「旅行に行くならどこがいいか?」という問いには、たいてい南国のリゾートや物価の安い東アジア、やや過度におしゃれ地帯とみなされている感のあるヨーロッパという答えが返ってきます。
しかし、少数ながらエジプトやモロッコなどの砂漠地帯に行きたい。しかもそれはピラミッドやバザールなどが目的なのではなく、彼の地の荒涼とした砂漠をみたいという答えも聞かれました。
ただしそれはわたしのまわりではみな女性。
男性で砂漠を見に行きたいと答えたひとは皆無。
なぜ男性からは「砂漠」という答えが返ってこなかったのでしょうか?
ひとりぐらいはいてもよさそうなものなのに…。
ないものねだり
男性は結論のない、結局なにが言いたいのかわからない女性の話を嫌う。と、一般的にはいわれています。
常にどんなささいな話であっても"結果"を、"結論"を、"意味"を求め、会話自体を楽しむという感覚をあまり持ち合わせていないようです。
そこで無理矢理のこじつけとなりますが、男性が旅行地として砂漠地帯を選ばないのは、そこには"なにもない"から、"意味"がないからなのではないかな?と思いました。
そしてまた、もしかしたら現代アートは男性よりもより女性に受け入れられやすいのかもしれないね。とも思いました。
砂漠にはなにもありません。
水も命もおかまいなしに、非情にもすべてを飲みこんで、後にはなにも残しません。
"意味"をことごとく砂に変えて、無常にも、後にはなにも残りません。
そこにあるのは乾燥した砂だけ。
こう言ってしまうと「そんなことはない!砂漠には天体の織りなす絶景がある!」とおっしゃられる方もあるでしょう。あるいは砂漠にはオアシスがあるとおっしゃられる方もあるかもしれません。
それには、オアシスを否定するものでもないですし、なにもない茫漠の砂漠のなかにあっても存在定立している力強い"意味"、孤立していても自存する崇高な"美しさ"というものがあるということを無視しているわけではありませんよ。と、答えになっているようでいてまったくなっていない返答でお茶を砂で濁らせて退散させていただきたいと思います。
ただのこじつけなのでたいして考えていないものですから。
現代アートは砂漠にたてる意識
現代アートは"意味"を問うもので、一つの問題であってもいくつもの問い方が発明され、次から次へと新たな"意味"が打ち立てられてゆくのですが、それをせっせと設営しているそばから浸食は始まっており、すっかり作品が成ってもすぐまた次の"意味"の踏み台となるかのように砂の中へと埋まって生きます。
ただそこは砂漠。
埋葬されても乾燥しているために腐ることがありません。
斬新だった作品、エポックメイキングな作品は博物館・美術館、あるいは個人の持ち物として収蔵されます。
常設展示される作品は稀で、そのほとんどが生涯の大半を保管室で生き、企画展かなにかの折に一時復活して、そしてまた長い眠りにつく。このくり返し。
どのような解釈も受け入れる度量の広さを示しながらもそのことごとくを埋没させてしまう砂漠。
解釈も作品も意識も意味もすべて飲みこむ砂漠。
でも世界には砂砂漠よりもれき漠の方が多いんですよね。
れきが風化して砂へと変わりますけれども。
経年によって風化し、れきも砂へと変わり、後から後からやって来る新たな"意味"も粛々と砂へと変えていき、こうしてますます砂漠は広がっていき、ついに常世に砂漠に定立せられるものはなし。
今回はただ「砂漠に立てる意識」というフレーズを言いたかっただけで書き始めてみました。
書きすすめていく間になにかしら着地点を見いだせるかと見切り発車の見切り離陸で飛び出してはみたものの、その後くるくるなんども旋回をくり返して着陸できそうなひらけた場所を探してみましたが、ついに砂漠に滑走路は見つけられず、燃料が切れてしまい墜落してしまいました。
おしまい。