軸現象学?
思想の軸仕分け
軸をつくらない、あるいは、どこに軸をおこうかな〜という意識に軸をおくのが現象学。
軸があるという意識・感触があることに軸をおくのが実存主義。
軸を据えるのが解釈学。
どこにでも軸がおけるのが相対主義。
軸をかえ続けることを軸とするのが脱構築。
軸から考えて演繹し、軸への関わり、軸からの思考、軸の原理、軸の働きから軸を探ること、またはその逆をするのが形而上学。
軸を問うのが哲学。
この点において哲学は問いであり続ける。
軸について考えなくても生きることには困らず、また軸を使うことはできる。
だから普段は軸について気にしないというのが健全なひとの態度。
軸の現象学の軸?
軸は想定されるものであり、軸そのものがあるというわけではないので、軸そのものについて語ることはやめて[エポケー]、まず軸がどんなものかは知らないけれど、あるということ、その意識・直観だけは疑いえないので、軸から帰結すること、わかることを調べていく[現象学的還元]。
そしてそこから逆行して軸についてわかったこと、想定としてあると思われていた軸が実は実体としてあるといったような、軸について解明されたことから帰納法的に軸を究明する[超越論的還元]のが現象学。
現象学は現象学的還元から超越論的還元にシフトするとき、演繹から帰納へとシフトしている。
ちょうどある人の定義する形而上学の反対であると思う。(←昔のメモ書きなので、ある人がどの人のことなのかわからなくなっちゃった…)
軸を挫く軸
軸に関わること。軸からわかることだけを扱い軸に関わらないこと。
軸からわからないことは扱わない、意味のないこととするのが論哲論考[前期ウィトゲンシュタイン]。
ここが論哲論考と声字実相義の類似点だとおもう。
論哲論考は軸を揃えるとか真っ直ぐにするということについては考えない。
そもそも軸というものは想定されているだけのものであるから。
ただし最後に軸・世界・枠があること、ただあるということが不思議だって言う。
言語ゲームは私と他者の軸は異なるものだから、本質的に軸についての思考は共有し得ないって言う。
(軸に軸足おくとジクがブレますなぁ〜)
私の軸の私
現象学は「人間((の主観)・人間への還元)」を基としているため、良くも悪くも(人間への)愛情に満ちているとおもう。
現象学ではなく実存主義だけれど、ここはサルトルさんの心持ちと親和性があるところなんじゃないかなぁ?
私のテリトリーと私の範囲
存在者はそれぞれに体をもちますが、存在者自身はどのように捉えられているか?
例えば指は私の指といったように私に付加されたもの、あるいは支配下にあるものと捉えられますが、私というときには指も含めてすべてで私という捉え方をされます。
また心臓は私の意識に反して自律して動きます。
つまり私の支配が及ぶ範囲が私なのではなく、それ以上のなに者かが私です。
結局、私という語は、本来的にはなにも意味していません。
私は私であって私ではない。
私と言いたいのであればすべてで私。
世界というかわりに私というだけの違いでしかない。
ここが現象学の始点なのではないかとおもいました。
一般的に言われる私は、私と言いうる範囲の特定の複雑さです。
言いうる範囲とは解釈・意識・感覚といわれるような曖昧なもののこと。
私は知らない
闇の中で目をつぶり全身麻酔を打たれたら私は無限に広がります。このような状態で産まれたなら、世界と私とは同一じゃない?
世界と私との境界は強固で脆いとおもうのです。
ただし、私は気づいたら産まれており、気づかぬうちに死んでしまいます。
言い換えれば、私・世界ははじめもおわりも知りえないということ。
フッサールさんのように(超越論的)自我をエポケー・判断停止によってカッコでくくる必要はありません。
なぜならここで言われている自我というのは、ここ、つまり存在・場のことであり、それについて語ることですでにカッコでくくられているから。
ここについて語るにはカッコでくくらなければ不可能。
ここにおいて語ることは、つまりカッコでくくること。
語ること即カッコでくくること[対象化、物体化]だから。
ただしそれをすると、ここについては語れなくなる。
あるというのはつまりここ。ある=ここ。
わたしの数
無を数字で表すなら0ですが、それがある・存在するという意味では1。
私においても(永井均さんにおいては「私」にあたるとおもうのですが…)あるという意味では1ですが、その起源は0であるはず。
でも私・「私」は私・<私>からは逃れられず0と言うことはできない。
0について語ることができない。
したがって、ここ・<私>は0であるはずだけど0とは言えない。
ここ・「私」であり、0地点、0場、1地点、1場というように、常に1になってしまうところ。
こちらもいかが?