あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

『「表現の不自由」展』というインスタレーション

『「表現の不自由」展』という現象

 「表現の不自由」展は議論と脅迫を呼んだ慰安婦像をモチーフとした「平和の少女像」などを展示したことにより期間半ば(開催から3日目)にして中止となったので、企画展としては失敗、それも大失敗。

 しかしそのために『「表現の不自由」展』という”作品”は、この企画展中もっとも成功した(インスタレーション)作品、それも超大作となりました。

 そしてまた今なお成長し続けている…

 

不滅の 『「表現の不自由」展』

 たかが一企画展に人々が右往左往する様は滑稽に思われるひともあったでしょう。

 また反対に、政治的に、プロパガンダに”芸術”の名をカモフラージュに国辱を与えるものとして利用しているところ(加えてそこに税金が用いられている点が不適切である)など、到底見過ごせない国益に反する重大事と考えるひともあったでしょう。

 いずれにしろ『「表現の不自由」展』という”作品”には、いかなる解釈をも許容、または拒絶してしまうスケールの大きさがあります。

 その大きさは、場合によっては宇宙全体をも包摂してしまうほどに…。

 

 というのも一般的なマテリアルな作品であれば華氏451度で燃やしてしまえば(写真等で複製は残ったとしても作品それ自体は)消却できますが、『「表現の不自由」展』という”作品”は、一度現出してしまったからには不滅。

 

 「不滅」とはやや過言な感がいなめませんが、「人とは、表現する生き物」であるならば、あるいは「人間あるところに表現あり」「人類が存続する限り表現は止まない」「世界は表現に溢れている」…(…なんでもいいですが…)…ならば、形がなく”表現”というものがなくならない限りこの”作品”は存続するでしょう。

 

”作品”となった『表現の不自由」展』

 さらにいえば、一般的なインスタレーション作品とは異なり、この企画展に出向き『「表現の不自由」展』という”作品”に触れたことがなくとも新聞やテレビ等の既存の主要メディアだけでなく、SNS等のコンテンポラリー(当世風な)なメディアを利用して拡大・拡散し、”作品”に取り込み作品の一部としさらに拡大、「表現の不自由展」にはまったく関心のない人も、また一切この”作品”について知らない人でさえ、その人間関係や世の空気、風潮といったものなどを通して無知のままでも無意識・無自覚のままに”作品”に取り込まれます。

 

 するとこの”作品”は、”作品”に取り込まれた人が生きているあいだは生き続けます。そうして延々と、その盛り上がりには盛衰があろうとも縷縷として繋がり、拡がり、継承され、生き続けます。

 

 無関係であっても無関心であっても、その絶対的な求心力により作品の一部へと取り込まれてしまいます。この作品からは何人も逃れられないのです。その影響力は今はまだ生まれてもいないひとにも、またもうすでに故人となったひとにも及びます。

 

 この作品を焼却するには、資料や記録といった存在・痕跡を滅却し尽くし、万人に忘却をもたらさなければなりません。この作品を失くすには忘却の彼方に追いやるしかないのです。つまり不滅。つまりは不朽の名作。

 

 抗議するひとも傍観するひとも、またなんの関心もよせないひとでさえ、すべてのひとがこの作品に包摂され作品の一部とされました。

 その意味でこの企画展に出品された作品はダシに使われ蔑ろにされたといえなくもありません。そしてまたわたしたちすべてのひとが。

 

 この作品の登場前後で世界は一変しました。

 どんな解釈を与えようとも成立し、たとえいかなる解釈を与えなくとも成立してしまう。創作活動だけに限らず、平凡な、単なる日常生活でさえ作品の一部とされ、作品化されてしまう・してしまう壮大にして無礼な、下品にして崇高な作品。

 

遠大なる目 または entanglement

 『「表現の不自由」展』が”作品”として成立するのであれば、『「表現の不自由」展』だけに限らず、その他いかなる出来事・事柄・事象も作品化、作品として成立してしまい、世に”作品”でないものはなくなり、翻ってすべてが平凡・凡庸・日常・普通なものとなり(←陳腐なものへと成り下がるといってもいいかもしれない)、”作品”であるものはなくなります。

 すると、世に”作品”はなくなってしまうのだから『「表現の不自由」展』を”作品”であるということできないと思われるでしょう。

(「すべて芸術だーっ!」「アートでないものはないっ!!」としてしまっても別段まちがいでも悪いことでもないですけれどね)

 

 しかし『「表現の不自由」展』が日常の些事、他の企画展と違って”作品”として成立しうる点が、まさしくそのタイトルにあります。

 もし仮に、この企画展に「表現の不自由」という名が冠されていなかったら、『「表現の不自由」展』は”作品”たりえませんでした。

 また『「表現の不自由」展』ではなく『「表現の自由」展』であったら(展示物にもよりますが)物議を醸すことはなかったでしょう。

 つまり、この企画展の巧妙にして、この”作品”の肝は、まさに名前にあるのです。「表現の不自由」を問い、「表現の不自由」をめぐって議論・問題が沸き起こったのですから。

 

 正確(?)には、あるいは厳密(?)には、明確な作者がおらず、また後出しジャンケンのように論争が巻き起こった後に”作品”としていることからインスタレーション・作品とはいえないんですけれどもね。←『「表現の不自由」展』を”作品”として散々話しを進めてきておいてここへきて急遽宗旨変え、”作品”ではないと否定するところも❝もつれ❞ていると・こ・ろ。

 

歴史の遺棄証人

 美術史においてこれほど大きな出来事があったでしょうか。美術界だけでなく思想界にも、そしてまたあらゆる世界に衝撃を与えた大事件。

 これは看過できない一大事件…のはず…が、…それに気づいているひとは少なく、察知してはいてもそれほどの一大事だと認識しているひとはより少ない。

 これは静かなる激震。それも大激震。

 このことは後の世、歴史が証明することとなるでしょう…

 

…と、おおいに遠大に煽っておいてさいごに、わたしはこんなことをほんきで信じてもいないし、仮にたとえそんなことになったとしても「大したことない、些末なことだなぁ」とおもうことだということ。