あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

その絶望の理由を、まだわたしたちは知らない。

豊かで貧しい国ニッポン

 GDPやGNP、経済成長率など一般的な経済指標では日本は高位に位置しており、国土や人口に比してとても豊かな国…のようにみえる一方で、内閣府の意識調査や自殺率など、どちらかというとその原因が明確に数字として表れづらい感情や空気感によるものはワーストかそれに近いものばかりで、経済規模や他国からの印象に比してとても貧しい国のようにみえます。

 

 近年つとに「格差」や「貧困」という言葉が紙面を飾っています。

 世代間格差が叫ばれ「子供の貧困」「若年層貧困率」「ワーキングプア」「貧困女子」という言葉が踊る一方で真逆の「下流老人」「老人貧困」という言葉もおなじフロアで踊り、おなじステージで狂騒しております。

 

 いったい日本は豊かな国なのでしょうか?

 それとも貧しい国なのでしょうか?

 経済的に豊かな意志の貧しい国ということなのでしょうか?

 

豊かそうに見えるところ

 日本が豊かな国であると思われるのは、こんな材料が揃っているから。

 

 日本の歳入額はアメリカ、中国、ドイツに次いで世界第4位(2012・13年は2位)。

 GDPは名目・実質ともに世界第3位。

日本の経済 - 世界経済のネタ帳

 

 世界的にもそうなのですが、日本の家計金融資産も増加傾向にありますし、日経平均株価は1989年以来最高値を更新できないでいますが、時価総額は当時を凌いでいます。

日経平均株価ってよく聞くけど何?という初歩的な解説から、今、指摘されている問題点のまとめ。この機会に日経平均の仕組みを知ろう! - クレジットカードの読みもの

 これは基準として利用する指標により誤解・誤認を招きやすいということのもっともわかりやすい好例であることでしょう。

 情報産業が台頭するなかIT・ネットになじまないGDPを用いるのは、すくなくとも今のまま経済指標の主たるものとして使い続けるのは無理しかないんじゃあないのかなぁ〜?

 

 これは2013年の野村総合研究所(野村総研)の世帯別の資料からですが、日本の富裕層は101万世帯、純金融資産総額は241兆円なのだそうです。

 また世界的にも富裕層・超富裕層は増大傾向にあり、日本でもこの基調が続きミリオネアが増えていくと予測されています。

【PDF】Credit Suisse2015年度グローバル・ウェルス・レポート(プレスリリース)

 

 クレディ・スイスのグローバル・ウェルス・レポート2014・15によると日本のジニ係数は63%と世界的に見て所得格差の小さい国。

 また富の独占率(所得上位10%の人口の資産)は48.5%と、ベルギーに次いで世界第2位(50%を下回っているのは日本とベルギーのみ)と世界的には平等な国であるようです。

 富の独占率については2014年版のもう1つの方(?)に「富の不平等」という章があって、それが見やすかったのですが、この日本語訳されたPDFファイルをどこで拾ったのか?そのURLを忘れてしまい、かといってこのファイルをダウンロードできるように載せるのはグレーゾーンだと思うので、2015年版の方のURLだけ載せておきます。

【PDF】クレディ・スイス2015年10月リサーチ・インスティテュート

 

 このように数字を追っていくと「日本の経済わるくないじゃない」と思うところなのですが、なんなのでしょうどうしてなのでしょうこの閉塞感と停滞感は。

 

貧しそうに見えるところ

 次に、どうも日本は貧しい国なのではなかろうかと疑われる数字を追ってみます。

 

 名目GDPは世界第3位ですが…一人当たりの名目GDPとなると世界第26位。

 歳入額は世界第4位ですが…対GDP比の歳入では世界第62位。

 対GDP比の政府債務残高が世界1位の230%超え。(ちなみにベルギーはほぼ100%の第10位)

世界の政府総債務残高(対GDP比)ランキング - 世界経済のネタ帳

 

 世界的にみても日本の絶対貧困率は低いのですが相対貧困率が高い。なかでも子どもの貧困というのが自分より年少者の訃報を聞くのにちょっと似て、滅入ってしまうところ。

 

計り難きは格差かな

 日本の格差は世界的には小さいものではありますが、ただそれが全体で低位で小さいので問題となっております。

ピケティの教えで日本の格差問題を考えた | 知るんど

 中間層が崩壊して下方修正。

 消費者が育たず富裕層も頭打ち。

 

シェイブテイルさんのブログのコメント欄に

フォーブスの世界長者番付ですが、上位200人の中で日本人はたった3人しかランクインしてません。

世界で3番目の経済大国なんですがね。孫正義さんも世界の中じゃ小物の部類です。私は日本の格差がそこまで酷いとは思いません。

というものがありましたが、当のフォーブスの世界長者番付を眺めてみますと、

フォーブスの世界長者番付ですが、上位200人の中で中国人はたった12人しかランクインしてません。

世界で2番目の経済大国なんですがね。日本の人口は中国の人口の10分の1以下だというのにランクインしている人数は4分の1に留まっています。私は日本の格差がそこまで酷いと思います。(筆者によるパロディ)

 

 21世紀となってはじめの10年ほど、新内閣となり不良債権等の構造改革が功を奏しジニ係数は拡大していないと主張される当時の政府中枢におられた方の意見があります。

 これについては中間・低層の所得が底上げされたために格差の拡大を防げたのではなく、全体が下がったためなのではないかという指摘が当時よりされています。

 

 全体が下がるとき下はそれ以上下がりようがありませんが、上層にいる者ほど落差が大きく、全階層軒並み落ちたときに高層の者の下落率が高く、相対的に差が縮まりますものねぇ。それをジニ係数だけ取りあげてみると格差拡大を防げたという都合のよい観察が可能となるということなのではないですかねぇ?

 この期間、平均所得の格差は拡大しているようですから格差が拡大していないようにみえるデータを選択的にもちだして提示しているだけのことなのではないかなぁ。

 

絶望色した空気

 日本の自殺者数が下がってきているという報告がありますが、それでも24,000人を超えていて自殺率が世界的にみても高い水準にあります。

 しかもこの数値、すでに高水準ではありますが、どうも実態の数値とはかけ離れているようなのです。

 というのも遺書がない場合は変死・不審死となり、自殺として数えられないからです。

 そしてまたこの不審死の数が多いこと。以前より死因不明社会と揶揄されるほどです。

 

 日本の不審死は毎年15万を超えるともいわれますが、その統計数字が見当たりません。

 海堂尊さんはながらく死因不明社会に対して疑義を呈しておりますが、なぜかなかなか改善されません。

 自殺者数の統計数字に比べ変死・不審死の統計数字へのアクセスの困難さといい、死因不明社会を脱するためにAiを導入してはどうかという具体的かつ明らかに効果的な提案に対して無視や抑圧を続けるというのはあやしさを助長することにしか貢献していないようにおもわれるのです。

 

嘆きの壁

 景気が浮揚すれば消費性向が上がりそれで低欲望社会を脱するとは想像しがたいです。

 というのは、これは多分に歳のせいなのでしょうけれども、なにかほしいものがあるかといって別段そのようなものが思い浮かばない。

 おそらく低欲望社会において展望されている現代の若者の感覚もこれに近いのではないかと思います。

 若者はずいぶんと歳を取ったものだと思う反面、一日中スマホゲームなどに興じるずいぶんと幼い若者もいらっしゃるようで、所得だけでなく精神年齢の格差も拡大しているのではないかしら?とおもうところです。

 

 低欲望化傾向に加えて、サービス業やインターネットの普及・馴化によってわずかに残された物欲等の各種欲望は、これまで以上に三次元のモノにではなく形のない二次元のものへと流れていき、その製造の容易さから大量安価に産み出されるため価格は下がる一方。無料化への接近はなはだしく、お金の滞留が顕著になっていくのではないかと懸念しております。

 先に挙げたクレディ・スイスの予測ではミリオネアは増えていくということなので、そんなことはただの杞憂なのでしょうが、それは金流れの急流地帯と緩流地帯の二分化がすすんでいくということなのではないのかなぁと一向に疑念が晴れません。

 下降気流の起きているところでは雲ができづらいはずなのに、なぜわたしに取り憑いた暗雲はこうも厚いのでしょう。

 

需要保守派

 ところで、需要縮小は嘆くべき事でしょうか?

 

 供給不足・物不足は嘆くべき事でしょう。需要・欲するヒトがいるのにモノがないのですから。貨幣経済で極端な場合は貨幣価値が高騰しジンバブエドルのような事態も引き起こしかねません。

 でも需要不足は?

 

 需要不足のなかには所得などの問題から購買力が低下しているために、つまり買いたくても買えないから買わないというものがありますが、こういった需要不足はもちろん嘆くべき事でしょう。

 しかしそうではなく、欲求の低下、それはモノを欲さなくなったという意欲の低下やモノが十分にみなに行き渡っている、またはモノが余ってしまっていて新たに必要とされてはいないといった事態からくる需要不足というものもあるでしょう。

 こういった事態は本来なら嘆くどころかむしろ「豊かになったねぇ」と喜んでもよさそうなものです。

 

 だというのに「新たな需要」「需要開発」「需要創造」が大事!の一本槍。

 だけどそれはまったくもって正しいこと。貨幣経済では。

 需要を生み出さなければお金まわらないのですもの。

 

 内実に関わらずどんな需要縮小であっても嘆かなければならないのはお金の仕組みにあるのではなかろうか?

 そしてまた、いかなる需要縮小も忌避する謂わば需要保守派というのは、仮に金銭的に満足な生活のなかにあっても、またたとえ金銭的に苦境のなかにあったとしても、現行のお金の仕組みに暗にも明にも賛成の立場にある方々なのではないかとおもいます。

 

 嘆きの壁が嘆きの壁としてそこにあるのは、そこに悲しい物語を見、それを信仰するひとがいるからです。

 

人気投票券にはなれないお金

 需供関係から導き出される効率的な分配・最適な分配は、よりよい配分を実現するための目安というより価格決定のための指標としての意味合いが強くいようにおもいます。

 

 受給曲線は生産可能な絶対数における物量不足、または物量の不均衡がおこる交換社会において実社会を有効に反映するものであって、交換の需要や質ではなく物量の需要を映す指標としてはよろしくないのではないか、現代においては時代遅れとなっているのではないかという質感をもっております。

 

 需要が縮小し景気が低迷するなかでも公共事業、無駄な工事、雇用創造、消費奨励、消費のための生産ではなく生産のための消費が断行・強行されても是とされ必要とされ、仕方がないことと必要悪とされながらも歓迎されるのも、「無駄な公共工事も仕方がない。必要だ」という言葉を聞いて「そうだよね。仕方ないよね」と聞き入れてしまうとき後ろめたい気持ちになってしまうのも、お金の仕組みが変だからなんじゃあないのかなぁ?

 

 (純粋な)人気投票では(※美人コンテストではないよ)たくさん票を集めたひとは多くの支持を得た人気者であるということに異論はないでしょう。

 お金持ちが疎まれたり妬まれたりして、お金が決して人気投票券のように、投票通貨(?)のようなものにならないのは、人気者でなくても、好かれていなくても、支持されていなくても、票を集めることが出来てしまうからなのではないのかなぁ?

 「稼ぐことは悪いことではない」とか言われても素直に受け入れられなかったりするのはそういうところにあるのではないのかなぁ?

中世イタリア商人の「為替で簡単に儲ける方法」 - 歴ログ -世界史専門ブログ-

 

 だいぶ間の抜けた純朴なことを言っちゃいましたね。

 今回は間が抜けたまま、まだまだ続きますよぉ~。

 

下降気流

 将来への不安、有力な投資先の不在、極端な金利、人口減による既存設備の休眠・新規設備投資の不要、法人税を上げれば企業は海外へ出ていってしまうから結果として金持ち優遇となってしまう政策などなど、暗く重い空気が立ち込めています。

 

 先の所信表明演説において「世界一」という言葉8回使われたそうですが、なんの世界一なのでしょう?

第192回国会における安倍内閣総理大臣の所信表明演説

 「(一部のひとにとって)世界一暮らしやすく、出入国管理体制を整え、安全な国づくりも欠かせず、(経済人に)世界一信頼される国を目指し…」といったように伏せ字(?)当て字(?)を補った方がぐっとわかりやすくなる感じがしてしまうのはわたしだけでしょうか?

 

 下降気流で積乱雲の発生する現実とはテレコのファンタジー世界なら、解決策は決まって逆打ち。上昇気流で晴れ間が覗かないかなぁ~。

さようなら、トリクルダウン。ようこそ、トリクルアップ|三橋貴明オフィシャルブログ

 

ギセイになった生贄

 擬制商品の「人(労働力)・土地・貨幣」の3つには本来値をつけて(商品化)はならなかったと主張される方々が昔からおりましたが、その言霊は真に受けられたことはなく、現代ではそれらを主な経済指標として「経済」や「利潤」「分配」を測り活発に売買をおこなっています。

生産要素 - Wikipedia

 

 シルビオ・ゲゼルさんの自由貨幣は減価貨幣とも呼ばれるように時間経過とともに劣化して減額していくことが最大の特徴です。

 しかしその点ばかりが強調されてそれだけの貨幣だとおもわれているのではないかと思います。

 減価することは自由貨幣システムを安定的に永続させるすぐれた点であることに間違いはありませんが、仮に自由貨幣が導入されたとして、その導入直後もっとも影響力を発揮する特徴は減価するということ以上に「資本移動の隠れなさ」なのではないでしょうか。

自由貨幣 - Wikipedia

 

 導入直後では、たとえば、劣化・減価しないことを謳った金融商品がつくられて人気を博し、そこに資金が集まるという事態が起きるのではないでしょうか。

 このとき高利潤・高配当などを謳う必要はまったくないのです。運用益で減価分だけ安定して継続してあげていくだけで出資者にとっては「得」なのですから。

 とはいっても、その手のものは数年後に詐欺事件として紙面を賑わすことになることでしょうけどね。

 

 自由貨幣の中には物理的な貨幣もデジタル・マネーでさえも使わない、ただ記録するだけというものもあります。お互いがノートを持っていて「お金の流れ・貸借」を記すというものです。

 ですから別段"貨幣"がなければならないというわけではないのですが、まあここではなにかしらの貨幣を用意したとして、減価貨幣はずっと保持していればいずれ価値をまったく失ってしまうため、陽のもとに出さなければなりません。隠れることができないというよりは隠していては得しないということです。

 これをデジタル・マネーで運用すればお金が紐付けされますので資金移動が明確となり、これで真の意味で隠れるところがなくなります。

 

 交換物には顔があるのにお金には顔がないカオナシ。

 ちなみに『千と千尋の神隠し』に登場するカオナシは「お金の欲望」そのもののメタファーなのだそうですね。

 

 汚職が跡を絶ちませんが、それは貨幣に隠れ家があるからです。ですから履歴の明確な貨幣システムへと転換すればいいのですが、そうはならない。

 これまで不祥事が発覚する度に組織の透明化を断行していくと訴えているのに、いつまでたっても濁ったまま。その都度ちゃんとろ過作業してきたのならそろそろ濁りがとれてきてもいいのにね。

 

 意思決定の透明化より金流れの透明化の方が不義・不正やお金でやむなく動く貧困者やプロ市民なのかといったようなことが容易に見分けられるようになり、清流にもどせるのではないかと思うのですけれどもねぇ。

 金流れの透明化はシステム障害の早期発見にもつながるのですが、そうはならない。

 それはできないのではなくしない。

「パナマ文書」の目的と国内マスコミが報じない国際金融の闇=吉田繁治 | マネーボイス

 

 おそらく現行の仕組みを大々的に変更することなく平穏泰平な世を達成する方法は、資金移動を明確にすることなのではないかと思います。

 ただこれがもっとも実現しにくい非現実的なこと。

 たとえそれがもっとも確実にして簡単な方法であったとしてもね。

 なぜならそのような技術が整っていないから…ではなく、為政者にはそれが一番都合の悪いことだから。

 

 おサイフケータイやクレジットカード決済、それに今現在すでに数十、数百という仮想通貨サービスが稼働しているというのにデジタル通信技術がまだ未熟でそれを運用できないということはないでしょう?

 エシュロンやらなんやかやでデータや通信を監視しているというのに、技術不足でまだできないなんてことある?

 

 これまで(日本で)貨幣システムを検討する委員会のひとつも立ち上がったことがあったでしょうか?

 つまりはそういうことなんじゃぁないのかな?

 

 擬制のサクリファイスはなにに捧げられているのでしょうね?

 

経済学術混交

 学は分析にあてられます。

 創造は術の字が担っていることが多いです。

 これは「美」または「数」を例に取るとわかりやすいのではないかとおもいます。

 

 美学は作品を読み解き分析・解析・解説・考察を加える鑑賞者や研究者の側の活動を主とし、美術や芸術といえば創作活動を行う製作者主観・優位の語…ではないでしょうか。

 

数学と算術

 小学校から中学校へと進学するのにともない算数は数学となります。習うことに大きな変化が起きるわけでもないのに名称が変わります。数学にも多様な分野がありますが、数学って数について、数とは何か、といったように数というものを探求し、数というものそれ自体について考察を加える営為ではないでしょうか。

 対して算数。算数ではやや考えづらいので、昔の名称、算術・算法で考えてみますと、これは数そのものを考えるというよりもリテラシー、数を用いる術、数の活用方法の会得を目指していないでしょうか。

 

忍法!水遁の術

 ついでにこんな例はどう?

 「水遁の術ぅ〜」といってなされるのは身を隠す行動。

 「水遁の術ぅ〜」といって水遁の術によってなぜ追跡の手から逃れられるのか、なぜ水中にありながら呼吸ができるのか、水遁の術には他にどんなものがあるのかなどをその場で分析したり検証しだしたりはしないでしょう?

 

 仮に水遁の学があったとして「水遁の学ぅ〜」とかいっちゃってその場に立ち止まって考えだしでもしようものならすぐに追手に捕縛されてしまいますね。

 よってこれまで水遁学者は生まれたことがないのでしたぁ。なんてね。

 

 術の字を冠するものには他にも剣術・柔術・弓術・呪術・妖術・仙術・占術などなどがあり、そのどれもが仕組みよりもそれを用いることに主眼が置かれているでしょう。

 そして「術」が「道」に変わると精神性が加味され、あるいは精神性や心持ち、哲学が重視されるようになったという経緯も共通するところですよね。

 とはいえ仙道というのはありますが占道や妖道といったものはありませんけどね。

 もし呪道なんてものがあったら恐いですねぇ。

 

経済学は学か?

 経済学は人間活動の分析と考察が主となるものだったのでしょうが、今や政策を主導するための説得要素や判断材料、あるいは信憑性のありそうな数値を発掘して弁論術・説得材料創作活動が主だったものになっているかのうようです。

 

 おそらくは数学を除いていかなる学問も目指すところ、究極の目的はこの世界の成り立ちや、世界がどのように成り立っているのかということ。あるいはまたそのように考えることができるのは知性をもったものだけであり、世界はその知性によってつくりだされているとすると、その興味の対象、学問の矛先が「人間」に向かっているのではないでしょうか?

 すると経済学が解き明かしたい謎も「人」「人間心理」「人間活動」といったようなものなのではないでしょうか。経済学者ではないので知りませんけどね。

 

 経済学は効率的で公正な資源分配を実現する方法を見出す学問なのではないかとおもうのです。

 そしてなぜそれを可能にしたいのかといえば、人類の平和・繁栄・幸福といったもののため。

 そうであるとしたら、もっとも尊重・重視される経済指標は適正分配の達成率やひとの幸福度におかれてもいいと思うのですが…これまで指標の第一義に君臨し続けてきたのは『利潤』です。

 それはときに利潤を高めれば適正分配が達成されるのは常識であるかのような口ぶりで声高に唱えられることもすくなくありません。

  • どれだけの利潤を生んだか?
  • どれだけ経済発展しているか?
  • 完全雇用はどれほど達成されているか?
  • どれだけの工業出荷額・貿易額が伸びているか?
  • 総資産はどれほどか?
  • 株価はどうか?

などなど。

 

 現代において適正分配を目指す経済学を利用して行われていることは、経済学とは名ばかりの経済術。これをややマイルドに言って、経済学を利用する経済学術。あるいは資本主義社会の荒波を上手に泳ぎ渡る処世術を練磨する謂わば資本蓄財術といったところが主流派になってはいないでしょうか。

 エコノミー(経済)の語源のオイコノミアに家政術という語をあてていることから、元来経済は学になじまないものなのかもしれませんね。

 

 これはなにも経済学なんて必要ないっ!ということではなくって、(社会)哲学や社会学、倫理学といった学の内で考察すればいいのではなかったのかなぁ?またはその方が多少なりとも抑制が効いたのではなかのかなぁ?というやや希望的観測がかった感想です。

 

 ここまでの言い方ではまるで「学」が「術」の上位に位置付けられていると感じられる方もあるかもしれませんが、そんなことはありませんよ。「術」に似た「芸」ということも含めて「美学を美術に昇華した」というのも「芸術を美学に昇華した」というのもどちらも言われることですし、どちらも状況によって納得できる言いですからね。

 「学」「術」「芸」相互の関係に上下貴賤はなく、ただ軸の置き所が異なるというだけのことなのではないかと思うところです。

 

「経済学」と銘打たなかった経済学書

 マルクスさんはなぜ『経済学』ではなく『資本論』を著し、またそう題したのか?

 マルクスさんだけではなく他の方々もなぜ『国富論』『大転換』『正義論』と『経済学』の名を排して題したのか?

 それは「利潤」が「経済」(利潤=経済)なのではなく、その一部でしかないばかりか、本来はその中核でもないという意識がどこかにすこしだけあったからではないのかなぁ~と思わないこともなくはなくなくもありません。(←どっちぃ?)

 

 資本主義の一般的な定義は「利潤を目的とした経済システム」といったところでしょう。

 資本主義一辺倒、資本主義の一人勝ち状態となり、経済学と資本主義の定義とが同化して、どうかしてしまっていることの現れではないでしょうかねぇ?

 

 競争や報酬が経済発展を促す方法でも、それを促進するための最適な考えでもありません。

 それはポアンカレ予想を証明しミレニアム賞の受賞を拒否したペレルマンさんをおもえばわかることです。

 資本主義だけが技術革新を実現できる唯一の方法ではありません。

 それは冷戦期社会主義国ソ連を見ればわかることです。

 

 このように感じるのも誰かの書いた真相も脈絡も伏せられたシナリオを正論かのように疑いもせず受け入れてしまっているというだけのことなのかもしれません。ふふふふふっ。

「ロシア革命」とユダヤ人の関係について 〜朝まで「覆面会議」〜

 

絶望を知らない人々

 私たちは他者(ひと)が絶望する根拠をまだほんとうには掴めていないのだと思います。

 私たちはまだみずからが絶望する理由がわからないのではないでしょう。

 

 絶望は死に至る病。

 であるのなら、絶望の味を知ってしまったひとは、もういない。

 今、生きている私たちは、まだ絶望を知らない。

 

 絶望してしまう前に、光みえないでしょうかねぇ?

 

 こちらもいかが?