安いことが正義になっていませんか?
安さは消費を促します。そしてムダも。
低質品ひしめくなかでいいものがつくられている環境と、上等品あふれるなかでいいものがつくられている環境とでは、どちらの土壌の方がよりいいものを生み出すでしょうか?
前者も後者も「いいもの」という語が使われていますが、その「よさ」はおなじだとおもいますか?
それは景気回復による高級志向によるものだったの?
ニュースを見ていましたら先頃一時高騰した高級志向からまた低価格競争へと移行しそうだとおっしゃっていました。
この一連の流れを景気動向とむすびつけて語っておられましたが、それってこじつけじゃない?
景気によって消費性向変わりますけれども、わたしにはそうはおもえなかったのです。
あれがメディアのこじつけなら、これはわたしのこじつけ。以下へんくつな理屈が展開されます。
そもそもそれは「高級志向」だったのでしょうか?
「これまでよりもちょっとお高めの新商品なのに売れたから消費者は高級志向に傾いた」のではなくって、ただ新商品だったから買ったのではないのかなぁ?それは高級志向ではなくただの新規性だったんじゃないのかなぁ?
「新商品」というだけで「それじゃあちょっと試してみようかしら」という方がいらっしゃるでしょう?
若者はカードゲームのカードやアプリのアイテムとかコンプリート欲高いようですし、青年・壮年でもオタクの方が増えてきて収集癖強まっているようですし、高齢者になるほどホーディングが慢性化するそうですから、それがいいものだとか少々値が張るだとかいうこととはあまり関係のない性向の現れだったということなのではないでしょうかねえ?
樽の中の犬を放つ
同質のものであれば少しでも安いモノが売れるのは当然のことですし、お金持ちでさえいいものよりも効率のよいもの、効率のよいものよりもコストのよいものを選びます。
高級品の世界にもピーターの法則や底辺への競争のような無能というか低質に向かっていくようではありませんか?
コスト計算、コストカット。考慮されているのは金額、カットされているのは安全、のような気がしてきまして、大切なものをロストしてないかなぁ?
景気回復策の成否は、その内実以上に人々の気持ちによるところが大きいところです。多くの人が将来の不安を抱かず安心できる未来を思い描けるような政策が打ち上げられれば気が上向き経済が上向きました。これまでは。
しかしもう「気」だけではどうにもならないのではないかと思うのです。
- 「シンプルライフ」「スローライフ」の豊かさに気づいた方が増えてきたこと。
- 若者もお金持ちも物欲、モノを消費するという欲が逓減しているようにみえること。
- 欲は尽きなくともひとの命には限りがありますし、どんなに需要を創造してもそれを消費するには限界があるとおもうのです。たとえそれがモノではなくサービスや仮想現実的なものであったとしてもね。つまり、いくら願いが叶う社会だったとしても、そのすべてを実行するだけの時間も余力もその余裕はないのではないか?ということ。
などなど。
こういったものっていくらお金が増えたり回ったりしたところで高まるものではないでしょ?
それなのに経済思想よりも経済学ばかり遵奉するのってどうなのかなあ?
2000年以上も前から説かれているのにシニカルな道をさも一本道かのように歩み続けてきたアイロニカルな人類の金融経済史。
現代に再びディオゲネスさん現れたらおもしろそうじゃない?
需要創造や供給過多。幻想の現象から法則を見出し数字をあてはめて現実味をもたせている段階からの新たなステップ、「需要と供給」から「分配と所有(権)」へと主題がシフトするころなのではないかと体調を崩しておりますので寝ながら寝言を言ってみました。
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