テレビドラマの『トミーとタペンス』なんとか「秘密機関」を視聴しましたがなんとかでした。
ミステリーに限らずわたしのにがてなドラマ展開は、話さなかったから事態が暗転するというものです。
いつまでも話さないでおくからすれ違ったり危険を招いたり振りまいたり…うんざり。
さらにはつじつま合わせの強引な理屈に合わない言動や出来事・ハプニング、異常な主人公の強運。さらにそれで図にのって騒いではしゃいで首突っ込んで毎度毎度の危機との対面とその都度あまりに都合のよい筋書きに瞬間冷却器。
マンガ『DEATH NOTE』の回転ポルテを思い出しました。
過度に都合のよい展開は、読んでいるのではなく読まされているという意識が途端に立ち上がって冷めてしまうのです。
(ところで、戦闘もののドラマやマンガで「これが最後の戦いだ!」とか「これでおわりだぁ~!」といったセリフをよく目にしますが(とくに『NARUTO』の後半は…)なぜ最後だとわかるの?スポーツじゃないんだから、決戦やおわりなんて終わったあとに振り返って「あぁ、あれが終わりだったんだ。決定打だったんだ」ってわかるものじゃない?
「これが最後だ」って言えるのはそうとうの自信家か、万策尽きてこの一手で決まらなければやられてしまう追い詰められた者の強がりか弱音か、あるいは神の視線をもつ作者ぐらいのものでしょ?残心がなければ鳥刺しでやられちゃうよぉ。)
はじめて『刑事コロンボ』をみたときは受け入れられませんでしたが、のちに好きになったということもあるので「NかMか」も見ておこうかとおもうのですが、いやいやどうしよう、よくなりそうな予感がしない…
わたしをコロンボ好きにした決定打は、あれは確か「闘牛士の栄光」だったかとおもいますが、メキシコの警察署の事務机で闘牛についての本を読み調べているシーン。
「構想の死角」や「意識の下の映像」なんかでもたびたび本を抱えていたり、抱えさせられていたりすることがありますが、本を読んで苦慮している姿は「闘牛士の栄光」のほかにはなかったのではないかとおもいます(あったらすみません)。
みえないところでそうとうの労を費やしていて、その裏打ちがあるんですねぇというところが垣間見られていっきに惹きつけられました。
『トミーとタペンス』に対して『刑事フォイル』。
ミステリーものでわたしのにがてな、主人公が女性やこどもというだけではじめあなどられて邪険にされてぞんざいな扱いを受けるということがなく、清廉潔白正義の道をまっしぐらで、それを相手に押しつけて得々と感情に訴えかけるというわけでもないので、これはこれはという予感がありましたが、なかなかおもしろくない。
徐々におもしろくなりつつある感じで雰囲気あるのだけれど、あと一歩たりない。
(ポールの奥さんいけすかなくてイヤッ。)そんなこんなでジリジリしていたところ「50隻の軍艦」でやっとキターッという感じ。
あやうく見限るとこだったぁ~。
ホームズさんにしてもポワロさんにしてもコロンボさんにしてもマープルさんにしてもフォイルさんにしても、「わたしは(探偵だから)裁かない」といって見逃したり、(これはちょっと…というところですが…コインを傘にはじき入れて)証拠をねつ造したりして、頑なな善を振りかざすことなく、(犯)人というよりは(犯)罪に関心があって、どこか罰には興味が向かないといった風な、捜査のために心情を推し量るようなことはあっても批難したり嫌悪したり教え諭したりするようなことのない乾燥した冷風なかんじが好みです。
群れると調子にのる集団や熱っぽい体育会系はにがてです。
なので応援や指導をするときに大声をあげる松岡修造さんはにがてですが、虫取りアミでボレー、フライパンでスマッシュなど、視覚的にも体感的にもわかりやすい想像力豊かでクレバーな、あぁいう熱の入れ方は大好きです。
こちらもいかが?