信頼に傷がつく、信頼を損なう、信頼関係に与信管理、信用調査に信用貸し、株式信用取引に信用創造…
信用や信頼なんて言葉を使うからややこしかったり勘違いしたりするのだ。
だからこれからは「信用」なんて言わず「期待」と言おう。
期待に傷つく、期待を損なう、期待関係に期待(値)管理、期待(値)調査に期待貸し、株式期待取引に期待創造…
信頼に傷がついたり損なったりするとヘビーな感じがするけれど、期待に傷がついたところで屁でもないし、期待を損なったところで「ごめんね~」ぐらいの軽みが出てきませんか?期待を裏切っているのでそれほどの軽みはないか…。
期待はライトでヘビー級な信用
「信用」を「期待」とした方が信用が(少し損なわれて)よりライトなものとなり、より意図した通り期待した通り、より実測・実感・経験に近く、より正しく世相を映したライトなものになる気がするのですよ。
これまでがあまりに「信用」に信用・信頼を寄せすぎ、多用・乱用しすぎているきらいがあって、当世、この浮世がなんだか気持ち悪く居心地が悪い感じがするのです。
社会は信用よりも期待でなりたっているのではないかとおもいます。
経済はその傾向がよりいっそう強いようにおもいます。
この国は来年もあるからこのお金は来年も価値を保持していられる。
お金を貸すのもそのひと(の返済能力)を信用しているからというよりも(利息付きで)返済される公算が高いと見込んでいるから、期待しているから。
「信用度」ではなく「期待値」と言ってしまえばいい。そのほうがよりドライでドラスティックな分、メンタル傷つけられる度合いと頻度が減るのではないかとおもうのですが…いかがですか?
「あなたには信用がない」と言われるより「あなたには期待がもてない」と言われるほうがまだましな気がする。
「信用がない」と言われると「(まだほんの2、3度あっただけでわたしの性格も内面も知らない)あなたに私のなにがわかるの!」と怒りを覚えること度々なのに対して「期待がない」と言われると「(実績も後ろ盾も、保険も担保も、若さも学歴もないから)ですよね~」となりませんか?
受け取り方はひとそれぞれかな?
でも、「期待」は「信用」ほど人格を傷つけない感じがするのです個人的には。
待望の神
神の神たるゆえん、それは実際に神であるかどうか(真実性・事実性)ということ以上に神であると信じられているかどうか(信仰・信頼・依存)にかかっている。と、罰当たりにもおもっています。
神の実在性を証明することはできないけれど、それを神であるとみなし信じることはできる。信者にはそれで十分。実在性も証明済みの事柄であり、間違いなく疑う余地なく確実に存在している。そして実際にそうである。唯名論的にはすでにQ.E.D.。証明不可能でも「おるもんはおんねやもん」と言い切られれば、少なくともそのひとの概念として(そういう❝形❞をとって)いてはるのです。
ゆえに神の神たるゆえんは信じられているかどうか。
こうして神と信者とは対等とも共依存関係であるともいえるかとおもいます。
すると神の新たな❝人物像❞が浮かび上がっては来はしないでしょうか。
つまり❝情報❞としての神。
神は従来考えられていたような創造主、世界や生物を生み出した存在なのではなく(正確には、そのような神の存在はたとえ神自身であっても証明不可能であるため考察対象外として…)信仰心が生み出す概念という情報としての神、振動としての神、振動する神、わたしたち振動するものと同じ地平に属する地続きの存在、信用されている神、期待された神、期待されている神という姿が浮かび上がっては来はしないでしょうか神だけに。