不老不死でも身体・自由を拘束されては苦しみ・不自由は常人よりも大きい。
死にたくとも自由には死ねないのだから。
したがって自由は不老不死に勝る。
自由とは自らの意思で決めること。
ただしその意思は教育や文化、情報などによって形成されてゆくもの。
となると自由は自由か?
自由の記憶、継承される自由、遺伝する自由、…。
自由は思考から生まれる。
老化しない、死にたくない、死なないという自由、あるいは願望。
願望は大きな括りの上では自由の一種。
何を望みその思考・選択肢・想像からなにを選ぶか、選べるかという自由。
思考のない生物は反応により動いているだけなので「~をしたい」という欲望がない。
つまり自由でもなければ不自由でもない。
そう感じることすらない。
そもそもその概念がないのだから。
また、思考をもちすべてが思い通りの自由自在であってもやがて欲は尽き、自由の概念をも失う。
というのも、思考と同時に、あるいは思考よりもはやく願望がかなってしまい、而して思考は反応となり、思考は失われるのだから。
思考のない生物と思考をもつ自由自在の生物とは畢竟、同じ極地へと至る。
自由から離れ、欲することもなく、ただただ反射や反応にのみ依った思考を失った生物となる。
欲からはなれることは自由(・不自由)からもはなれること。
無限が無限たりえるのはそれが可能であるからではなく、まさに可能性であるから。
無限は可能という虚偽へと誘う悪魔であり、可能性という希望を担保する天使。
自由は実現可能ではないかもしれないけれど、その可能性を失うことはない。
自由には種類がある。
どの階層、どの次元についての自由について話しているのかを捉えそこねると混乱するだけ。