あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

立ち上がる自己と責任

自己生成過程

 意志、あるいは意志をもつ自己の生成過程にはいくつもありますが、いずれにせよそれは出来事から生じます。出来事というのは事象でも現象でも事件でも、なんと呼んでもいいのですが、事物の変化、運動、力のことです。

 

 『中動態の世界』では「動詞はもともと、行為者を指示することなく動作や出来事だけを指し示してい」て言語のなかにはずいぶんと遅れて生じ、また、名詞から動詞へと発展して中動態が生じて後に能動態が発生したのではないかと憶測しています。

 中動態→能動態→受動態の順に、出来事の描写→行為者を確定→行為を行為者へと帰属させる言語へと移行し意志が生まれたのだという歴史の流れを紹介しています。

 

 わたしの抱いた「事象の中の主体:中動」と「主体による事態・事象:能動受動」のイメージのひとつにこんなものがあります。

 事象の中の主体にはぼんやりとした自己の萌芽があります。

 

 『〈責任〉の生成』では発達障害のひとの感覚と中動態の世界との親和性を提示するとともに意志、というよりも自己生成の過程について検証されているのだと読みました。

 

 『中動態の世界』や『〈責任〉の生成』、『スピノザ 読む人の肖像』ではたとえば以下のように紹介されています。

  • 出来事に先立つ主語はなく、述語または動詞が名指す出来事の周辺で主語が構成される
  • 出来事が個体を発生させる
  • 大量のアフォーダンスの擦り合わせの結果意志が立ち上がる
  • 複数の異質な要素がバラバラなままの分子的なものをまとめ上げてモル的となって意識が生じる
  • 意識とは観念の観念のこと
  • 中核自己(ヒューマン・フェイト)は歪まされた原自己(ヒューマン・ネイチャー)と歪ませた状況の両者を俯瞰して観察し物語化して自伝的自己(統覚)をもつ

 大量のアフォーダンスというのは「あの1」と「この1」とが別のものとして影響してくるということで、また、分子的なものをモル的にまとめあげられないというのは、「あの1」と「この1」が同じであるとは思えず1+1が2であるということが理解できないということに似ているでしょう。

 このような世界が中動態の世界であり、生きづらいというのも納得できることでしょう。

自己の差延認知モデル

自己もまたこの他者構造によって成立していると言うのです。というのも、一秒前の自分、一時間前の自分、一週間前の自分、一か月前の自分、一年前の自分……、そうした自分はもうここにはいません。私には見えません。でも、その存在していない自分が今の自分と同一であると思えなければ、そこから自己というものが成立してこない。つまり、自己が成立するためには、今ここに見えていないものを存在しているものとして扱う想像力の力が必要であり、その想像力の生成のためには他者が必要

〈責任〉の生成 p.294

 人工知能の分野に、コード化した(過去の)自己を読み込むことで自己を認識あるいは形成するという考え方があるそうです。よりわかりやすい言い方をすると…

人工知能に"自己"を認識させるために差延をモデル化して取り入れる

はじめての脱構築 ~哲学知識ゼロから脱構築を知る~|なみもん

 デリダの差異化や差延を人工知能に応用するというのはこの場合イメージしやすいのではないかと思いました。

 

 能動態と中動態の対立では主体がその過程の外にあるのが能動態でしたが、それには一旦、はじめに主体が事象の外、つまりは主体が対象化されて主体に認識されるのです。はじめ主体にとって機能や器官、身体でさえも他者であったということです。

 またここにすでに「出来事に先立つ主語」能動の萌芽がみえます。

反復強化される自己

 意志は責任を問われるときに遡及されて生成されることもあれば、自己が形成されて生成される場合、責任観念から生成された意志が(自己となり)意思することで生成される意志といったようにいくつかの生成過程をもっています。

 

 ある出来事や刺激が現象する場があり、それはたいていいつも同じ範囲(内)、似た所で織り成される事象があったとします。それは「使う」場であり、傷を負った所であり、ある出来事への返答・反応する範囲でもあったりします。

 そしてそれ(刺激)がくり返しや反復などによって強度をもち、ある種かたちをなして、それまでは主体「である」ものであったものが主体「になる」ものとなって自己が生成されます。

 

 例えば「食べる」ということでいえば、味わう主体があるから味があるのではなくて、たまたまそこに味があって主体が現れるのではないかということです。

 

 すると自己というのはいわば出来事のマトリョーシカ、事態の入れ子構造、現象のなかの現象、事象のなかの事象が主体「となる」のではないか、また、このような複数の自己が織りなすのは事象の群発、群生、併存、並立、八百万のプラトーな世界像が浮かび上がります。

 

 むさぼるなかれと言われてむさぼりを知るように、意志もまた意志と言われて意志を知り、「続ける意志が弱い」「強い意志を持て」などと言われて意志の概念は強化されます。

 また広告や子どもに将来の夢を聞くことなどのように意志を意識させるような反復は繰り返すことで意志が強化、自己形成されていく過程のひとつです。 自己が確立されると崩れづらくなります。しかしそれは強さでもあり柔軟性が失われるので弱さでもあります。

 

 事象の根拠、責任者として遡及して意志が創出され、今度はその過程を逆行して自由な意志による判断が行われたとして責任が問われます。このようなことの繰り返しで意志が強化されるのであれば、堕落した責任は意志を堅固にする強化装置でもあるのかもしれません。

 

 責任の所在・帰属先を手繰っていくと意志という錨が浮上し、今度は意志という錨を鎮めると責任という船が一つ所に留まるというように、堕落した責任は一往復して定まる錯覚か幻想のようです。

応答する主体

 こうして自己が形成されると責任を感じる主体「となる」のだとおもいます。

 

 味が立ち上がってきたところに味わう主体、味を引き受ける自己が生じることで浪費となり、味に対する応答・責任も生成されます。

 味わうことなく味を無視することは消費であり、自己もある意味無視されて自己が立ち現れずただ主体「である」ばかりで、そこでは味も味「である」ばかりで味「になる」にならないのではないでしょうか。だから味に対して無反応、無責任。

 

 ここでは反応するということがとりあえず責任だと言うこととして話を進めますが、閉じ込め症候群などのように反応しようにもできない状態・事象にある場合には責任がない、というか反応できず責任が取れないように見えます。

 しかし本人には意識があり思考・反応はしているので責任はあるのかもしれません。

 すると責任・反応の有無と責任の取捨とは別次元のもので、無責任と未責任あるいは前責任の別というのもあるのだとおもいます。

 

 障害や病気があって判断力がなかったり身体不全であったりする場合、なにか事件を起こしたり、眼の前で困っているひとを助けなかったりしたとして、それは責任を引き受けない無責任というよりも、責任を引き受けられる状態にないということから無責任なのではなく未責任なのではないでしょうか。

 同様に、運命を引き受け意志を行使したり選択することもできないので不自由なのではなく未自由なのではないでしょうか。

 

 精神障害のあるひとの近くで単に叫ぶという事象が生じたとして、なぜ叫んだのか、どうして叫びたかったのかなどの事象はまた別のもので、叫んだ後どうすればよいのかなどといった事象はさらに別のことです。いわば2次、3次の事象。

 健常者の場合は後付にせよ意識の数秒前の反射・反応であるにせよ、ひと続きの、一塊の事象として認識し、意思をもった主体により、意志をもった自己の選択として能動的に責任を引き受けることもできます。

カイホウに向かわない未責任

 罪を犯した精神障害者が罪を認めて更生に向かうのは、根気強く問い詰められたり諭されたりするときよりも事件を中動態的に、単に事象として捉え、その事象を分析してゆく過程で快方・解放へと向かうようです。

 

 事件の責任を押しつけられている状態から距離をとって現状の未責任の自己で事件を振り返ることで責任を引き受けられるようになるのでしょう。

 未責任というのは責任を引き受けられる状態にあるかどうかということで、責任を引き受けるのに(未だ)いたらない責任未満を表す造語です。

 ですから、未責任な状態で逮捕・拘留されているひとは納得できないでしょうし混乱するのも当然のことで、ときに反発的な態度をとってしまうのも無理からぬことでしょう。ただ一方的に責任を引き受させても本人が引き受ける能動がなければだた不自由を強要するだけで更生にはつながらないのでしょう。

 主体「である」未責任状態では行為者というよりも傍観者や聴衆であるばかりか場合によっては大衆や群衆のうちのひとりといった感覚の方が近いのかもしれません。

 この点は調査や尋問するひとが把握しておいたほうがよく、コミュニケーション障害は処理の仕方の違いによるものなのではないかという認識とともに、もっと世の中に浸透してもいいのではないかとおもわれる見識です。

 

 責任感の押しつけは過去の出来事・事件を振り返らせず責任を引き受ける契機を奪って、賠償や補填といった代替物によるある種の身代・犠牲によって形式的に責任を果たしたこととする国家の発明した短絡的な手順であるようです。

 また、このような社会において責任を取ろうとするひと、堕落した責任で自分も周りも社会でさえも納得させようとする姿勢・態度は欺瞞であり儀式的でもあります。

 特に日本においては”禊(みそぎ)”という言葉が使われますが、まさに儀式、ときに祝祭の色をも帯びることがあります。許しの祝祭。贖罪の祭礼。

 自分の意志とは関係なく、自分の意志に反して事件を起こしてしまった、事件が起きてしまったが、それでも自己という場、自分の意志という事象のもとに事件が起きた、起きてしまったことは事実で、その事件という事象のなかの自分という事象を捉えてそれを引き受ける。そこに責任感が芽生え始めるのではないでしょうか。

責任と覚悟

 すると責任とはある種の覚悟ともいえます。

 自分の意志とは関係なくとも自分の身体という現象が起こしてしまった事件・事象なのだから(もしかしたら罪悪感はないのかもしれないけれども)責任を引き受け(場合によっては賠償などをす)る。

 引き受けることを決める、決心、覚悟(覚悟には強度の違い、強弱があるでしょう。改心しようとの強い思いで服役するのかもしれませんし表には出さないけれども軽い気持ちで謝罪するのかもしれません)するのではないでしょうか。

 

 選択の連鎖、必然の世界のなかで自分の意志とは無関係であると思っている事象であってもそれを引き受け切断を跳躍する覚悟、さらには「もう一度、何度でも」と能動的に引き受ける運命愛、このあたりがニーチェやドゥルーズの考えつながるところです。

一元論の包容力

 上の快方過程や責任と自由意志の関係など、いたるところで転倒や転回がみられます。

 「事件という事象のなかの自分という事象」が「自分という事象が引き起こした事件という事象」へといわば中動態から能動受動態へと転回しています。

 自己意識や自我はこうした過程の蓄積から発明された概念なのかもしれません。毎度事象から自己を立ち上げてその自己から思考するというのは煩わしくすぐにリソースを食いつぶしてしまうので、この過程の前半部を省略して自己から発想するようになったのではないでしょうか。脳の省略行動は効率的で省エネであるため負荷が小さく楽であるから自我や主体を出発点とする意志の発生もまた必然だったのでしょう。

 いずれにせよこのような転倒が生じても破綻しないのは一元論であるからです。

再転回から再展開

 事件の中の事象が自己を引き受け事件を起こした主体が立ち上がり主体の起こした事件が立ち上がってその事件を引き受けるという転回が起きるということは、ときにその逆、再転回も起きうるのではないでしょうか。

 たとえばその重篤なものが現実逃避や(自暴)自棄、記憶喪失や心神耗弱、自己喪失や自我崩壊といったもので、これは再び自己「である」未責任状態の中動態の世界へとかえる過程が起動した結果なのではないでしょうか。

コナトゥスと傷

 自己または意志などを維持・保存しようとする恒常性・ホメオスタシス、あるいは傷ついたり歪められた自己をもとに戻そうとするレジリエンスをコナトゥスといいます。

 コナトゥスは生物にだけあてはまるものではなく事物や存在全般にまで及ぶものです。したがって、石には石の、意志には意志のコナトゥスがあります。

自存国家

 自己が立ち上がるように組織や法人、国も同じような過程を経て成立するのかもしれません。予測誤差やトラウマといった傷を知覚したときにナショナリズムが高まったり、傷の記憶を紛らわせるために極端な行動に出たりする傾向が似ています。わたしたち同様、きっと国も傷だらけなのでしょう。自立自存する国家はときに自損に走るというところもわたしたちに似ています。

 

 組織ということで言えば、そこに所属する組織人、組織人はその組織の一員「になる」ことで責任を負い、ここでもひとつのアイデンティティを得て自己形成のひとつとしています。このような社会のなかでのお互いの自己形成、アイデンティティの支え合いも共同幻想のひとつでしょう。

 

 ところで、国や郷、最小単位では家(庭)という場はやすらげる場所であることの多いところですが、家では個々の自己がすでに相互に認知、確立されており、その構成員、居場所のあるいわば既責任状態となるところなので「になる」という意志のダイナミズム、積極的な能動性があまりはたらかない、はたらかせる必要のない穏やかな場であるため心理的に楽で心休まるのではないかとおもいます。

 

 また同様に、すでにいくつもの責任を引き受け負っている大人は子どもよりも自由で家ではより心休まると感じられるのは自己が確立されているためなのかもしれません。

 

 このあたりは家庭により、また個人の置かれた状況によってだいぶん異なりますので一般論程度に提示するにとどめます。

 

 こうして今年は中動態の世界で目が覚めました。