中臣鎌足 諸賞流 - Wikipedia
遊びをなくす
古武術では「居つかない」「力まない」「踏ん張らない」と言う一方で「つなげる」「遊びをなくす」またはより直裁に「固める」「ロックする」というように、逆のことを言っているようなところがあります。
しかし、これも脱力ということを軸に考えると「居つかない」「力まない」「踏ん張らない」はそのままなのでいいとして、「つなげる」「遊びをなくす」というのは脱力することで一塊とする、たとえば腰と背中があるのではなく上体がある、たとえば手と腕があるのではなく前腕があるといったように、境をもつ別の部位と捉えるのではなく一塊と認識することがさながら「固める」「ロックする」ということに似た状態になるということを言い表しているのでしょう。
そしてさらにここから、古武術で言われる「ひねらない」「ねじならない」という戒めも導き出されます。つまりは、一塊で結節点・接合面、境があるわけではないので捻りようも捩じりようもなく、そうすべきではないということではないでしょうか。
塵手水の効果
古武術講座で指の形や塵手水によって体の遊びをなくし、効率的で大きな力が出せるということを教わりました。
塵手水は、それをやるとなぜ強くなるのかは解明されていないのですが、その手順が骨や関節の位置を調整して力の損耗を減じているようです。というのも、もみ手をするとき、はじめに右手を上、次いで左手を上にするのですが、これをはじめに左手を上、次いで右手を上、と、もみ手をする順番を変えるだけで効果が逆転、つまり、正順では強くなるのですが、逆順では弱くなるからです。
正順の塵手水の後にひとから押されても耐えられるのですが、逆順の塵手水の後にひとから押されると簡単にたたらを踏まされてしまいます。
骨で立って脱力でつながる
全身をつなげるというのは、たとえば物を持ち上げるときに腕や肩の筋肉だけではなく、体全体の筋肉を使うようなものなのですが、体全体の筋肉を意識することはできません。なので反対に、筋肉への意識をなくします。
とはいえ、筋肉なしに立ったり歩いたりはできません。
武術の世界では「骨で立つ」と言われることがあるようですが、できるだけ筋肉を使わない、脱力するというのは、この、「骨で立つ」ということなのではないかとおもいます。
スポーツの世界で「地面から力をもらう」というと専ら”反発力”を意味することが多いのですが、武術の世界においては”反発力”を意味せず、言葉の通りのようです。
わたしはまだ「地面から力をもら」った感じをはっきりと感得したことはないのですが、塵手水をした後ひとに押されたとき、何やらその力が踵の辺りから抜けていくような、下肢の骨が棒のように伸びて地面に突き刺さっているような感覚はあり、また、その状態から相手を押したり、前へ進もうとしたとき、地面とつながったような感じはしました。
そしてそのとき、大地とつながる、地から気をもらうというのは全身脱力して骨で立っている状態のことではないかと思いました。
脱力不可能
全身を脱力または全身わずかな筋力で均一になっている、均整のとれている状態にし、と、そうすると床にべちゃっと突っ伏すこととなるので、そうならないように、とは言え筋力には頼らないとなると骨で、ロックバランシングのごとく11の臓器、206本の骨、600以上の筋肉、無数の神経と無量の体液のすべてがバランスする1点、この1点を体現できたときに感じる感覚のこと、ではないでしょうか。
骨で立つ、骨で支えるというのはそれを可能とする絶妙な姿勢、不可能なまでに複雑なバランスを要します。その上で「動いてください」と言われても、動こうと意識するだけでも、そうでなくとも動かずそのままでいようとしたところで、呼吸や拍動ひとつでも崩れてしまうほど繊細なために、一歩足を踏み出すことすらままなりません。
骨で立とうとすると微動だにできず、むしろ力んでしまいそうです。さらにこれで動くとなると不可能とも思える困難さですが、そうであるからこそ不可能とも思える力をはたらかせることができるのではないでしょうか。
骨で立って脱力することはあまりにも困難で不可能です。なのでここは、思い切って、骨で立つことを諦めます。諦めるといってもすべて諦めるということではなく、完璧を目指すことを諦めます。
いきなり達人の域に達することなどできないのですから、ざっくり、おおまかに近づいていけばいいのだとおもいます。そして、その方法が形や型、手順なのだとおもいます。
身体の緊緩理論(?)
身体をまとめる、つなげる、遊びをなくすというのは身体各部のバランスをとって骨で支えるのは難しいので、たとえば関節をロック(?)しめる(?)し、骨と骨をつなげてまとめるので、場合によっては可動域を狭めることになり窮屈になることもあるでしょうが、その塊同士のバランスをとる、または体全体を1つにまとめれば格段にバランスはとりやすくなるでしょう。
身体をつなげる方法の一つとして、手首や指の形によって骨や関節、健などをロック・固めてしまいます。すると指先から肩口ぐらいまでが窮屈な感じがするでしょうが、それで一塊となります。その影響が全身にまで及ぶことがありますのでそれで全身がつながったようになります。
具体的には、たとえば一例として、ものを持ち上げたり支えたりするとき、普通は手のひらが上に向くと思うのですが、これを反対に、手の甲が上に向くようにして使います。介助で上体を起こしてあげるようなときにも、手のひらを背に当てて起こすよりも、手の甲を背に当てて起こしてあげた方がお互い楽になります。このとき、腕で上体を起こそうとするよりも、腕の形はそのままに、自らの上体を傾けて、重心移動で起こしてあげるとさらに簡単にあがります。
運慶作の金剛力士像などを見ますと、指が反り返るほど開かれていたり、肘を挙げてはいますが肩口は上がっておらず窮屈さがありません。指の形や腕や股関節の内・外旋、趾の反りなどが全身をつなげる自然な必然を体現しているのかもしれませんね。
笑いの緊緩理論ならぬ身体の緊緩理論。またはキンコンカンの均衡感といったところでしょうか。
聞くところによると、この均衡感の先には、意識するだけで遊びをなくせるようになるのか、意識するだけで身体をつなげて筋力に頼らない大きな力を発揮することができるようになるようです。
現代人の一般人は脱力するにも意識を要するので、そう思うとそれほど不思議だとは思われませんね。
単調と繰返しの修行の成果が脱力
坐禅や阿字観などの修行法も目指すところは、終局、脱力の体得とその常態化なのかもしれません。
陸上競技などの練習法のひとつに、とにかく延々と走らせるという荒療治のようなものがあるようですが、延々と走っているとそのうち疲れてきて息も絶え絶えとなり、フォームも乱れて怪我のリスクも高まり、これには一体なんのメリットがあるのかよくわからないものですが、どうもその理屈は、あまりに大変な動作を繰り返していると自然と身体が効率のよい動きやフォームをとるようになるのだということのようです。
その真偽やそれにどれほどの有効性があるのか、わたしにはわかりませんが、坐禅や阿字観はこういうことなのかもしれません。つまり、毎日、いつ終わるともなく同じことを延々と繰り返し、その冗長と単調と鬱屈と苦痛の先に、それらを引き起こし呼び起こさない力の抜けた効率・効果的な姿勢・フォームへと導き、脱力へと至らせるのかもしれません。
あまりの退屈さになにも考えられなくなったり、または1つのことしか思い浮かべられない状態となり、そのために、この場合はいい意味で他のことが疎かとなり、脱力へと導かれるのかもしれません。
筋力キャンセル
古武術講座の先生は筋力トレーニングをきっぱりと否定することがなく、「いいんじゃない」というか「どっちでも、どうでもいいんじゃない」というニュアンスにも受け取れたのですが、それはおそらく、古武術では筋力は使わず、むしろ脱力するので、ボディビルダーのように脇が締まらなくなったりするなどして姿勢が極端に崩れないのであれば、多少筋肉ムキムキでも特段邪魔になるということもないからどっちでもいいということなのだとおもいます。
反対に、立ったり歩いたり姿勢を維持したりできないほど筋力がないというのでは古武術以前の話ですから、極端を避け、ほどほどの中道中肉中背が丁度よいのでしょう。
他にも、指先先行で動く、ということも教わりました。
スポーツの世界などでは、普通、効率よく速く強く動くためには体の中心から動くことや身体の芯を意識しなさいと言われるでしょう。古武術においても身体の幹を重視することもありますが、方法論の一つとして、身体の中心からは遠い指先から動くようにする、指先が身体の動きを誘導するように動く、というものがありました。
これをわたしなりに解釈しますと、指先を意識することで、身体の中心から指先までの間の意識をキャンセルしてしまう、指先に意識を向けることで間の意識を薄めることによって、間の脱力した動きを導く、ということなのではないかと考えました。
アーティスティックスイミングやフィギュアスケートなど「指先にまで神経が行き届いている」と表現され称賛されることのある競技がありますが、これは、身体だけでなく指先まで意識されている、というよりはもしかしたら、指先を意識しているために身体も意識されているようにみえるのかもしれません。
主客転倒しているというよりは、古武術では「体全体をつなげる」と言われることもありますから、そもそも主客の別がなく、部分が全体であり、全体が部分でもあるという、なにやら哲学的なものなのかもしれません。