あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

責任を引き受ける自由

 

 この図は『中動態の世界 意志と責任の考古学』と『〈責任〉の生成-中動態と当事者研究』を読んでいて湧いてきた図です。

 この図には前記二冊に書いてあることも書いていないことも、misunderstandingもabuseもないまぜになっています。

 図にしてみたことで不要で不用意な混乱を招いているところもあれば、よくもわるくも発想を飛躍させることもできました。

 

 上記二冊で時折でてくる「引き受ける」という言葉。「引き受ける」という言葉では特段注目されて取り上げてはいませんでしたが、「覚悟」という言葉では責任と自由、意志と主体にとって要となるものとして重視されています。

堕落した責任と昇華する責任

 夏休みの宿題をしないのは、宿題をしないと決めたからではなくただなんとなく日々を過ごして宿題のことを気にせずにいたら最終日だったというだけのことであったのに、責任を追求するために自由に意志した自己が召喚されます。

 このような、一方的に意志があったものとして押しつけられるような今日一般に言われる責任responsibilityは応答responseなどではなく、堕落した責任なのだといいます。

 

 またこのような、堕落した責任に対して本来の責任は「義の心」だともいっています。「義の心」というのは『論語』の「義を見てせざるは勇無きなり」というような自分が応答すべきなにかを前にしたとき責任を感じる存在「になり」応答することだと説明されています。

 

 意志は因果の連鎖のなかで否定されています。しかし効果や能力として(存在する)の意志は認められています。

 意志の能力は切断でした。

 ハイデッガーは「意志することは始まりであろうとすること」と言いましたが、これは無限遡及できる行為の連なりをあるところ、ある過去の時点で切断し、ある行為の出発点を作り出すということです。

 無限遡及のなかでは行為の責任者探しも無限後退してしまうところですが、無限遡及を切断することによって訴追先が特定できるようになり、(堕落した)責任を問えるようにできます。

自由になる意志

 「になる」というところに意志が機能しています。このような本来の責任概念に宿る「になる」という意志の機能は自由につながります。

 

 日本において自由は、続日本紀にまで遡る昔には「我儘放蕩」の意味で、近代に「自在」の訳を用いられた時期を経て、「自らをもって由となす」という意味から「自由」という語を使い広めたのが福沢諭吉でした。

自由 - Wikipedia

 

 自己の変状が外部からの刺激に圧倒されている場合は本質を十分に表現できていないので受動であるのに対し、自己の変状が本質を十分に表現できていれば能動であって、これはある種の必然に従うことであり、コナトゥスに沿うことでもあります。

 このような変状、このよう「になるbecoming」ことが自由です。

自分はどのような場合にどのように変状するのか?その認識こそ、われわれが自由に近づく第一歩に他ならない。

『中動態の世界』p.262

 自分は何に応答すべきか、何に責任を感じる存在となるべきかを認識することが自由につながり、責任を引き受けるということが自由であるということを認識したときに自由になるということです。

※感性や感覚に関わる語はひとによって同音異義語であることが多いですが、ここでは「認識」は知覚というよりは知識や判別能力に近い意味で使うこととします。

 前出の文につづく節題は「自由は認識によってもたらされる」であり、これはスピノザの説くところです。

コナトゥスに則った責任

 responsibilityの訳語に責任があてられることが今日一般的ですが、明治期にはliability「責任、負担、負債」という語にもあてられていたそうです。

 役割を担う、役目を引き受ける、責(もと)められた務め、任せられた責(つと)め、私が為したこと、私が為すべきこと。

 責任の意味がいずれであってもコナトゥスに沿うという捉え方ができます。

 

 引き受けるという意志の発現はコナトゥスの発露のひとつと捉えてもいいのかもしれません。

 「事物の恒常性」というように物だけでなく事にもコナトゥスがあるのなら、主体「になり」責任を引き受けるという意志もコナトゥスに沿うことと捉えられます。

 また倫理や道徳、善悪や快不快といった概念や感情のなかにさえコナトゥスはみいだせます。

 

 古代ギリシアないしはキリスト教成立以前のまだ意志が発明されていなかったと思われる世界では、困難に直面したとき現代人とは異なり「意志によって道を切り開く」といった考えではなく「運命に従う」「運命の導くままに」「これぞ我が宿命」「天命をまっとうする」といったように抗えないものを受け入れるというメンタリティをもっていたのかもしれません。

 運命の命じるままにコナトゥスに身を委ねるといった常識は中動態とともに失われたのかもしれません。

 

 漢語の責任の語源は義務や任務に近いらしいのですが、これもコナトゥスのアフォードする運命に従うとも読み取れますし、反応や応答よりも古代の人々の意識にはこちらのほうがより近かったのかもしれません。

「責任」という漢語 - 恐妻家の献立表blog

「責任」という漢語の来歴 - 恐妻家の献立表blog

責任と無反応

 味覚の失われたひとがそのことを知らない誰かに料理をつくってもらったとして、相手のことを想って嘘でもおいしいと言うのか、自分のことは話さずに率直に味がしないと言うのか、変な空気にならないようになにも言わないのか、どんな反応を示すにしても食べたことへのいずれかの応答をすることもひとつの責任。

 楽しんで浪費してもただ消費したとしてもその応答を引き受けることもまた責任。

 責任の対義語として自由が挙げられることがありますが、それは単純に無視・無反応な無責任のことでしょう。responsibilityとirresponsibilityですから。

 責任の対義語に自由があてられるのは、責任の意味として漢語起源の義務や任務が想定されているからなのでしょう。

 國分さんは責任に対立するものは意志であるといいます。それは意志が過去を遮断してしまうからです。

 

 ところで、義務の対義語としてよくあげられるのは権利ですが、人間社会を維持しようとするコナトゥス、法のコナトゥスに則った自由を権利といい、人間社会を維持するためにすべきことを義務というのだとすると、権利と義務、また義務と自由でさえ和解できるのではないでしょうか。

裂け目に自由

 親を引き受け子を引き受け、親の応答をし子の応答をする。「になる」には演劇的側面もあり、自由度の高さをもちながらも役に当てはめられたり無意識に役に沿ってしまったりして窮屈になってしまうこともあります。

 役を引き受ける、役になることも責任を負うことですが、そうでなくともbecoming「になる」ということに不自由を感じるかもしれません。しかし「にならない」という「になる」という自由もあります。

 

 とはいえ「「過去から切断された絶対的な始まり」を毎日生きてきた人、薬物でみずからをリセットしつづけながら」生きてきた人が、反芻や反復、振り返りやフラッシュバックを経て過去の遮断の解除を行い新たな自己の形成、新たな意志を始めること、新たな裂け目をむかえるのは決死の飛躍を要することでしょう。

 

 責任を負う。自由を負う。責任が重くのしかかる。自由に押しつぶされる。重い責任。厚い自由。責任が増すほどに、自由になるほどに不自由になる。こうして自らを拘束するアンガジュマンへとつづくという道もあります。

3分でわかる! サルトル『存在と無』 | 読破できない難解な本がわかる本 | ダイヤモンド・オンライン

 

 先の図を描いているとき(カント的な)「判断」はどこに当てはまるだろうか?というよりもどこにあると面白いだろうかとおもってあそこに置きました。

 これに後追い解釈を付すと…

「責任を引き受けると判断する応答が自由につながる」あるいは「快不快のコナトゥスに基づいて判断し理想(自由)へと向かう」といったところでしょうか。

 

 これまでも内容の重複が度々ありましたが、ここからはさらにひどく、ただ言いたかっただけというところです。

生の重しとしての責任

責任は善悪の問題ではなく自由の問題

選択の連続でしかない運命を引き受けることが生の最大の重しとなりえる重責

永劫回帰でさえ受け入れることは現実も仮象でさえも引き受ける最重量の重しとなる運命愛

 

生の重しとなりえるというのならば重しがなければどうだというのか。

生きられないということはなく、必ずしも自暴自棄となるわけでもない。

したがって「なりえる」にとどまる。

 

運命をも受け入れて責任を負う

責任を負うことで生に重みが増す

永劫回帰の運命愛は重責にして生の最大の重し

無責任は生の、存在の耐えられない軽さへとつながるのかもしれない。

自らの命に責任を持つというとき自己も引き受けられたものであるから成立する言いなのでしょう。

自由と責任の表象論

責任を引き受けるということが自由。

障害などで責任を引き受けられないことが不自由。

自らに由をもつ。由がある。

「自由には責任が伴う」と言われるが責任に由をもつのが自由。

自由と責任との関係は転倒し「責任には自由が伴う」あるいは「責任を引き受ける=自由」であるのなら、責任と自由とは同等、同質のものとなる。

ゆえに「責任のない自由」はなく「自由のない責任」もない。

意志と自由のロンド -あるいは自由意志の再定義-

自由を意志するときわたしたちは幻想の中に生きている

意志という虚構が自由を夢見ているのだから

選択の連続のなかに自由はない

あるのは運命や必然

意志の見せる理想、意志の見る夢が自由

 

 欲望などに支配されておらず自らの意志であると、それが思い込みに過ぎないにしても意思したことにしてしまう意志。いわば二重の、二段階の誤謬による転回、飛躍によって応答することが自由につながっているのかもしれない。

 

 同様に、自由に至るには二段階の跳躍を要するのかもしれない。過去を切断するのも意志、過去を現在において引き受けるのもまた意志。これは意志の功罪なのか。過去を切断して主体「になる」一段目。意志も責任も引き受ける二段目。

 

 意志の自由が自由意志なのではなく、責任を引き受ける意志のことを自由意志と呼ぶべきなのかもしれない。

 過去の切断を越えて、あるいは過去の遮断を解除して責任を引き受けると起動する自由意志。このような責任が本来の責任であり、昇華する責任とでも呼ばれうるものなのかもしれない。

 

他者のもの、幻想にすぎなかった意志を(意志することで)自分のものとして判断する自律。

中動態の世界で行う判断が選択

意志の行う選択が判断

 

知覚と理解の間の判断

種々の情報や出来事を感得・知覚して自由や道徳を理解する。

そして理解したことに向かって行動・実行するために判断する。

責任を知覚し自由を理解する。

自由に向かって何をすべきか判断・実行する。

運命のアフォード

 抗いようのない因果や運命で自分のこれまでの選択とも無関係で突如降って湧いてきたような事態や事象であってもそれを引き受けるかどうかが自由であり、それを引き受けること、応答することが責任。

 コナトゥスな自分のフォルトナを知覚することが責任で、それに応じて判断するのが自由だとすると、このような自由につながる責任は「堕落した責任」に対して「昇華する責任」と呼んでもよいのかもしれません。

 

責任とは事象や事態を引き受けた主体事象のこと

引き受けるということは負うということ

自由には責任が伴う

責任は自由への誘い

 

私の意志に従う、我が目的であると判断する。ゆえにそれは自由である。

自在我儘、愛好自決、制約を受けない。

自由がlibertyでもfreedomでも意志の顕現、権化であるということがコナトゥスの発露であるとみて自由であると判断する。

 

運命のアフォードを引き受けコナトゥスに従う責任と自由

一回転した責任論

 引き受けることが責任で、自由には責任がともなうという字面にするとありきたりな地点へかえってきてしまいました。

 このようなときわたしには決まって思い返される言葉があります。それは西田幾多郎の「黒板に向って一回転をなしたといえば、それで私の伝記は尽きる」というものです。

 この責任論も以上のような「それ相応の来歴」を経たものですから、同じ言葉、同じ意味でも背骨が加わり厚みが増したものになったと思いたいところです。

振り出しへ戻る新境地

 こうして責任と自由についての考察を終えようとおもっていたのですが、出会ってしまいました。『目的への抵抗』に耳を傾けてしまったのです。

 二、三か月ほど前に『スピノザ』も『目的への抵抗』もAmazon audibleで聞いているので、正確には再会なのですが、いま思い返すとあのときはただ聞き流しているだけで消費してしまっていたのだとおもいました。

 あのときの感想は正直言って印象にも残っていないので大した事ないなあというものでしたが、『中動態の世界』と『〈責任〉の生成』を続けて読み、責任や自由、スピノザについて考えているうちに、これはもう一度聞いてみた方がいいのではないかとおもわれてきて、そうして聴いてみましたら一度目とはまったく違った印象となり、浪費できました。

 そのうち『スピノザ』と『目的への抵抗』はちゃんと活字で読もうとおもいます。

 

 先に三冊を読み聞きしてきたから『目的への抵抗』ではいたるところで思考が触発されて自己紹介の話でさえ発想の契機となったのだとおもいます。この四冊の共鳴には大いに震わされました。

 

 とはいえそれでも行き着いた先は一回転したところだったのですけれどもね。

 それでもこれはただの一回転ではない…と自分でおもっているだけかもしれませんが、ここは中動態の世界、能動態/受動態/中動態を通らなければ辿り着けないところにありました。

 

 ただいま考えを鋭意まとめ中。

 まとめている最中まだまだ展開される関心と飛躍する発想で収集がつきそうになく、今回のお話の後半部のように雑感の羅列になりそうな予感ふんぷん。

 待っているひとはいないとおもいますのでただ自分に言い聞かせているだけの独り言となりますが、もう少々お待ち下さい。