あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

「普通」の純度

普通ではない普通

 「普通」というのは辞書的な言い方をすればありふれたもの、広く一般的であることを意味しますが、要は平均や多数派ということ。

 でもその「普通」の純度を上げてゆくと(詭弁ではありますが)平均からかけ離れてゆき少数派となり普通ではなくなってゆきます。

 というのも、たとえば、たくさんのひとの顔を掛け合わせて平均顔をつくると左右対称で黄金比に近い均整の取れたいわゆるイケメンができあがるそうですが、このような平均顔はそんじょそこらにはおらず多数派でも平均でもありません。これではイケメンの希少性が崩壊してしまいます。いや、崩壊して飽和してくれた方がうれしいのですが、おそらくそのときにはイケメン定義も変わっているでしょう。

 

 これはなにも”平均”に限らず”中央値”だとしても事態はそれほど変わらないのではないかと思います。(これも詭弁ですが)「中央」の純度を上げていっても中央からは離れてゆき少数派となるでしょうから。

 

 もうお気づきのことでしょうが、ここで言う「純度を上げる」というのは平均中の平均、1つの平均を特定することでも中央中の中央、真の中央についてのことではなく、いろいろな中央の足し合わせ、様々な平均の掛け合わせの産物(確率や割合の掛け算のようなもの)で、であるから詭弁であるとも言っているのです。

 

進学することが普通

結婚することが普通

○○することが普通

 

 ひとつひとつは確かに”現代においては”平均ですし普通なのかもしれませんが、平均を寄せ集めたもの、普通の複合体・集合体、普通の集積物は普通ではありません。

 

「普通」は不変ではない

 平均や中央値は時代によってブレます。

 これはただなんとなくの個人的な感覚なのですが、世の中に浸透して「普通」化するのに3年、定着して不変視される期間が30年ほどなのではないかとおもいます。

 だからたいてい世代間で普通の認識にズレがおきます。これまでも、これからも。

 

 ズレが生じないのはどちらかの「普通」認識が無意識・無自覚に修正・改新された結果だと考えられます。

というのも、その「普通」は昔から普通でしたか?

時代の風潮や経験などから「普通」概念に変化が起きていませんか?

昔は20代で結婚・出産することが「普通」だと思っていませんでしたか?

 

 たとえばパートナーが脱サラして開業したり子どもが高校や大学に進学しなかったり自らの健康が害されてしまったりして「普通」概念が揺さぶられた過去のあるひとは、その「普通」に変化が起きませんでしたか?これはまた往々にして気づかないものです。

 

※ ただこのような場合、「普通」意識に変化が起きるのではなく「これは普通ではない」と自己認識はできるのですが、そもそも「普通」であるのかどうかを意識する余裕がなかったり、気にもならないということがこれまた往々にしてあるので、「普通」概念が変わったとは言いづらいところがありますが…。

 

更新される普通

 インスタグラムが30年ほど”普通”であり続けられるかは疑わしいですが、インスタグラムが開発・リリースされたのが2010年、日本に上陸したのが2014年、「インスタ映え」が新語・流行語大賞を受賞したのが2017年。3年で日本の主に若年層でインスタグラムが普通化し、あと20年ほどは普通であり続けると聞かされると微妙ではあるけれどなくはないかなともおもえるでしょう?

 インスタグラムの例では「普通」の話題としては普通ではなく適さないので次の例です。

 

 「普通は…」と切り出される普通の話題で口論のタネとなりやすいのが進路と結婚でしょう。

 進路、まず高校進学についてですが、1950年代では高校進学率が60%を下回るので、高校進学はまだ普通だという感じはなく、1960年代に80%ほど、1970年代に90%となり、このあたりから高校進学は普通となりました。

 

 続いて大学。1970年代の大学進学率は20%台。1990年代で30%台、2000年代で50%を超えてしばらくすると、大学は選ばなければ入学できるという「大学全入時代」となり大学進学も普通となってきました。

 

 就業に関しては、1920年代に日本でサラリーマンが誕生したといわれ、1947年に労働基準法で1日8時間と定められ、1954年ごろに終身雇用が定着しましたが、1930年代は戦後恐慌やインフレ亢進などで不況期であったということもありサラリーマン没落時代ともいわれ、1940年代では農業従事者がまだ過半数弱を占めていたのでサラリーマンが普通と言うにはまだまだほど遠い状態でした。

 サラリーマンが普通化したのは産業構造が大きく変わり第1次産業と第2・3産業の就業者数が逆転した1960年以降のことです。

 

 ちなみに、3年以内離職率は2010年代ぐらいまでは概ね高卒者で4割、大卒者で3割を超えていたので「最近の若い者は忍耐力が…」という理屈には説得力の欠けるところがあります。

 

常態化する異常な「普通」

 日本では1947年に1日8時間労働と定められはしたものの、いつの時代もできるだけ働かせたい資本家・雇用主の思惑もあり残業は常態化したままでした。ゆえに、誤った認識ではあるものの「定時で帰れる公務員」や「定時上がりの銀行員」というイメージが定着して揶揄されたり羨望されたりしました。

 公務員といってもさまざまな職種がありますが、ここで言われる公務員はたいてい市役所職員が念頭にあげられていました。市役所職員や教職員、銀行員はひとや仕事やお金が向こうからやってくる初期のころは比較的定時に帰れていたでしょう。

 しかしそれもせいぜいが1990年ころまでのこと。

 

 1950年代から1990年ころまでの間にあった高度経済成長やバブル景気の影響もあり、働かせたい雇用主と断りづらいということも大いにありましたがもっと稼ぎたいと志向する労働者の思惑がある程度重なり日本の残業ありき体質は深刻化してゆきます。

 象徴的なのが1989年に新語・流行語大賞にランクインした「24時間戦えますか」のフレーズ。ちなみに大賞は「セクシャル・ハラスメント」。つまりセクハラ問題も90年ころには深刻化しすでに沸点に達していました。

 

 残念なことに「24時間戦えますか」が長時間労働の終着駅ではありませんでした。

 91年にバブルが崩壊すると土地を転がし遊んでいたひとたちのツケを払わされ、戦後復興を引き合いに出されもして、今日の給料か明日の職場かを盾にしたサービス残業が急速に台頭してゆきました。

 長時間労働により心身に異常をきたして疲弊する生産年齢人口層。少子高齢化から超少子高齢化にまで深化して衰える国力。

 

 人口比からいってもこのまま残業ありき体質・長時間労働常態化が普通のまま居座るものと思われていたところ、止まらない超少子高齢化による人手不足や過労死の深刻化、自殺者の異常な多さなどにより皮肉にも改善しつつあります。

 この分水嶺、転換点は明らかに2015年の電通過労自殺にあります。過労死も種々の問題も以前よりあり問題視もされてはいましたが、世の流れ、空気が変わったのがこの一件です。

 多数派が普通ではなくなる稀な例です。

 

普通ではない「普通」

 進路に続いて結婚の普通についてみてみますと、初婚年齢は1980年代に徐々に20代後半が増えてゆき2000年ごろから30代が増えてゆき、またこのころから第1子出産年齢も30歳近くになりました。

 もっと簡単にいうと2、30年前は26歳で結婚して27歳で出産というのが普通でした。

 

 今はもろもろの「普通」がちょうど端境期を迎えているようで、結婚ということでいうと、親世代は20歳代で結婚・出産するのが普通だという認識をもっているひとが多そうなのに対し、その子世代では周りも30歳代で結婚・出産するひとが増えているのでそれを普通視していて世代間ギャップが生じやすくなっている感じです。

 また、その祖父母世代ともなると孫は4人ぐらいはいて、なんならそろそろひ孫の顔も拝めるだろう、それが普通だとおもっているひともいるでしょう。

 ただ、高齢者であっても時代の流れや変化は読めますから無意識・無自覚に認識は更新されて個人の「普通」概念も改められるので、そんなことは思いもしない、それは普通ではないと認識しているひとも少なくありません。

 

偏った普通

 ここで統計数字とイメージを合わせた世代別の偏見”普通像”を描いてみますと…

 

二昔前は2人に1人は転職経験のある高卒サラリーマン。父親は家事育児に参加しない企業戦士。

 

一昔前は20代で結婚・出産。大学新卒採用された企業で勤め上げ持家や車を所有するファミリー層。

 

現代は家事育児は協力型。30代で結婚や出産をするかもしれない若年期より資産運用を考えるデジタルネイティブ。

 

 これが正しいとも一般的な普通像だともおもいませんが、こうして書き出してみると普通像を描きづらい、つまりは”普通”の縛りが薄まっているようにおもわれます。

 というのもそれは、それだけ多様化が進み、その多様性を選べるようになってきたということもありますし、それだけ普通像というのは時代によって変容するのだということでもありまです。

 

 もうひとつ、論法としては全くの誤りですが試みに、現代日本のさまざまな平均を寄せ集めた普通もどきをつくってみましょう。

すると…

「30歳で結婚し子供が1人いる年収460万円の大卒48歳」

…というひとはいないわけではありませんが、年齢だけでもそうとう絞られるので、この条件を満たすひとは少数派の普通だけど普通ではないひとが抽出されます。

 

普通はむずかしい

 もっと簡略に考えてみましょう。

1~10のうち真ん中の5が普通だとすると普通の普通度は1割です。

それでは厳密すぎるから4~6までを普通とすると普通度は3割です。

普通はもう少しゆるいものだろうと3~7までを普通だとすると普通度は5割です。

 どこまでを普通とするのかは個人差や集団によって異なるでしょうけれども、3~7のややワイドレンジであっても半々でしかありません。

 

 「普通は…」と言われるとき普通はある1つの事柄についてだけ言及されます。たとえば婚期についてであれば年齢についてだけ、進路についてであれば職種や見込収入についてだけ論点とされます。

 このとき捨象されるその他たくさんの条件は異なるにも関わらず。

 

 普通はふつう普通が掛け合わされた普通の複合体が普通とみなされています。だから普通はむずかしい。1つの普通を満たすのは容易であったとしても、ふつう普通といわれている普通の条件を満たすのは至極困難なのです。

 

 「普通の暮らし」や「普通の恋愛」、「普通の学生」や「普通の親」、普通に様々あれど30過ぎたころ誰しも一度はつぶやき嘆息したであろう「普通はむずかしい」の構造はここにあるのです。

 

 つまり、生まれも育ちも異なるのに説き伏せようと持ち出す普通が一事でしかなく、普通はたいてい狭量だということです。

 

普通にあらがう

 ここまでみてきますと、おおよそ、だいたい30年ほどの風潮や慣習をもって「普通」と(たいていは無意識に認識して)言っていることが多いようです。

30年て、普通にしては普通の賞味期限て案外みじかいとはおもいませんか?

30年程度で新陳代謝する普通なら時には自己都合で無視してみてもいいんじゃない?

 とくに進路に悩む若者に言いたいのは、「普通」という呪詛に惑わされないようにねってこと。

 

 異文化や異世界に飛び込むと普通概念ゆさぶられて普通を見直すよい機会になりますよ。

すべてが推しになる

○○女子や○○系男子

これまである種のひとびとをくくる言葉が数限りなく生み出されてきましたが”推し”ほどその適用範囲の広いものはなかったのではないでしょうか

 

はじめはアイドルやアニメのキャラクターなどを対象として使われていたのが今や人工物や食べ物などもせっそうなく推し領域に取り込まれて一般語化して平準化されつつあります

 

つまりは”推し”という言葉が推している主体やその対象の深度や濃度に関わりなくすべからく”推し”の一語に押し込められてすでに陳腐の影が迫り始めています

(あるいはそうなるのはおよそ7年半後かもしれない)

そのときにはまたあらたな語が発明されてあてがわれるだけのことなのですが今のところもうしばらくはアニメもアイドルも政治でも宗教でさえもみんなみんなすべて推し活

 

なんの意味もない

有名人や偉人などあるひとを推すというのは人格もあり姿形もあって目に見えるので最もわかりやすくいうなれば推しの第一形態

 

キャラクターのように疑似的な人格(想像上であったり妄想の中であったり設定であったり)を持ち2次元ではあれ(人間も3次元ではないかもしれないし人間の生きている次元は二桁かもしれないのだけれど)姿形をとるものは推しの第二形態ないし第二・五形態

 

食べ物や建造物や施設なんかは実体はあるけれど人格はなく

企業やサービスなんかは実像を結ぶことはないけれど疑似的にではあれ法人格や理念の投影や理想の投射物としての人格をもっているとみなされることがあります

どちらが三でどちらが四でもいいですがこれらがいわば推しの第三形態であり第四形態

 

この流れで推しの第五形態というものがあるとしたらそれは人格も実体もともなわない政治や宗教といったところでしょうか

 

……

ここまでくるともう苦しい

分類するのが苦しく振り分けることじたい無理がある

人格や実体がなくとも勝手にキャラクター化してしまえばすべて第二形態に収束つまりなんの意味もないどころかただの誤りたんなる過ち

 

推しと自由

推しという言葉が汎用性をもっているのはそもそも推しというのは好むということだから

好むだけでは言葉が弱いと思うのであれば熱愛や偏愛の同義語や言い換えといってもよいでしょう

 

推し活がやや過剰になるとマニアや信奉者となり

さらに進むとオタクや原理主義者はたまた狂信者となります

いくところまでいくとみずからを神格化したり教えや組織を興したりなんかして神や指導者と呼ばれたり過激派となることもあるでしょう

 

あるものが偏愛を生み

その偏愛が新たな世界を創造して

そしてまた異なる偏愛が生まれる

こうして推し活が世界を巡り世界となってゆく

 

政治や宗教も極論なにを好むかということ

それに推しを神と呼んだり「尊い」と発してみたり結婚式を挙げてみたり投げ銭したり祈ったり投票したりと推し活と政経にさほどちがいはない

 

ひとは誰しもなにかしらの推し活をしている

無自覚にも推し活に巻き込まれているとも無意識にも推し活に組み込まれているともいえる

ひとはみな推し活の刑に処されているのだ

こういうと推し活は自由とつながる

推し活は自由だ

作者:加藤タカシ  引用:キリヌケ成層圏

日本のデフレは財務省の緊縮増税教理と共にある

 近頃日本の政経関連の新書をいくつか読んでいて大変なやましいこととなっています。というのも著者によって評価が大きくわかれる事柄があるからです。それは安倍内閣というよりは安倍晋三元首相の政治的姿勢・思考と民主党政権についてです。

 

日本デフレ期概略

 安倍政権と民主党政権はときに対比されて取り上げられていますが、その評価は著者によってまちまちではあるものの、その可否ははっきりと表明されています。「安倍政権はよかった・民主党政権はわるかった」「安倍政権はわるかった・民主党政権はわるかった」「安倍政権も民主党政権もわるかった」と各著者三様の見解がみられますが「安倍政権も民主党政権もよかった」という意見だけはありません。

 こうなってくると政治経済にうといものには混乱をきたすばかりで評価のしようも意見の持ちようも難しくなり、猜疑心ばかりが強まります。

 

 意見の食い違いとともに際立ってくるのが、論拠資料の質量や論証の程度に差はあれど、共通項・共通認識となっているところです。要は各論者の主張の違いにではなく同内容を抽出してみれば、事実とまではいかないまでも的を外しはしないのではないかと思ったのです。

 

 早速、各著者の主張で共通しているところを大まかに抽出してみると…

  • バブルがはじける
  • 橋本龍太郎政権下の緊縮財政政策より健全財政主義と呼ばれた財政均衡主義が始まり日本の長いデフレ期がスタートする。消費税率を5%へと引き上げる。
  • 小泉純一郎内閣の竹中平蔵大臣により基礎的財政収支の健全化(PB黒字化)という思想が持ち込まれる
  • 野田佳彦政権下において任期中に首相の財政政策についての思考が突如転向する
  • 種々の発言、歳入庁を創設しようとしたり内閣人事局を設置する等々により財務省への抵抗姿勢を見せた安倍晋三政権ではあったけれど第二次安倍内閣において消費税率が8%、後に10%へと引上げられる
  • 岸田文雄内閣は安倍さんが矯正しようと試みた財政至上主義からの脱却という路線から脱却して元の歪んだ道へと舗装し直している

…といったところです。

 

 これをさらにざっくり言うと…『緊縮増税路線からデフレ爆誕。PB黒字化思想で拍車をかける。これに並走してきたのが消費税増税』。

 

財務省+経済学=緊縮増税教→デフレーション

 野田さんの思想転向は財務省の洗脳によるもので安倍さんの消費税増税は財務省に抗しきれなかったためだといった主張もちらほらみられました。このようなちらほらのなかでさえ常に現れる「財務省」の三文字。

 どうも諸悪の根源は財政均衡主義を信奉しPB黒字化目標を打ち立てて邁進してきた財務省のようです。

 本のタイトルでも財務省を批判するものが割と目につきます。

 

 時期や状況におかまいなしに緊縮増税インフレ怖い一辺倒の弾力性のない不気味で独特な経済理論を構築しているようです。

 理論や数字を至上として実情や実社会を論拠や根拠薄弱な曖昧で不確かなものだと軽視する本末転倒をみせる頭のよい愚か者となっているようです。

 純粋な理論を全うするために現実は外れ値程度に捉えて実験結果を理論に沿うように歪曲または改ざん・捏造しているようなもので、純粋も度が過ぎれば気色悪く純真も行き過ぎれば甚だ迷惑なものです。

 日清・日露戦争時の脚気対応のように東大閥のエリート官僚は同じ轍を踏むつもりなのでしょうか。

 

 自国通貨建て国債において(中央銀行に買い取らせればいいだけなので)デフォルトはありえない。これは財務省も海外の格付け会社宛書面においても主張していることで、わかっていてなおPB黒字化を主張するのではただの盲信者なのか工作員なのかわからない。

 

 財務省といっても省内勢力は東京大学法学部卒が握るもので、知縁や学閥で後進を取り立てて盤石の権勢を築いているようです。また緊縮や増税、たとえ世論や国益などに反してはいても省益に適った行いをした者は出世するという歪んだ省内文化があります。

 

 経済学部出身だからといって経済通であるとは限らず、また反対に専門教育を受けていなくとも経済感覚の鋭敏であった先人もいたのですから「法学部卒の経済素人」という誹りは一概には言えないと思います。

 

 しかし、財務省批判や糾弾する声を天下りや財務省外局の国税庁、そしてまたその管轄下にある国税局、税務署を通してメディア等に婉曲な圧力をかけて思想統制に及ぶのであれば単なる狂信者にすぎないでしょう。

 

 新自由主義やPB黒字化などの理論や思想を至上のものとして盲信する姿勢はもはや狂信者。しかしていくつかの経済理論・思想は確立された学問や科学でも対応策や処方箋を示すことがないばかりか毒となり、反面、信者にだけは救いの光とみえる宗教となっています。この点が宗教なのです。もはや経済学ではありません。

 

 過度な円安では日本企業が安く買い叩かれてしまいます。安く買い叩かれることも問題ですが買い尽されてしまうことが問題の本質です。安く買い取らせて国力の低下を図る行いは売国に等しい。自分たちだけがよければよいというのは行き過ぎた個人主義ですし、新自由主義の教理に任せているというのでは責任転嫁した放任主義か一周回って思考停止した教条主義といったところでしょう。

 

 自分たちの生活には変わりがない(ばかりかむしろ地位がやや下がるため)から単に想像できない・しないためにわからないのか、新自由主義や財政均衡主義の熱烈信奉者なのか、徴税を国民支配の道具とするために意図的にPB黒字化を唱道しているのか、純朴無関心なclownなのか純真狂信クラウンなのか権謀術数crownなのか、はたまたその複雑複合共存組織なのか、極めてかしこ集団であるがゆえに真相は闇の中。

 

 道路族や自民一党優位も財務省一強に比べれば多少はましなのではないかと思わされました。もうこうなると誰の発言も鵜呑みにはできなくなってきます。「財政の健全化」という言葉も素直に聞けば今はPB黒字化のことを言っているのですが、穿ってみれば「PB黒字化なんてものはある程度無視して実社会の状況を鑑みて健常な経済政策を行う」と明言してしまっては財務省に目をつけられて危ういので首相就任までは濁した言い方をしているのかもしれないと考えてしまいます。

 

 強権盤石な財務省一強体制に対して国民ができることは財務省を不人気職へと世の雰囲気なんかで貶めてその力を削いでゆくぐらいのものではないでしょうか。そのためにはまずは”知る”ことなのでしょうが、それがまたむずかしい。

 

 論拠も筋も資料もみやすかったのがこちらです。

日本経済 失敗の本質

財務省が日本を滅ぼす

 本書では他にもこのような興味深いこともいわれています。

  • 少子高齢化社会において若者四人で一人の高齢者を支えるというのは介護費用の負担といったお金の問題ではなく実際にケアする、介護にかかわる人員の問題なのだ。
  • 消費税は間接税ではなく第二の法人税ないし付加価値税であるがゆえに直接税である。
  • 国債(国庫債券)の償還ルールを設けているのは日本ぐらいのものだ。