あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

目的を越えて昇華する責任

自由、強制、権力、暴力を定義し直す

 『中動態の世界』と『〈責任〉の生成』の二冊において、浪費と消費の違いやフーコーの権力と暴力の違いといった話はやや浮いた感じを受けるかもしれません。これらの内容がどのように責任と関わっているのかがややわかりづらいと感じられるところで、そこにコラム的な印象をもってしまうかもしれませんが、この部分は責任、というよりも自由に関わるところで、その自由が責任と関わってくるため重要なパートとなっています。

 

 このパートでは「自由」と言うと、ともすれば万能自在な自由、いわば神の視点のなんでもできる自由を思い浮かべられてしまうところをそうではなく、自由というのはなにか、自由とはどういうものかを定義、提示しているところです。

能動の度合いによる自由

 フーコーは、権力は行為に作用し、暴力は直接身体に働きかける力だと整理しました。

 これを萱野さんは相手を武器で脅して行為・選択を迫るような場合でも、逃げるなり抵抗するなりまだ行為可能性があるので権力であり、暴力は直接相手の身体に触れてあらゆる可能性を閉ざし、ひとつの行為・動作しかできないようにする力であると解説しています。

 そして國分さんは制限されているとはいえ抵抗するか従うかなどの選択肢・可能性のなかで行為しうる能動性が残されているのが権力で、あらゆる行為可能性が閉ざされる受動性の極みにあるものが暴力であると説きます。

権力は相手の行為する力を利用するが、暴力は行為する力そのものを抑え込む。

『中動態の世界』p.147

 また、スピノザは行為の矢印が自分から発していれば能動であり、行為の矢印が自分に向いていれば受動だという一般的なイメージに反して、変状がその個体の本質を十分に表現しているときは能動であり、外部からの刺激に圧倒された変状がその個体の本質をほとんど表現していないときは受動であるというように、能動と受動とを方向ではなく質の差として捉えています。

 

 上記のようなスピノザやフーコーの考えから、自由(と強制、また権力と暴力)とは能動の度合いによるものなのだと定義し、自由になる方法、つまり能動の度合いを高めること、そしてまたひとは自由を求めているのだということを導出しています。

コナトゥスという、人間の心身を貫いているある種の必然性にうまく従うことが能動性へと至る道となります。そして、能動性の割合が受動性の割合より増えれば増えるほど、人間は自由になっていく。スピノザは、自由というのは、束縛がなくなることではなくて、自分の力や本質が十分に表現されることとして考えました。

『〈責任〉の生成』p.267

浪費・消費は能動・受動と対応する

 では、浪費と消費の話は自由とどのように関係するのでしょうか。

 話を始める前にこれだけはおさえておきたいとおもいます。浪費や消費は災害や貧困といった生存の脅かされていない、日々の生活にも困窮していない、安全な環境が確保されているところでしか成立しないということです。

 

 消費とはものそのものではなく情報や観念的な記号を受け取ることで、浪費はものそのものの情報を生存の必要を越えて過剰に受け取ること、つまり贅沢することです。

 もっと単純にいうと、浪費はモノを受け取ること、消費はコトを受け取ることです。

 たとえば消費は、水を飲めと言われたから飲む、健康に良いと聞いたから飲む、推しが飲んでいるから飲むなど、目的が対象の水以外にあり、水からは情報を受け取っていません。目的が水にないだけで目的がないわけではないので目的的だといえます。

 

 対して浪費は必要にかられてではなく飲みたいから飲み、味わって飲むなど、水から情報を受け取っていますが、生存という目的からは逸脱していますので無目的的だといえます。また、しなければならないこと、必須なことではない目的を越えた余剰な行為なので贅沢ともいえます。

 

 消費は外部因子によって行為が促されるので受動的で、浪費は内発的因子によって行為に及ぶので能動的で自由と対応しています。この能動性は中動態と対立する能動と対応します。つまりそれは主語が過程の外にあるか内にあるかということです。

 必要や目的は手段を促し正当化します。目的は行為を強要します。つまり受動の度合いが高く不自由に近いものです。反対に、目的のない浪費は能動の度合いを高めることなので自由に近いものです。

 

 こうして浪費/消費の関係は能動/受動を介して自由の話へとつながります。

 ちなみに、先の権力/暴力の関係で挙げた能動は状況によるものでやや消極的な、やや受動的な自由であるのに対し、浪費/消費における能動は自ら快を求めるような、そんなやや積極的な、やや能動的な自由であるという違いがあります。

 

 自由が能動の度合いによるものであり、豊かさに関わる浪費・消費もまた能動の度合いによるものだとわかりました。

 そして今度は能動の度合いという指針をもって責任について再考してみますと、能動の度合いによって自由度が異なるのではないかとの推測が立ちます。

創造される自由と他律依存な自由

 浪費・消費と自由の話をつづけます。

 

 ラーメン好きがいます。ラーメン好きはラーメンを食べたいと思い今日も食べます。しかしラーメンはもともとあったものではありません。あるときにあるひとが作って広まって今に伝わるので今日もラーメンが食べられます。

 またラーメン好きは、まだ食べたことのないラーメンや新しいラーメンを食べたいと思い今日も探して食べます。

 つまり何が言いたいかというと、つくられた自由やこれからつくられる自由もあるということです。

 ラーメンのなかった時代に新しい料理であるラーメンというものを知る由もなく、ラーメンを食べる自由はありませんでした。

 

 また、ラーメン好きはラーメンを食べます。ラーメン好きはラーメンを食べることが好きなわけでラーメンを作ることが好きであるとは限りません。むしろ食べたいだけで作ることはできないしできたとしても不得手でありわずらわしくもあるので作りたくないと作ることを拒絶するほど嫌っているひともいるかもしれません。食べたいけれども作りたいと思うかどうかはひとによります。

 つまり何が言いたいかというと、自分の自由のためには他者を要する他律依存な自由があるということです。

 

 これらの例から、創造された自由、つくられた自由を享受するために他者を介する、他者の行為を必要とする自由もあり、むしろわたしたちの周りにはそういった自由の方が多いということがわかります。

 またラーメンの話なので贅沢な話でもありますし、消費も浪費も発明されうるし他者を要することもあるし、その情報の受け取り方はさまざまだという話でもあります。

 

 自由や欲望はつくられるといった話は特に『暇と退屈の倫理学』の第三章が詳しいです。

相互能動関係なサドマゾヒズム

 サドマゾ関係はマゾが支配的であるという考えがあります。というのもマゾがサドの行為を促すからだといいます。だとするとマゾは自分の望むようにサドの行為を誘導しようと行為・誘うので受動的でありながら能動的です。そしてサドは実際の支配関係はどうであるかはわかりませんが自分の興奮度を高めるために好みのなじりかたで相手を支配しようと行為・調教するので能動的です。つまり互いに能動でともに自由に近づく共栄関係にあります。傍目からは理解できなくとも当事者は豊かな時間を送っていることでしょう。

目的をズラして自由

 要介護者は意思したのと同時に極力遅滞なく介助者の身体を使って自分の身体を思うように動かせることが理想です。

 一方、介助者は相手を想い状況を考えて相手の意向を先取りして要介護者が思う通りに動けるように動けることが理想です。

 要介護者にとっては望む通りに身体を動かせるようになるので能動性が高まり自由が高まります。

 この介護関係における目的は、介助者は要介護者が思う通りに動けるように要介護者のために動くということですが、これを要介護者が思う通りに動けるようにサポートできる自分になりたいという目的になったとしたらどうでしょう。要介護者のためという目的が自己実現という目的へとズレます。しかも能動的に。目的にとらわれずそれに拘泥しないということがより自由に近づくということもあるという例のひとつでしょう。

 お互いの能動性が高まるようにそれぞれの快を求めることは相互の自由に近づくことでもあります。

 

 介護関係において、介助者は要介護者の身体を演じるという側面をもち、また要介護者からすると介助者の身体に自分の身体(の代行・感覚)を反映させようという部分あるいは拡張した身体を演じるという側面もあります。

 

 介護の場では要介護者の被支配的側面が多少損なわれようとも介助者にいちいち指示を待たれるよりも介助者にある程度自発的に動いてもらった方がより自由に動かせてより自由に近い状態になるといいます。

 

 受動/能動を超えるほどに自由に近づき主客の別も曖昧になるらしいということがいわれています。主客の別がなくなり自由になっていくということは快が近接してきてコナトゥスが一致してくるのでしょう。

 

 要介護者が身体拡張を目指すのは現状を超える過剰であるといえなくもなく、また、介助者が要介護者のためというより介護を通して自己実現を目指すという目的ずらしは目的の逸脱といえなくもありません。そうでなくとも要介護者が思う通りに身体を動かせるように介助者が介護することはいわば介助者の要介護者に対する忖度であり過剰な配慮といえなくもありません。

 

 サドマゾもそうですが、この介助者も要介護者も、どちらも相手の身体を浪費する相互浪費関係となっています。

 相互浪費関係では浪費ですので贅沢でもあり、贅沢であるから快もあり、そしてまたお互い能動的であるのに互いの身体の別が希薄になるという自発の自動詞、自然の勢いに近づきます。

 

 この話に続くのがチンパンジーの自己認識や先に挙げたサドマゾ関係についてです。チンパンジーの話からは自己意識は他者がいなければ形成されないこと、サドマゾや介助の話からは相互浪費関係が自由により近づくものであることが示唆されており、これらを総合すると主客の分別が薄まるほどの他者との相互浪費関係の構築は自由に近づくことだということです。少なくともその方法、その様式のひとつであるといえるでしょう。

他者のいる自由

 國分さんは『目的への抵抗』で、必要と目的に還元されない生が生の核心であり、人間らしさ、ひとの豊かさにつながるのだといいます。

 相互浪費関係が自由につながるかは定かではないにしても、相互浪費関係がひとの豊かさにつながるものであることは間違いないでしょう。

 

 チンパンジーの話からは、動物には概念を扱う能力がなく自由を創造できないので、自由を享受できるのは人間だけだともいえなくもないし、動物は自由を知らないからこそ自由を意思することも自由にとらわれることもないので人間よりも自由なのだともいえなくもないということも読み取れます。

 世界形成的で環世界を生きる人間は概念や言語を獲得したので自由や責任を創造し、知り、考え、有することができますが、動物はそうではありません。知らないどころかその概念すらない。概念すらないので自由や責任があるともないとも言い得ません。そうであるからあるともいえますし、ないともいえる、ともいえます。

 

 『〈責任〉の生成』でも『暇と退屈の倫理学』増補新版付録の「傷と運命」に触れてサリエンシーについて語られているところがあり、そこでは傷や傷の記憶といったサリエンシーという他者への慣れから自己が生起するといわれています。

 言語創造も概念創出も社会がなければ形成されません。そしてその社会の構成要素である自己は他者を要する。サリエンシーにしてもするかされるかの能動受動にしても他者は欠かせず、他者を介して得られる慣れもあるといいます。そして当事者研究においては他者に発表することで回復し、自ら責任を負うようになることもあるといいます。

 

 『中動態の世界』『〈責任〉の生成』『スピノザ』『目的への抵抗』と通読して今、再び数年前に読んだ『暇と退屈の倫理学』を読み返してみてたくさんの衝撃を受け〈とりさらわれ〉て〈動物になること〉度々。そのなかでひとつわかったことがあります。それは國分さんは一貫して自由について、そしてひとの幸せについて考えているということです。わたしのなかでは自由論の哲学者です。それも切れ味抜群の切り口巧者。

受動の責任は義務、能動の責任は自由

 前回、責任に限らず「引き受ける」というのは能動の発露で、能動の度合いが高まるので自由につながるという見解に至りました。

 それでは押し付けられる責任はどうでしょうか。「押し付けられる」ので受動の度合いが高く不自由に近いものです。

 

 ところで、責任には賠償や制裁、負担や責めとともに義務という意味もありました。この押し付けられる責任こそ義務なのではないかとおもいます。

 子どもが生まれれば親としての責任が生まれ、ある地位や立場になれば望むと望まぬとに関わらず相応の責任を負います。

 また、生まれたときにはもうすでに社会があり契約があり法があり規則があり慣習があって、それを幼少期より教え込まれます。

 はじめは抗うすべもなく、せいぜいが泣いたり喚いたりして無駄な抵抗を試みるぐらいで、後に知恵がついてくると規則の中に理不尽や不合理、時代錯誤などがあったりして強く反抗したりした覚えのあるひとは多いことでしょう。

 規則に不都合がなくとも、ただそれが規則であるからというだけで強い抵抗感をもった時期もあったでしょう。

 

 この抵抗感はどこからくるのかといえば、それが「押し付けられた」という受動感からです。

 極端なことを言えば、牢の中にあっても能動的にそこに入り留まるのなら快適さや自由を感じることでしょう。

 戦火のなかで恐怖ではなく興奮を覚えるひともいるそうですが、それも能動的にその状況を引き受けているからではないでしょうか。

 

 ここまでの内容を一文でまとめてみますと、押し付けられた受動の責任は義務、引き受ける能動の責任は自由、となります。

 

 とはいえ、ここはそんなもってまわった言い方をしなくても、押し付けられる義務と引き受ける義務とがあり、前者には抵抗感を催し後者には自由を感じるというだけのことです。

 

 「自由は認識によってもたらされる」といわれますが、自由はどこにでもあってどこにもないものなのでしょう。同様に責任も。いや、おそらくはすべてが。

機能としての意志が意志する現在

 押し付けられる責任と引き受ける責任とでは出自が異なり、意志の生成過程も異なりました。

 押し付けられる責任では、責任を問うために行為者の行為を遡って意志が創出されましたが、引き受ける責任では、引き受けるという意志を意志するところに意志が創出されて責任を自ら負います。

 

 目的という語を使って言い換えれば、責任追及という手段を用いて行為者の意志を創出するという目的を達したのに対し、責任を引き受けるという目的のために決断する意志という手段を用います。

意志の機能

 引き受ける責任ないしは能動の自由には決定的な欠陥があります。

 それは過去の忘却を強いる意志でもって過去を引き受け責任を引き受け自由へと向かうということが可能なのだろうかということです。

過去の遮断の解除が責任の前提条件になる

『〈責任〉の生成』p.401

 「過去の遮断の解除」とは、過去の出来事と向き合い、自分がその過程の内にあったことを受け入れることです。これを棚卸しと表現されています。

 それまでは意志の能力の切断でもって過去の出来事を遮断し、始まりであろうとし、忘れ、憎んでいました。

 

 過去には切断よりももっと前、自分が生まれるもっとずっと前、それでも自分ともいつかつながる人類や宇宙の歩みといったその出来事の根本原因にまで遡れるような、そんな逃れられない運命的な過去も含んでいます。

 

 過去の出来事という傷があまりにも大きいと、過去を回想しないように毎日を始まりにしようと依存行動に走ってしまったり、あまりにも大きなサリエンシーに慣れようとする退屈しのぎの行為に及ぶこともあります。

 

 依存行動や退屈しのぎは生存に関わることがあります。ですからこれらの行為は消費にあたるのではないかとおもいます。消費であるから際限がない、止まない、繰り返す。

 これを浪費行動に変えることが生存を維持し豊かな生を送る責任の取り方になるのではないかとおもいます。このとき費やされるものは何かといえば、自分の時間であり被害者への贖罪なのではないかとおもいます。

 そのためにも棚卸しを要し、「AA12のステップ」の中のステップ8「私達が傷つけたすべての人の表を作」ることを求められるのではないかとおもいました。

 これがなければ変えられない過去であるからこそ際限なく回想できてしまうものを、語弊があるかもしれませんが、変えられる一応の際限がありそうなものにはならないとおもいます。

 

 わたしには「回想しないように」や「責任を負う」というところに意志が感じられます。これは意思の方が近いかもしれませんが、意志として進めます。

 するとここには意志が生じ、ここでも切断が行われているのではないかとおもわれたのです。ここというのはどこかといえば、それは現在です。

責任は現在にしか現前しない

 引き受ける責任について考えていたとき、切断を出発点とする意志と引き受ける意志とは別ものなのではないだろうか、まったく同じというわけではないだろうから言葉だけでも区別しようか、それともカントさんから悟性(能動性)を借りて来ようかとも考えていました。それも悪くはないかともおもいましたが、それでも意志は意志、分けないほうがよいと思うに至りました。

 

 意志の能力は切断でした。

 切断によってその切断点を出発点とする意志が創出されるように、現在において過去を引き受ける現在で切断し、その切断点、現在点を出発点として意志を創出する。

 乱暴な言い方をすれば、始まりになろうとするならいっそ新たに始めてやろうという意志です。

 つまり、いずれも意志の能力である切断の効果によるものです。ただし切断するところが異なります。

 前者は受動的で後者は能動的です。

 ということはいうまでもなく後者の方が能動の度合いが高い、つまり、より自由に近い。

 

 回想しないようにする意志も現在の出来事です。能動的ですから自由ではあるのでしょうが、そうしなければ生存が脅かされるという切迫した状況に強要されているところもありますし、消費行動なので能動の度合いの低い自由です。

責任ある現在

 ある過去の事件において、実際に責任・過失があったとしてもなかったにしても、過去は変えることはできないので、責任を取ることも取らせることもできず、できることといえばただ過去を憎むことぐらいです。

 

 言葉ではなんと言おうとも実質、過去や未来の出来事の責任は取り得ません。

 実際に、実質的にも責任を取れるのは常に現在でしかありません。

 将来、賠償すると言ったところで今はまだ口約束に過ぎず、子供の責任を取ると言ったところでなにかが起きてそれに対応するそのときまでは単なる意思表明でしかありません。

 

 本来の責任とは応答すべき出来事の前で反応することでした。

 すると本来の責任というのは過去を引き受けた現在にしか現象・現前しないようです。責任は現在にしか落ちていない、現在でしか負えず果たせないもののようです。

 

 能動/受動/中動のように時制に絡めて考えてみますと、過去のある時期に負っていた責任や過去から今に続く責任など、責任ある状態というのは幅があり、その期間中はずっと責任を負っているものだとおもうのですが、そうだとすると責任は完了進行形的で常に蠢動している停止とは無縁な感じがしました。これもただの予感の余談です。

目的のない自ら自ずから引き受ける自由

 絶対とは言わないまでも変えられないものを引き受ける、変わらないものを引き受ける、この構図は中動態が失われる前にひとびとが抱いていたのではないかと想像される運命を受け入れるというものに似ているのではないかとおもいます。

 このとき運命を受け入れて覚悟したひとは晴れやかな心持ちのうえ鬼気迫る開き直りで嬉々として状況に臨んだということもあったのではないかとおもいます。

 そしてまた運命に身を委ねたひとの姿が遊びに興じるひとのようにみえることもあったことでしょう。

 銃弾飛び交うなかブラックジョークやウィットに富んだ会話を楽しんだひとたちが少なからずいたことでしょう。フィクションの世界ではありますが、戦争映画ではそのような場面が度々描かれています。

 

 責任はつっぱねることもできます。それも自由です。ただ能動の度合いが異なるだけです。

 自由のなかでも能動の度合いがもっとも高いとおもわれるのは、目的のない自ら自ずから引き受けるものでしょう。自ら自ずから引き受ける責任とは目的を越えて昇華する責任の言い換えなのかもしれません。

 敗北必至の死地へ赴く武将は自ら、そしてその状況から自ずから運命を受け入れて自由を甘受するような心境であったのかもしれません。

 あまりに大きなサリエントの前ではなにも見えないかもしれませんが。

機能世界論

 國分さんは『目的への抵抗』で、はじめ哲学をやるぞとは思っていなくて、30歳ぐらいのときに自分がやっているのは哲学なのだなとハッと気づいて自分なりに哲学を引き受けようかなとおもったと自己紹介していました。

 

 わたしはこれを聞いてハッとしました。「引き受ける」を責任と読み替えると、哲学を引き受けようとおもって以降は責任があるのですが、それ以前は哲学をやっていたので責任はあるのですが、哲学を引き受けている意識はないので責任意識もありません。あったとしても無意識の責任です。

 

 極端な言い方をすると、責任のなかった過去のある期間、または責任のなかった過去のある地点から現在にいたるまで、現在から振り返って責任が付されています。

また、過去に引き受けた責任を引き受けるのも現在においてです。

 

 堕落した責任は出来事を遡及して過去のある地点を切断し、そこに自由意志を付して責任を問うためにそれを押し付けるような責任のことでした。責任を問うという目的のために振り返る、遡及するという手段・手法をとっています。

責任から倒れて意志で立ち上がるドミノ

 意志は行為の連なり、選択の連鎖の遡及を過去のある地点で切断し、そこを出発点として仮想的な意志を生み、先に挙げた責任の生成過程同様、意志のなかった過去に現在から振り返って意志が付されて、これまでずっと意志があったことにされます。

 

 わたしははじめ意志が生成される過程を聞いたとき、ドミノのが頭に思い浮かびました。

 ある事件の責任を問うために出来事の連鎖を遡り、行為者がその事件に直接関わり出す過去のある地点が事件の出発点となるように過去をそこで切断し、そしてそこに意志を置き、今度はそこから現在に向かってあたかも以前からそこにあったかのように意志が立ち上がっていきます。

 責任追及のドミノが過去に向かって倒れてゆき、衝立にあたったところで今度は逆向きの力が働いて現在に至るまで意志のドミノが立ち上がってゆくイメージです。残高, ドミノ, 仕事, 危険, ストラテジー, 概念, ゲーム, ブロック

存在感のある機能

 このような自由や責任の実体や実感のなさ、ある種の幻想感はどこからくるのでしょうか。

 おそらくそれはそのように感じるというだけのことではなく、実際に幻想だからなのでしょう。

 意志の自由は否定されました。機能としての意志は認められても意志自体は否定されました。意志だけでなく責任も自由もなにもかも、機能は認められてもそれ自体は否定されます。この実体のなさやその機能(の有用性)について思うとき、わたしはフォン・ノイマンの自然数の構成法が思い浮かびます。

  • 0=∅={}
  • 1:=S(0)={0}={{}}
  • 2:=S(1)={0,1}={{},{{}}}

 この実体がないのに機能性が高く、数が上がるほどに視認できないほど透明な袋が多層化してゆくようで一層存在感を増してゆくところに類似点を見ます。

 

 わたしたちは世界の機能のなかで生きているのでしょう。サリエンシーの慣れの塊として。

 

 先に受動の責任は義務について話しましたが、このような受動(の責任)でさえ能動的に引き受ける能動の行使は能動の度合いも責任の度合いもさらに高いもので、ゆえに自由の度合いもさらに高いものなのではないかとおもいます。加えて、その幻想具合、幻想の度合いも極めて高いのではないかとおもわれます。自然数の数が上がるように。

 

 ここでも再び響いてくるのは「自由は認識によってもたらされる」という声です。

幻想現実世界ないし機能世界論

 過去の事件の責任を現在の自分が引き受けるというとき、現在のわたしは過去のわたしをも引き受けることになります。そうするためには過去のわたしを対象化して現在のわたしと地続きにして同一化しなければなりません。ここにはわたしの多層化、入れ子構造のようなものがみえます。差延の考え方がわかりやすいでしょう。

 

 サリエンシーの塊なわたしたちには他者が必要でした。自己認識にはどうやら他者が必要らしいというのがチンパンジーでの実験の話でした。自己にも自己認識にも他者が必要なら、その自己を傷つけるサリエントも他者からやってきます。自己が自己を見つめるということも含めて、他者の目による対象化が必要なようです。強弱はあるにせよサリエントは止むことがありません。

 

 実像はわかりませんが、わたしたちの世界は止むことをしらない多層化したものらしいです。量子論やサイクリック宇宙論、差異化や差延などを持ち出すまでもなく、すべてが、普遍性でさえも普遍化を毀損される運動の中にいます。

 

 すると極論、すべては幻、すべて幻想です。

 引き受ける意志も選択の連鎖の先にあるもので幻想に過ぎません。

 それでもこれを意志の機能を利用して新たな始まりとする意志が意志する意志として効果を発揮させるというのはどうでしょう。

 幻想と認識しながらも、むしろそれを認識している方がより高まる能動性。ここには目的もなく、ここでは運命を受け入れる覚悟を要します。これほど能動の度合いの高いものはないのではないでしょうか。

 

 意志も入れ子構造。入れ子が多重化するほどに、幻想の度合いが高まるほどにかえって訴えかけてくる声は大きくなるようです。

 核心が隠されて始まりからは遠のくため全体と比較したときにその部分が対照的に強調されて目立つのでしょう。そこが周りと比べると際立って立ち上がってくるのでしょう。そんなリアリティのないリアルさをもって、虚構の構築物は多層化して存在感をサリエントさせるのでしょう。

 わたしたちはこのような幻想世界でどれほどの目的のない能動性を自ずから発せられるのでしょうね。

 

 責任は過去ではどうしようもないということ、引き受ける能動は現在においてのみ可能であること、これらの特徴を総合すると、どうやら本来の責任というのは現在にしか現前しない変状な生ものであるようです。

まとめの一言

 年末年始、書いては考え、考えては書いてし、思考がまとまらずころころ転がり、そして今ここでも長々はなしてきましたが、まとめてしまえ「自由は能動の度合いによる」の一言に尽きます。この一言をめぐってただくるくると旋回していただけでした。

 責任について考えることはよりいっそう自由について考えることとなりました。

 

 ですので、まとめの一言を引っぱってくるのならやはりこれです。

 「自由は認識によってもたらされる」

 

 

 『暇と退屈の倫理学』の初読時にわたしが感じた少々の雑多感は最読時に完全に霧消しました。書かれていることが文を越えて節を越え、章を越えて本までも越えて、相互に多岐に影響し合あいながらもひとつの大河をなしているので伏線回収のように感じられるところもあり、ミステリーのような整然さがありました。

 

 倫理について考えるのであれば自由についてよくよく考えなければならないということを痛感させられるお正月となりました。