※ここで言う「自由主義」あるいは「自由主義者」とは、俗に世間であげつらわれている悪いイメージをもつそれのことであり、まったく関係ないというわけではありませんが、ハイエク、ましてや"新”自由主義の旗手フリードマンのそれを意味するものではありません。
大勢天国の乱
自由主義とは理想論の極北にある実効性のない非現実な現象世界。
したがって、これを無理に現出しようとする営みは無害どころか迷惑極まりない態度。
しかし、これを唱える側はテクニカルな分析を施して巧みに現実味から目をそらさせ欺いてくる。
また、これを見聞する者は生活に関わる「お金」についての事柄であるため、その当の「お金」に過度なリアリティを感受し、不当に高い信憑性を付与し、不必要なまでの信認をよせてしまっている。
病変の自由主義
日本の医療界では長時間労働や訴訟リスクが他科と比べて高い外科や産婦人科の担い手やその科を選ぶ学生の数が年々減少しています。
自由主義の考えでは民営化や規制緩和を進め適正な競争社会にゆだねれば自ずと価格や生活、幸福等々は最適化されるといいます。
自由主義者のいう競争社会を実行すればもしかしたらいつの日か最善の社会が訪れるのかもしれない。
ただし、そのときに至っても人類が生き残っていたのなら…。
たとえば現在の日本の医療界、つまり外科や産婦人科医は減少し精神科や整形外科医が増えていったのなら、極端な例ではありますがこの傾向が過度に続いたとしたら、自由主義者の唱える自由競争社会であれば、そのような状況に陥ったとしてもそのときには外科や産婦人科の需要はますます高まり賃金や待遇が自ずと高まるだろうし、不必要であれば、あるいは不要なところは削減されて最適化されるだろうというのかもしれない。
極端な事例を挙げているのでさらに極端なシチュエーションを加えると、ややリスクの高い高度な外科手術を要する命に関わるウイルス性の動脈瘤の大流行、パンデミックが起きたとして、このとき自由主義の理想社会が訪れるまでに人類は果たして生き残れるだろうか?
いやいや、こんな状況では自由主義でなくとも何主義であってもどうにもならないのでなんの批判にも主張にもなっていないのだけれども、ただまあ現行現代社会においてイニシアチブを握っているということもあって矢面立看板に立てます。
詳細な過程は秘して語らず
自由主義者のいう自由競争社会は実現可能なのかもしれないのだけれども、それでも他の如何なる主義に比してその道程はあまりに険しすぎやしないかい?
その不確実性に賭けるのかい?
理想を語っているから神話とかわらない。
だからバイブルと呼ばれる自由主義の本があるのかもしれない。
聖書・聖典にもそれ・天国はあると云われているけれど、そこへ至る方法は明確には示されていない。
それは予言という形でしか示されない。
誰にも、何主義であっても確実なことは言えない黙示録。
果たして、自由主義とは聖書か悪魔の書か。
ただ重要なのは、何主義であってもそこに至るまでの道筋に現実味があるのか?
その理想形までの道程を実行するのは可能であるのか?
ということ。
現実と(←これは当然のこととして)理想の両端の2点は見えていても(今の)現実から理想までの過程や段階・ステップが見えていないのであれば、現実と理想を結ぶ線が描けないのであれば、それは何年もの歳月をかけ、ときには心血、命までをも懸けた・賭けた真剣に描かれた絵に描いた餅でしかないのではないだろうか。
変異させられたグローバル化
グローバル化は、自由貿易という語では抵抗感が生まれ警戒されてしまうからそうとわからないように広め浸透させるために創出され使われている代替語。
これまでのグローバル化は(経済的価値観・貨幣価値観の統合からはじめて文化的、慣習的、法的価値観にも及ぶ)均質化と同義。
本来グローバル化は国家間、個人間で種々異なる性格や特色や文化を維持・尊重しあい、むしろそれがより先鋭化し高められる、ある種ナショナリズムの高騰のようなものを促しながら進むものなのではなかろうか。
統合されうべきものは種々のユニークさ・独特・特有のものではなく、地球環境や人権、持続可能社会(の模索)といった人類存亡に関わるただ一つのことだけではなかっただろうか。
多様性を許容するのがグローバル化かとおもいきやその実は多様性を排除するのが現代の実際のグローバル化であり歪められた資本主義の姿なのではないかとおもいます。
警戒色
”主流派”というのは正しさの指標ではありません。
為政者にとって都合がいいので公が認めるものが”主流派(・大勢)"とされることが多々あります。
もちろん個々人の認識から立ち上がり集約して"主流派"となるものもないわけではありません。
また"主流派"の対極には"異端"がおかれます。
"主流派"の類似や傍流に連なるものであっても、体制を揺るがしかねない考えが混じっていればそれだけで"異端"の烙印が押されます。
”主流派”を主流派だからというだけで他に特に合理的で妥当性もないのに是とするひとは、”主流派”を主流派とすることで、”主流派”に連なっていれば甘い蜜を吸えるポジションにあるひとか印象操作に絆されやすい大衆迎合傾向のあるひとのどちらかでしょう(そうではなく思考・検証のうえ"主流派"を肯定するひとは単に信念を持つひとでしょう。"主流派"のすべてが間違っているわけでもないし、すべて正しいわけでもないからね)。
それは第一次大戦期日本の脚気の病因をめぐる悲喜交交からもうかがわれます。
東京大学閥という日本における”主流派”学閥のプライドや実を無視した虚の意地、横柄、横暴、自惚れといったものが栄養説を退け間違ったウイルス感染症説をまかり通らせてしまい大勢の死者をだしました。
また、キリスト教隆盛期には否定ばかりか弾圧までされていた進化論や宇宙論も科学が台頭し大勢を占めてくると、オセロの石が一気に裏返るように、手のひらを返したかのように肯定され重視されるようになりました。
するとにわかに”主流派”という言葉が警告の色を帯びてきます。
そもそも"主流派"とはなにか?
なにをもって"主流"をなすのか?
そうと信じているひとの数か?
少数であっても声や力の大きな者がそちらの側についていることか?
「大勢」という字はおもしろいもので、「たいせい」とも「おおぜい」とも読めます。
数が多いからといってたいせいを占めるとは限りませんし、同じことですが、たいせい側だからといって賛成者がおおぜいいるとは限りません。
民主国における民主的な選挙を経て政権を握るに至った与党は"主流派"といえるでしょう。
しかし、さりとて民衆の大勢からなる"主流派"であるとは限りません。
『多数決を疑う』や『銀河の片隅で科学夜話』などにあるように、5%の固定票の意見が大勢に大きな影響を与え、それが17%ともなると裁量権をほぼ手にできるといったことを知ると、大勢は必ずしも"主流派"ならずということがわかります。
”主流派”は正しさの指標ではなく、"主流派"といっても常に検証を要し、その上で安住してはならないことなのでしょう。
言い過ぎた言い方をすると、"主流派"は警戒の色といったところでしょうか。
侃々山岳では出羽三山。