『中動態の世界』概略
『中動態の世界』では、バンヴェニストの定義から能動態と受動態の対立は「するかされるか」を問い、能動態と中動態の対立は「主語が過程の外にあるか内にあるか」を問う言語であったとまとめ、またアガンベンの「出来事を描写する言語(中動態/能動態)」から「行為を行為者へと帰属させる言語(能動態/受動態)」へと移行したという分析などを提示して、ひとには意志があり、その意志によって行為がなされるのであるから、責任はそのひとにあるという今日一般的な見方に疑義を呈し、そうではなく本来はいわばその逆過程を経て、ある出来事の責任を問うために行為の帰属先として意志が措定された、つまり自由意志などないのだと導出しています。
それを補足するように、アレントの古代ギリシア人には意志の概念もそれに相当する言葉すらもなかったとか、動詞は後に生まれたもので、もとは「行為者を指示することなく動作や出来事だけを指し示していた」ものであったとか、もっと端的に、スピノザなどの賢人が自由意志を否定していたことを挙げています。
ただし、意志の自由は否定していても、効果としての意志までは否定していません。態にちなんでいえば、実体なけれど実態ある意志といったところでしょう。
このように『中動態の世界』では、中動態の再発見から意志の由来と責任の来歴を再発掘しています。副題の「意志と責任の考古学」というのが誠に当てはまるよい本です。
ちなみに、表題だけでなく章題や節題も後に検索しやすく(例えば「意志は後からやってくる」「行為は意志を原因としない」「ギリシア世界に意志の概念はなかった」「中動態が先にあった!?-憶測的起源として」「自由は認識によってもたらされる」「人は自分で選んだことなどない」など)読後に目次を眺めても楽しめて、また各章のはじめに前章のまとめがあったりして、『暇と退屈の倫理学』もおもしろかったのですが、それよりもつながりや流れが洗練されていて(論の展開がスムーズできれいであるがゆえに、そこに至るまでの苦心が伺い知れます)編集もうまいとてもよい本だとおもいます。
『〈責任〉の生成』概略
『<責任>の生成』では、アレントの、例えば「むさぼるな」と言われるからむさぼらないように意志するといったように意志は対抗意志を生み出すのだとパウロの『ローマ人への手紙』から意志概念の発見の経緯やハイデッガーが意志の機能は肯定しつつも意志の概念については批判的であったこと、意志の自由というのは意志が行為の出発点でなければならず、であるのならば意志に先行する原因はなにもないはずで、そうであるとすると意志が突如として現れて行為を生み出しているということになるのですが、原因は無限遡及できるため「先行する原因はない」ということはあり得ないので意志とは信仰であるといった、『中動態の世界』同様、意志の発生過程や意志の自由の否定についても語られています。
二冊の相性のよい違い
『中動態の世界』では、中動態の再発見・再導入による意志の再分析・再解釈、または中動態の世界がみせる世界像に主眼が置かれていましたが、『〈責任〉の生成』では、意志の立ち上がりやそこから生成される自己、そしてその自己が抱える傷やトラウマと意志との関係について軸足が置かれて書かれています。
この二冊はそれぞれが理論と実践(臨床)を受け持ち相補関係的です。
だからというわけではなく片方を読んだのならもう片方も読んだほうがいいと言えるほど、理解も発想もすすむ相乗効果を生んでいます。
これほど相性のよい二冊はないのではないかと思えるほどよい本です。
この二冊では、責任であれ身体の内外からやってくる行為を促す情報や刺激であれなんであれ、ある出来事(の結果)を遡及してその行為の行為者として意志が措定されているということ、また能動と受動とは方向ではなく質の差であり、自由と対立するのは必然ではなく強制であって、ある種の必然に沿って自らの本質が十分に表現されること、能動性が増すことが自由であるということなどが共通して書かれていますが、であるとすれば中動態の世界ではどのような責任概念を確立できるのか、というのが課題であるというところも共通しています。
再発掘された衝撃
自由意志についてはいうまでもなく、意志というのは古代にはその概念や言葉がなかったとか、そもそもないもので幻想に過ぎないといった否定や批判はこれまでもされてきました。
この点について中動態が提示する世界に目新しさや独創性といったところはあまりありませんが、中動態の世界が開示する自己形成の過程とアレントやハイデッガー、なかでもスピノザ思想との親和性については偉大な再発見であり高い革新性があるとおもいます。
すでに使われているので使えないでしょうが、「よみがえるスピノザ」はまさにこのこと、これらの著書のことをいうのではないかとおもいました。
バンヴェニストの中動態理解の再発掘だけでも、アレントの古代ギリシアに意志概念がなかったことへの言及のすくい上げだけでも足りなかったでしょう。
この二つが合わさることで開く新境地、それは古代ギリシアあるいはキリスト教成立以前に書かれたもの、またはその思想の読み方や解釈を一変させるほどの衝撃力をもっているようにおもいます。
『中動態の世界』の副題に「意志と責任の考古学」とあるように、中動態の再発見を考古学的であると捉えるとこれは考古学的大発見であるとおもいました。
わたしにはそれが邪馬台国(九州・畿内)論争に終止符を打つほどの、あるいは仁徳天皇陵(大仙山)古墳の本格調査開始ほどの。
発掘者の真摯な姿勢
國分さんはとても嗅覚がいいのだとおもいました。センスといってもいいとおもいます。もちろん読みも表現も。
中動態もそうですが暇と退屈、浪費と消費といったものに反応して取り上げています。
それもスピノザ研究者でフランス哲学を専門としていてもそれに拘泥せず、ハイデッガーやアレントといったドイツ哲学にも目配りが利いていてそれを汲み取れる。
あるいはスピノザに言及しているもの、少しでも関係するものは分野に関わらず網羅しようとの姿勢があってのことなのか、スピノザの哲学にはあまり関わりがないと疎かにせず、『ヘブライ語文法綱要』にも真摯に向き合った結果、中動態の再発掘に至り、細江逸記の再評価にも及んだのでしょう。
熊谷さんもただ中動態の世界を受容するだけでなく、実践で応用や観察したり批判的な側面も提示したりし、また広範な知識をもって他分野の概念と中動態の世界を架橋して遊歴しているので中動態の世界に幅と奥行きをもたらすことにも貢献しています。
三冊でヘルメス・トリスメギストス
アレントやハイデッガーを読んだことのあるひとはたくさんいることでしょう。しかしたとえばハイデッガーの「意志することは忘れようとすること」というのをあのように読んだり、アレントの切断とハイデッガーの「意志することは憎むことである」がそのように繋がっているのだと読めたひとはそれほど多くはないでしょう。
読むといえば『スピノザ 読む人の肖像』。
前記二冊に加えたこの三冊の共有結合は水のように柔軟で結びつきが強いです。
『中動態の世界』→『〈責任〉の生成』→『スピノザ』の順で読みましたが、振り返ってみてこの順番でよかったと思います。
私見ではとにかく『スピノザ』ははじめではない方が楽しめると思いました。
いずれもスピノザ哲学を扱っているのですが、同著者が関わっているとありがちな著者のお気に入りの定型文や内容のくどい重複がないのがストレスフリーで実に心地いいです。
内容の重複箇所がまったくないわけではありませんが、続く論説がどちらも意志を巡る事柄なのですが対抗意志についてなのかプロアイレシスについてなのかといったように言及先が異なるので重複感がまったくなくて無駄がなく清涼感があります。
『中動態の世界』では「意志」、『〈責任〉の生成』では「コナトゥス」、『スピノザ』では「意識(観念の観念)」と、要綱が重複していないからというのもその要因のひとつでしょう。
これらの著作からは巨人の肩に乗っている、巨人の肩々を渡り歩いている研究者の姿がみえるようで、また、巨人の方々への敬愛も感じられてとても感じがいい。
残念なのは『スピノザ』が出版されたのが2022年なので三冊を通して読むとなるとおよそ2年ほどではありますが、『〈責任〉の生成』は2020年、『中動態の世界』が世に出されたのは2017年なので、中動態の世界にはじめて触れるまでにおよそ7年もの歳月を要してしまったことです。
それにもまして残念なことに、中動態によって変状したひとは多くとも、社会にはあまり衝撃が及ばずさして変状していないことです。
こうして今年は中動態の世界で眠ります。