あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

図解!マルクス・ガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』① ~「対象領域」について~

実在論における「対象領域」

 マルクス・ガブリエル著『なぜ世界は存在しないのか』の273ページの用語集にある新実在論における「対象領域」の定義は以下のようになっています。

対象領域(Gegenstandsbereich) 特定の種類の諸対象を包摂する領域。そのさいには、それらの対象を関係づける規則が定まっていなければならない。

 

対象(Gegenstand) 真偽に関わりうる思考によって考えることのできるもの。そのさい、すべての対象が時間的・空間的な拡がりをもった物であるわけではない。夢のイメージや数も、形式的な意味において対象である。

※ページ数は電子書籍のものを基としております。したがって、紙媒体や他のリーダーアプリのものとは異なるかもしれません。

多重多層な対象領域

 「対象領域」とは特定の種類の諸対象を包摂する領域である。…と言われてもなかなかイメージしづらいとおもいますので、さっそく図解していきましょう。

 

 はじめに、37ページで説明されていることを図にしてみます。

政治の対象領域と自然数の対象領域が並び立っている図
 いまのところ「対象領域」というのはなにかしらの領域・範囲なのだというぐらいにイメージしてみてください。といってもすぐにイメージが固まってくることと思いますが。

 ではいきます。

 

 上の図は見たままです。ほぼ見たままのことを「対象領域」という語を使って言うとこんな感じになります。

 

 つまり…

 

 「政治」という対象領域と「自然数」という対象領域は互いに独立していますが、「政治」という対象領域の中に「市町村自治体」という対象領域が包摂されていたり、「自然数」という対象領域の内には「偶数」という対象領域が内包されていたりして多重多層的であったりもします。

 

 そしてまた、「政治」という対象領域と「自然数」という対象領域とは互いに独立しています。

 

 いかがですが?「対象領域」という語が使われているだけで見たままの説明でしょ?

 

 一つ注意を加えるとしたら、「自然数」はもちろんのこと、「政治」においても「有権者数」や「得票数」など、どちらにおいても「数」が扱われますから、「自然数」と「政治」という対象領域は一部で重なるところがある。…とは言えません。

 

 対象領域はそんな曖昧なものではないからです。端的に言って「自然数」の対象とする数字と「政治」の対象とする数字は別のものだからです。

 

 もし「自然数」と「政治」という対象領域に重なるところがあるとすれば、それは「意味の場」においてか、あるいは「話の領域」においての話となります。

 

 「意味の場」については次回、「話の領域」についてはのちに触れます。

 

 

 次に「対象」という言葉を加えて、もう少し説明を続けてみます。

 

 すると…

 

 「自然数」という対象領域の内には「2」や「8」という対象を含んだ「偶数」という対象領域が包摂されています。

 

 また、「自然数」という対象領域の内の「偶数」という対象領域は、「偶数」という対象領域として、「偶数」という対象領域のままであり続けることもありますが、「偶数」という対象となることもあります。

 

 「対象」という語が加わってややわかりづらくなったかもしれませんが、それでもまあ「対象」は要素や個体ぐらいにおもっていただければ、だいたいは理解できるのではないでしょうか。

対象と対象領域

 本書では「対象領域」と「意味の場」の違いや、「対象」と「意味の場」の結びつきについては記されています。が、「対象」と「対象領域」の関係について次のように言われているところはありません。

 それゆえこの章で申しますことは多分に過分で誤りであるかもしれません。

 こう但し書きしたところでわたしの思うところを綴ります。

 

 話をすすめる前に先ほどの図を少し書き換えます。

 「政治」の図についてはこの先での説明の便宜上、「自然数」の図については、49ページに「自然数という対象領域は、偶数という対象領域を包摂しています」とあるのでそのような図にしましたが、偶数のうちには-2や-4など負の数も含まれますので、「偶数」が「自然数」にすっぽり包摂されているのは不正確かつ不適切なので、より正確な図にします。それがこちらです。市町村自治体が政治という対象領域に包摂され、偶数と奇数が自然数に、そして自然数が整数という対象領域に包摂されている図。

 「2」や「8」という対象は「偶数」という「2で割り切れる整数」という規定・定義をもつ対象領域に属し、たんなる「2」や「8」という数字にすぎない対象に「2で割り切れる整数」という特徴を持つことをも教示してくれています。

 

 また、「偶数」という対象領域は「2」や「8」という対象の共通して持つ性質、つまりたとえば「2の倍数」という特徴を教えてくれて、「4」や「16」という対象も「偶数」という対象領域に属すのだという新たな知見をもたらしてくれます。

 

 ただこの例では「2で割り切れる整数」と「2の倍数」とでは違いがあまりにもわかりづらいので、「政治」の例で言い換えてみます。

 すると…

 

 「法律」や「公務員」という対象は「市町村自治体」という「地方の支配・統治の仕組み」という規定・定義をもつ対象領域に属し、たんなる「法律」や「公務員」という単語にすぎない対象に「地方の支配・統治の仕組み」という特徴をもつことをも教示してくれています。

 

 また、「市町村自治体」という対象領域は「法律」や「公務員」という対象の共通して持つ性質、つまりたとえば「法治国家」という特徴を教えてくれて、「予算」や「退屈」という対象も「市町村自治体」という対象領域に属すのだという新たな知見をもたらしてくれます。

 

 といった感じになるでしょうか。

 

 「地方の支配・統治の仕組み」や「法治国家」といった記述は本書にはなく、適切な言葉・規則が見つからなかったので、なんとなくそれらしくみえる言葉をあててみたというにすぎない不適切かつ不正確な表現ではありますし、わかりやすい例ではなかったとはおもいますが、先の対象領域は対象となることもあり、また反対に、対象は対象領域となることもあるということとあわせて考えますと、対象と対象領域の関係は相互補完的であり、相互依存的でもあるともいえるのではないでしょうか。

多彩な特徴をもつ対象領域

 次に、対象領域の多様さについてみていきましょう。

天文学と素粒子物理学と確率論というそれぞれの対象領域の一部が重なり合い、占星術は天文学とだけ重なり合うところのある図。

 この図は本書には記述のないもので、その認識に不正確な点があるかもしれませんが、想像しやすいのではないかと思うので、この図をもとに説明をすすめさせてください。

 

 「天文学」と「素粒子物理学」と「確率論」といった対象領域には重なるところがあります。例えば「宇宙はビックバンを起こして広がり、それとともに素粒子もひろがっていきましたが、その素粒子は確率的な振る舞いをする」というように各対象領域、各分野で共通するところがあるでしょう?

 

 また「占星術」は「天文学」という対象領域と共通するところはあっても「素粒子物理学」とは排他的な関係にあったりもします。

 例えば「占星術天文学も天体の観察から発展し、その歴史には共有するところがありますが、どれだけ目を凝らして夜空を眺めてみても、瞬く星々は見えども素粒子は見えません」といった――だいぶ無理のある苦しいたとえですが――感じで相容れないところがありますよね?

 

 このように、対象領域は重なり合ったり包摂していたりきっちり区別されていたりと多様なのですが、かといってなんでもありということではありません。

 

 対象領域には、重なり合うには重なり合うなりの、排除し合うには排除し合うなりの適切で明確な規定があります。

たとえば居間はひとつの対象領域であり、そこに特定の対象が現われてくることが期待されます。たとえばテレビ、アームチェア、読書ランプ、リビングテーブル、コーヒー染みなどです。[p.37]

生真面目な対象領域

 次に、対象領域の曖昧のなさについてみていきましょう。

存在論的還元を行うとは、問題となる対象領域の本質を話の領域に帰したうえで、この話の領域が、それ自身によって想定されているようには客観的でなく、むしろ特定の歴史的・社会経済的・心理学的な偶然事によって規定されているのを示してみせることです。ですから、多くの対象領域にたいして誤謬の理論が必要となります。誤謬の理論とは、問題になる話の領域の体系的な誤謬を明らかにし、当の領域の本質を一連の誤った想定に帰するような説明方法です。

 存在論的還元が行われるにあたっては、自然科学であれ、人文科学であれ、社会科学であれ、実質のある学問的な認識が前提となります。[p.52]

 これは存在論的還元について説明されているところですが、対象領域の特徴や曖昧さのなさについても言明されているところだと思うので引用しました。

 

 ここでは「対象領域とは実質のある学問的な認識が前提となっている客観的で強固なもので、本来、適切かつ明確で確立したものである」と言っています。

(やや誇張していますし、それよりなにより引用にある文を逆説的に解釈して対象領域の性質を抽出するというちょっとアクロバティックなことをしています。その成否、合否、芸術点はおまかせします。)

 

 対象領域の生真面目さは数学をはじめとした学問で考えるとわかりやすいとおもいます。

 

 たとえば、「偶数」という対象領域には「2」や「-4」は含まれますが「5」や「0.3」は含まれません。なぜなら「偶数」には「2で割り切れる整数」という明確で揺るがせない規則があるからです。この規則を変えてしまったり「0.3」を包摂してしまうことは明らかな間違いであり、それはもはや「偶数」でも、「偶数」という対象領域でもありません。

 

 同様に、「音楽」という対象領域には「和音」や「カノン」は含まれますが「2」や「-4」は含まれません。なぜなら「音楽」は音に関する学問分野であって数に関するものではないからです。もしも音楽が音を発することのない、また無音ということでもない数について研究する学問分野であるということになってしまったら、それはもはや「音楽」ではありません。

 

 ある楽曲の数学的解釈というものはあるかもしれませんが、だからといって「音楽」が「数学」という学問領域、「数学」の対象となることはありません。

 

 対象領域は論理的で厳格な仕分け人といったところです。人ではないですが。

 対象領域は学問領野だけを指すわけではないですが、概ねそのようなものだとイメージしていただければわかりやすいということがなんとなくわかっていただけたでしょうか?

わたしの左手の五本の指は、わたしの左手という対象領域に属しています。

 本章は、本書37ページのこの引用だけで事足りたかもしれませんね。

 さすがにこれは図にしなくてもいいですよね?

「話の領域」の物語

 対象領域には曖昧なところがありません。

 曖昧なところがあるようにみえるのは、それは「対象領域」ではなく「話の領域」であるからです。

 

 話の領域の「話」は原文ではGeschichteとなっているのではないかと思われるのですが、だとするとGeschichteには「話」以外にも「物語」や「出来事」、「歴史」といった意味もあり、「話の領域」よりも「物語の領域」の方がイメージしやすい方もいらっしゃるのではないでしょうか。

政治の対象領域と自然数の対象領域が並び立っている図
 この図ははじめに提示したものと同じもので、そのときにも言ったようなことを繰り返させていただきます。

 

 互いに他を排除する関係にあった「政治」と「自然数」という対象領域は、どちらも「数を扱う」ということが共通するのだから対象領域の一部が重なると見なしたり、はたまた対象領域というものの認識違いから「人間の思考の産物」という対象領域が「政治」と「自然数」というそれぞれの対象領域の一部と共通するところがあると見てしまうこともあるかもしれません。

 

 しかしながらこういった類のものは対象領域についての言説ではなく「話の領域」のおはなしです。

 

 と、こんなようなことを申しました。

 そして、今や、対象領域の生真面目さについてわかった(ものとします)今であれば、「政治」と「自然数」という対象領域に重なるところがあるという見解は明らかな誤りで不自然であるということがわかるのではないでしょうか。 

役所訪問という対象領域には、厳密な意味での物理学的な対象は現われてきません。役所訪問にさいして電子や化学的結合が問題になることはないからです。たしかに役所の事務室を科学的に分析したり、事務室という空間における二点間の正確な距離や、特定の対象の速度(たとえば時計の針の速度や、オフィスチェアの回転速度など)を測ったりすることはできます。しかし、このような研究は役所訪問とは別の何かでしょう。[p.37]

 「話の領域」というものが少々やっかいなのは、新たな科学的発明や画期的な証明法の発見などによって、これまでの認識や定説が覆ることもあり、それにともなって対象領域が本来あるべき姿へと変質したり、重なり合ったり、排除し合ったり、というようりも実は話の領域であったのだと判明することもあるというところ。

 

 さらには、「話の領域」は「対象領域」の認識としては間違いを犯しているのですが、だからといって存在しない・存在しえないというわけではないというところ。

 

 というのは、話の領域は、「話の領域」という「意味の場」においては存在する・存在しうるものだからです。

 ねっ!少々やっかいでしょ?

宇宙が世界のすべてではない

 対象領域が本領を本域で発揮するのが、まさしく本章でみていきます「なぜ宇宙は世界ではないのか」というところだとおもいます。

 

 こちらの図も本書に記述のないものをもとに作成していますので、例のごとく内容に不正確な点があるかもしれません。その点ご承知おきくださいましてご覧ください。

学問が思考に、思考が…に、…が素粒子に、素粒子が世界という対象領域に包摂された図。

 例えば、従来、形而上学構築主義では次のように、「天文学」や「素粒子物理学」、「確率論」や「占星術」などの対象領域は「学問」という対象領域の中にあり、その「学問」という対象領域は「思考」という対象領域の内にあり、…という対象領域の内にあり、…という対象領域は「素粒子」という対象領域に包摂されていて、そして最後には、すべての対象領域の対象領域である「世界(=宇宙)」というすべてを内包する1つの対象領域があるのだと分析されてきました。

 

 そうして「世界は存在する」のだとか、だから「世界はある1つの構成要素・素粒子からなる」と考えられたりして、世界の存在の有無であったり、その存在の仕方が断定されてきました。

 

 一見これは正しいように見えます。

 また、これまで「世界」は一般にこのようなものであると、このようなあり方をしていると考えられてきました。

 

 しかし、これは間違いです。少なくとも新実在論においては大間違いです。

 この誤りは対象領域というものの認識違いや対象領域の捉え違いによるものです。

 

 38ページで展開されている説明をもとに、新実在論の主張する世界像を図にしてみます。

宇宙が物理学に、物理学が世界?という対象領域に包摂された図。

 これまで素粒子によって世界が構成されていると考えられてきた世界像というのは、「物理学」という対象領域のなかにある「宇宙」という対象領域に属する世界観なのであって、新実在論による、または、正しい対象領域の認識による世界観では、「宇宙」は「世界」ではないばかりか「物理学」に内包する、謂わば、従来考えられてきたよりもはるかに(対象領域の)幅・範囲の狭いものです。

宇宙は、物理学の対象領域ないし研究領域にほかならない以上、けっしてすべてではない[p.38]

 

現実に存在するすべてのものは宇宙のなかにあるとか、すべての出来事は宇宙のなかで起こるといった考えは、数ある対象領域のひとつを世界全体と見なすという間違いを犯しています。[p.40]

 

宇宙のなかには存在しない対象が数多くある、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、ということです。(中略)数千億の銀河と、とんでもなく数多くの亜原子粒子とでできているのだとしても、それでも宇宙は思われているよりも小さいということです。[p.41]

 形而上学構築主義の主張する世界像においては、「物理学」は「宇宙」に内包するものでしたが、新実在論の世界像においてはその内包関係が逆転し、「宇宙」が「物理学」に包摂されています。

 

 この図で「世界?」と「?」がついているのは、新実在論では「世界は存在しない」からです。

 ただし、形而上学構築主義の主張する誤った世界像でさえ、新実在論では存在します。

 対象領域の捉え方としては間違いなのですが――または「誤った世界象」という対象領域であればありなのかもしれませんが――、たとえば「従来の世界観」という対象領域…というより「従来の世界観」という「意味の場」においては現象して存在しうるのです。

「対象領域」が囁く『なぜ世界は存在しないのか』

 「世界」の座にあった「宇宙」を正しく「物理学」の対象領域に帰せられたところで、次に、「世界」のありえなさについてほんの少しだけ触れておきましょう。

 

 『なぜ世界は存在しないのか』ということについて語るには、まず「存在」――どのように存在しているのか、「存在するとはどのようなことか、そして「存在」という言葉は何を意味してるのか」[p.66]といったことに――ついて語らなければなりませんが、ここではその前哨戦というわけではありませんが、対象領域の囁く「世界」のありえなさについて耳を傾けてみましょう。

 

 その前にまずは「世界」の定義から。

 (ハイデガー曰く)「世界とは、すべての領域の領域」[本書各所]のことです。

ここではさしあたり、こう定式化しておくことができるでしょう。世界とは、すべての領域の領域、すべての対象領域を包摂する対象領域である[p.48]

 その上で、

わたしの左手でもあり、アンゲラ・メルケルの愛読書でもあり、ノルトライン=ヴェストファーレン南部で最も高いカリーヴルストでもあり、さらにそのほかいっさいのものでもある――こんな主張が真となるような対象を探求するというのは、ともかくもきわめて異常な研究計画としか言いようがありません。

 こうなってしまう理由は、すべての性質をもつ対象が、何の基準もなしに当の対象それ自身であることにあります。(中略)どんな基準も、それぞれ特定の対象ないし対象領域に特有の区別に即しているわけです。基準のないところには、はっきりした特定の対象が存在しないのはもちろん、はっきりと規定されていない対象すら存在しません。輪郭の曖昧な未規定の対象も、あるいは相対的に未規定の対象(たとえば夕食で供せられる一定量のライス)も、やはり何らかの基準にしたがってそのような対象として定められ、何らかの仕方でほかの対象から区別されなければならないからです。

 したがって、たったひとつの実体、すなわちすべての性質を備えた超対象だけが存在するというのは間違っています。つまり一元論は間違っている。[p.77]

 これは、世界が一つの原理、または一つの要素、つまり超対象からなると考える一元論の誤謬を指摘しているところです。

 

 ここで言われていることは、対象領域というのは確立された規則によって対象同士を結びつけて包摂する領域のことだというのに、その肝心の規則がないじゃないかということ。

 何の基準もないから区別のしようもないし、判断のしようもないじゃないかということ。

 ルール無用時間無制限一人一本勝負は単なる妄想で勝敗の決めようがないじゃないかということ……

 

 ではなぜ規則がないのかというと、それこそズバリ、世界が一つの原理、一つの要素でできているとしてしまっているから。つまり一元論だから。

 

 一元論は端から誤謬を抱え込んでいるものなのですよ~だっ!と、言っています。こんな言い方はしていませんが。

 

 また、こんな言い方もしていませんが、「ねぇねぇ、超対象ってどんな対象領域に含まれるの?(対象は必ず対象領域に含まれなければならないということはないのかもしれませんが)超対象を包摂する対象領域ってあるの?」といったことも言えるのではないかとおもいます。

 

 そしてさらに、このようにも言っています。

 わたしたちのレストラン訪問には、このように数多くの対象領域、いわば個々の小世界が存在しています。それらの小世界は、現実には互いに関係することなく、たんに並んで存在しているにすぎません。つまり数多くの小世界は存在していても、それらのすべてを包摂するひとつの世界は存在していません。(中略)いっさいのものがほかのすべてと関連しているというのは、たんに間違いです。[p.21]

 

 ひとつの全体としての世界も、これに似た事情にあります。そのような世界が存在しないのは、いっさいの連関を包摂する連関が存在しないのと同じことです。すべてを記述し尽くす世界の規則や公式は、たんに存在しません。それは、わたしたちがそのようなものをいまだ見出していないからではありません。そのようなものがそもそも存在しえないからです。[p.22]

 この引用での前半部分は、先の「すべての性質をもつ対象」に通じるところのある記述で、後半部分では、謂わば無限後退に触れています。

世界――すべてを包摂する領域、すべての意味の場の意味の場――は存在しないし、そもそも存在することがありえないからです。[p.168]

 

わたしたちは果てしない事実の入れ子状態に陥ることになってしまいます。

 

{[(TはSとの相対的関係のなかにしかない)はSとの相対的関係のなかにしかない]はSとの相対的関係のなかにしかない}はSとの相対的関係のなかにしかない……。

 

 このモデルでは、すべてのものの相対的関係の準拠先となるものが、結局のところ存在しません。たしかにすべてが相対的ですが、その相対的なもののすべてが何らかの終極的なものと関係を結ぶという事態は、ついに成立しません。[p.170]

 対象領域はもちろん世界ではなく、すべての対象領域を包摂する対象領域などないのです。そのようなものを求める旅は空しく、(超対象はないという趣意・意味で)意味がないのだということが明らかとなりました。

 

 要は、ひとつの全体としての世界というものはないのだから世界は存在しないのだよ。ということです。

 

 まあそんなこんなで以上のことから、「(すべてを包摂するひとつの)世界」という対象領域はない。ということが言えるのではないかとおもいます。

 

 とはいえやはり、「存在」について語るには「意味の場」については避けては通れないというのに避けて対象領域ひとつを武器にやってきてしまったので、強く主張・断言・断定できず、せいぜいがこのようにしか言えません。

 

 「そう囁くのよ私のガイストが」

 

 では最後に、第Ⅰ章『これはそもそも何なのか、この世界とは?』の章末に記されているまとめを引用しておわります。

1 宇宙は物理学の対象領域である。

2 対象領域は数多く存在している。

3 宇宙は、数多くある対象領域のひとつにすぎず(大きさの点で最も印象的な対象領域であるとしても)、したがって存在論的な限定領域にほかならない。

4 多くの対象領域は、話の領域でもある。さらにいくつかの対象領域は、話の領域でしかない。

5 世界は、対象ないし物の総体でもなければ、事実の総体でもない。世界とは、すべての領域の領域にほかならない。[p.63]