とめどない不均衡
「無罪を勝ち取る」と言われますが、「無罪」は勝ち取るものなの?
誰と争っているの?
なにを争っているの?
係争って…へぇ~そう。
「勝ち取る」に対義語があるとするのなら、「負け棄てる」となるかとおもいますが、それなら無罪を勝ち取ることができなかった場合は「無罪を負け棄てる」ってこと?
自発的に棄てたわけではなく強制力をもって棄てさせられたことなのに?
罪は事実を問うのではなく真実が問われるもの。
普遍的な正しさではなく正しいと認められること。
だから判決を崇拝や普遍的価値の対象とするのは危険ですね。
罪と罰の不均衡
ある被告は麻薬の使用により刑事罰を受けます。ある方は不倫騒動でスポンサーに5億とも25億円ともいわれる違約金を事務所と折半で支払うようだと報じられています。
実際には数千万円ぐらいで億には達しないとおっしゃる方もあるようですが、ほんとのところはわかりません。
前者の方にも違約金が生じるようですけれども、それでも後者の方よりは少額なことはたしかなようです。
するとなんだかもやもやします。
善悪よりも契約の方が力をもつのですね~って。
その契約書には「不倫をしない」という記載があったのですかね?
契約社会だと突きつけたいのでしょうけれども曖昧な言い回ししてないですか?「当社のイメージを損なうような行いをした場合は違約金を課すことがある」みたいなかんじで。
CM登用もビジネスであり投資・投機の対象ではないの?現行のこの資本主義社会においては。
民事と刑事の往来
不倫は民事ですから本人たちが話し合って周りはとやかく言うことではないでしょう。相手が芸能人であっても報道しないようにすればいいのにとゴシップ嫌いはおもうのです。
ただだからといってみながみな「本人たちの問題」といって見て見ぬ振りをしてしまうというのもどうかと、すこ~しだけ、おもうところがあります。
まだ「民事」や「刑事」といった言葉もないころ、不義密通が厳罰に処されることがあった「刑事事件」のようなものとして扱われていたときがありました。それが時代が下り認識や慣習が変遷して今では「民事」となっているということがあります。
時の移ろいのなか「刑事」が「民事」に、「民事」が「刑事」になることがあります。普遍の"正しさ"はないのですから、常にそれを省みて更新しつづける必要があるでしょう。そのときなにをもって判断しますか?
事例として、またそのときどきの問題提起として各自考え、みなで話し合い、"そのとき"の"正しさ"を確認する作業も必要なのではないかとおもいます。ですから全員が「民事」に対して口をつぐんでしまうというのはどうなのかな?とおもったのです。
だとしても現在は踏み込みすぎですけれどもねっ。
法と規制の不均衡
スポーツ選手の賭博問題。
法に抵触しますし資金が暴力団等に流れてよろしくないことです。
これまで疑義の範疇を超えなかった為政者や高所得者のタックスヘイブンへの資金移動が、パナマ文書により晴れて白日の下にさらされて、このたび"確証"へと昇格いたしました。
こちらは法に抵触してはいませんが、その額はスポーツ選手の賭博問題に絡む額とは比較になりません。また、その資金は暴力団よりたちの悪いところに流れ着いているということもあり、賭博問題が問題とならないほど大きな影響力を発揮することもあります。
法も契約も誤解をなくすための方策だったとおもうのですが、それを利用することで誤解の入り込む余地を広げて増やしてしまっています。
謝罪を要求しない敗戦国に毎年要求する戦勝国
戦争は往々にして罪なき人々を傷つけ、罪ある人々を椅子に就かせたままにします。
謝罪を要求しない国に手を変え品を変え、言葉を変えてまた戻し毎年、年次改革要望書(日米規制改革および競争政策イニシアティブに基づく要望書)を提出する国ってどうなんでしょう? 年次改革要望書 - Wikipedia
それをせっせと履行してしまうのもどうかとおもいますけれども…。
「日本経済はアメリカ経済を後追いしている」とも言われますが、反対に「アメリカ経済は日本経済を後追いしている」とも言われます。
世界経済の経過を追いますと後者の見方の方が現在はやや優勢(郵政はあれですけれども…)でしょう。
そうでなるのなら、後追いの後追いではぐるぐるまわるウロボロスですよねぇ~。
まぁ以前は圧力に屈せず言うこと聞かなかったから功を奏して世界蛇にならなかったわけですが。
国連加盟国193ヵ国中クラスター爆弾も対人地雷も核兵器も、その製造・保有・使用を禁止する条約に(批准ではなく)署名している国は、いずれも150を超えるというのに手放そうとしない製造・保有する数ヵ国。
多数を抑止できる武力。(己が)自由の国。
かの国では「あの判断は正しかったか?」は「あの判断は国益に適ったか?」→「適った」→「正しい!」→「あの判断は正しかった」と問いが書き換えられ、言い換えられて回答されているようです。
正しいかどうかではなく勝つか負けるかに依拠した国益。
正邪も聖者も勝負に負ける国際世論。
評価と価値の不均衡
売れる文やわかりやすい文というのはすばらしさや評価の指標ではなく、大衆化や平準化の度合いを示すときがあります。
駄作でも宣伝広告の効果で売れてしまうこともありますが、多くは、読者に理解されること、読者が読解できることが条件となります。しかし難解で読み解くことが困難であってもすばらしい作品というものがあるでしょう?
万人受けしない不朽の名作というのもあるでしょう?
すると売れる文というのは一概にその作品が優れているとは言い切れないのではないでしょうか?
売れ行きと評価、あるいは評価と価値とが乖離していることってあるじゃない。たとえば「○○賞受賞」作がそれはそれはひどいものだったということが1度や2度あるでしょ?
品質と物語のモノガタリ
「個人作家さんによるすてきなハンドメイド作品が今、売れている!」というような番組がありました。
制作風景を見ていましたら、100均商品を解体して使っていたり、既製品を組み合わせていたりしていました。また、個人で作っているために手間暇が掛かり作業効率が一概にはよいとは言えません。
ですがその作品はそこそこの値で売れるのです。
「ひとは物を買うのではなく物語を買うのだ」という言葉がありますが、そういうことなのでしょうね。
売れるのなら、需要があるのなら機械化やライン生産(分業化)して大量仕入れで仕入れ高を圧縮した方が大量生産できで安価で提供できるでしょ?それに、ヘタをすると手作りより機械作りの方が丁寧で確実なこともありますよ。なのにハンドメイドで高単価?
手作り感といっても強度や仕上がりが自分の想像を超えていないと怒るでしょ?
それに手作り感がほしいのなら機械にちょっとファジー要素組み込んじゃえばいいだけじゃない?
でもそれじゃあやっぱり売れないんでしょうねぇ。「手作り」と「手作り風」では完成度に関わらず「手作り」の圧勝なんでしょうね。きっと。
変なの。
さにあらず
大昔。多少ムダではあっても機械化をすすめるよりも人を雇わなければならない。なぜなら雇用がなければお金が回らないからというようなことを書いていた本を読んだことがあるような気がします。
これって人が後退していませんか?つまり人が生きるためにお金を回そう!ではなく、お金を回すために人を使おうという感じで。
このような逆転劇があちらこちらでみられます。
不均衡は差。差は社会を駆動します。特に資本主義では必須ですよね。
差がなくなり均質になってしまえば停滞。変化がなくおもしろくないでしょうけれども、バランスを大きく崩した差というものも一方にしか傾かないシーソーのようなもので、これまた停滞オモシロクないものとなりましょう。
「差だけが重要」は差に非ず然に非ず。
一生懸命で誠実なひとほど生きづらそうな世の中ってなんだか悲惨だわ。
でも、ただ一生懸命であればいいともおもいませんけれどもね。むいていないことや苦手で克服できないようなことを一生懸命ちまちまやられてもまわりが迷惑することがありますから。
「一生懸命がなによりも大切」は賢明な判断ではないことは顕明。