芸術のつよさ
芸術は「強さ」です。
「弱い」ものは議論にも議題にも話題にものぼりません。
「弱い」ものでも言及されるものは、「弱さ」という「強さ」、消極的な強さを持っているからではないでしょうか。
ストロング・アート
ひとにより趣味が異なり、ひとにより「強い」ものが「弱く」、「弱い」ものが「強く」感得されることがありますが、それらは総じて「強い」もの。
あるひとにとって「弱い」と感じられていたもの、つまり、そのひとにとって芸術ではないものも、焦点があてられ、視点がむけられることで、強度の差はあるにしても「強さ」が付与されて、そのひとのなかで芸術へと転化・昇華しうるのではないでしょうか。
この強弱をつきつめれば、存在(と非存在)へと転化しうるので、究極、すべてが芸術となる世界が開けます。
美の所在
ひとは儚いものを愛します。
美しさはいつかそうでなくなる、あるいはそうでなくなるという可能性を秘めています。
自分の死が近づいているとき、あらゆる存在、自分を含め自分が解釈し、その存在を与えてきたものすべての存在が儚いものに感じられて、これまでなにもおもわなかった些細なものをも愛するようになります。
すべて儚い。ゆえにすべて美しい。
美しいものに美しいと感じるのではなく、美しいと感じるところに美しさがある。
住まう美
欲しがる、見たがるなど、「~したがる」という傾向に行為という名詞をあてがって、その行為傾向を美と名辞したのではないでしょうか。
わたしたちは美を好む。むしろ好むことが美であるから。
美を好むのではなく好むことが美。
美を欲するのは、欲することが美だから。
美の根底に「我欲す」がある。
住処を清潔にたもつなどの美意識はネズミを退け病を退けます。
このような美は「生きること」に根ざした美ではないでしょうか。
これは生きようとする、生きたがる傾向・習慣・本能に根ざした美ではないでしょうか。
そんな美があってもいいでしょ?
希少価値信仰
(絵画は)不安を塗り込めて解放・開放に近接する行為にみえるときがあります。
美しいものはときに美しいというただそれだけでひとを癒す。またときに残酷にもなる。
希少生物
極端に言えば価値は希少性。
だから唯一のものが一番希少性が高い。
その最たるもの(の一例)が命。
生物は価値を消費できるために希少のうえにも希少で価値が高い。
なかでもひとの場合、それに加えて、価値の創造ができて、価値の消費の面においても、その価値を唯一認識できるという希少性をもちます。
ひとは価値を理解・創造・消化できる無二の希少性を持つ唯一の存在です。
これは価値には価値があるということを前提とした考えですから真理ではありません。
創造と認知
価値は創造者と認知者による共作。
価値を生み出すのは創造者。
価値を生かすのは認知者。
価値は生み出される。
創造される。
価値の産後、生存は認知者に委ねられる。
作品は創造者によって生み出された赤子であり、それを育てるのは母である認知者。
時に認知者は創造者の生殺与奪を握る。
ただし認知者に創造の才はない。
創造者は創造と認知の両方の才能を持っていることがおおい。
したがって作品には、最低でも二人以上の認知者が求められる。
創造者と認知者。
創造者は作品に責任を持ち、認知者はその価値に責任を持つものとなる。
神の価値
原始においては有益なものが価値を持っていましたが、有益であるがゆえに普及して大量生産されると価値・価格が下がります。
芸術は希少性だけではなく投機対象となって価格が上がっていることもあるので価値がはかりづらい…。
茶道の茶器のように有益・有用でない物に価値を付与して定式化することもできますし…。
対して、特に一神教において神は生産・創造・交換不可能で、信仰を原資とするために希少性が極度に高く不可侵となっています。
こちらもいかが?