あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

正月の残滓

過去を憎み未来を嘲り現在で自嘲する

 変わらない過去と変えられない未来、そして過去の軛から逃れられない現在、いずれも定められているという点では同等です。

 

 意志は現在を想定するどうにもならない過去を憎むものでした。であるのなら、意志は現在も未来も憎むものとおもわれるところがどうもそうではないようです。

 現在が過去によって定められるように、未来は現在によって定められます。そんな未来を意志は嘲笑します。

 

 現在は一方的に過去に隷属するので極めて受動的で不自由です。なので現在は過去を憎みます。

 現在は一方的に未来を隷従するので極めて能動的で支配的です。なので現在は未来を嘲ります。

 

 現在は未来に対して能動的であるのになぜ自由ではないのか。

 確かに、現在と未来の関係だけを見れば自由ということができますが、現在と過去との関係をも考えると、現在は過去の受動としての能動、過去に制御された受動の上での能動であるため、未来に対して万能感を覚えたとしてもそれは見せかけに過ぎません。

 したがって、支配的ではあるけれども自由ではありません。

 また、このために現在は未来を蔑みます。

 そしてまた、現在は現在自身をも蔑みます。

 過去に支配されている私こと現在に支配されている未来よ、と。

 

 現在は支配者であるとともに被支配者である己を嘲笑します。ただ笑ったり悲しんだり喜んだり無気力になったりするのではなく、王様兼奴隷な自分を卑下します。自嘲・自虐の嘲りです。

 

 諦念ではないのは極めて低い確率ではあってもまだ確定していないので極めて小さな希望が残っているからです。ただこの小さな希望があることがむしろ滑稽さ、仕様もなさを強調することになり、おかしみを増してしまっています。嘲りの濃度を高めることにしか役立っていません。

 

 現在は変えられない運命としての未来を弟妹のように慈しみながらも厳格で抑圧的な両親のような過去に鬱屈します。

 死に臨むとき、この戦況を変えることはほぼ不可能で自らの死をほぼ免れないことが明白であるとき、毒を吐くことがあります。

 ほぼというのはまだ実現していないというだけのことで奇跡でも起きない限り命をつなぐことができないというほど希望の薄い状況であるからです。

 

 意志は絶望の前で打ちひしがれて悲嘆や憤怒をあらわにしますが、絶命間近のわずかな望みは冷笑を誘うようです。

 現在は過去や未来に対するどうにもならなさや儚さを自嘲します。これは運命に向き合う態度なのかもしれません。

 

 過去を引き受けていない新たに現在から始められた意志は今を嘆き呪います。

 過去を引き受けないということは現在も未来も引き受けていません。すると自身に由来がなく出来事に急に投げ込まれたような、出来事から遊離したような、あるいは出来事にかえるようなもので、今現在の自身の状況に納得がいかず、不条理に憤り、なぜ自分が、自分がなにをしたというのか、と、現状とこれからおとずれるであろう未来を想って嘆き憤怒し絶望して呪います。

 

 対して過去を引き受けた意志は冷笑します。

 過去を引き受けるということは現在も未来も引き受けます。すると自身につながる出来事の一部を理解し、出来事と対峙するような、あるいは過去から未来にまで及ぶ出来事の運命には抗えないことを悟るようなもので、今現在の自身の状況を咀嚼できなくとも飲み込んで、不条理に呆れ、これが私の宿命、これから私がなにをしようと覆らない、と、未来は定まっているのに続演される滑稽な現在を嘲って冷笑します。

カッコの戯れ

 自己を生起させたり事物を対象化させるとカッコの分だけ出来事から距離をとることができます。

 カッコに入れることで客観視でき検証でき責任をとれるようになるのでしょう。

 謝罪においても自分のことよりも他人のことについて謝ることの方が抵抗感がないとおもいます。これは自分のことでは自尊心や自身が傷つけられるのに対し、他人事は自分に過失がないばかりか、責任をとれますし、ときにひとのために責任を果たしている自分に酔うことができるので自尊心をくすぐったり陶酔感をもたらしてもくれるからです。

 

 これは私的なイメージで集合の記法っぽく描いていますが集合ではありません。

{有{無{出来事{他者,意志{自己{過去{現在{未来{死{無{有{}}}}}}}}}}}}

  • 有と無とが始めと終わりに出てきますが、これは世界が開いているような閉じているようなつながっているようなループしているような感じを表しています。
  • 過去は現在や未来を含んでいて、死はすでに自己に含まれています。
  • 意志は他者に触れると自己を生成します。出来事のなかで自己に取り込まれないもの、自己と併存、自己と対峙するものとして他者があることで自己がサリエントする。
  • 自己は時間性をもちます。
  • 過去や未来を対象化してカッコに入れることでただの出来事から自己の事象として扱えるようになるのかもしれません。未来からすればどうにもならない現在、現在からすればどうにもならない過去。覚悟することで過去を受け入れるとともに未来を受け入れるようになるのかもしれません。
  • 過去、現在、未来と書いてみたものの、カッコでくくっていく運動が時間(経過)なのかもしれません。
  • カッコが多重化するほどに機能も複雑複数多重に顕現するため現実味を増すのかもしれません。とはいえそれは現実味の域をでず、現実ではありません。

とまあ、ここはただの戯れです。

思い出しユーモア

 『〈責任〉の生成』で熊谷さんは省察はユーモアに近いといっています。

もう一つが「省察(reflection)」で、好奇心を掻き立てる研究対象となるような有意味性をもった出来事として過去を思い出すスタイルです。(中略)「ユーモア」に近いかもしれませんね。出来事から距離を置きながら、自分が自分の苦労を語るという佇まいから伝わるような語りの形式は、共感を誘うしっかりとしたおかしみを伴っているようにかんじられるのです。

『〈責任〉の生成』p.182

 わたしははじめこの部分を読んだとき、急に「ユーモア」が出てきたのでちょっとわからなくて戸惑ったのですが、こういうことなのかな、と、おもいました。

 

 ユーモアの語源はフモールで体液や湿気を意味していたそうです。だからというわけではなく、わたしにはユーモアとは湿気を帯びたもののように感じます。どちらかといえば英国人のそれに近いもので、カラッとしたおかしみではないとおもっています。

 その意味で省察はユーモアだとおもうのです。自嘲気味などこか陰を含んだ笑いです。カラッとした直截な笑いでは自己との距離が近いので、カッコひとつ分、過去の自分を対象化して少し距離をとった冷笑が過去の振り返りにはより適しているのではないかとおもいます。

 

 そしてそのベースにあるのが、能動的であるのに受動な自己の矛盾や板挟み感、運命に抗えない滑稽さなのではないかとおもいます。

 

 もしかしたら、自己を見つめる滑稽さは、いくら自己を見つめたところで自己が見つからないところにあるのかもしれません。

最大多数の最大自由

 本来の責任が「義の心」であるのなら、それに沿うのが正しい義で、乱れた義を正そうとする傾向が正義なのでしょう。

 しかし、正義はたびたび衝突します。

 戦争や宗教など、互いの本来性の押しつけや誤用から諍いが生まれます。

 

 生命や制度を維持しようとする力が逆向きの破壊に向かうのは、それが自然(の勢い)に反した責任、互いに真実だと独断・信仰しているいわば誤認した責任であるからでしょう。

 それでは本来の責任とはなんでしょうか。それはこういうものだとは断定できないもので、できるとすればそれは神や自然に帰するもので計り知れないものでしょう。

 それに「本来の」と本来性を問うてしまえば強要や手段の正当化が招き寄せられて、この問題の連環に絡め取られて抜け出せなくなること必至です。悪くすれば周回ごとに対立が激化する渦を発生させます。

 

 事物は差異化や差延によって普遍性を毀損されます。権利や法といった概念でさえ差延の前では普遍性は逸脱を免れません。(別に差延でなくても量子でもなんでもいいです)

 このような特徴もあるためたったひとつの普遍の責任を求めることはできません。しかし、それに近いものを推測して築くことは不可能ではないのではないかとおもいます。というよりもそうであってほしいと願うところです。

 

 ありきたりで人口に膾炙した考えですが、互いの責任・義務の共通項から互いが快となるものを抽出して、それを擦り合わせて受容すること。またそれを可能にして許容する寛容さが肝要なのでしょう。

 古今東西の規則や法はいきなり完璧なものが出来上がるわけではありません。

 新興国は他国や昔日の法を学んで統治や人倫に適う法を模作してきました。新興国に限らず先進国であってもより時代や状況、理想に適うように改正してきました。

 

 そのときには適したものでも時代に合わなくなったり制度疲労をおこすものもあって普遍の法はできませんが、それでもそれを諦めず働きかけ続けることがより大切なことです。

 目的のない手段、みずからの意見を通すために相手を言い負かしたり説得したりするのではなく、ただ対話するという行為が豊かな時間を生み、相互浪費関係を構築できて好転することもあるかもしれないのですから。

 普遍法を定めることを目的とせず、無駄に思えても普遍法についてでなくてもなんでもいいのですが、ただ話すということ、目的ともいえないような目的のために浪費するということが結果的に、遠回りに見えて案外、最適最短ルートだったりするのかもしれません。

手段としての政治

 アレントは、目的は手段を正当化するといいます。独断の正義のために暴力が正当化されたり教義の強要が起きたりするのです。

 

 政治は目的ではなく手段です。

 政治は互いの幸福を擦り合わせて形成する過程であり続けるためそのダイナミズムを奪い、ひとびとの能動を奪う暴力という手段は適さないのです。

 『中動態の世界』で暴力の限界として、暴力では行為を引き出すことができず、服従を獲得することもできないということを導出していますが、暴力下では権力の効力が減衰してしまい規律を維持できないどころか行為を産出できず、変状は硬直し社会は止まります。

 理想論のように聞こえるかもしれませんが、たとえ一時は推進力を得たとしても暴力の先にあるのは停止した世界です。停止した世界でわたしが思い浮かべるのは『1984』です。思考停止に追い込み体制維持が至上命題とされるようなディストピア。

 

 相互に能動的になり相互に互いの快に添えるように擦り合わせていくことが最大多数の最大自由の実現につながるのだとおもいます。

 その手段が暴力によらない政治です。

均衡しない権力

 『目的への抵抗』第一部後半、「行政権力とは何か」以降で三権は大きさも形も性質も異なるもので、なかでも行政権は個別具体事案や例外時に他の権力を超える強大な力をもつといっています。

 これを聞いたとき、各権力の性質などが異なるにも関わらず互いに監視し合い危うい均衡を保っていることをすぐ失念してしまう己の浅はかさに驚きました。

 

 異なる力が平時にはその牽制機能が働いている(ように見える)ことから、同質ではないにしても同程度の権力なのではないかとおもわれます。少なくともそのように見なされているからこその三権分立です。

 であるとすると、この同等性が崩れる個別具体事案や例外時というのは平時といわれるものとどのような違いがあるのでしょうか、そしてまた、なぜ三権の平衡は崩れるのでしょうか。

 問いを立てるとともに即座に思いついたのが時間でした。

 

 各権力が司る時間、その権能がもっとも発揮される時期の違いが異なるのでしょう。行政権は運営・実行・行動ですから現在、立法権は行動規範ですから未来、司法権は事後査証・行動検証ですから過去を主に統べます。

 

 それではなぜ平時に権力の均衡は崩れないのでしょうか。

 それは平時に権力は必要ないからです。強制力の行使されるとき、そのような状況を平時とはいいません。平時には権力は意識されず、たいていはモラルや慣習で事足ります。

 

 また、平時は権力の時間は奪われるからです。停止していると言ってもいいでしょう。ただし停止や凍結といった語では混同されそうなので沈静ぐらいが妥当かもしれません。

 権力はあらかじめ定められた法に則ってその権能である強制力を発揮します。法に拠らない強制力は独断や独裁、違法な暴力です。平時においても法は抑止力として働いていることがありますが、実行力はありません。その意味で平時の権力は沈静していると表現しました。平時において法は掲げられているだけで実行力をもちません。

 

 権力は権力でもその権能が及ぶ時間、効能の働く範囲などが異なれば牽制し合う関係が成立しないこともあります。むしろその場合がほとんどです。コロナ禍下で行政権が他の権力に比して大きな力を示しましたが、それは現在おこっていることに対する対応を迫られたからです。

 

 となると権能の時計合わせのような工夫や仕組みがあった方がいいのかもしれません。特に現在、というか現在がもっとも逼迫するので現在標準時間だけでも考えた方がいいのかもしれません。

 ただし、あまりに互いの力が拮抗してしまっては硬直して拘束されて身動きとれなくなってしまうので、仕立てるならほどほどで。

 

 モンテスキューは『法の精神』で三権分立ではなくて権力の分立ないし多権分立を唱えたのだそうですが、たしかに三は構築物としては安定しますし、キリスト者なら三が自然ですが、力の均衡を図るのなら三では少なく難しいのかもしれませんね。

 とはいえ三権に匹敵するほどの他の権力があるとしたら、それはどんなものが考えられるのでしょう。

自由になる義務

 自らおのずから引き受ける責任は能動で自由だとすると…責任を引き受けることが自由の最大化・増大化につながるのであれば、皆おのずからそれを求めるはずですがそうはなりません。

 おそらくそれはつくられた、または押し付けられた責任だからでしょう。

 

 社会契約についてはじめて知ったとき、または苦悩に苛まれて不自由や不条理を感じているときに聞いたとき、そんな契約した覚えはない、わたしには関係ない、と、むしろ反抗心を高めてしまったひともあるでしょう。

 実際に署名捺印して契約を結んでいるわけではないのだけれども、この契約によって得られる自由があり、多くの自由が創造され、実現できる自由が増えることもあるのは確かです。

 

 押し付けられる責任は義務だと思うのですが、国民や市民は義務を負うことで民として認められ、権利を得て、生活や安全を保証されたりして種々の自由を得ています。

 するとこのような義務はいわば権利や自由の代償としての義務、義務を押し付けられるかわりに自由を得ているといえるでしょう。

 このような義務の代償としての自由はひと固有の自由です。ひと固有もなにも、そもそも動物には代償どころか自由の概念もないでしょう。

 

 みずから引き受けていたものを押し付けられるようになり自由が義務に転じることもあります。たとえば誰に言われるでもなく自発的に毎日ゴミ拾いを続けていたら、あるときから毎日報酬を出してくれるひとが現れて、そのときから達成感や喜びよりも休まず懸命にやらなければならないという窮屈な義務感の方が強くなってしまったという場合です。

 このような認知的不協和な状況はたくさんあり、拘束や強要という強硬手段でなくゆるい手段でも案外容易に自由を奪うといってしまっては言葉が強すぎるので、自由を損なう、または能動の度合いを削いで自由度を低めることができてしまいます。

 

 ところで、おのずと立ち上がる責任とは何でしょう。遊びのうちにあるのでしょうか。だとするとわたしたちは未だ本来の責任を知らないのかもしれません。

フリーライダー頼みの観光他立国

 たとえば徴兵制のあるところでは、生活の安全を保証する土壌、国を守るために兵役を負うことで民として認められて権利を得るというところもあるでしょう。自由を担保する国土を担保しましょうということです。

 

 わたしは観光立国に反対です。インバウンドで外貨は稼げますが国内は乱れます。わかりやすいのは地価の高騰。地主は賃借料で、国は税金で一時は稼げるでしょう。一時と言ってもそれは数十年単位ではあるとおもいますが、観光資源が食い潰されてしまえばバブルも収束していきます。

 

 ところで、観光資源とはなんでしょう。景勝地や史跡などのことですが、これら観光資源も普遍ではありません。環境破壊や経年劣化、災害などで失われることもあります。深刻にして進行中なのはインバウンドによる地域社会の破壊です。地価や物価の高騰、治安の悪化、人流や交通量増や迷惑行為による渋滞、ゴミの増加、持続可能でない開発による土地の造成など、これらの問題でもっとも毀損されるのは地元民の生活です。観光資源と呼ばれるものを守ってきたのはそこに暮らしていた住民であり、その周辺環境を築き整え守り生きているのは住民です。その住民が嫌気が差したり地上げによってその地を離れていったら急速に生活環境が傷み伝統や文化が廃れます。

 

 観光資源と言うとき、その資源という言葉のなかにはその周辺環境を整えてきた住民の生活や活動が無視されています。観光はこの資源を無遠慮に消費します。企業はこの共有地、コモンズにフリーライドして利益を搾取しています。

 雇用を増やし人を集めて税も納めて地域経済を潤わせていると主張するのかもしれませんが、フリーライドに見合うだけの利益が地元には落ちず通過するだけで、地元にはその残滓やゴミばかりが残されて不利益が大きい。寂れた観光地ならいざ知らず、日常の住環境やもともとの観光地からしたらほっとけというところでしょう。

 

 インバウンドで企業利益や税収が増えるので、それを環境の維持整備にあてればよいという考えなのでしょう。

 観光税を徴収して環境整備にあてるという動きも出てきましたが、その環境整備が一過性の開発に資されて環境破壊になったという事例がそろそろ出てくるでしょう。また、観光税は奢侈税のようにはたらくこともあります。税金を払っているのだからこれぐらいいいだろうとおもうひとも出てくるでしょう。税金で運営しているのだからこれは活動ではなく仕事だという意識がはたらき気力をそぐこともあるでしょう。

 

 なによりも観光が万人の娯楽から金持ちの娯楽になることです。人手不足のうえ地価の高騰に人流増大で宿泊費が上がり、物価が上がって食費等のコスト増、住民が減り従業員が増えて種々サービス化して出費増、人流制限やテーマパーク化して入場料が徴収されるようになってとどめに観光税。

 

 特に現在の日本では賃金が低く物価高で円安状態では観光が金持ち外国人への奉仕のようなものです。その地域経済が観光に依存してしまえば観光隷従、ひいては外国依存となります。国際関係上外貨を得ることは重要ではありますが、それも自立あっての外貨、それが外貨による自立となり、実質依存です。これでは観光立国ではなく観光他立国です。

 すでに重篤な依存症を発症しているところもあるでしょう。インバウンドが引けば関連企業も一挙に引き人も金も引いて残されるのは移動のままならない老人だけとなるでしょう。自治も何もありません。

 

 観光地化した観光、パッケージング化された観光は安価に大量消費されるようになり、ある意味観光が最適化されると興も金も魅力も住民もなにもかも削がれます。

 

 押し付けられている今、引き受けて行動し自立する道をつくっておかなければわずかに残った自由でさえ失うでしょう。

自由と義務の回転ドア

 監護権(養育権)には権利と義務がありますが、たとえば養育ということで言えば、養育できる権利・自由とも養育しなければならない義務ともとれます。この違いは押し付けられるか引き受けるかの差です。

 権利と義務とは心持ちひとつで変わるほど近い裏腹なものです。

 国防も押し付けられれば国を守らせられる強制としてはたらき、引き受ければ国を守りたい願望・自由となります。

 すると義務も自由にすることができるということです。義務を自由にしていく活動というのも豊かな生なのかもしれません。

 

 とはいえ、闇雲にあらゆる義務や責任を引き受けた方がよいだとか、押し付けられる義務や責任は悪だというわけではありません。すべての義務を引き受けたのでは盲目的に過ぎますし隷従と変わらないでしょう。すべての責任を引き受けたのではあまりの重圧に圧殺されてしまうでしょう。

 

 国の課す義務は、その国がより自由になるためには必要だと考えている手段のことではないかとおもいます。日本であれば教育、勤労、納税が自由の土壌のために重要なのだと言っているのではないでしょうか。

 平和ボケはリアリティの欠如ということもあるのでしょうが、(自由につながる義務もあるという)義務感の希薄さからもくるのかもしれません。

 憲法は権力者に義務を課しています。権力者にとって憲法は一面では自戒の文言・誓文でもあります。民主国であれば民が権力者に義務を課し、権力者が義務を引き受けるというのが総じて自由や責任や義務のバランスがとれるのでしょうけれども私欲や党利、権力の時間性等々によりそれが難しい。

苛烈な自由

 キリスト教にはイエスはひとの罪を引き受けて十字架にかけられたのだという贖罪の教義があります。

 引き受ける責任、能動の自由という理屈から考えると、神には当てはまらず不敬不謹慎かもしれませんが、理由はわかりませんがなにかしらの、しかも命をかけるほど強烈な責任をイエスは人類に対して感じていたのではないかとおもいます。

 そのうえでイエスはひとの罪を能動的に引き受け自由を認識し、そして自由を体現した自由の権化となったのかもしれません。

 理由も目的もなく引き受けたのであれば一種の遊びに興じた怖ろしいまでの自由人だったのではないかとおもいます。

 

 本来の責任とは引き受けなくともよいものまでも引き受ける過剰であり、人生を豊かにする贅沢なのかもしれません。

 するとイエスは幸福か、史上最も自由だったのか、最も自由な人が神であったのか、または神になったのかもしれない。

 

 イエスの教えに殉じた聖人も自由だったのかもしれません。激烈激痛ではありますが、己が自由を体現したことは間違いないでしょう。

 逃れようとおもえば逃れられたものを、弟子や知人の説得にも応じず、理不尽な法であってもそれに応じて自ら毒杯を煽ったソクラテスも自由だったのかもしれません。

 『チ。ー地球の運動についてー』の登場人物たちも異端とわかっていながら、信念や次代に繋ぐ希望のために血を賭して知を求め、その結果、処刑されたり事故に遭ったり自害したりと死に様は様々に描かれてはいますが、その多くが死を目前に自嘲的な笑みや言動、晴れ晴れとした喜びのなか自らの自由に殉じました。

ハモンを呼ばない

 わたしには「破門」という言葉を聞くと思い浮かぶひとがいます。そのひとは破門になったわけでもその危機に迫られたという話もないのですが、それでも破門と結びついてしまったクザーヌス。

 

 わたしがはじめてふれた哲学はニコラウス・クザーヌスのものでした。それまでは「哲学をするなら他の哲学を知らないことだ」というような言葉を小耳に挟んだこともあり、極力さけるようなところもありました。あるとき偶然手にしたことから禁哲学のようなものが解禁となりました。

 

 クザーヌスを読んでいるときたびたびおもったのは「このキリスト者は危うい」というものでした。なにが危ういかといえば、その思想がキリスト者にして汎神論的なところです。わたしにはクザーヌスが「わたしは本当は神を信じてはいない」と言っているようにおもわれました。それほどあの時代にしてこんなこと言っちゃって大丈夫なの?というハラハラスパイスがとっても効いています。自身も枢機卿でマブダチ教皇がいなかったら破門されていたのではないかとおもわされます。

 ただなぜかこのひとの書いたものを読んでいると、危ういことを自覚しつつもとても楽しんでいる感じを受けたのでした。まったくそんなことは書いていないのですが、揚げ足取られたり難癖つけられてもどうにでもできるという傲慢さではなく知性からくる強さと軽やかさがなぜか終始感じられたのでした。

 

 だいぶ後に三浦梅園を読んだときになんか似てると感じたので日本人には比較的受け入れられるのではないかとおもったのですが、今に至るまであの一度きりで、クザーヌスの名を目にも耳にもしたことがありません。

 

 今回のわたしの年末年始はこんな感じでした。