あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

読解問題がわかる!【詳説】国語解法:答えに導く言葉の見つけ方

 「国語の勉強ってなにをしたらいいの?」

 

…というひとが多いのではないかとおもいます。

 

 日本人ですし「読み書きそろばん」(今は「読み書き計算」?)できるし、特に何もしなくても(小中学校では)テストで8割ぐらいは採れてたし…というひとがね。

 そしてそういうひとほど急に「国語」を見失いやすかったりしてね。

 

 「お〜い国語ぉ〜。国語やぁ〜。国語はどこだぁ〜っ。」

 

 そしてこのときはじめて気づくのです。

 「あれっ?そもそもわたし、国語知っていたっけっ?」ってね。

 

 「国語」で求められているのは、先にも出てきた「読み書き」のことです。

 より正確に言い表すなら、「読み」と「書き」のことです。

 

 「でもぉ〜わたし読み書きできるしっ」…と思っていては、そう思い込んでいるうちはことさら国語の勉強をしようとはなりませんから、まずは「読めていない」ことに気づいていただき、これまで「読んでこなかった」ことを知っていただこうとおもいます。また加えて「読んでいない」ために「書けない」ということも知っていただこうとおもいます。

 問題を出す前に但し書きです。ここでいう「国語」または「国語力」はおもに小・中学校の試験で要求されるそれのことであって、高・大学の試験で要求されるもの、または本質的なそれのことではありません。

 

 この問題はすでに「読めている」あるいはふだんから「読んでいる」ひとにはあまりに簡単な問題であるため「何が問題なのかわからない?」というひとも多いことでしょう。

 ですがすでに「読めている」いわゆる「国語力」があるといわれているひとでも「読む」ということがぼんやりとしかわかっていないひと、または「読む」ということがどういうことなのかを知らず言語化できていないひとがいらっしゃいますから、まだ「読めていないひと」はもちろんのこと、もうすでに「読めているひと」にも参考になるのではないかとおもいます。(※ただしわたしは国語の専門家ではありません。)

 

 横書きなので「傍線部」というより「下線部」といった方がよいのかもしれませんが、本来国語の問題は縦書きで「傍線部」と記されていますので、それにならい横書きではありますが以下では「傍線部」というようにしております。

 

 なお問題文が非常に長くブログ閲覧、パソコン・スマホ画面で見るには大変不便だとおもいますので、こちら↓に解答欄付きの問題文と後ほどまた触れますが「書き込み」例を示したWord(.docx)ファイルをこちらにご用意いたしました。

 ダウンロードして印刷出力し、まずは問題を問いてみて、その後、以下で紹介する解説と合わせてご覧いただけるようになっております。

(そんな奇特な方はおられないとおもいますが、いちおうね。)

国語読解問題の問題&解答用紙(書き込み例付き)

 

 それでは問題です。

 

次の文章を読んで、あとの問いに答えなさい。

 ヒトの使う言葉というものを分析してその法則や構造を探るのが言語学です。アイスランドのイメカ・ナジンゲは言語学者です。彼女は戦争をなくすために言語学者になったと言います。彼女が言葉を覚えて話し始めたころ、彼女の国は戦争をはじめ、彼女がまわりの大人から屁理屈ばかり言う困った子だとみられていたころ、唯一彼女の才能を見抜いて彼女を擁護しかわいがっていた一回り年上だった兄の命を奪ったところでやっと終戦を迎えました。ですから①彼女が戦争をなくしたいと考えるようになったのはごく自然なことでした。( A )そのために言語学者を志すというのは、彼女以外のひとには不可解な選択に思われたのでした。( B )彼女が言語学者になると言い出したとき、それに反対するひとは誰一人としていなかったものの、彼女の真意を見抜けたひともまた、誰一人としていなかったのでした。

 動物は危険を感じると襲いかかってきます。特に小さな子どもと一緒にいるお母さん動物は自分の子どもを守るために近づく動物に襲いかかります。でも人間のお母さんは誰かが自分の子どもに近づいてきたからといって無闇に襲いかかったりはしません。これは人間には他の動物と違って自分の考えを伝えるための言葉があるからです。人間は他の動物と違って言葉をもち、( C )言葉をもっているためにその言葉によって考えることができる生き物です。伝えられるというだけでは不十分です。なにを伝えるかを考えられなければなりませんから。ですからもし動物たちが人間と同じように言葉をもち、話し、考え、互いの意思を伝えあうことができたなら、近づく動物に襲いかかることも、またそのために自らの身を危険にさらすことも今よりずっと少なかったことでしょう。②言葉をもつわたしたち人間は地球上で唯一争いをなくすことのできる可能性をもっています。それにも関わらず今現在地球上でもっとも多くの命を奪っているのが人間であるというのは実に皮肉なことです。

 旧約聖書に塔のお話しがあります。バベルの塔と言えば聞き覚えがあるかもしれません。そのお話によると、はじめ人々はみな共通の言葉を使っており、一箇所に集まって生活するために塔や街をつくり始めたのだといいます。そしてそのために人間が世界に広がっていかないことに神は懸念をお示しになり、人間を世界各地へと赴かせるためにそれまで共通であった言語を違え、それぞれの言葉が通じないようになされました。すると途端に人々は混乱していがみ合い、ついに塔は完成することなく廃れ、③こうして人間は離散していったのだと記されています。

 今もどこかで戦争が起きています。言葉をもっていながらいまだ戦争を続けているということは、人間はまだ言葉をうまく使えていないということなのでしょう。またそのために人間はまだ人間にはなれていない動物なのかもしれません。あるいはさらに世界に広がれという神の思し召しなのかもしれません。

 ④戦争はしてはいけません。戦争はなくさなければなりません。そのためにはお互いの考えを伝え合うことが大切です。そのことは誰もがわかっています。それなのにこれまで何千年も何万年も、そして今なお戦争を続けています。戦争をなくすためには戦争について考えなければなりません。なぜなら、なぜこの戦争がおきてしまったのか、どうすればこの戦争をおわらせることができるのか、さらにはどうしたらこのまま戦争をしないでいられるのかを考えなければならないからです。そのためには人間は言葉について考える必要があります。言葉なしにはお互いの考えを伝え合うどころかそもそも考えるということができないのですから。言葉を使わずに考えてみてくださいと言われてそれができるひとはいません。戦争のことだけに限らず考えるということ、そしてまた問題を解決するということは言葉を使うことです。言葉の問題が解かれないうちは他のあらゆる問題も真に解かれることはないでしょう。⑤こうして彼女は言語学者になりました。まさに言語学は彼女にうってつけの学問だったのでした。

 そして彼女が言語学者になっておよそ四半世紀。子どもを産み、今はその子どもが子どもを産み育ています。それほどの時が過ぎたというのにいまだ戦争は飽くことなく続けられ、言葉の理解も遅々として進まず問題は解決されないままにあります。戦争をなくすためには言葉について考える必要があるという信念はあのころのまま、変わってはいませんが、その日が来るまで⑥戦争が起きないように抑止する現実的な策を講じる必要性を感じ始めたようです。

 争いをなくすためにはお互いの考えを誤解なく伝え合うことが大切です。大切ではあるのですが⑦それで戦火が絶えたことがないということは、戦争をなくすことはまだできないにしても、そのときまで戦争をしないでいるための方法が求められます。戦争がなくなる日がくるまでのあいだ戦争が起きることを防ぐために必要な手段、それは武装することです。

 武装と聞くと物騒で、戦争をなくすということとは対極にある矛盾した姿勢であると思われることでしょう。しかし、いくらこちらが争いを避けようとして話し合おうと歩み寄ったとしても、有無を言わさず自らの利益を求めて攻め込んでくる相手がいるのです。もしこのような相手に抵抗することなく支配され、滅ぼされていったとしたらこの先どうなるでしょう。好戦的な動物だけが後には残り、争いが絶えるどころかますます激しさを増していくことでしょう。有効な手段が武装することだというのは悲しく残念なことではあるのですが、それが現実です。争いをなくすために武装するというのはすすんで矛盾を抱えにいくようなもので抵抗があり、拒絶反応をもよおさせるものでもあるでしょう。しかしまだ戦争の残る今を生きているわたしたちには、戦争のない未来を迎えるその日まで、武装して容易に攻めこまれないようにして身を守り、そうして非戦を貫き言葉について考え続けられる土壌を守る必要があるのです。これが祖母になった彼女の⑧言葉でした。

(ナテア・イメイゲ『剽窃する戦争と言葉』「第四章−氷雪の国のイメカ」より抜粋)

 国語の試験問題というのはどういうものなのか、そのことについてとてもわかりやすく格好の例となる試験問題を目にする機会があり、その問題文を使いたかったのですが、著作権等の問題がありますので仕方なく解説用の問題文を作成するに至りました。読みづらく支離滅裂で論理破綻しているところがありますが、これは回答者に極力誤答していただくことを意識してつくったために引き起こされた副作用です。

 とはいえ国語の試験問題として好例となりそうな問題文においても一読しただけではあまり気にならなかったのですが、これを参考にみずから問題文を作成しようと何十回と繰り返し繰り返し読み返しておりましたら、この格好の例となる試験問題文の方もまた支離滅裂な文であることに気づき、ひどく苦しめられました。これは国語の試験問題に適した文章であるからといって必ずしも論理立った文章であるとは限らないということを知るよい機会となりました。またそれがために筋の通っていない文でもよしとしてしまおうといったように、あまりいい意味でなくそれが励みとなり、気持ちのハードルが下がったために、こうして問題文を書き起こすことができたのでした。

 本文は論証ということは二の次としているところがあり、また国語の試験問題のためにあえて筆者(ここではわたしのことですが)の思っても考えてもいないことが書かれているところがあります。そういうことですから内容については真に受けないでいただきたいとおもいます。

 

問題( 1 )~(10)

次の各問に答えなさい。

( 1 ) 傍線部①のきっかけはなんであったか、本文中の言葉を用いて十字程度で書きなさい。

 

( 2 ) ( A )〜( C )にあてはまる言葉として最も適切なものを、次のア~カから選び、それぞれ記号を書きなさい。
 ア さて  イ また  ウ だから  エ しかし  オ つまり  カ まさに

 

( 3 ) 筆者は傍線部②の根拠としてどのようなことをあげているか、三十字程度で書きなさい。

 

( 4 ) 傍線部③とありますが、それまでなぜ人間は世界に広がっていかなかったのか、その理由を書きなさい。

 

( 5 ) 傍線部④のためには、人間はなにをする必要があると筆者は考えているか、十二字程度で書きなさい。(句読点を含む)

 

( 6 ) 傍線部⑤とありますが、戦争をなくすための方法として言語学を選んだのはどのような考えがあったからか、彼女の考えを書きなさい。

 

( 7 ) 当初理解されなかった( 6 )のような彼女の考えを、本文中ではどのように表現しているか、適する言葉を漢字二字で抜き書きなさい。

 

( 8 ) いまだ戦争を続けている現代の人間にとって、傍線部⑥のために必要なことはなんであると筆者は考えているか、本文中より六文字で抜き書きなさい。

 

( 9 ) 傍線部⑦とはどういうことか、具体的に書きなさい。

 

(10) 傍線部⑧を、第5段落までに使われている言葉で言い換えるとしたらどのような言葉が入るか、本文中より五字以内で抜き書きなさい。

 

(11) 言語学とはどのような学問であるか、本文中の言葉を用いて書きなさい。

 

 

答え( 1 )~(11)

答え

( 1 )兄の命を奪った戦争

( 2 )A(エ)  B(ウ)  C(イ)

( 3 )言葉をもち、話し、考え、互いの意思を伝えあうことができること

( 4 )一箇所に集まって生活するために塔や街をつくり始めたから

( 5 )言葉について考えること

( 6 )言葉の問題を解かなければ他のあらゆる問題も解けないと考えたから

( 7 )真意

( 8 )武装すること

( 9 )お互いの考えを誤解なく伝え合うことで争いがなくなったことはないということ

(10)考え(ること)

(11)ヒトの使う言葉というものを分析してその法則や構造を探る学問

( 1 )彼女の国が戦争をしたこと

( 2 )A(ウ)  B(エ)  C(カ)

( 3 )人間には他の動物と違って自分の考えを伝えるための言葉があるから

( 4 )人々がみな共通の言葉を使っていたから

( 5 )お互いの考えを伝え合うこと

( 6 )戦争をなくすためには伝え合うことが大切だと考えたから

( 7 )非戦

( 8 )伝え合うこと

( 9 )言葉について考えていても戦争はなくならないということ

(10)屁理屈

(11)戦争をなくすための学問

 

 

 いかがだったでしょうか?全問正解できましたか?それともやはり8割ほどの正答率でしたか?

 でも、だとしたら残念です。なぜなら以上の答えはすべて誤答だからです。間違うとしたらこんな答えを書くのではないかと想定し、あるいはそう誘導したものだからです。

 勘のよい方であれば(2)の答えを見たときにここに書かれている答えはすべて誤答だという確信を得たことでしょう。でも(4)の答えを見てちょっとその確信ゆらいだでしょ?

 ほんとうの答え、正答は上の小見出し直下の「答え」というテキストを押してみてください。ドロップダウンで現れます。(AMPで見ている方はすでに答えが見えてしまっていることでしょう。)

 ちなみに、問題文も「次の各問に答えなさい。」を押すと開閉します。

 

 では次に、それぞれの問題について解説していきます。

 

誤答である弱い根拠

 個々の問題を見て行く前に、まずは簡単に共通していえる弱い根拠から。

 

 あれらの答えがなぜすべて誤答であるのか…それは「出題者がその答えを想定していないから」です。

 

 採点にあたり問題作成者は模範解答をつくります。また採点するのが問題作成者であるとは限りませんので、誰が採点しても偏りのないよう模範解答が用意されます。その模範解答で想定されていない解答をすれば誤答となります。

 

 これがなぜ「弱い」根拠なのかというと、極力客観的に判断できるように問題および模範解答をつくってはいても、「想定」という主観がわずかながら入り込み、この主観を根拠としたのでは、やはり「弱い」と言わざるをえないでしょう。

 

 それに出題者が想定していなくても答えに相当する解答、出題者が見落としたために模範解答に記されたなかった正答というものもありますから、そういったものの採点をどうするのかということも考えますと、弱さをぬぐえないところなのです。

 

誤答である強い根拠と解説

 ここから各問題についてなぜ誤答または正答であるのか、その強い根拠を提示するとともに、国語の問題を解く上でのいくつかのヒントをあわせて記していきます。

 

( 1 ) 傍線部①のきっかけはなんであったか、本文中の言葉を用いて十字程度で書きなさい。

誤答:彼女の国が戦争をしたこと

正答:兄の命を奪った戦争

 

 彼女が戦争をなくしたいと考えるに至ったきっかけですので、戦争一般についてではなく彼女個人の体験がそこにはあったはずです。ですから「戦争」の内でも彼女に影響を与えた戦争であることを特定する必要があると考えられます。

 とはいえ、この問題が2点問題であれば、「戦争」という語があれば1点は加点されることでしょう。

 

国語読解のヒント1「配点は答えるべき内容の数を教えてくれている」

 国語の問題において配点というのは1つのヒントです。2点問題であれば2つのこと、3点問題であれば3つのことを指摘しなければならないという隠れたメッセージであることがあります。

 誤字脱字がないということを評価して加点・配点している場合もありますが、もしこのような考えのもとに配点がなされていないのだとしたら、それは採点基準が曖昧でよろしくない配点だったということであり、その責は出題者にあります。

 

( 2 ) ( A )〜( C )にあてはまる言葉として最も適切なものを、次のア~カから選び、それぞれ記号を書きなさい。
 ア さて  イ また  ウ だから  エ しかし  オ つまり  カ まさに

誤答:A(ウ)  B(エ)  C(カ)
正答:A(エ)  B(ウ)  C(イ)

 

国語読解のヒント2「接続詞を記号に書き換えてみる」

 この問題では本文を見るまでもなく、ア〜カまでの選択肢を見ただけで2つ、答えには使われないと判断し除外することができます。それには「国語を数学的に考えてみる」という手法を用います。

 接続詞を演算子や記号に変換してみましょう。すると…さて(➰)、また(+)、だから(→)、しかし(←→)、つまり(=)、まさに(=)…といったような感じに翻訳できるでしょう。この記号変換はただの例でありますので各自わかりやすい記号を使われればよいでしょう。

※ほんとうはこの➰記号、くりんとした矢印にしたかったのですが、ユニコードになかったので代替として使っています。

 

  • ➰は話題の転換。前の文とは異なる話が後に続きます。
  • +は付加。前の文を補則するような文が後に続きます。
  • →は結論。前の文を受けて理由を述べる文が後に続きます。
  • ←→は反対。前の文の反対意見が後に続きます。
  • =は言い換え。前の文と同等の内容の文が後に続きます。

 

 ここで簡単にいくつかの接続詞と記号例のつながりの提案をあげておきます。

 

  • ➰転換:しかし、だが、さて、では、ところで
  • +付加・累加・並立・補足・注意・限定・条件・対比・選択:そして、しかも、むしろ、さらに、あるいは、また、または、あるいは、それとも、ただし
  • →理由・帰結・順接:なぜなら、だから、それで、それゆえ、したがって
  • ←→逆接:しかし、ところが、けれども
  • =解説・説明・例示:つまり、すなわち、たとえば

 

※「しかし」が転換と逆接の2箇所にありますが、文脈によっていずれの役割も果たします。またそれは「しかし」に限ったことではありません。

 「+」には付加をはじめ選択までいくつもの性質がありますのでより細分化した方がより使い勝手がよくなりそうです。

論理トレーニング101題

 

 「国語」といえども試験である以上は答えが1つに決まるはずです。ですから同じ記号となるものはどちらも適してしまう可能性が高く答えを1つに特定することができません。この問題では「つまり」と「まさに」は同じ記号(=)となりますから、ゆえに本文をみることなくこの2つの選択肢は排除できるのです。

 

 接続詞を記号と置換し記号から接続詞を限定するというこの方法は、いつでも使えるという手法ではありませんが、接続詞の問題が苦手な方はこんな風に国語を数学の言葉に翻訳して考えてみるというのはいかがでしょうか。

 国語も数学も英語も社会も理科もすべて言葉なのですから、わかりづらかったり苦手意識があって抵抗があるのなら、他の言葉で考えてみてもいいでしょう。海外旅行、留学、越境は新たな視点をもたらしてくれるものです。

 

 こちらでも「国語↔数学」翻訳について触れております。

数学の文章問題お手軽3分クッキング

 

 ちなみに、適する接続詞を選ぶ問題について集計してみたところ、(そのテストではア~オの五択なのですが)ある国語のテストの数年にわたる過去問においては、エが正答であることが圧倒的に多く、なおかつそれは「しかし」でした。

 アとオが正答であることを1とすると、イとウが正答であることは2、エが正答であることが4といった割合になりました。このことからも出題者心理として両脇を正答とするということには抵抗があり、真ん中よりもやや後半に正答をもってきたがる心理がはたらいていることがうかがわれます。

 

( 3 ) 筆者は傍線部②の根拠としてどのようなことをあげているか、三十字程度で書きなさい。

誤答:人間には他の動物と違って自分の考えを伝えるための言葉があるから

正答:言葉をもち、話し、考え、互いの意思を伝えあうことができること

 

 本文の傍線部②の中に「言葉をもつ…」という記述があり、その根拠として「伝えるための言葉があるから」という帰結または返答では同語反復のようになってしまい答えになっていません。

 それ以上に、傍線部②の3つ前の文に「伝えられるというだけでは不十分です。」2つ前の文に「なにを伝えるかが考えられなければなりませんから。」という決定的な文言があるため「言葉をもっている」というだけでは不十分となり「(言葉によって)考えることができる」といったようなことにも触れなければならないということがわかります。

 

 ただしこの問題も2点配点されているのであれば部分点として1点は加点されるでしょう。

 

( 4 ) 傍線部③とありますが、それまでなぜ人間は世界に広がっていかなかったのか、その理由を書きなさい。

誤答:人々がみな共通の言葉を使っていたから

正答:一箇所に集まって生活するために塔や街をつくり始めたから

 

国語読解のヒント3「指示語・接続詞をたどる」

 傍線部③に「こうして」という接続詞があります。この「こうして」というのは「どうして」なのか、その理由を訪ねて接続詞が指示していると考えられる直前の文を見てみます。すると文頭に「そしてそのために」と、また「その」という指示語が現れます。

 

 今度はこの指示語をたどってさらに直前の文をみてみますとその文頭にもまた「その」という指示語があります。が、この指示語はたどりません。というのはこの指示語が示すのは「バベルの塔」または「旧約聖書にある塔のお話」のことだからです。

 

 接続詞または指示語の遡及点にたどりついたところでその文をさらにくわしくみてみますと、そこには決定的な言葉があります。それは「一箇所に集まって生活するために」とある「するために」のところです。

 

 するとここで問題文との強力なむすびつきが見えきます。つまり、問題文では「その理由を書きなさい」と「理由」を問うているのですが、まさにそれが理由の記述であることを示す「するために」の「ために」に通じているのです。これが決定打となり、答えは他のものではありえず、他の答えは考えられないのです。

 

 傍線部、および傍線部の付された文の前の文に指示語や接続詞が含まれているとき、その指示語や接続詞をたどって前の文、前の文と遡上していくと答えに行き着くということがあります。

 

 指示語や接続詞は日常よく使われる言葉です。答えを確定する言葉は意外にもありふれた言葉であることが多いものです。そのために流し読みされて意識に残らず見落とされやすくなっています。

 

 以前テレビで放送されていましたが、本文を読み進めていくときに接続詞を○で囲みながら読んでいくという手法があるということを紹介していました。これを応用して、本文を読み進めていくときに接続詞や指示語を先の「国語読解のヒント2」で提示しましたように記号変換していって読んでみてはどうかとおもいました。記号に置き換えることで単純明瞭化して文と文の関係や構造がみやすく「読み」やすくなるのではないかとおもいました。

 

国語読解のヒント4「答えは指示語や傍線部の直前が鉄則」

 小中学生の間でまことしやかに囁かれているそうな「(傍線部があったら)答えは傍線部の直前にある!…でもときどき傍線部の直後にあるよ」。

 実際に調べてみましたら、こちらは集計まではしていませんが、肌感覚として「傍線部の直前8割、直後1割、その他1割」といった感じがします。

 

 これは「これ・それ・あれ・どれ」の「こそあど」言葉として呼び慣わされている指示語(指示詞)について問われている問題が散見され、また傍線部やその直前に指示語が含まれていて、答えはその指示語を辿った先、あるいは指示語を補ったものであるという問題が多いということと無関係ではないでしょう。それどころかこの点が「答えは傍線部の直前」を「鉄則」の地位にまで高めることに寄与しているようにおもわれます。

 

 指示語はまさに答えを指示していることが多いものです。

 それというのも「それ」や「これ」というためには事前にそのことについて触れられていなければ指示のしようがありませんし、指示語によって言葉を省略するには既出でないと何を指しているのかわかりません。またその指示語があらわすものが直前の文ではなく2つも3つも前の文で言及されていたりすると、指示語が示しているものの意味がとりづらくわかりづらい文となってしまいます。

 ですから「指示語があれば直前に答えが書かれているっ!(ことが多い)」のです。

 

 ただし修辞的・装飾的に指示語が指す事物が指示語よりも後に置かれたり、隠語であったり、話をぼやかすために指示語が指すものを明示しないでにおわせるにとどめているのであったり、多様な解釈を許容するために使われていることもありますので「指示語の直前に答え」は絶対ではありません。

 

 この傾向は物語文ほど強くあらわれます。論説文は論じ説明する文ですから話の飛躍があまりみられませんが、物語文は人の感情等を追いかけて書かれていたりしますので論説文に比べて話が飛躍しやすく、「答えは指示語あるいは傍線部の直前」という鉄則がやや脆く崩れやすくなっています。

 

 「国語のセンスがある」と言われている人のなかにこんな人がいませんか?問題文を最初から最後まできっちりすべて読むことなく次々と解答を書き込んでいくという人が。またその答えがどういうわけがすべて"正解"だったりするんですよねぇ。

 それはおそらく「傍線部前後」を教わったか、あるときからそのことに気づいたからなのではないかとおもうのです。

 だから全部読まなくても傍線部周辺だけ読んで答えているというわけ。そりゃあ「はやい・うまい・せいかい」となりますよね?

 

 出題者にはこれを挫くような、この手法を封じるような良問をつくっていただきたいなぁとおもうところです。だって「はやい・うまい・せいかい」かもしれませんけれど、ちっともおもしろくないのですもの。

 

( 5 ) 傍線部④のためには、人間はなにをする必要があると筆者は考えているか、十二字程度で書きなさい。(句読点を含む)

誤答:お互いの考えを伝え合うこと

正答:言葉について考えること

 

 今回このような国語の問題をつくろうと思い立ったきっかけが、まさにこのような問題でした。このようなというのは、問題文に見落としてはならない決定的な言葉が含まれているというものです。加えてさらに言えば傍線部の直前・直後に答えがないというものです。

 

 問題文では「人間はなにをする必要があると」と聞いており、なにが「大切か」を聞いているのではありません。ここでは「必要」という単語を見落としてはならないのです。このことを意識して読んでみますと「お互いの考えを伝え合うこと」は「大切」なことではありますが「必要」だとは言っていません。そして「言葉について考えること」が「必要」だと筆者は言っています。ですから前者は誤答となり後者が正答となるのです。

 

 さりげなく書いてあり、またあまりにも自然に問題文になじんでいるために答えを限定し示唆し決定打となっている、ここでは「必要」という言葉に違和感にも似たなにかを感じる必要があったのです。たとえば「なにをする必要があると」ではなく「なにをしなければならないかと」あるいは「なにをすべきだと」とも言えるところをなぜ「必要」という言葉を選んだのかということに。

 

決定打なき解答は見落としている

 答えを導く決定的な言葉を見落とすことを算数・数学の問題におきかえてみますと、たとえば「長さの単位」と「速さの単位」を混同するようなものです。算数・数学の苦手な小中学生の中にはどうやらなぜか「毎秒10cm」の「毎秒」を見落として「10cm」という長さだと思い込んで式を立てるひとが多いようにおもいます。

 

 また問題文に「正三角形」や「二等辺三角形」「平行四辺形」と書いてあって、その性質を使わなければ解けない問題であるにも関わらず、そしてまたそれをはじめに読んでいるはずなのにも関わらず、いつしかその情報が抜け落ちてしまい解けなくなっているひとも多いのではないかとおもいます。

※一度は目にしているのに忘れてしまうこともここでは「見落とし」に含めています。

 

 数学での見落としは致命傷と思われるでしょう。それに比べて国語の見落としについては致命傷と思われる以前に意識すらされていないようですので、あえてこの数学での喩えを添えてみました。

 このように小さくとも重要な情報の見落としは致命打となります。なぜならそれが決定打だからです。諸刃の剣のようですね。

 

 このような点が、国語ほどテスト後の見直しが必要な科目はないのではないかと思われるところです。これはただのこじつけのように見えるかもしれません。実際ただのこじつけでしかないということも多々あることでしょう。しかしテスト後に、模範解答と問題とを照らし合わせて、解答を導き出すためにはなにが決定打であったのか、そしてまたなにを見落としていたから間違えてしまったのか、このような検証を重ねることなしにはいつまでも「国語はセンス」とうそぶくばかりで「読み」の精度があがることはないでしょう。なぜなら決定打なき解答は勘でしかなく、今回はたまたま正解したということに過ぎないのですから。

 

 国語という科目のテストはただこなすというだけでは力はつきません。数をこなすことで「勘」が鋭くなり成績があがることもあるでしょうが、それでは読みの精度が上がることがなく、いつまでも「勘頼り」のままです。

 

 このような検証が行えるのは模範解答を手にしてはじめてできることです(←模範解答がなくともおおよそ検証できるものですが、国語のテストのやり直しがまだ十分にできないひとにとっては特にね)。他の教科であれば調べればほぼ正確に答え合わせができます。ですから国語ほどテスト後の見直しが必要な科目はないのではないかと思われるのです。

 

 国語の問題というのは作文や小論文などを除いて基本的には答えが問題文に書かれているものです。数学の証明問題も「答え」がすでに書いてあるようなもので、問われているのはその答えの導き方、求め方、論拠です。国語の問題の場合はそれらを記述して答えるわけではありませんが、それでも暗に問われているのはそのことです。それが「読解力」と呼ばれているのではないでしょうか。つまり「証明≒読解力」のごときものではないかとおもわれるのです。

 

 模範解答がなければ正確な検証が難しいことや、答えがすでに書かれているというようなところが他の教科と比べて国語という教科は"異質"な感じがし、またそのためにそろそろ魅力を感じ始めてきてはいませんか?まだですか?そうですか…。

 

国語のテスト直しが成績を底上げする

 国語だけに限らず他の教科においてもいわゆる「テスト直し」や「答え合わせ」が単なる「答え写し」にとどまっている例が多いのではないかと思われます。

 テスト直しというのはなにをすればよいのか、また、答え合わせというのはなにをしたらよいのか、これらのことは国語のテスト直しを通してより明確になるのではないかとおもいます。ですから国語のテスト直しができているかどうかというのは他教科を含めて、「テスト直し」ができているかどうかを判別する一つのツール、一つの指標、一つの試金石となるのです。

 

 国語のテスト直しができるようになると「見落とし」が減り検証や論証力があがるため、また国語という教科は「読む」力を醸成するために全教科に通じており、ゆえに全教科の成績を底上げするのだと考えられます。

 

 これほど重要だと思われる「国語」。なのに昨今では他教科にやり込められているというのか、あまり省みられず蔑ろにされている感があります。「国語はセンス」ということと共に、国語という教科の擁護についてはまた後〜ほど触れます。

 

国語読解のヒント5「答えを導く決定打となる言葉を見つける」

 試験科目の点をつけられ採点される対象である国語においては答えは1つでなければなりません。そうでなければマルを付ける人によって点数はまちまちとなってしまいます。採点基準や模範解答がないのなら試験科目としては適していません。

 

 そして答えが1つに絞られるのなら、答えがいくつもありそうな問題には必ず答えを1つに絞るための限定条件が付されているはずです。問題を「読む」というのはまさしくそこを「読む」ことです。出題者がなにを答えて欲しいのかを読み取り、問題作成者がどんな答えを望んでいるのかを読み解き、採点者が聞きたいことを答える。それが国語の試験というもの。…ではないでしょうか。

 

 この点を読み間違えてしまいますと解答自体・解答単体ではなんら不合理な点が認められない文であっても、質問に対する答えとしてはまったくの筋違いということになってしまいます。これでは会話が成立していないようなものです。独り言にも似たものです。

 このようなことも含めて試験などにおいて問題を解くというのは「問題または出題者と対話する」といわれるのではないでしょうか。

 

( 6 ) 傍線部⑤とありますが、戦争をなくすための方法として言語学を選んだのはどのような考えがあったからか、彼女の考えを書きなさい。

誤答:戦争をなくすためには伝え合うことが大切だと考えたから

正答:言葉の問題を解かなければ他のあらゆる問題も解けないと考えたから

 

 まずはじめに、問題文に「戦争をなくすため」とありますので答えが「戦争をなくすため」ではないことがわかります。むしろ問題文にわざわざこの文言を含めているということから、答えが「戦争をなくすため」にならないようにしているのだという意図が読み取れます。答えがこれではないということがわかったら、考えを切り替えて他をあたりましょう。

 

 そしてこの問題でのあたりどころはここです。傍線部⑤に「こうして」とありますので「どうして」なのか直前の文をみてみますと、語尾が「〜でしょう」という形で彼女の考えが記されていますので、これが正答となります。

 

 しかしこの問題にはすこし微妙なところがあります。というのもこの段落の前から2つ目の文に「そのためにはお互いの考えを伝え合うことが大切です」とあり、理由を示す「そのために」が含まれているからです。そしてこの「そのために」があらわしているのが「戦争をしないこと、なくすこと」であり、そのために彼女は言語学者となったのですから文意からして「誤答」とするのは不適な感じがします。

 

 また第一段落の3文目に「彼女は戦争をなくすために言語学者になったといいます」ともありますので、仮に問題文に「戦争をなくすために」の文言がなかった場合は、やはり「誤答」だとは言い切れないところがあります。

 

 この点が「誤答」も「正答」としてもよいように思われるところで、もしこの問題も2点問題であれば1点加点してもよいと考えられるところです。

 このような採点者の裁量が他の問題に比べて強く反映されてしまうと予め考えられる試験問題は、出題するには危うくあまり適さない問題です。

 

 ただし1点問題であるのなら誤答とせざるをえません。その理由の1つは「弱い根拠」、つまり出題者がその答えを想定していないからです。そして「強い根拠」としては、「そのためにはお互いの考えを伝え合うことが大切です」の次の文に「そのことは誰もがわかっています」とあるからです。

 この問題では「彼女の考えを書きなさい」と「彼女」個人の考えに限定する言葉が付されています。ですから「そのことは誰もが…」という記述にはなじまないのです。

 

 だとしてももやもやしたものが残る問題・解答であることに違いはありません。

 実はこの問題、実際にこのような問題が出題されたことがありましたので、それで「誤答」をつくるために後に「そのことは誰もが…」の1文を加えさせていただいたのでした。

 

( 7 ) 当初理解されなかった( 6 )のような彼女の考えを、本文中ではどのように表現しているか、適する言葉を漢字二字で抜き書きなさい。

誤答:非戦

正答:真意

 

 非戦と不戦の違いが人によってまちまちでまだ定まっていないので、本文では不戦の方が適しているからというようなことは抜きにして、非戦は後の「祖母になった彼女の言葉」であって、問題文にある「当初理解されなかった」の「当初」に反するものなので「非戦」は誤答となります。

 

 そして第一段落の6文目に「彼女以外のひとには不可解な選択」、7文目に「真意を見抜けたひとも…いなかった」と問題文の「理解されなかった」にあたる、その言い換えであると思われる言葉がありますので「真意」が正答となります。

 

( 8 ) いまだ戦争を続けている現代の人間にとって、傍線部⑥のために必要なことはなんであると筆者は考えているか、本文中より六文字で抜き書きなさい。

誤答:伝え合うこと

正答:武装すること

 

 この試験問題は答えが1つに絞られるという試験問題としての最低限の要件を満たしていますので、試験問題としては問題がありません。しかし試験問題としては問題がないにしても倫理的には問題があると思われる方もあるでしょう。仮に内容や正答に問題があったとして、それで問われるのはこのような出典を選び作問した出題者の倫理観なのであって、問題自体の正否ではないのです。試験問題で問われているのは個人の倫理観ではなく(もうすこし事務的な)「読解力」なのですから。

 

 それでこの問題の正答は( 5 )同様、「伝え会うことが大切です」の「大切」ではなく「必要な手段」の「必要」に着目して「武装すること」を導き出します。

 

国語読解のヒント6「感情によらず根拠をたよりとする」

 とはいえ自分の信じていないことを文字に書き起こして残すこと、思ってもいないことを答えるというのは実に抵抗のあることです。ですが、まさにそこを突いてくることがあります。感情を論拠に道徳的には「正しい」答えを書かせて誤答に誘うということがあるのです。

 

 相手の言わんとすることを読み解けなければ反論も論点を取り違えたまったくの的はずれなものとなります。それでは会話にならず、混乱を招くばかりでまともな対話・討論になりません。このような効果を狙って意図的に不道徳な出題または解答を用意して誤答を誘うということが、小中学生を対象としたものではあまりないでしょうが、高大ではなきにしもあらずなのではないかとおもいます。わたしが出題者なら性格ねじまがってますので出題するとおもいますもの。

 

 感情を大きく揺さぶる問題やあまりにも極端な解答も考えられるときなどは、出題者が解答者の冷静さを奪おうとの意図をもっていることがあります。そのようなときは気を静めて、冷静にそう言いうる根拠・言葉を探しましょう。感傷的になって筆を進めて論拠の曖昧な論を展開しては出題者の思う壺です。

 

( 9 ) 傍線部⑦とはどういうことか、具体的に書きなさい。

誤答:言葉について考えていても戦争はなくならないということ

正答:お互いの考えを誤解なく伝え合うことで争いがなくなったことはないということ

 

 この誤答もまったくの間違いとは言えず、2点問題であれば1点加点されるでしょう。

 

国語読解のヒント7「省略された語を補って答える」

 この問題では傍線部⑦に「それで」とありますので、この接続詞によって省略された言葉を省略しないで答えるとどうなるかということを問題文の「具体的に」が表しているのだと考えられますので、「それ」の指す前文が正答となります。

 

 このように接続詞や指示語によって「省略された語を補って答えなさい」といっている問題があるのだということを知っておくだけでも得点の機会が広がるのではないかとおもいます。

 

国語読解のヒント8「読み替える。言い換える。」

 「国語読解のヒント7」にもあげたように、問題文を文意を変えることなく読み替えてみると途端になにを問われているのかがわかりやすくなり、またそのために解きやすくなるということがあります。

 

 また「読み替える/言い換える」というのは問題文に限った話ではなく、答えはただ言い換えるだけだというものもあって、解答にも関わることなのです。

 たとえば「【それ】が指す内容を答えなさい」というような問題。この手の問題の中ではもっとも単純で簡単な例ではありますが、もっともわかりやすい例としてあげられるでしょう。

 

(10) 傍線部⑧を、第5段落までに使われている言葉で言い換えるとしたらどのような言葉が入るか、本文中より五字以内で抜き書きなさい。

誤答:屁理屈

正答:考え(ること)

 

 「屁理屈」は「彼女が言葉を覚えて話し始めたころ」の彼女の「まわりの大人」が彼女を評したものであって、「祖母となった」「彼女(自身)の言葉」ではなく、時間も人物も異なりますので誤答となります。

 

 また第2段落5文目に「言葉をもっているためにその言葉によって考えることができる」や第5段落9文目「言葉なしには〜そもそも考えるということができない」、11文目「考えるということ〜は言葉を使うこと」とあり「言葉≒考えること」という構図がそこかしこで示されていますので正答は「考え(ること)」となります。

 

 さらに言えば、問題文に「抜き書き」で「言い換えると」とありますので、1文字も変えることなく言葉を抜き出して置き換えても不自然にならない言葉を選ばなければなりません。

 

国語読解のヒント9「限定条件は答えを1つにするための措置」

 「第5段落まで」という制限がかけられていなければ、続く段落で出てくる「武装」や「矛盾」という言葉でも、やや詩的な響きを含むことになりますが正答となりえてしまい、答えが1つに絞れなくなってしまいます。ですからこの制限は「武装」や「矛盾」を排除するために設けられたものです。

 

 問題文に限定条件が付されている場合、その条件の対象となる本文中の文言と同内容のものが答えとなっている場合と、反対に、まったく関係のない文言が答えとなっている場合の2パターンがあります。この問題では後者でした。

 

 前者が答えとなる問題の場合には、限定条件自体が正答を導き出すためのヒントとなっていることがありますので、このような問題が出題されたときには一度その制限の対象となる文言を探してみてもよいかもしれません。

 

国語読解のヒント10「国語は同じもの探し」

 中学生の問題だけなのかもしれませんが、雰囲気出すために色ペンで問題文に線を引いたり丸で囲んだりしていたら気がつきました。国語は「同じもの探し」。

 

 国語の問題は「答えが書いてある」といわれます。書いてあるとは言われるのですがどれが答えなのかがわからない。だから得点できない。それはなぜか?

 

 わかりやすくそのまま書かれて出題されいることもありますが、「言い換え」られて出題されていることがあるからです。つまり、「同じもの」というのは「言い換えられたもの」を含むということなのです。

 

 このことはこれよりも前の「国語読解のヒント」でも触れた接続詞や指示語の記号変換、決定打を探すということにも通じるものです。記号変換は「同じこと」を表す記号へと変えることであり、決定打は問題文と本文で「同じこと」を言っているところを見つけることですから。

 

英語の長文読解問題のヒント「答えは書いてある」

 感覚として、答えは傍線部の直前の文にあることが8割、傍線部直後の文にあることが1割。ときどき傍線部から遠く離れたところにあることが1割とは( 4 )の「国語読解のヒント4」でも申しました。

 英語の長文問題も同様ですが、英語の方ではこれに加えて本文の傍線部前後の文に設問の文と同じ言葉、同じ単語があると、その文が答えであることがほぼ確定します。

 つまり傍線部前の文に設問文で使われているのと同じ特徴的な単語があればその文が答えであるということです。

 

 長文読解問題の英文で答える問題においてさえ答えとなる英文がほぼそのまま本文中に書いあります。解答するにあたり変えなければならないところといえば主語の人称とそれに伴って変わる動詞語形や目的格ぐらいというのが定番のようです。

 

 たとえば「次の質問に英語で答えなさい。Why did she want to be there?」という設問があって、本文中に「I wanted to be with you.」という文章があり、この答えが「Because she wanted to be with you.」といったような問題です。

 この問題では問題文の中で特徴的な「want to be」に注目し、これと同じか同等のことが書かれているところを本文中から探し出し、見つけたら文頭に「Because」を加えて主語の「I」を「she」に変えるだけであとはそのまんま本文にある文を書き写すだけで答えとなります。

※実際に出題された問題はもうほんのちょっとだけ手が込んでいましたが、だいたいこんな感じです。

 

 こんな簡単な問題は高大学では出題されないでしょうが、中学の英語の長文問題も国語の問題のように作文などを除いては、ほぼ「同じもの探し」をするだけで済みそうです。

 

(11) 言語学とはどのような学問であるか、本文中の言葉を用いて書きなさい。

誤答:戦争をなくすための学問

正答:ヒトの使う言葉というものを分析してその法則や構造を探る学問

 

 国語の問題はたいていあまり返り読みをしなくても解けるように配慮してつくられています。これはたとえば問三の問題と答えが問二の問題と答えが書かれているところよりも前にあることは少なく、本文先頭から順に問一、問二、問三、…と配されていることが多いということです。

 ですがそれは絶対ではないということを示すためにあえて極端に、読み進めた先と答えの載っているところとが遠く隔たった問題を設けてみました。

 

 説明するまでもないかもしれませんが、本文先頭の文に「ヒトの使う言葉というものを分析してその法則や構造を探るのが言語学です」とまるまる答えが、ご丁寧に「〜が言語学です」と書かれていますので、これがまるまる正答となります。

 

国語読解のヒント11「読んでわからなければ聞いてみる」

 生まれたときには書くことはおろか話すこともできません。自分の意思を伝えられず、見せられ聞かされる受動・受け身のものです。

 

 文字を追っているだけでは、いっぺん読んではみたもののわからなかったことも、なぜか口伝えで読まれて聞かされるとなんてことはない、すぐにわかるということがありませんか?

 

 文通では伝わらないものが会話ではすんなり伝わるということがあります。(その逆もありますが…)情報処理する脳部位が異なるということもあるのでしょう。こういうひとは問題文を読むのではなく、問題文を読み聞かせられていると意識してみてはいかがでしょうか。たったそれだけのことで途端にわかりやすくなるということがあるようですから。

 

 なぜかこの子は、わたしがただ問題文を読み上げて、読み聞かせたというだけのことで、「あっ!わかった」「そういうこと」となりますので、そういうひともいるのだとおもいました。わたしにはこのような感覚や経験がほとんどなく、読んだ方がわかりやすいのでイマイチわからないんですけれども…そうらしいです。

 

決定!?「新三大・国語読解の原則」

 ここでご紹介いたしました国語読解のヒントを列挙してみますと…

  • 配点は答えるべき内容の数を教えてくれている
  • 接続詞を記号に書き換えてみる
  • 指示語・接続詞をたどる
  • 答えは指示語や傍線部の直前が鉄則
  • 答えを導く決定打となる言葉を見つける
  • 感情によらず根拠をたよりとする
  • 省略された語を補って答える
  • 読み替える。言い換える。
  • 限定条件は答えを1つにするための措置
  • 国語は同じもの探し
  • 読んでわからなければ聞いてみる

となります。

 

 ただ11条もあると気配りポイントが多すぎて試験どころではなくなってしまいそうですよね?

 それにやや内容が重複しているものもありますし…

 

 ということで、これらを取捨選択集約抽出して、大胆不遜にもここで『新3大・国語読解の原則!』を決めてしまいたいとおもいます。それが、こちらっ!

  • 答えは傍線部前後!
  • 「同じ」を見つける!!
  • 決定打を探せっ!!!

といったところでどうでしょう?

※これは長〜い独り言ですので、現在、異論反論の受け付けはいたしておりません。

 

 決定打となる証拠・論拠の言葉を探したり、わずかに違和感を覚える言い回しに気づいたりと、このように国語の問題を追っていきますと、まるで推理小説のように感じられて楽しめそうな気がしてきませんか?

 国語おもしろいですよ。

 まだ国語を楽しめていない方は、名探偵になったつもりで謎に取り組んでみてはいかがでしょうか。

 

 理屈をつかまえてっ!国語はもっと科学的だから。

 

読解力測定

 読解力があるのかないのか?その指標となるようなものがほしいですよね?

 ビシッ!と数値で表すことは難しいですが、こんなことができるかどうかというのは1つの指針となるのではないかとおもいます。それは問題用紙への「書き込み」。

 

 問題文と模範解答とを照らしあわせてペンなどで重要語を囲ってみたり鍵となった文に線を引いてみたりできるかどうか。これをすることでいろいろな発見がありますし、またこれができるということは、問題文は「読めなかった」のかもしれませんが模範解答は「読めている」とおもわれます。

 このような書き込み、模範解答の「読解」を続けていけば「読解力」があがり、問題文も「読める」ようになるのではないでしょうか。

 

 そうして「読める」ようになってきますと、問題としての良し悪しも次第にわかってくるようになることとおもいます。「この問題はこういう答えも考えられて、答えを1つに絞れないからダメな問題」や「いや〜、やられたー。この言葉が効いていたのか〜。これは一本取られたなぁ」というように。そしてまた問題の良し悪しがわかるかどうかということも「読解力」をはかる目安となるのではないかとおもいます。

 

 どんな風に「書き込み」をすればよいのか検討もつかない方があるのではないかとおもいます。そこでこんな風にしてみてはいかがでしょう?という書き込み例を用意してみました。手書きのやつはあまりにも見づらいのでWordで描き換えましたけどね。

国語読解問題の問題&解答用紙(書き込み例付き)

 

 こういうこと→『高校入試24年分の英単語とアルファベット数を調べてみました』で国語についても調べてみて、24年分…は、しんどかったので5年分ぐらいしかやっていないのですが、はじめて色ペンを使って書き込みをしてみたものですから、はたしてこの勉強法は"正解"なのか?マークの仕方は妥当か?判断しかねるところがありますので、あまり信を置かず、あくまで例ということにしてください。

 

 でも、こんな風に書き込んでみるとなんだかつながりが見えてきませんか?

 そしてなにより、すっごく国語の勉強してる感が出てませんか?ちょっとだけかしこになった気にもさせてくれます。

 

「国語のセンス」の正体

 「国語はセンス」と言われ思われている節がありますが、これは問題文に使われている語や言い回しになにかちょっとした違和感を感じるともなく感得できることをいい、なぜかなんとなくそれをいつも察知できてしまうために問題が解けて得点するから「センスがいい」と形容されるのでしょう。

 

 国語に限らず「センス」というのは「類似性」なのではないかとおもいます。「設えがよい」「服のセンスがいい」など称するとき、なにか"理想"のようなものと比較して、それとの近さを賞していわれることがないでしょうか。

 

 芸術家であれば頭の中に思い描いたものに極めて近いもの、その類似物を造形・作画・表出・抽出しようと鋭意活動しているのではないでしょうか。

 若者はファッション雑誌などを参考にして、そこに掲載されている「センスのいい」スタイルの類似を追いかけてセンスを磨いているのではないかとおもいます。

 

 とくに国語の問題は「答えが書いてある」と言われるように、どこに答えとなる文が書かれているのかを探すという感の強い試験科目です。ただそれだけのことであるのなら、もっと解けて、もっとよい点をとれていてもよいものでしょう。でも残念ながらそうでもないという人が多数。

 

 そこでいわゆる「国語のセンスがある」と目されている国語の成績の良い人にその「センス」の正体、問題解法のコツを聞いてみると返ってくる答えは決まって「答え書いてあるじゃん」「ここに答え載ってるよ」だとか「ん〜…なんとなく?」といったように、期待してたんと違〜う!となること度々ではないでしょうか?

 わかるひとにはわかり、わからないひとにはわからないこのセンスの差はどこにあるのでしょう?

 

 それが「類似性」を感得するということろにあるのではないでしょうか。国語のセンスのある人たちがうまく説明できないのは、それを微かな「違和感」や「これは同じだ」といった、ほとんどの場合、そしてまたほとんどの人が無意識の内に感じているためなのではないかとおもわれるのです。意識してそれをしているのであればもうすこしうまく言語化できていて、すでにわたしたちにもっと有益な情報をもたらしてくれているはずですから。

 

 服のコーディネートなど、センスのよいひとたちは一目で「よい」か「わるい」かを識別しますが、それではなぜその組み合わせが「よい」のか?なぜこの色味では「わるい」のか?「感覚」ではなく「言葉」で、「理屈」で納得できる説明をしているひとにはあまりお目にはかかれません。この点、国語と似ていませんか?

 

 そしてまたこれは裏を返せば(…リバーシブルっ!うそうそ冗談)、この違和感を辿って遡ってみれば「センス」の正体に行き当たるのではないかと考えたのでした。

 

 こうしてできたのが今回の国語読解についてのエントリー。

 答や正答であることに納得できなかったところが、解説にある根拠をみて納得でき「これ以外に答えはない」「他の答えはありえない」と説得できていたら、今回のわたしの試みは成功したといえるでしょう。そうでなかったとしたら…ただ見当はずれでセンスがなかったというだけのこと。

 

 巷に溢れる試験や参考書の模範解答やその解説のなかには、何度読んでも、読み込んでみてもそこには「感情論」的なことしか書かれておらず、一向にまったく納得できないナンセンスでちゃんと説得してくれないものがあることとおもいます。

 それ、ダメなやつね。それをつくった人は「国語の勘」はいいのかもしれませんが、「読解力」についてはあやしいものですから。

 

「国語」を知らない国語の先生

 これが国語という教科、試験科目としての国語の考え方として正しいものなのかどうか、正直わかりません。わかりませんしまったくの間違いであるのかもしれません。が、それでもあなたはこれまでに国語についてこのように教わったことがありますか?数学のように理屈(?)屁理屈(?)に裏打ちされた説明を聞いたことがあったでしょうか?方式に則って解けばだれが解いても同じ答えが導き出せるような国語の授業を受けたことがありましたか?

 

 ないとしたらその国語の先生は、まだ(テストの対象となる試験科目の)国語を言語化できておらず、またそのために国語の先生も国語をわかってはいないのかもしれませんね。

 だからあやふやに説明され、なんとなく「読むこと」を教えられてきたのかもしれません。

 

 「気持ちを汲み取りましょう」の一辺倒で煙に巻かれてうやむやにされたことがありませんでしたか?

 「筆者の感情を読み取りましょう」というだけでそれ以上の説明がなされず、それで国語はわけのわからないものという認識を育てられはしませんでしたか?

 

 おそらくその先生は国語のセンスはあったのかもしれませんが、まだまだ勘に頼ったもので「国語力」や「読解力」が未成熟で、ひとに教えるというには頼りない先生だったのではないかをおもわれます。

 このような先生のもとでは、同様に国語のセンスのある生徒であればコーディネートの上手なファッションリーダーへと成長することもあるでしょうが、そうでない生徒は取り残されてダサい「国語オンチ」なままに放置されてしまったことでしょう。ご愁傷様です。

 

 自分の気持ちでさえわからず、また気持ちの解釈なんてひとによってまちまちで実に多様であるというのにひとの気持ちを理解しろだなんて、なんて難問を突き付けているのでしょう。なんと横暴で粗雑な対応でしょう。

 こんなんじゃあ答えは1つに絞られませんから問題には適さないというのに、模範解答やテスト解説でもやっぱりまた「気持ちを読み取りましょう」…はぁ?

 

 そんな国語の授業なのか道徳の授業なのかどちらなのかわからないようなことしか言えないのなら、国語か道徳のどちらかなくしたら?その方がよっぽど潔いわ。

 

 試験科目として、また学問として確立しているのですから、もうすこし国語を科学的にみませんか?

 

 

「読む」技術を教えるのが国語

 試験科目に「国語」があるのなら、その「国語」は数学のように考え、科学の解法のように理があるはず、あってしかるべきだとおもうのです。でなければなにを根拠に採点し、なにを基準に部分点を付しているのかわかりません。そうでなかったとしたら国語の試験の採点は採点者の気分次第になりかねません。

 

 『英語のバイエル』があるのなら『国語のバイエル』があってもいいのではないかとおもうのです。

 英語のバイエルよりも国語のバイエルの方が先に発明されていてもおかしくないのに。

 いやむしろそうであってしかるべきだとすらおもわれるのです。

 

 『国語のバイエル』…それは古典であるっ!

 と言われればそれまでのことなのでしょうが、それは(科目としてではない)国語のこと。それは『国語のバイエル』というよりも『国語のバイブル』により近いもののことでしょう。

 

 ですからそうではなくって、試験科目の「国語」の、「国語のバイエル」を国語学者か学校の国語の先生か予備校の講師か、誰でもいいのでそろそろどなたか発明・作成して確立しませんか?

 「バイエル」ではおかたいのなら「バーナム」でも構わないのですけれども。

 

 それは「学習指導要領」だっ!

 と言われるのかもしれませんが、そこに「国語」について、「読み方」について書かれているでしょうか?

 書かれていないのであれば不十分ですし、書かれているのであればなぜ指導要領に沿って学校では教えられていないのでしょうか?との疑問が残ります。

 

 「豊かな感情を育む」というような指導方針に異論はございませんが、音楽の授業のように、多様でつかみどころのない感情をつかむことを前面に押し出すというのだけでは、教師の感情や感受性の押しつけのようにしか感じられず、ただ「国語嫌い」「音楽嫌い」なこどもを量産するばかりではないかとおもうのです。

 

 「読む」技術を教えるのが国語という教科なのだとしたら、「読む」技術について書かれているものが教科書ということになるのではないでしょうか?はたして教科書にそれが書かれているでしょうか?道徳の教科書になってはいないでしょうか?

 

読むこと。と、…「読むこと」。

 「たくさん本を読めば国語力がつく」…とは必ずしも言い切れないのは、「読む」ということの意味が異なるからです。

 

 これは「見ようとして見ている(視界に入っていて見えている)」というのと「見ているのに見えていない(視界には入っていても見えていない)」ということ、「そちらに目を向けて見ている」のと「そちらに目を向けてはいても見えていない」という違いのようなものです。

 ひとは見たいものしか見ません。見ようとしたものしか見えていません。ただし見えていないということと覚えていない、または目にしていないということとは別ものです。

 

 ややこしい言い回しをしていますが、なにを言いたいかというと、国語でいえば、国語力を上げるには「見方」「読み方」を知らないと効果的ではないということです。

 

読むこと。すなわち聞くこと。

 「読めない」「読まない」というのは話しを聞いていないということに似ています。

 

 「読む」ということには2つあります。

 1つは字義通り書いてある文字を読むことができること。

 もう1つはただ文字を追うことができるということではなく、問題に必要な情報を読み取れる、出題者がなにを答えてほしいのか、なにを答えてほしいと思っているのかを読み解く、解くために読む(ことができる)こと。これは「行間を読む」だとか「空気を読む」ということに似たところがあります。

 

 たとえばこれを算数でいうのなら、「2+3=」と書かれていたら「にたすさんは」と答える人はいないでしょう。出題者は「にたすさんは」と答えてほしいのだと思う人、またそのように問題文を読む人はいませんよね?「5(ご)」と答えることでしょう。国語の試験で答えを間違えるというのはこれに似たところがあるでしょう。なにせ「読めていない」のですから。

 

 すると「読めない」「読まない」「読み間違える」といったことは、話を「聞けない」「聞かない」「聞き間違える」如きもので、その上で「解答」「返答」「返事」をしたところで会話は成立せず、お互いに理解し合えず、意志の疎通が取れないのは当然のことでしょう。

 

 つまり、答えるためには、書くためには、解答できるようになるには、前提として読めなければ、聞けなければならないのです。聴くことなしに答えることはできないのです。

 

 ゆえに、試験で求められているのはただひたすら…「読むこと」なのではないでしょうか。

 …って、これはちょっと言いすぎですよね。でも言っちゃいました。「新三大・国語読解の原則」に続いて大言壮語を吐きました。

 

こどもの「読解力」を育むには多読よりも1冊の本が効く!?

 読むことはただ字を追うこと。

 「読むこと」は本エントリー前半で詳説しました決定打を見つけて読み解くこと。

 このように読むことと「読むこと」とは異なりますので、「読める」ようになるためといってたくさん本を読んでも思うほど効果はあがらないのです。

 

 「国語力」をあげようと目論んで我が子にたくさんの本を(強制的に)読ませたところで、読破した本の冊数に比した結果は得られず親子ともども疲弊・消耗してしまい、点数は伸びずイライラと書籍代ばかりがかさんだ挙句、そうしてできあがるのは本嫌いのこどもということになってしまうのです。

 

 多読で得られるのは読解力ではなく知識です。

 本をたくさん読めば読解力があがると信じている親御さんほど読解力がなく、読解力とはどういうものなのかを説明できない、そもそも読解力とはなにかを知らない人なのではないかとおもわれます。自分の知らないものをこどもには押し付けるというのはいかがなものでしょうかねぇ?

 

 こどもの読解力をあげたいのなら、1冊の本を「読ませる」方がよっぽど効果があるでしょう。

 

 ただこのとき、「読ませる」ひとが「読める」ひとでないとリードするのは難しいでしょうね。

 反対に「読ませる」ひとが「読める」ひとであると読解力が急上昇するのではないかとおもわれます。

 だから学校の「国語の先生」の役割は大きいとおもうのですが…「読め」ているのかなぁ?

 

 1冊の本ということだけは共通するかな?「国語力」や「読解力」ではなく、国語力や読解力ということならこういう方が断然力がつくとおもいます。

〈銀の匙〉の国語授業

 

転倒する「読み」「書き」「計算」

 「読み書き計算」と言われるもののうち「読み」にだけ2つの意味があるのではなくって、「書き」にも「計算」にも2つの意味があるのではないかとおもいます。こんな感じに。

  • 読み:文字を読む。出題者の意図を読む。
  • 書き:文字を書く。出題者の望む答えを察して書く。
  • 計算:演算をする。人や自分を動かす巧知。

 

 「読み書き計算」というのはよくできたもので、ただ音がいいからこの順で言われるのでしょうが、「読み」「書き」「計算」の順に重要なのだと思います。

 見るべきところを見落とさず、微細な違和感を覚えてそれを適切に読み取り、そのために答えを書くことができ、計算を進められるといった具合に。

 数学の文章問題というのもまず「読め」なければ立式できず計算なんてなにを計算したらよいのか検討もつかないでしょう?

 

 「読め」なければ「書く」ことはできないのです。なぜならなにを聞かれていてなにを答えればわからないのですから。つまり「読むことは聞くこととみつけたり」といったところでしょうか。

 

 でもそれが昨今では倒立しているのではないか?また優先順位が逆転しているのではないかとおもいます。つまり「計算」「書き」「読み」の順に重視されているのではないかと。数学が、科学が大切。次に自己表現。最後に相手の意見に耳を傾けるといったように。

 

 その例のひとつとしてトランプさんを挙げられるのではないでしょうか。収益計算が何にもまして優先され、それをもとにtwitterで意見(脅し文句)を一方的に書いて従わせ、利益誘導し、その後で瑣末なことであれば話をきいてやってもいいぞ。といった感じのところがね。

 

 とはいえ今現在わたしは世間の強風どこ吹く風、性格や政策など諸々ひっくるめてトランプさんに対して賛成でも反対でもないちょうどフラットな感じなんですけれどもね。

 でももしこういうことなら、これらがほんとうなら、なにはなくとも通貨発行権奪回・政府紙幣発行に着手するというのであれば、たとえ実現できなかったとしてもただこれを正式に公言するというだけでも、この一手を指したなら、大きく賛成に傾き賛意を表すものです。どうなんだぁ〜?

トランプ政権は国際金融カルテルに挑む初の政権である | カレイドスコープ

トランプのリバタリアン軍事政権は国連とCIAを再構築する! | カレイドスコープ

 

 まあこのことは置いておいて…2019年度(2020年)にセンター試験が廃止され、より表現すること、「読む」ことより「書く」ことが今よりは重視されるようになりそうです。そしてそれに伴い指導方針や学習指導要領もやや「書く」ことに重心が傾くのではないかと考えられます。個々が考え個人で考える力を養成することはよいことだとおもいます。思いますが、いまだ個人の資質も教育(者)の側の「読むこと」もままならないというのに大丈夫かなぁと思うところです。

2020年の大学入試改革で本当に大きく変わるのか? - 妹尾昌俊アイデアノート

 

 あっちもこっちもうまいことやろうとして結果、片手落ち、下手をするとどちらも中途半端になって両手落ちにはならないかと心配でなりません。「読め」ずに「書く」ばかりのわがまま傲慢不遜なこどもが大量生産されたらどうしましょう。検証しないのも問題ですが検証できないからフェイクニュースが大量生産されるようになったらどうしましょう。

 

「読む人」と「書く人」

 小説家は国語力が高いとは限らないのは、小説家は「読む人」ではなく「書く人」「物書き」だからです。

 とはいえ小説家は読書家「読む人」であることが多く、また自分の書いたものを書いたそばから世界ではじめて読む読者でもありますから、概して国語力が高いことと思います。

 

 編集者や評論家は国語力が高くなければ困ります。読んだ上で修正や指摘、批評をするのですから。

 読まずにそれらしいことを言うのは夢想家か空想家でしょう。さらにそれを声高に訴えるようだと扇動家かなにかの類であって評論家とはいえないでしょう。

 

 ここまでえらそうなことを長々と述べてきましたが、「それじゃあそう言うあんたはいったい何者なんだ?」と思われる方もあるでしょう。

 「読む人」なのか「書く人」なのか「批評する人」なのか、はたまた「煽る人」なのか「教える人」なのか…これが五択問題であったなら、「国語読解のヒント2」で触れましたように、選択肢「エ」の「煽る人」である確率が高いと考えられます。

 

 そしてまたそれはあながち間違いではないのですが…実のところはこの選択肢の中に正答はなく、答えは…「フケる人」でした。

 「(読み)耽る人」ではありません。単に「老ける人」、より正確にはただの「老けた人」なのでした。

 

「読解力」のある人の読み物

 今回は「読解力」について書いてみました。当初は長くともこの3分の1程度で書ききれるだろうとの目算・予測でしたが…結果こうなってしまいました。

 

 こうなると「読解力」を上げたいとおもっている中学生を対象としていたのが、まったくそれには当てはまらない代物と化していますね。

 そんな人はいらっしゃらないとは思いますが、ここまでこの長文を読み切ってこられた方、また読むことのできた方は、そもそも「読解力」のある方なのだとおもいます。

 そもそも「読解力」のない方は読まないでしょうし、読もうとも思わないでしょうし、読んだところで読めないのではないかとおもわれるのです。

 

 こうしてこの読み物の対象はいつの間にか(←こなるとはじめからということになるのですが)「読解力があり、よりそれを向上させたいとおもっている人」となっておりました。言い回しも中学生向けではないところがそれをさらに助長していることでしょう(←「助長」て、中学生使う?みたいなね)。

 

 と、こういうことですから、ここまで読み通してこのゴールにまでたどり着いたあなた、あなたはもうすでに、この読み物を読むはるか以前から、優れた「読解力」をお持ちの方であったのだとおもいます。

 

 「読み書き」はコミュニケーション能力、会話、意思疎通をはかる人間社会で重視される能力です。ここまで長々と説明してきましたが、こんなお堅いことは抜きにしても、「読める」ということは人生をとても豊かにしてくれます。

 

 ですから、国語の勉強、「読み」の習得してみませんか?

 

 それでは Mon ami(e). Au revoir.

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 こちらにも国語の問題らしきものがございます。ご興味があればどうぞ。

…と促されても、もうお腹いっぱい目いっぱいですよね?

「文明国」をめぐる齟齬