と言われますし、個人的には、わかりづらい話のキーワードを「情報」という言葉で置き換えると理解が進んだり新たな知見が得られたりすることがあったりします。
またこれが違和感なく置換できることが多く、その点からも「情報」の利便性と汎用性が窺われます。
「情報」という語はあまりに万能で汎用性が高いがために本質的になにも表していない、表せないということもありますが…。
波及する波紋
連成振り子は、はじめ各々バラバラに振れていた振り子がやがて同じ周期で振れるようになったり、申し合わせたかのように連動してくねくねと蛇行して見えたり、そしてまた各々バラバラに振れるようになったりする振り子です。
強く振動するものは他の振動の影響を受けることよりもむしろ周囲に影響を与えることになるでしょう。とはいえ、弱い振動が強い振動へと影響を与えることはない、ということではありません。弱い振動であっても長い年月の間に徐々に強い振動を変動させることもあるでしょうし、あるタイミングでは同調して変調させることもあるでしょう。振り子のように。
感情や感動は波及することがあります。隣で映画を見て泣いているのを見てもらい泣き。合唱や合奏でユニゾンやハモったりして演者ばかりか観客もトリハダものの感動空間出現。
振動であればこそ共鳴共振増強増幅、波紋のように波及伝播する性質をもっているのかもしれませんね。
共振の導く狂信
振幅の大きさや振動数の多さといったものが、その作品のもつ謂わば「強さ」のことで、影響力や評価、価値を与え与えられるのでしょう。
このように振動というのは、その強弱・振幅や高低・振動数に関わらず変わることがあります。というのも、たとえば、意見のまったく合わない正反対の性格の人同士が仲が良かったり惹かれ合ったりし合うことがあるのは、互いに互いを他の人よりもより震わせ合うがために、それを「気が合う」とか「刺激を受ける」と言い表し評価して感得し合っている関係にあるのかもしれません。
政治姿勢や宗教について頑なに否定していたひとでも後に転向してしまうことがあるのも、共振によるものなのかもしれません。
宗教について否定的であるばかりか強い嫌悪感すら抱いていたひとがルルドの泉で姪の視力が回復したというような奇跡を目の当たりにしたり、九死に一生を得るような体験を経たり、お告げ通りにしたら宝くじが当選したり、洗脳されたり、別段なにもなかったり…、いずれにせよ後にそれまでの信条が180度回転して狂信者へと転回転向することがあるのも共振の為せる技なのかもしれません。
入信や宗旨変えしやすいのは弱っているとき、つまり振幅・振動数が弱っているときでしょう。
弱い振動は強い振動に影響を受けやすいことでしょう。少なくとも弱い振動よりは。
反対に、強い振動は弱い振動に影響を与えやすいでしょう。少なくとも弱い振動よりも。
教祖や指導者にはカリスマがあるといわれますが、そのカリスマというのは強い振動のことで、強振動を言い換えたものと同義なのでしょう。
振幅の大きなものは小さなものに比べてより広範囲に届き影響を与えやすいことでしょう。また、振動数の多いものは少ないものに比べて壁などの障壁・フィルターを性質を変えはしてもより広範囲に届き影響を与えやすいことでしょう。
増幅器を介してより遠くまで届けられたり、変圧・変調器を通して歪曲・加工して伝えられることもあるでしょう。
ここで挙げた障壁や増幅器は比喩であって、メディアや広報官といった宣伝・喧伝者、友人・知人や関係者といったひとづて - 伝言ゲーム - といったことなどの比喩であったりします。
美学とは相当に話がそれてしまいましたが、❝振動世界❞からみた美学と宗教にはそれほどの隔たりはないのではないかとおもいます。
宗教画は絵画の世界ではながらく至高のもの、最上のジャンルでした。またさまざまな記号を創出し、民衆を心酔させる舞台を生み出し、歓喜の歌で感動を喚起してきました。プロパガンダ、煽動や誘導に使われてきたこと、またそのために抑圧されてきた(美術)表現や文化、人(格)があったということは否めませんが、それでも、そこを含めて美術と宗教との距離は近接したものです。
同名同士の共鳴 - ハルモニア
死の間際にあるひとがあらゆるものに美を見出し感動することがあるのも自らの振幅・振動数が極端に低下しているがために他からの振動に影響を受けやすく、かといって衰弱しているために全身を快方へと導くとまでは至らず、その一部を震わされるために起きやすい現象であるのかもしれません。
死期が近づいたひとには、それまではなんでもなかったこと、些細なこと、日常的なことであっても美しく見えたり感動するということがあります。
またそれまでは嫌悪感を抱いていたり - 例えばネズミやゴキブリなど - 嫌いなもの - 例えば食べ物など - 、憎しみや悲しみ、汚いと思っていたもの - 例えば泥汚れや汚物(そこに生活感や生命力を感じたりしてね) - や醜く見えていたもの - 例えば枯れた花やブサイクなものなど - など、ポジティブどころか中立中性のゼロでもなく、ネガティブであったものでさえポジティブに、美しいとさえ思え感動することがあります。とすると、感動には(本質的には)美醜はないということでしょう。
美しさも醜さもあらゆるものが振動であるのならば、それはひとそれぞれの感覚・主観であるとともに、すべてが地続きの物理的・客観的なものでもあるという、相対するものが和合した矛盾しつつも無矛盾で整合な世界が広がって見えます。
すると本質的には美醜は相対するもの、対概念なのではなく同じ地平にある地続きのものなのではないでしょうか。
そしてまた、モノだけでなく情報といったものにも感動するということは ー ここでおおきく一歩、跳躍しま~すっ ー 感動には美醜のみならず善悪もなく、善悪にもまた美醜も善悪もないのです。 ← ちょっとなに言ってるかわかりませんね。
こうして調和・ハーモニーの世界・ハルモニアが広がります。
…と、振幅の美学に心服してしまっているものの戯言よ。
最後に、 - もう覚えてはおられないでしょうが、はじめにもどりまして… - sence感覚は振幅、振動数を感知する鋭敏さ、talent才能はある事物との相性の良さ、周波数、感受性、共感、共振のしやすさと関わるものなのかもしれませんね。
今回は文中に「-(文)-」を多用してニーチェばりに読みづらくなってしまいました…
不老不死に勝る自由
充溢した力が謀る願望
古代より絶大な権力を手にした為政者は、ゆるがぬ力を得たその上で、または、それに次いで、不老不死を求めました。
では、不老不死を求める土台となっているもの、その第一義、その前提となっているものはなにかといえば、それは、思うがまま、我がまま、願えば叶う自在の境地、つまりは自由(自在)。
しかしひとは力に満ち足りていると、そのこと - 自由は不老不死に勝るということ - を見逃しがちになる。
顚倒する願い
不死であっても病や怪我などによって体が蝕まれて激痛とともに生きていかなければならないとしたらどうでしょう。
仮に病や傷を負っても痛みはコントロールでき - 痛みをなくしてしまうと辛味や触覚を失ってしまうかもしれないから - 損傷は傷跡も残さず元通りにもなる不老不死であったとしても、生涯、牢獄や、まったくなにも見えない暗闇、または光の中に閉じ込められたり、身体拘束されたままであるとしたらどうでしょう。
「汝に不老不死を与えよう」と言われて有頂天になるひともいるでしょうが、続けて「……ただしこの監獄からは逃れられない」と言われたら、どんなひとでもきっと天頂から絶望の淵へと転落することでしょう。
不老不死でも負った傷は元には戻らないだとか、痛みは自分で調整できないだとか、身体拘束されたままだとか、自在の境地、自由でなければ不老不死は不運不幸な最悪な災厄でしかないことでしょう -知能、思考能力がないのであればその限りではない…と思われる - 。
希望からの脱退
すると、意志してそうするひともいるでしょうし、意志せずともそうなるひともいるでしょうが、いずれはやがて何人も何も考えず何もしない、無気力となることでしょう - 無気力:回避困難なストレス下にながく置かれたり(関連ワード:オペラント条件付け、学習性無力感、セリグマン などなど)、反対に生活に不自由せずある程度願望が叶ってしまう状況がながく続くとひとは無気力となるようです。重度の中毒者がそれにしか興味を示さず、他のことには無関心・無意欲で無気力に見える・となるのに似ているかもしれない。(ほぼ)そのことしか考えておらず、禁断症状のひどいものともなると、それができるのなら「死んでもいい」と、時に漠然と、時に本気で思ってしまうほどの無気力を(ともなった感情を)示すことがある -。
このような永遠の不自由の中では、唯一残された自由は、このような状態だけなのかもしれない。つまり、不自由(な不老不死の状態)から逃れるには、悟りを開いて解脱するぐらいしか…。
悟りを開いて解脱。
それがどういうものなのかはわかりませんが、推測するにそれは、考えるとも考えないような状態、座禅や瞑想の究極の境地、面壁九年どころか面壁永遠、不自由な不老不死に耐えるには、またはそのような状態から救われるには究極の泰然自若、ただあるだけの状態、要は知力を捨ててしまうしかないのかもしれない。
自由自在な願い
不老不死を第一に求めるひとは見誤っている。
それは第二義的なものであって自由自在こそが第一義であることを。
あるいはまた不老不死とは自由自在の範疇にあるもので、自由こそが大願であり、より大きな野望であることを。
この錯覚は絶大な力が見せる幻覚であるともいえます。
もうすでに自由自在であるのだから、次に求めるのは不老不死。
生老病死を操ることも、それから逃れることもできないにも関わらず自分は自由自在であると。
みな不老不死よりも自由を求めている。
自由あってこその不老不死。
不老不死も自由。
より正確には自在な自由の一種。
ゆえにひとの求める至高の願いは、自由。
自由に勝る願いなし。
不老不死の夢を見せる自由
若かりし頃、不老不死を願ったひともいるでしょう。
きっとそれは力が充溢していたから。
力みなぎりまだ「衰え」を知らなかったあまりに自由に不自由しなかったあのときの夢。
若かりし頃、困苦のなかを生きていたひとは、そのとき不老不死を願うことはないでしょう。
なぜなら、そのとき、現状に不満足だから。
「今」が今すぐなくなるように、「今」がもう終わり続かないようにと願っていたでしょうから。
もしかしたらそんな困窮の日々があまりにもながく続いてしまったから、もうすでに「願う」ことすら失って無気力・無力感のなかを生きてきたのかもしれない(し、今もそうなのかもしれない)し、願っている暇も余裕もなく生活に追われていたのかもしれない。
自由の指標…?
すると翻って、若かりし頃、不老不死を願ったことのあるひとというのは、無自覚にも自らが思っている以上に当時は自由であったのかもしれない。
「いやいやそんなことはない。親の躾が厳しくて…」とか思っているひとでも、不自由で雁字搦めになるほどの過度な躾であったのなら、そのとき不老不死をおもうことはなかったでしょう。「親が死んだ後で好き放題やってやるために不老不死を願うんだっ!」といったような選択的生存戦略をおもったりなんかしていなければね。
不老不死を願うことは力の充足具合を測るひとつのゆる~い指標なのかも、またはゆる~い指標になるかもしれないね。
ところで…
あなたは不老不死を願ったことがありますか?
それはいつですか?
そのときあなたは自由でしたか?
今 、 あなたは不老不死を願いますか?