勝利・当選後に選挙期間中に声高に掲げていた公約には目もくれず、選挙期間中は一言もしない、もしくは声を潜めて訴えてきたものだけを"民意を得たり"と独断断行し"勝者の歴史"が紡がれてゆく。
およそ100年後、今が歴史となったとき、社会科の授業などで「なぜあのとき国民は、日本はこんなマヌケな選択をしたのか」と言われるであろう茶番に参加したくはないのです。
政治に興味がないのでも思考停止に陥っているのでもなく、すすんで笑われ者のひとりになるようなまねはしたくないのです。
その意思表示のためのボイコット・棄権もあり?なのではないかなーと、おもうのです。
「選挙は意思表示の手段であって、それを放棄する・選挙権を行使しないことは意思表示を放棄すること・意思表示の機会を手放すこと」だという方もいらっしゃいますが、自由度が低く少ない選択肢の中から選ぶことだけが意思表示の形なのか。意思とはそれほど幅が狭く個性のないものなのか。いろいろとおもうところあって悩み中。からの病み中?
現政権下での憲法改正には反対ではありますが、憲法改正(の発議)自体に反対するものではありません。
といって、ではこれまでに戦後日本で憲法改正について一歩進めてもいいかも、と、おもえた政権があったかといえば、それはひとつもなく、こんな政府に憲法改正について考えてほしくないというものしかなかったのです。
こうして改悪されるぐらいならステイ・護持・護憲というメンタリティが、民意(とまでは言い切れないかもしれないけれど…)が形成されていったのではないでしょうか。
投票率による選挙の有効・無効ということも考慮されるような制度に変えてもいいのではないかとおもうのですが、国際緊張が高まる中では政治的空白をつくるようなそんな悠長なことはいっていられないと、それを非現実的な考えへと押しやって、選択肢も選択の余地も狭小にしてしまうから頭が痛い。
もう一度、痛い目を見ないとわからないようなので、自民党・不誠実な首相には大敗してもらいたいのだけれど、さりとて政権運営できそうな党が他にはなさそうだから政権交代するのは困りもの。だけど調子づかせたくないから比例で他党に入れるというのが最もな折衷案なんだろうけれど、だけどなあ…それじゃあなんだか悔しい。
「悔しい、けれど、気にしたぁあかんな。うぅん。」とはならないわ。
いつになったらこのような"バランス"っていうの?そういったものでではなく各候補者・各政党の政策で選べる選挙ができるようになるのでしょうかねえ…。