抽象を超えて
抽象は曖昧ということではなくて抽出したもの。
不協和音や抽象画はわけのわからないものではなく抽出された美のこと。
音の抽出。音を観る。
具象音楽というものはなく音楽は抽象的なものですが、具象音楽があるとしたら、それは音まねではないでしょうか?
絶対音感をもつ人には具象音楽なのかもしれませんが…。
非可聴域の音をおおくふくむアジアの音はどうみえているのでしょう?
非可聴域は音符にならないから見えないのかな?
音符みたいな記号をつけられたらみえるようになるのかな?
時を抽出する目
絵を描くこととフィルターは切っても切れない関係。
見るという行為からフィルターを取り除くこと、抽出行為をなくすことはできません。
見るとは抽出に過ぎないから。
派手にいえば抽出行為が見るということだから。
絵を描く目
絵を描くということはいかにフィルターをはずすか、どのフィルターを残し、どのフィルターを通すかということです。
抽象絵画はそのフィルターを幾重にも通すことによって大胆かつ繊細に装飾を削ぎ落とし、本質を抽出します。
抽象画は本質を抽出するという点で対象そのものを描くということです。
これはつまり、抽象絵画は本質を抽出した像を描いたものといえます。
反対に具象画は細部も写し取ろうとする具体的な像を描いたものといえます。
ただし抽象と具象とはどちらも美を捉えようとする行為であることに違いはなく、ただその方法、接近の仕方が異なるだけ。対象が本質に近いほど抽象と具象は近接するものとなり、さらに言えば美に近づくほど両者の境界線は曖昧になります。
抽象する目
抽象画は、ある人がいうように「視覚ではなく意志を通す」ことで、形態だけを抽出したり、色彩だけを抽出したり、明暗だけを抽出したり、反対に抽出しないという抽出をする行為であるので、具象画との違いは抽出方法が異なるだけ。
ハーバート・リードさんは『芸術の意味』で「本来あらゆる美術は抽象的である」といいます。
時を超える抽象のイコン
抽象化が進むにつれてイコンは消失していきます。ただし絵画・芸術は「真理・真実・実相」や「美」のイコンを表現する行為であるという意味ではイコンを消すことはできません。
永遠のイコン。イコン追求行為が美ともいえます。
美術理論や解釈が時代とともに深まり進んでも、以前の芸術が廃れることはあっても稚拙だと蔑まれたり、その評価が暴落することはなく、歴史的価値以上の価値が保存され続けるのは、それが美のイコン追求という芯のところでは時を超えることだからではないでしょうか。
抽象の現代
抽象画はその描き手においてはリアル。それも超現実(的)。シュルレアリスム。
拡大する現代のアートシーン
画という静止物を越えて創作・制作行為自体を芸術とする、アートの潮流をうみました。
これはカンヴァスを越えて自然・環境・時間・次元・世界・自分自身を含めた宇宙へと拡張され、それがカンヴァスへと換えわっていきました。
しかしその際限のなさで、現在、アートが氾濫してしまっているようにかんじます。
また、この流れがときに、芸術の頽廃や社会的価値への反乱運動にみえてしまうことがあります。
美が触れる
美しさは生を体験・喚起させるものではないでしょうか。
ただしそれには個人的な差異があります。
みるということが差異の体系であるともいえますが、何に触発されるか、いつ触発されるかはひとそれぞれ。
現代アートはわからないというひとがいますが(わたしもそのうちのひとりですが…)現代アートに感動するひともいます。
それを否定しはしませんし、できません。
なぜならそれは事実だから。
ただその人たちとは抽出方法が違うだけなの。
何年か後にわたしもその抽出方法を得る可能性だってあるんだから。
こちらもいかが?