アートを主語にする
たとえば「フィギュアはアートなのか?」といったように「○○はアートなのか?」と問うことはもうやめて、「アート(と)は○○なのか?」や「アートではないものは何か?」と問題提起してゆくときがきたのではないかとおもう。
これは(本質的には)「アートとはなにか?」を問う変則変形変異体であり、それを可能としているのはアートのもつ汎神論的性格にあるとおもう。
というのも「人生はアートだ」とか「分子の結晶構造はアートのようだ」とか「絵になる風景」「芸術的な犯行手口」といった言い方はまったく不自然ではなく成立しており、それはあまりにも抽象的なものでも曖昧なものでも目に見えないものでも単なる空想の産物でも汚らわしいものであってさえも”アート”の名が冠され違和感なく存在するのだから。
述語なアート
こどもや動物の描いた絵に美(の片鱗)を見出したりアートとして受容されていたり、そもそも「そんなものはアートではない」と微塵も疑っていない人や場合があります。
立場や関係性などの謂わば物語や背景といった物質的な作品には一切あらわれない、部外者・他者にしてみればなんの価値もない事物が、その作品の決定的な評価基準となっているアートがあります。直截に言って「そんなものはひとによる」といったものです。
ひとによるわ、作者によるわ、物語・背景によるわ、で、こんなんで「あれはアートで、あれはアートじゃない」なんて論争は喧騒でしかないようにおもう。
そんな不毛なことはもうやめにして、「コレはアートかアートではないか」ではなく「なにがアートか、アートとはなにか」を考えた方が建設的ではないだろうかと。
物体としてはすでに消失してしまっていても、また意図的にそうしたものも記録ばかりか記憶にしか残っていない、後にはその記憶でさえ失われてしまう一瞬や出来事、目には見えず跡形もなく消え去ってしまうものでさえアートといわれるものもあるわけですし…
ということで、世の中み~んなぜ~んぶアート。
特に作者や鑑賞者が「これはアートだ」と宣言し主張するものに至っては疑う余地なく紛うことなくアートだと決定!おめでとう、おめでたい。これでいいのだ。
アートがランラン
アートが氾濫すればその価値は目減りし凡庸となって怠惰な世界観が蔓延する。
あるいはアートの汎神論性から、すべてが高貴となり光輝な世界で満たされる。
この相反するふたつの価値観、世界像のせめぎ合いの結果、どちらか一方の一色に染まらない世界観でバランスしているのが現在という今のアート観を形成しているのかもしれない。
もしくは、どちらにも完全に傾ききらない姿勢、その曖昧さとそれがもたらす混乱や混迷はアートの反乱なのかもしれない。