あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

美術は技巧、アートは鮮度が命

 とくに日本において美術とアートとは常に同義ではありません。

 また、すべての美術、アートがそうであるわけではありませんが、昨今の傾向として美術は技巧、アートは新規性を土台としているものとして使い分け・言い分けられているように感じます。

 そこでここでは美術とアートとはそういったものだと措定して話をすすめます。
blue, orange, and blue fish illustration

 

技巧の美術

 日本において「美術家・芸術家」なるものは中世あたりまではいなかったのではないかとおもいます。

 これは古代日本人には美意識や技能がなかったということではなく、作者個人の表現、自由な創造物、独立した意思の表出手段を行使する・行使できる方法や場所、環境がなく、その意味で美術家・芸術家は不在でした。

 もしこのころ「美術家・芸術家」にあたるようなひとがいたとしたら、それは作成者ではなくむしろその依頼者に与えられる称号でした。

 たとえば今でも「安土城は大工の棟梁・岡部又右衛門が造ったとは言われず、織田信長が築城した」とか「名跡や襲名のように独立した個人・個性よりも家や技芸が前面に出される」といったように、企画・発案者が製作・製造者に指揮してつくらせ、作者・製作者・生産者・クリエイターよりも発案・企画・制作・統括・責任者・(日本語での)プロデューサー・ディレクターが美術・芸術家として名を残しています。

 企図した者ではなく実際に製作した者には美意識がなかったわけではけっしてありませんが(でなければたとえ指示下にあったとしてもあれほど美しいものを生み出すことはできなかったでしょう)、彼ら自身みずからを「職人」と自負・呼称していたのです。

 今も昔も工房制作はわかりやすく、その作者名には企画・指揮者の個人名かその主催する団体名が冠され、実際に制作した個々個人の名や功績は論文共著者として末席に置かれることすらないほどに表には出てこない・出されないことの方が多いのです。

 

 また職人のつくるものであったので、装飾美よりも用の美、より生活に近しいもので当時よりも後世、および当世において美を見いだされる機能的なもの、現代的な言い方をすれば機能主義的な意図を基礎にもつものがつくられました。鎌倉期の胴田貫などは好例ではないでしょうか。

 権力者に依頼されてつくった精緻を極めた豪奢なものであっても(無理やりな苦しい解釈をすれば)「これだけの技能をもつものを抱え、存分にその力を発揮させられるだけの資金は芳醇、であるから楯突き反抗しても敵わないと無言のうちに視覚的に相手を威圧し悟らせ、反抗の目を未然に防ぐ」という実用性があり、権威の表出としての機能性があったともいえなくもなくもないかと…。

 

鮮度のアート

 アート、特に現代アートは機能主義に反抗して生まれたという側面ももちます。それは機能面を追求し失われゆく人間性、産業資本主義の進展・浸透とともにライン製造・流れ作業の中に組み込まれてゆく人間身体、人間の機械化、製造する機械としての人間、こんな時代の風潮とも相まって、その反発力は少しずつ蓄えられ、あるとき臨界点を突破してアートシーンへも波及し反機能主義の機運が高まったことでしょう。(コピー技術や科学技術の発見や発展によって、機能主義を批判していたものが後に別の機能主義の上に立脚するようにもなりましたが…)ド派手な言い方をすれば、美術のルネサンス期が来たと鼻息荒くしたひともいたことでしょう。

 

 そうして生まれた極端な気運「ひとの後追いは自由の束縛」と言わんばかりの新規開拓、フロンティア、とにかくまだだれもやっていない新しいことの探求、「新規性とは自由(性の発揮のこと)かな」と、目新しいもの、目を引くものが大量生産された時期がありました。

 そして確かにそのころ美術界のゴールドラッシュ、プチバブル、アートバブルが起きたのでした。

※アートバブル(に限らずバブル全般)はダブついて行き場を失ったカネが堰を切ってアートシーンへと流れ込んできたという現象も伴うものでもありました。とくにこの頃のアートバブルは反機能主義と新規性の興隆、資本主義社会の進展による人間性の喪失感と資本(カネ)の飛躍的な拡大と増大といういくつもの大きな潮流が混流・混濁して現象したひとつの徴でした。

 

 こうして足早に生まれた宿命か、❝鮮度❞が命のアートが乱立し、ゆえに時とともに急速に力を失ってゆく。“力“の半減期・減衰期がはやい。

 一作品のうちにだけでも起こる価値の乱高下(たとえば作者がある事件を起こし、その希少性のために価値が高騰したり、または反対にその秘境卑劣さのゆえに価値が急落したり)や嗜好潮流の変化など、現代は人口も資本も増加の一途を辿っているためか投機的利便性も相まってその価値は増加か高止まり傾向にありますが、ひとたびこれらが縮減傾向を見せると市場は敏感に反応し下落。(これはアートだけに限らず美術全般においてもいえることですが)市場動向とあまり連動せず自立自存の価値を保ち続けられるアート・作品がどれほどあることでしょう。

 

 美術には「術」の字があてられています。芸術ともなると「芸」と「術」のいずれも習得過程を経て得られる技巧を表す字があてられています。時間の厚み、修練や経験の厚み、そうして獲得し血肉化した技能・技芸。こうして作出されたものにはいやが上にも”力”が宿り、そうでないものと比して価値を有して後世へも残存する確率を高めることでしょう。

 ただしこれは制作にどれだけの時間を要するかということではありません。それは「私はこの絵【黒と金色のノクターン - 落下する花火】を全生涯の経験によって描いた」とホイッスラーの豪語するが如く。

 技巧を土台としているため時間の風雪に耐え、技量のある上での破壊や崩しだから成り立つものがあります。「守」「破」を経た上での「離」であるからこそ制作期間2日ほどであっても“力”が宿るのでしょう。

 技能・技工を得るまでに費やした時間は甚大でも、それに比して、その技能・技工の発揮・発露に要する時間は僅かだということです。そしてまた、その時間を僅かとしているのも技能・技工のうち、その為せる技。(ちなみに、技能・技工というのは足し算ではなく掛け算で発現するものではないかとおもいます。技量が上がればより高度となり、要する時間は短縮される。)

 

“力“をもったアート

 しかしながら、そんな拙速なアート、アートシーンにあっても力、“新規性“ともまた異なった魔力ともいいうるような強力な生力を宿したものがあります。それはたとえば“根気“、たとえば“物語(性)“といったものたち。

 

 根気が力となる場合があります。おびただしい点、数え切れない水玉や丸、最後は偶然の女神に委ねられるにしてもその前までは入念な準備、知識の蓄積、意図、企図、企画、経験、試験、時間、それまでに、そこに至るまでに身につけた技量、努力の結晶。根気の振動、そこに込められた根気の波動が(目には見えなかったり、ときとして目に見える形で)“力“として付与されることがあります。

 新しいことでもそれを続けるには技能の向上を要するものや数を重ねて自ずと技芸が亢進することがあります。

 

 作品自体の良し悪し(だけ)ではなく、作者の言動や作品の来歴、製作工程・過程や時代や出来事との邂逅などなど…から“力“を与えられ、力を得ることが度々あります。

 いつどこで誰がつくったかということで最高峰・最高度の価値を有するのは古代のひとの手からなる洞窟壁画や土器などでしょう。

 また、美を追求してつくられたのではなく、日常品やそれにほんの少し加えられた❝遊び心❞や些細な装飾に後のひとが❝(用の)美を見出し❞た温故知新、民藝運動

 時代を画したデュシャンやウォーホル、ジョン・ケージら革新者。

 作品自体に稚拙さや曖昧さ、容易さや完成度の低さがあってもそれを補ってあまりあるほどの歴史や物語といった力を纏っています。(新規性も”新規性“という物語が付加されているともいえるのでしょう。)

 

 たとえばバンクシーの絵から物語性を取り除いたら、つまり名前や匿名性、神出鬼没や描かれた場所と意味など、その記号を取り払ったとき、その作品単体だけで、それでもその作品は現在のように評価されあれほどの高値で取引されるでしょうか。シュレッダーにかけて作品を棄損したら作者の意図とは裏腹に、さらに値を上げてしまうという新たな物語が生み出されるでしょうか。

 

ヒト感動ウイルス感染中

※ウイルスはヒトの誕生や生物の進化に寄与してきたということで

 とはいえひとは新規性を求めます。ホーミー、ユニゾンベートーヴェンのピアノ(音階や音量、和音に技法など)探求、カノンは掠れボカロの勃興、テクノ、多重音声…と、今日においてもまだまだ新しい音を探している最中。

 そうかと思えばクラシックは何度も何度も❝再演・再現❞されている。感動にあうために。美しさを求めて。

 新規なアートは時を得て、技を経て芸術となる。

 結局のところひとは、新しかろうが古かろうが、感動を欲する感動中毒罹患者なのでしょう。それが切れると新しさを貪ったり古いものを掘り返したりせずにはいられないというだけのことなのかもしれませんね。