あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

図解!マルクス・ガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』② ~「意味の場」について~

実在論における「意味の場」

 マルクス・ガブリエル著『なぜ世界は存在しないのか』の265ページの用語集にある新実在論における「意味の場」の定義は以下のようになっています。

意味(Sinn) 対象が現象する仕方のこと。

 

意味の場(Sinnfelder) およそ何かが現われてくる場。

 

意味の場の存在論(Sinnfeldontologie) 「およそ何かが現象している意味の場が存在するかぎり、何も存在しないということはなく、そこに現象している当の何かが存在している」とする主張。存在すること=何らかの意味の場に現象すること。

 

存在(Existenz) 意味の場の性質。その意味の場に何かが現象しているということ。

※ページ数は電子書籍のものを基としております。したがって、紙媒体や他のリーダーアプリのものとは異なるかもしれません。

 

「意味」の意味

 「意味の場」の特徴をみてゆく前に、「意味」についてみておきましょう。

 アーノルド・シュワルツェネッガーが、あるときにはニューヨークのヘラクレスだったが、またあるときにはカリフォルニア州知事だったということ、ここに矛盾はありません。どちらもそのとおりだからです。同じことが4という数にも言えます。4という数は「2+2」とも書けますし、「3+1」とも書けます(ほかにも無限に数多くの書き方ができるでしょう)。

 フレーゲは「2+2」や「3+1」を「与えられ方」と呼び、これを「意味」と呼んでいます。それによれば、同一性命題で等置される二つ(以上)の表現それぞれの「意味」は異なっているが、それらの異なった表現が指し示している当のものは同一である(すなわちシュワルツェネッガーや4という数)。同一性命題が実質的内容を備え、真であるとともに無矛盾であるとき、そこからわかるのは、同じもの(同じ人物、同じ事実)がさまざまに異なった仕方で表されうるということです。フレーゲの用いる「与えられ方」という言葉の代わりに、わたしたちは「現象」という言葉を用いることにしましょう。すると、意味とは対象が現象する仕方のことである、と定義することができます。

と、86ページで意味はこのように定義されています。

 

※本書ではsinnが意味でbedeutenが意義と訳されていますが、どちらかといえばその反対で、sinnに意義、bedeutenに意味と充てられることが多く、このことは訳者もことわっているところです。ここでは本書にならって意味をsinnとし、sinnfelderを意味の場として統一します。

 

 要は「2+2=4」と「3+1=4」のどちらも同じ4という対象を「2+2」や「3+1」という複数の表し方、与えられ方、現象の仕方があるよということです。

 そして「2+2」や「3+1」というのが4という対象の「意味」にあたります。

 

 同様に、「ニューヨークのヘラクレスと呼ばれていた俳優」と「第三九代カリフォルニア州知事」といった意味をもつ対象が「アーノルド・シュワルツェネッガー」だということです。

 

 ちなみに、引用にある「同一性命題」というのは「2+2=3+1」のようなものです。

 

生々しい意味と無味乾燥な対象

 「意味」についてはだいたいわかったものとして、本項では私が原語から感じる「意味の場」と「対象領域」のニュアンスの違いについて語らせてください。

 

 意味の場はSinnfelder、対象領域はGegenstandsbereichでfeld(英:field)にもbereich(英:erea)にもどちらにも領域や分野という語意があります。

※「意味」という語を一般的な用法、つまり「ある単語の内容」といった語意で用いるとややこしいので、これ以降、「対象の現象の仕方」という趣意を表すときに「意味」という語を用い、そうではない、一般的な用法、「ある単語の内容」という趣意を表すときには「語意」を用いることとします。

 

 feldは田畑、野原、戦場、競技場などの語意ももち、bereichは範囲、区域、地区などの語意ももっています。

 

 田畑や戦場という語からは(bereichに比べて)なにか生命力や活気、生々しさを感じないでしょうか?

 対して範囲や区域という語からは(feldに比べて)まったく息吹が感じられず、無機質で無味乾燥な、単に事実を表しているだけのものという印象を受けないでしょうか?

 

 先ほどある1つの同じ対象gegenstandでも意味sinnは多様な与えられ方をするということをみてきました。

 するとsinnからはfeld同様、生々しさを、そしてgegenstandからはbereich同様、無味乾燥な印象をもたないでしょうか?

 

 私には、SinnfelderとGegenstandsbereich、sinnとgegenstandばかりでなく、feldとbereichも互いにニュアンスの違いをもち、似たニュアンスをもったそれぞれの語が結びつくことで、その特徴を強調しているようにも見受けられるのです。

 

 ちなみに、他の資料等ではSinnfelderは「意味の場」ではなく、「フレーゲの用語の定訳語」[p.259]である「意義領野」が使われていることがあります。「意味の場」よりも「意義領野」の方が馴染みがあったりわかりやすいということであれば、語を置き換えてみてください。

 

存在の絶えることない多さ

 「意味」が多様な現象の仕方だとすると、「意味の場」とはなんでしょうか。

 

 「意味の場」とは「およそ何かが現われてくる場」のことだと定義されています。

 私的解釈ですが、端的に言って「なにかがある」ということが「意味の場」で、その「現われ方」が「意味」なのではないかとおもいます。

 

 誤解されやすいですがよりイメージしやすいと思われる言い方をすると、「なにかがあるという感覚」が「意味の場」で、その感覚の「現われ方」が「意味」といった感じです。

 

 ドイツ語sinnには意味や意義の他に知覚や感覚という語意があります。

 そしてまたsinnは英語のsense、フランス語のsensにあたり、およそ西洋のsinnにあたる語には、やはり知覚や感覚という語意があります。

 対して日本語の意味や意義という語には知覚や感覚という語意はありません。

 このことからsinnには日本語ネイティブにはわからない語感があり、また日本語ネイティブではsinnは知覚や感覚と訳した方が趣意は間違っていてもイメージしやすくなることもあるのではないかとおもいます。

 

 そこで提案です。

 もし「意味」という語に慣れなかったりイメージしにくいということであれば、はじめのうちは「感覚」という語をあててみてはいかがでしょうか?

 

 本旨に入る前に、もうひとつ、もう一語だけみておきましょう。

 それは「存在」です。

存在するとはどのようなことか、そして「存在」という言葉は何を意味してるのか[p.66]

という問いに対して、存在するとは意味の場の性質、「存在の意味、つまり「存在」という表現によって指し示されているものとは、意味それ自体にほかなりません」[p.250]と答えています。

 

 本書では『なぜ世界は存在しないのか』についてあの手この手のメレオロギーの手マレーヴィチの手を駆使して切々滾々と内容の重複多めで説いていますが、そのとき避けては通れないのが「存在」だからです。

 世界が存在しないことを説くにはぜひとも存在するとはどのようなことかを説く必要があるのです。

 

 存在とは「意味の場の性質」だとか「意味それ自体」だとか言われても、まだその論旨、輪郭がはっきりしないと感じるかもしれませんね。

 ですが今のところは、用語の確認をしたというぐらいの認識で、ここで立ち止まらずに進んでみましょう。

 

 ということで、一応、これで一通り主要な用語の確認が終わりました。

 前回の内容も含めてここに「対象領域」「意味」「意味の場」「存在」の主要な4つの材料が揃いましたので、これより図解に入っていきます。

 

「意味の場」の多様性

二つの意味の場が同じ対象に関わることもありえますが、そのさい当の対象は、二つの意味の場それぞれで異なった仕方で現象するほかありません。[p.87]

 新実在論における存在とは「意味の場に何かが現象している」ことで、「意味の場」とは「およそ何かが現われてくる場」のことでした。

 

 すると、対象がある意味の場に現象する・しているというのは、つまりは存在する・しているということで、1つの対象が2つの存在、2つの存在の仕方――2つどころか3つでも4つでも、複数の存在、多数の存在の仕方――をすることもありえるのだと言っています。

 

形而上学構築主義と新実在論のヴェズーヴィオ

 このことを形而上学構築主義と新実在論、それぞれの主張、それぞれの存在論を比較・説明している16ページに書かれているヴェズーヴィオ山を例にとったものを図にしましたので、そちらをみながら確認していきましょう。

形而上学の主張によれば、このシナリオに存在している現実の対象は、たったひとつだけです。すなわち、ヴェズーヴィオ山です。ヴェズーヴィオ山は一方でソレントから、他方でナポリから見られているが、これはまったくの偶然であって、ヴェズーヴィオ山にとっては(願わくは)ほとんどどうでもよいことである。ヴェズーヴィオ山に関心を寄せているのが誰かなど、ヴェズーヴィオ山それ自身にとっては問題ではない。これが形而上学です。

 これにたいして構築主義の想定によれば、このシナリオには三つの対象が存在しています。すなわち、アストリートさんにとってのヴェズーヴィオ山、わたしにとってのヴェズーヴィオ山、あなたにとってのヴェズーヴィオ山です。これらの背後に、現実の対象など存在していない。あるいは、そのような対象をいずれ認識することは、わたしたちには期待できないというわけです。

 これにたいして新しい実在論の想定によれば、このシナリオには、少なくとも以下の四つの対象が存在しています。

 

 1 ヴェズーヴィオ

 2 ソレントから見られているヴェズーヴィオ山(アストリートさんの視点)

 3 ナポリから見られているヴェズーヴィオ山(あなたの視点)

 4 ナポリから見られているヴェズーヴィオ山(わたしの視点)

ヴェズーヴィオ山という対象がわたしとあなたとアストリートさんというそれぞれの意味の場が重なり合うところに内包されている図

 形而上学では1の対象・もの自体としての「ヴェズーヴィオ山」だけが存在していると考えます。

 

 構築主義では1以外の、2~4のそれぞれの観察者から観察された対象の「ソレントから見られているヴェズーヴィオ山(アストリートさんの視点)」「ナポリから見られているヴェズーヴィオ山(あなたの視点)」「ナポリから見られているヴェズーヴィオ山(わたしの視点)」のそれぞれのヴェズーヴィオ山が、つまり3つのヴェズーヴィオ山が存在すると考えます。

 

 そして、新実在論では少なくとも1~4の4つのヴェズーヴィオ山が存在すると考えます。

 

 ここで「少なくとも」とわざわざ但し書きされているのは、とても狭い限定的な範囲に絞って、なおかつヴェズーヴィオ山の存在にだけ注目しているのだということを承知しておいてもうらためです。

 

 というのは、このような制限を設けないとあまりにも煩雑広大になってしまうからです。

 たとえばヴェズーヴィオ山を見ているのは「わたし」と「あなた」と「アストリートさん」だけではないでしょうし、「火山」や「イタリア」や「地球の地表」といった「意味の場」にも現象すると考えると、ヴェズーヴィオ山の存在(の仕方)は4つどころか、それこそ数限りなく存在することもありえるからです。

 

 このことは構築主義についても言えるのですが、構築主義は新実在論ほどその存在(の仕方)は多くはなりません。

 現在であれば(宇宙人や知的生命体の類を含めなければ、そもそもそれら観察者を人とするのかという問題がありますが…)最大で80億弱の存在(の仕方)となるでしょう。

 つまり「世界中の人がヴェズーヴィオ山を観察した場合」という有り得ない状況ではありますが。

 

どれもほんとうに存在する

 この例において、新実在論ではヴェズーヴィオ山という1つの対象が少なくとも4つの対象として存在すると想定されているのですが、これは「ヴェズーヴィオ山」という対象が例えば「イタリア」という意味の場に現象したヴェズーヴィオ山、「アストリートさんの視点」という意味の場に現象したヴェズーヴィオ山、「あなたの視点」という意味の場に現象したヴェズーヴィオ山、「わたしの視点」という意味の場に現象したヴェズーヴィオ山の4つのヴェズーヴィオ山が、それぞれ存在するということです。

 

イタリアという意味の場に現象するヴェズーヴィオ山 アストリートさんの視野という意味の場に現象するヴェズーヴィオ山あなたの視野という意味の場に現象するヴェズーヴィオ山 わたしの視野という意味の場に現象するヴェズーヴィオ山

 上の図ではそれぞれの意味の場に現象したそれぞれ異なる与えられ方をしたヴェズーヴィオ山を表しています。なのでヴェズーヴィオ山という対象を表す印を変えてみました。

 

 これを先のシュワルツェネッガーの例で言うと、たとえば「ニューヨークのヘラクレスは、後に第三九代カリフォルニア州知事になった」[p.86]を聞き間違えて「ニューヨーク州知事だったアーノルド・シュワルツェネッガー」を思い浮かべたひとがいたとして、そこには少なくとも「カリフォルニア州知事シュワルツェネッガーという人物」も「ニューヨーク州知事シュワルツェネッガーという人物」も存在するばかりか「ニューヨーク州知事シュワルツェネッガーという想像」までも存在します。

すべての見方が等しく真であるわけではないということです。わたしたちが考え違いをして、対象を不適切な意味の場に位置づけてしまうことは、しょっちゅうあります。間違いも、ひとつの意味の場です。間違いだからといって、それが存在しないことにはなりません。[p.236]

 つまり、単なる思い違いも、事実ではなくとも、嘘でも、シュワルツェネッガーと他の俳優とを人違いしていても、それらはすべて存在するのです。

 

 意味の場に現象したからにはすべてが存在します。

 そして、立ち現われてきたものは意味の場の性質を変えます。

 それは、意味の場が異なれば存在の仕方も異なり、それぞれ異なる存在であるということです。

 

似て非なる「意味の場」と「対象領域」

 ここでヴェズーヴィオ山の存在をめぐる想定の範囲を少し広げて考えてみましょう。

 ただし、この拡張は本書にはみられないものです。

 では、図です。イタリアのナポリからはわたしとあなたが、ソレントからはアストリートさんがヴェズーヴィオ山をみているとうい模式図

 ここでは例えば、「イタリア」という意味の場のなかの「ナポリ」という意味の場のうちに「わたしの身体」という意味の場、あるいは対象が現象しています。

 すなわち「わたし(の身体)がイタリアのナポリに存在する」ことがみてとれます。

 

 また同じ「ナポリ」という意味の場のなかにありながら「わたしの身体」と「あなたの身体」とは互いに独立した・区別された関係にあったりもします。

 

 これらのことから、「意味の場」は重なり合ったり排除し合ったり包摂していたり、また、場合によっては「対象」となったり、「対象領域」とちょうど同じ(領域・範囲)であったり――例え「対象領域」とまったく同じ領域であったとしても、それで「対象領域」になるということはありません。「意味の場」は「意味の場」であって「対象領域」ではないのですから――することもあって、「対象領域」と同じような性質・特徴があることがわかります。

 

「意味の場」と「対象領域」の差異

 「意味の場」と「対象領域」とは、いずれも領域であるということもあり、混同してしまいがちですが、それでもやはり別のものです。


 「意味の場」としての「わたしの視点」というのは首肯されるものと思われますが、「わたしの視点」を「対象領域」として(設定して)もいいのかは、おそらくまったくの間違いということにはならないと思うのですが、あまり好ましいものでもないような気がしなくもなくない――とはいえ本書に「居間」や「銀河」、「役所訪問という対象領域」や「わたしの左手という対象領域」という記述がみられるので、対象領域というものはそこまで厳重で強情でなくてもよさそうです――…。

 なぜそのように感じるかというと、「対象領域」には「意味の場」ほどの、謂わば柔軟性がないからです。

 

 いずれにしろ、ここでは「わたしの視点」は「対象領域」として成立するものとして話をすすめると、「わたしの視点」とはわたしの見ている風景、わたしの視野のなかにある対象のことですが、これらの対象は存在していますし、ゆえにというのか「わたしの視点」という「意味の場」に現象して(アストリートさんでもあなたでもなく、わたしの見ている通りに)存在しています。

 

 するとこのとき「わたしの視点」という「対象領域」と「私の視点」という「意味の場」の領域とは等しいものとなります。

 等しいものとなるのですが、それでも同じものではありません。

 

 同じにみえても決定的に違うところは、「意味の場」は何かを・ある対象を現象する・させる場ですが、「対象領域」は何かを現象させる場ではないということです。

 意味の場がほかでもなく意味の場であることの理由は、たんにそれが意味の場であるということに尽きるわけではありません。だからこそ対象領域ではなく、意味の場を問題にしているのです。両者の違いは以下のようなものです。まず対象領域は、そこに立ち現われてくるのが何なのかを問わない傾向にあります。ブルックリンのどこかにある家を考えてみましょう。この家についてわかっているのは、七つの部屋があるということだけです。この七つの部屋が対象領域だと考えてください。いずれの部屋にも、いかなる違いもありません。いずれの部屋も、なかに何があろうと、部屋であることに変わりありません。空っぽの部屋であっても、やはり部屋には違いありません。これにたいして意味の場は、そこに現象する対象の配置や秩序なしには理解することができません。それは磁場のようなものです。磁場を眼で見るには、当の磁場に特定の対象が分布して、磁場の形を描き出してくれなければなりません。それと同じように意味の場も、そこに現象する対象によって規定されます。意味の場と、そこに現象する対象とは、互いを欠かすことができません。対象も、意味の場の意味に分かちがたく結びついているのです。[p.116]

 ここが「対象領域」がブルックリンのどこかの家にある七つの部屋、部屋の中に何が置かれていようと単なる部屋にすぎないと例えられ、対して「意味の場」は部屋の中に置かれているものによって性質が変わる磁場のようだと例えられる所以です。

 

対象一つで一変する存在

わたしの視野という対象領域を内包しつつも一角獣という対象を含む分すこしだけ大きいわたしの視野という意味の場の描かれた図

 これだけではまだわかりづらいとおもいますので、このように考えてみましょう。

 状況は先の例と同じで、わたしがヴェズーヴィオ山を見ているとします。

 

 そのときわたしはヴェズーヴィオ山に一角獣が闊歩している姿を思い浮かべます。

 すると一角獣は実際には、わたしの視野には現われておらず見えてはいないのですが、想像上のわたしの視野には確かに存在しています。

 

 つまり、わたしの視野という「対象領域」には一角獣という対象は含まれませんが、わたしの視野という「意味の場」には一角獣という対象が含まれており、「対象領域」よりも「意味の場」の方が、謂わば広いということになります。

 

 「対象領域は、そこに立ち現われてくるのが何なのかを問わない傾向にあります。」というのは、「対象領域」は「意味の場」に比べて、いわば無機質なもので、より数学的・学術的で厳格な規則に則り、より機械的で厳密な共通する特徴ごとに仕分けられた領域だということです。

 

 一角獣という対象を1つ包含するだけでも「わたしの視野」という対象領域は崩壊します。一角獣が見えている視野ってなんじゃそりゃ?となるでしょ。

 

 これが「わたしの視野」という「意味の場」であれば一角獣が観えて存在しているんだからいいじゃないかとなります。

 

 そしてまた一角獣というたった1つの対象を包摂するだけでも、一角獣を含まない「意味の場」とはその特徴・性質が一変し、また一角獣なしではその「意味の場」の意味を理解することができなくなってしまいます。

意味の場は、曖昧であったり、多彩であったり、相対的に規定不足であったりすることがありえます。これにたいして対象領域は、互いにはっきり区別された多数の可算的な対象からなっています。このようなことは、意味の場にたいしては無条件には言えません。[p.84]

 

意味の場は、可算的な対象の集まりという意味での対象領域や、数学的に記述できる集合といういっそう精密な意味での対象領域として姿を現わすこともありえますが、捉えどころのない多彩な表情をもつさまざまな現象からなることもありえます。[p.85]

 

意味の場とは、何らかのもの、つまりもろもろの特定の対象が、何らかの特定の仕方で現象してくる領域です。これにたいして対象領域においては――集合においてはなおさらのこと――まさにこの点が捨象されます。二つの意味の場が同じ対象に関わることもありえますが、そのさい当の対象は、二つの意味の場それぞれで異なった仕方で現象するほかありません。[p.87]

 「捨象され」るというのは、そこに対象が立ち現われてくる謂わばホットな場であるのが意味の場であるのに対し、その対象がここに属すかどうかということしか問わない謂わばクールな場であるのが対象領域だからです。

 

 これではじめのSinnfelderとGegenstandsbereichとつながったでしょ?

 

ホットな意味の場とクールな対象領域

 繰り返しになりますが…

 「わたしの視野」という「対象領域」に一角獣がいるのはおかしいでしょう。

 現に一角獣が存在していて見えているのであれば何の問題もありませんが、わたしの視野という「対象領域」の中に一角獣が含まれているというのはそういうことです。

 つまり一角獣は身体をもった私達が触れることのできる生物として存在しているということになってしまいます。

 

 反対に、わたしが一角獣を想像して観ているというのに「わたしの視野」という「意味の場」に一角獣が現象していないとすると、いったいわたしは何を観ているというのでしょう?一角獣はどこに存在しているというのでしょうか。

 もしかしたら「あなたの視野」という「意味の場」に現象しているのかもしれませんが、それではわたしには一角獣は観えません。

 謂わば、わたしの(世界の)一角獣――わたしが観ているという存在の仕方をしている一角獣――は存在しないことになってしまいます。

 

対象が意味の場に与える決定打

 このことを「数字・数学」で考えてみましょう。

偶数と奇数が自然数に、そして自然数が整数に包摂されている図

 「自然数」という「対象領域」の中には「2」や「5」という対象がありますが、あるひとが「0」も自然数であると勘違いしているとします。

 すると自然数という「対象領域」にはもちろん「0」は含まれませんが、あるひとの自然数という「意味の場」においては「0」も含まれますし自然数として存在します――「論理的な偽であっても、現象していることに違いは」[p.84]ないのですから――。

 

 すると、「0」を含む自然数の「対象領域」というのは、自然数の定義に反しているため自然数の「対象領域」であるとは言えず、「対象領域」としては成立しません。せいぜいが「話の領域」の話となるでしょう。

 

 対して「0」を含む(あるひとの)自然数の「意味の場」というのは、自然数の定義に反してはいても、あるひとのなかではそのように想像され現象しているのですから、紛うことなく「意味の場」として成立しています。

 

 「0」を含むことで存在しうる自然数の「意味の場」の性質は異なります。

 また、「0」という要素が自然数の「意味の場」の性質を決定的に変えています。

 (対して「対象領域」では自然数に「0」を含むことはありません。それを絶対的に拒絶するので「対象領域」は変わりません。)

 

一角獣は存在する――対象と意味の場が存在

 そして今や、ここまでくれば

わたしが主張しているのは、存在とは、世界や意味の場のなかにある対象の性質ではなく、むしろ意味の場の性質にほかならないということ、つまり、その意味の場に何かが現象しているということにほかならないということです。[p.91]

というのがどういうことなのかがわかるのではないでしょうか。

 そしてまた、「意味の場と、そこに現象する対象とは、互いを欠かすことができません。対象も、意味の場の意味に分かちがたく結びついているのです。」[p.116]ということも。

 

 つまり、「意味の場の性質」とは、「わたしの視野」という意味の場に「一角獣」が含まれるかどうか、「自然数」という意味の場に「0」が含まれるかどうかということ。

 そのことが意味の場(の意味)を劇的に変え、また一角獣や自然数の0という(対象の)存在に関して決定的な影響を及ぼすのです。

 対象と意味の場とは切っても切れない蜜月関係なのです。

 

存在Q&A

 次に、これまでやや保留ぎみにしてきた感のある、新実在論における「存在」についてまとめておきましょう。

 とはいえ先に挙げたものの繰り返しです。

 ですが、「意味の場」についてわかった今なら、なにを言っているのか、また実はすでに端的にまとめられていたのだということがみてとれることでしょう。

 では、みてみましょう。

 

 

 Q1.なにが存在するのか?

 A1.すべてが存在します。ただし世界以外。

 

 Q2.どのように存在しているのか?

 A2.意味の場に現象することで存在しています。

 

 Q3.存在するとはどのようなことか?

 A3.意味の場の性質のことです。

 

 Q4.「存在」という言葉は何を意味しているのか?

 A4.意味それ自体のことです。

 

 

 Q1だけは次章で触れることを先取りして書いてしまいました。

 Q2 とQ3 は同じことなのでA2とA3を入れ替えても併記・統合してしまってもまったく問題ありません。なんならQ4、A4も。

 

 存在について意味の場は決定的な意味をもっていたのでした。

 

そして、なぜ世界は存在しないのか

 最後に「なぜ世界は存在しないのか」について簡単にみておきましょう。

およそ何かが存在するには、当の何かがそこに現象すべき何らかの意味の場が存在していなければならないからです。かくして、たったひとつの対象だけが存在しているとすると、およそ何の対象も存在していないことになってしまいます。一見したところ絶対に唯一の――完璧に「孤独な」――対象であっても、存在するためには何らかの意味の場に現象しなければならないからです。たったひとつというのは、存在しないのと同じです。[p.104]

 

いっさいのものがその前に歩み出ているような究極の背景それ自体などというものは存在しません。《黒の正方形》が象徴的に示してみせているように、どんな対象も何らかの意味の場のなかに現象しますが、当の現象の背景はそれ自体として現象することがありません。[p.234]

 なぜ世界は存在しないのか。

 要は、世界は現象しないから。あるいはあらゆる意味の場に現象してしまうからです。

 

 「あるいは」の前後で正反対のことを言っているようですし、「現象しないから」というのは「存在しないから存在しないのだ!」と同語反復になっていて何の説明にも、何の意味もないとおもわれるでしょうが、どういうことかというと、それは前回の「「対象領域」が囁く『なぜ世界は存在しないのか』」と概ね同じですが、ひとつの全体としての世界などない!それを求めても{世界のなかの[世界のなかの(世界のなかの…)]}と入れ子状態、無限後退に陥り、ついに現象しない「あるいは」あらゆる意味の場に現象してしまうということです。

 

 また…

つまりわたしは、世界は存在しないということだけでなく、世界以外のすべては存在するということも主張したいわけです。[p.20]

 

厳密に言えば、わたしはあらゆる世界像に意義を申し立てることになるでしょう。世界が存在しない以上、世界についてのどんな像も結ぶことなどできないはずだからです。

 しかし他方で、わたしの主張は、世界以外のあらゆるものが存在するのだから、存在するものは一般に期待されているよりもずっと多い、ということでもあります。[p.24]

と、世界以外のあらゆるものが現象している、または現象しうるのだからすべては存在するのだと主張しています。

 

 

 Q5.なにが存在するのか?

 A5 .世界以外のすべては存在します。

 

 Q6.どこに存在するのか?

 A6.どこでもないところで生じ存在しています。

 

すべては広大などこでもないところで生じるのだ(中略)わたしたちは宇宙のなかに存在しているが、その宇宙は空虚のなかに、つまりどこでもないところに存在しているのだ[p.34]

結局のところすべてはどこでもないところで生じるわけです。これは、まったく何も生じないということではありません。むしろ逆に、無限に数多くのことが同時に起こっているということです。[p.91]

 ということで、最後のビッククエスチョンおよびビックアンサーは以下のとおりです。

 

 

 Q7.なぜ世界は存在しない・しえないのか?

 A7.世界は現象しない・しえないからです。