資産不足!?
現在、世界にはどれほどの(個人金融)資産があるとおもいますか?
世界の個人金融資産はおよそ200兆ドル(1ドル114円換算で2京2,800兆円)とのことです。
世界の個人金融資産、20年に224兆ドル 米民間調査 :日本経済新聞
これを世界の総人口およそ72億人で割ってみますと、1人あたりおよそ2万8,000ドル(320万円)となります。
「資産」といってもさまざまありますし、物やお金が大量に売り買いされるとその"価値・価格"は乱高下するという総額・総量の固定した確定的なものではなく相対的なもので、個人金融資産(総額(?))なんてものはただ金融市場の規模や金融取引の活況を表すというようなものですから、このように単純に割ったり一緒くたにするというのはたいへんに雑で荒っぽく、なにも意味するところはないのですが、ないのですけれども、それでもこの数字、どうおもいますか?
(…と、以降こんな印象操作感のつよい偏った見方の内容が続きます。あしからず。)
お金不足?
国によって物価もまちまちですが1人あたり320万円。
まぁわるくないかな?
…という感じですかね?うまく分配さていればね。
また、金融資産だけを見れば「1人あたり320万円かぁ〜」となるでしょうが、金融資産は(金融)負債と対になっていますから、どこかに200兆ドルの負債が回っているんですよね〜。こうなると320万円の見方、変わるでしょ?
(単純に誰かが200兆ドルの"借金"を背負わされているということではないですよ。でもそんな印象をもってしまいそうでしょ?今回はこういう誘導するような回ですから、ここからこんな感じでまだまだ続きますよー)
世界の上位1%のひとたちの資産は軒並み270万ドル(およそ3億1,600万円)を超えており、この1%の富裕層の資産が世界人口のおよそ半分、下位36億人の資産に匹敵します。
これでは1人あたり320万円とはいきませんよね。
※ちなみに、世界で流通している貨幣や紙幣の総額はおよそ5兆ドルのようです。
世界の上位0.1%の富豪各自がもつ資産が地球上のすべての銀を換金したとしたおよそ140億ドルを優に超えているというのは、あわせて銀本位制であった時代のことを思うとなんだかなぁ〜と思いませんか?
1日1ドルほどで生活しなければならない人々が世界人口の1割以上(およそ10億人)いるなか、投資・投機の運用だけで日常的に何千、何億もの大金を動かしている最富裕層のわずか数十人。あまりにもバランスが悪い。
格差が悪いわけではなく、それで生きられないひとが生まれているというのにそれを放置したままであるということが悪いのです。
資産の偏りがあまりにもひどいことですし、かといって金利を操作したり投資や貸付を刺激して市中に回すというのでは従前どおり金の集まる所にさらに集金回収されてしまい二分化がすすむばかりですから、ですから管理運用コストも低く煩雑にならない、一律バラマキBIしちゃいますか?
管理不足!
管理通貨制度下では、実質的・原理的にお金をポンッ!といくらでも無際限に生み出すことができます。
とはいえ実際に際限なくそんなことをすれば貨幣価値が暴落しますし、それでも仮にポポポポ〜ンと増印増刷大乱発したとしても、その大部は富裕層へと回収されてしまって、ただ二極化を促すだけでしょう。
この管理下におかれて限りある希少な資産・貨幣をめぐって日夜、争奪競争が繰り広げられています。
管理通貨制度下でもお金が回らず(擬)不足状態となっていて、金や銀などの貴金属のようで、あれっ?本位制だったっけ?と錯覚してしまいそうなほど、日本では長くデフレが続いております。
たとえ容易に増やすことが可能であってもそれをせず不足状態を産みだし、またその状態を維持することで"価値"を操作し、人の生活や心理を誘導する道具にできるというわかりたくはなかったのにわかりやすい好例となっていますね。
この調子ですと70年前のイギリスのデフレ継続期間を超えて史上1位に輝いてしまいそうなのでうすが、ギネス記録でも狙っているのでしょうかねぇ?
記録認定された際にはやっぱりビールで乾杯ということになるのかな?
まったくめでたくない、おめでたい記録だというのにね。
さりとて、それじゃあということで、ただお金を1京円ほどバラまくというのでは信用破綻を招いて経済混乱が起きるでしょうから、"お金"の仕組みを一新しませんか?
わざわざそんなことをするまでもなく、とくに日本はすでにとっくに財政健全化しているという考えもあります。実際にそうおもいます。
ですがなぜでしょう?
不健全・不健康に見えてしまうのは?
それが言葉のマジック、数字のカラクリなのでしょうね。
説得力不足の「お金のない世界」論
"低欲望社会"化がすすみ、これからますますお金の動きは鈍化、あるいは偏重傾向を示していくのではないかとおもます。
一昔前のように「経済をまわすためにもお金を使いましょう!消費は社会貢献だ!」なんて声もますます小さくなっていくことでしょう。
ほんの2・3年前までは「お金のない世界」なんて発想は、多少は羨望の念のようなものはあったものの、「現実離れした素朴で純朴朴訥とした空論」としかおもえませんでした。
が、どうもそうでもなさそうな潮流が起きつつあるように感じます。
今のところは「お金のない世界」を説いているもののほとんどが、結局"人間の意識改革"に重点・要点をおいた、そこを拠り所としているきらいのあるものばかりで空論感をまったく払拭できないでいますけれどねぇ〜。
シンギュラリティ(技術的特異点)というともっぱら「人工知能が人類の知性を超えて…」と言われますが、過去の農業革命や産業革命も当時においてはシンギュラリティ到来であったわけですし、それによって人間の意識(および身体)が一変するということをも含めたものが「シンギュラリティ」なの(だと解釈しています)です。
わたしは「お金のない世界」がいつか到来するのだとしたら、それは人類が「お金なんていらない!」「人間の公共心がお金を必要としない取引を可能とし、人間の道義心がそれを担保する(新たな信用(?))のだぁ〜!!」的な意見に世界が席巻されて、そんな意識変革がなされた後にいよいよ「お金のない世界」が到来するのだとは思われないのです。
なにかそんな希望に満ちた(?)人類の道徳心に信頼をよせた"素直"な過程を歩むのだとは思えないのです。
それよりはもっと淡白な、人の考えや意識とは裏腹に、そんなことにはかまわずに気づいた時にはもうすでに特異"点"を越していたとなるのではないかと思うのです。
つまり「人の意識→お金のない世界」ではなく「技術革新→人の意識→お金のない世界」あるいは「技術革新→お金のない世界→人の意識」といったような、どちらかといえば、ただ状況に流されていたら「お金のない世界」"点"を過ぎ越していたという過程を経るのではないかと考えています。
実際はどうなるのかはわかりませんが、この答え合わせはあんがい遠い未来にではなく、もう少ししたら、あと10年か20年したらできるのではないかとも思っています。どうでしょうかね?
「人口論の古典」不足
現在140億ドル(およそ1兆6,000億円)もの資産がタックスヘイブンへと流れているといわれます。
ですがこれは世界の総資産200兆ドルからすれば、わずか0.007%ほど。
「だから些末な問題なのだ!」と言いたいのではありません。
わずか0.007%だけでもこれだけの影響力、これだけの反感、憎悪、話題を招くのですから。
ニクソン・ショック以降はとくに顕著に世界的に貨幣供給量が激増し回転してきたはずであるのにうまく分配、流通していない現状。
これは世界人口の増加による要請にまだまだ応えられていないからなのではないでしょうかねぇ?
第二の「マルサス」不足!
これまで人口問題というのはあまりにもないがしろにされてきた感があります。
ハーバー・ボッシュ法の確立をはじめとした化学肥料・化学技術の成功により、マルサスの予言が幸か不幸か外れたためというところも大きいところでしょう。
でもまだこの先どうなるかわからないでしょ?
化学の発展に反して世界人口増がある日、反転して人口減へと傾くかもしれませんし、また(地球上では)そのように予測されている研究者の方々もいらっしゃいますから。
「経済学の古典は?」と問われれば数十冊の書物・人物を挙げることができるでしょう。経済にも経済学にも疎いひとでも1つや2つ、3人や4人は聞いたことのある名があるでしょう。
人口論も経済学の範疇に含まれるでしょうが、それでも「人口論の古典は?」と問われたらどうでしょう?
経済学の古典に比べて、また経済学の古典中にあって、その数はあまりにも少なすぎやしませんか?
マルサス以外で、『人口論』と同等に流布している古典・名があるでしょうか?
このことひとつとっても「疎外されてきた人口論」「見送られ続けた人口問題」の証左となっていやしないでしょうか。
ミクロ経済学とマクロ経済学では分析手法や作法、挙動や思考に違いがあります。
また相転移のようにある一定値を超えると性質が一変するという現象があります。
技術水準や人口の多寡によって適する仕組みが異なります。
人口問題を過小評価してきたツケが今回ってきたようです。
飛躍的な世界人口増状態に一向に追いつけずにいるようです。
「人口問題」への危機感不足?
インフレやデフレ、またはそこからの大恐慌を恐れるあまり萎縮して管理が行き届いていないのではないかとおもうのです。
あるいはそれほど怖いのなら、ほかのより健全で安定的な仕組みを考えればいいのに。
にも関わらず"現状維持"あるいは"改悪政策"または"最悪政策"をとるというのは他に意図があるからなのですかねぇ?
政策や法律でそれを謳っていないというだけで、暗に家畜化、ゆるい奴隷制をシいているのではないかねぇ?
管理通貨制度へと移行したのは実物の貴金属の裏付けのある(金)本位制では拡大する経済規模に対応できなかったからということもあるでしょう。でも、兌換紙幣から不換紙幣になっても現代のような大人数、ここ100年の内に急増した世界人口を賄うことができないでいます。
ペティー・クラークの法則にあるように、産業が高度化し第一次産業の比重が低下すると共に第三次産業の比重が上昇してきました。それだけ直接生存に関わるひとの数を減らすことができました。
日本の第三次産業、サービス業の生産性の低さが指摘され顕著となり、本年、また次年度にかけて世界ランキングの順位を一挙に20位ほど落として30位以下に置かれるのではないかといわれています。
日本に限らず世界的にも第四次産業の急成長により相対的に第三次産業の比率がすでに圧縮されています。
さらにはそれがどのようなものなのかはわかりませんが、そのうち第五次産業なんてものが誕生して台頭してくるのではないかとおもわれるほどです。
で、結局なに不足?
さきほど現在の「お金のない世界」論を素直すぎて感情に拠りすぎているというような感じで批判的にとりあげましたが、でもやはり「なにが圧倒的に不足しているのか?」となると、公共心や他者へのおもいやりといったぼんやり漠然としたふわっとしたもののところへと帰着漂着してしまうのでしょうね。
おもしろい岸辺がみつからなかったわぁ~。