『なぜ世界は存在しないのか』というタイトルに惹かれ…というよりかは引っかかりを感じて一読してみました。
読んでいてまず思ったことは、内容の重複があまりにも多くて辟易、わずらわしい、まどろっこしい、Eテレでの著者であるマルクス・ガブリエルさん(以下「ガブさん」)の語り口に反してアンシャープネス…出版するに際して紙幅が必要だったのかもしれませんし、推敲や編集がおそまつだったのかもしれませんが、ガブさんから送られてきた原稿を編集者が受け取った時系列順に並べましたというような連載小説やエッセイといった感が常につき纏いやがりました。
ここまでが苦労させられたわずかばかりの腹いせの悪口や怒りの吐露といったところです。
はじめのいちず
ただ、抱いたものは負の感情ばかりではなく――はじめにこんなことを言うと信じてはもらえないでしょうが、負の感情はほんとうにわずかで、概ねガブさんの広範な知識に感心していたものです――、朧気ながらイメージ図も涌いてきました。
それがこんな感じの図です。
※まだ「対象領域」と「意味の場」の違いがイマイチわかっておらず、また、「現象」という言葉に引っ張られすぎてヌォ~ンと対象が立ち現われて存在している感じが見て取れます。
おのれの理解のために図にしてみたところ、生意気にもガブさんの主張の輪郭がより鮮明に見えてきた気がしてきたとともに、不明瞭・不明確、なにかまだ腑に落ちない点もクリアに観えてきました。
その不明瞭な点、私が『なぜ世界は存在しないのか』を読んで新実在論を理解――できているかどうかは定かではないので、正確には解釈――するうえで最もネックとなったところは、「対象領域」と「意味の場」の違いや関係といったものです。
アップグレード
そこで、「対象領域」と「意味の場」についてわかることがあるのではないか、また他のひとはどのように理解・解釈しているのかをみてみたかったので、本書の訳者あとがきにて紹介されているもののなかでネット上で読める論文にあたってみました。
一通り読んでみて、個人的には、まったくの個人的感想としては、もしこれからこれらの論文を読んでみようというひとがいたら「中島新『新実在論とマルクス・ガブリエル――世界の不在と「事実存在」の問題」』だけでいいと思うよ。ということ。
この論文を読んでみて浮かんできたイメージ図がこんな感じ。
※はじめに思い浮かんだイメージに縛られて、より詳細になったというだけの感じ。「~の目」というのは、この図を基に考えると各主義主張の視点・視線というのはどこにあるのだろうか?とおもって描いたものでした。形而上学の目は「世界」を見、新実在論の目は「世界以外」を見、ポストモダン、ここには構成主義や観念論、存在論的反実在論も含まれますが、その目は現象過程や現象した存在を見、実在論、ここには存在論的実在論も含めましたが、その目はただひたすらに存在するもの、実存を見ているのではなかろうかと考えていました。
ほんとうはガブさんの『新実在論』をはじめとした他の著作物や、他のなにをおいても『なぜ世界は存在しないのか』をドイツ語原文、せめて英訳でもいっとかないといけないよねぇ~…とはわかっていつつも、外国語はわからないし日本語でさえ危うい、そもそも新実在論を徹底的に理解してやろうというその熱意・熱量たるや皆無っ!
意味と感覚
本書では「意味」と訳されているけれどガブさんは「感覚」や「感性」といった意味で使っていて、もしかしたら言葉遊びかウィットを発揮しているところなのかもしれないとおもうところがあったりなかったりするものですから…というよりデリダ的脱構築を施して読み替えてみると単におもしろかったりするから。
特に「なぜ思考それ自身は、そもそも感覚ではないとされなければならないのでしょうか[p.248]」「感覚とは客観的な構造であって、わたしたちのほうがそのなかにそんざいしているのです[p.249]」と、思考も感覚であると宣言した後のこの文…p.251参照
ここで使われている「意味」という語のほとんどを「感覚」という語と置き換えて読んでみると、本書全体の印象を一変するぐらいの破壊力があるでしょう?
それほどの衝撃ではなくとも、なんとなく、これまでなにか無機質な感じのしていた新実在論に血が通った感じがしてきませんか?
想像されたものも存在し、思考も実在する。存在とは意味の場に現象することですが、その「意味の場」の「意味」を読み替えて「感覚の場」とすると、なにかがあるという感触、手ざわり、ただそれだけで存在する、できる。なにかあたたかみやちょっとした肉感を感じませんか?
このころにイメージした図がこんな感じのものでした。
※3つの異なる次元があるような、階層構造になっているようなで、存在と意味の場と対象領域とがそれぞれ断絶しているような、そこここで跳躍しているようなで、描いているときから違和感。即破棄されたのでした。
本書後半のこの辺りから、これまで「学問」の側に依っていた新実在論が急に「人間」の側に寄ってくる感じを受けるのは私だけでしょうか。
「学」は対象領域の問題
こんなおもしろそうなところもあるものだからSinnfelderやExistenz、Gegenstandsbereichといった語の使われ方や訳し方、なかでもSinnの訳し分けなんかは特に気になるところだけど…そもそもわたし昔から実在論このみじゃあないの。
ガブさんに批判され倒されてる形而上学、といってもこれも昔から抱いていた感情で、「学」というにはなにかおこがましい、というのも形而上学は「学」の名を冠するにしては曖昧なところがあるから。
だからこれまでは、あまり聞かれることもないけれど、極稀に趣味や得意な教科、好きな学問領域を聞かれたときなんかは「得意(とはとてもじゃないけど言えないので)とは言えないけれど好きなのは形而上学…というより思想(とだけいうと新興宗教の信者なのではないかとおもわれることがあるので、慌てて付け加える)・哲学、それと宗教は好きじゃないけれど学としての宗教、宗教学には興味があるかなぁ…」なんて答え方をしてきました。
本書を読んで形而上学の「学」に対して抱いていた感情に説明がつけられたことは僥倖でした。
つまり対象領域の問題なのだと。
ガブさんの新実在論では世界が存在しないから「学」たりえる哲「学」なのだけれど、形而上学では世界が存在するため正確には「学」とは言い難く哲学とも言い難いのだと。
それでもわたしは形而上学・思想が好き。
「男の浪漫」といったものは理解できないけれど、クラシックも割とロマン派が好みだし存外ロマンチストなのかもしれない。
こんなことを考えていたとき思い浮かんだのがこのようなイメージです。
※初頭効果にも似て、はじめに抱いたイメージに縛られていると感じはじめる。また「現象する」という語感から受けるスゥーッとかヌゥーッと現れる印象に引っ張られていることに抵抗感が出始めたころの図です。
ガブリエル:哲学に希望の福音をもたらす大天使
新実在論は他の哲学理論や主義主張に比べると図示しやすく、また図解と相性がいいものだとおもいます。
それは新実在論が単純だとか凡庸だからということではまったくなく、より数学的厳密さや論理的であるからです。
マルクス・ガブリエルの新実在論の真骨頂は「意味の場」にあります。
しかし、対象領域は対象領域で、これまた画期的です。
その画期は哲学をちゃんと学問領域に据えたところにあります。
ともすれば言葉を弄するばかりでなんの役にも立たないどころか言葉を弄んで人心を惑わせ、ときに胡散臭くも感じられてしまう哲学を、そういったものとは峻別し、物理学や数学など他の学問分野同様、論理的な強度・強靭さを備えた哲学としているのが対象領域であり、マルクス・ガブリエルの新実在論なのだとおもいました。
哲学の対象領域を明確にし、意味の場において現象させて示している姿は哲学の守護者のようでもあります。
アリストテレス『オルガノン』、スピノザ『エチカ』、フレーゲ『概念記法』、ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』などは特に実に論理的な強靭さをもって書かれている哲学書ですが、哲学を間接的に擁護はしていても正面切って庇護してはいなかったとおもいます。
たとえばウィトゲンシュタインの「語りえぬものについては沈黙しなければならない」も、哲学の限界と範疇とを示すものでもありました。
ただの思いつきですが、新実在論をウィトゲンシュタインのこの言葉をもじっていえば「現象しえないものについては沈黙しなければならない」「現象しないものは存在してはならない」または「現象するものについては存在しなければならない」といったところでしょうか。
図が図ら図らと
そんなこんなをおもいながら、でもやっぱりしっくりこない。「対象領域」と「意味の場」の関係が判然としない。一読したけどわからない。
かといって二読も三読もしたくはない。
仕方がないから『なぜ世界は存在しないのか』の本文のスリム化を図り理解をすすめようと企てる。
まずは本文のより重要だと思われるところを抜き出す。
すると350ページほど(電子書籍なので異なるかもしれませんが)の内容がA4用紙35枚分ほどに圧縮され、さらに「対象領域」や「意味の場」について言及されているところに焦点をあて、その他の部分に剃刀の刃を当ててゆくとA4用紙10枚分ほどになりました。
この作業がどれほど煩わしかったことか…。
この作業中たびたびよぎった言葉は――正確な語用ではないけれど――、「オッカム、オッカム、オッカムにしばかれろっ!」。
こんなまとまりのない、内容の重複が多いくせになかなか理解のすすまない文を書きゃ~やがってーっ!こんにゃろー!!
読み進めていくと順に次第にわかってゆくという風にうまいこと導けよぉ~もぉ~っ!
ただしかし、そのお陰で、いや、そうでなくともそうであったと思い込まなければやってられない――たんに私の知性が足りなかったというのが苦労の根源なのですが…――苦心の末ムダ毛処理を終えたものをシゲシゲと眺めていたら…ついにガブさんの新実在論の尻尾を掴みました。
そこへと至る試行錯誤の路々にひょっこり生えてきた図がキキララこちらら。
※「現象する」重力から解き放たれてくると途端に図がペタァ~ッと平べったくなりました。
このころやっとこさっとこ「現象する」という言葉の語感の呪縛が解けたのですが、そのきっかけとなったのがこちら…
現象からの解脱
ある対象の集まりが対象領域を規定することもあれば、ある対象領域が種々の対象を包む・集める・規定することもあって、互いに分かちがたく相互依存関係にある。
本書には書かれてはいないけれど、これは謂わばどちらも同じ地平にあるから、本来、不可分の相同のものであるから。
たとえば「私」という対象領域と「あなた」という対象領域は互いに独立してはいても「人間」という共通の対象領域に含まれていたり、「地球」という意味の場に現象していたり、はたまた「哲学的趣向」という対象領域を共有していたりして、多数の対象領域や数多の意味の場が複層的に複雑に重なりあってみえても、そのすべてが同質なものなので、層状なのですがそうではなく、層ではないのですがそうなのです…
ということなのかな?とおもっていたころに描いた図がこちらです。
※「同じ地平にある」とか「すべてが同質」なんていうと形而上学っぽさが色濃く出てしまうので、「意味の場において現象する存在」という意味で同じ地平にあるとかすべてが同質であるということだとおもってくださいな。
また、このころ先ほどの図にこんな矢印を加えていました。
「新実在論の目」を例にすると、青色の矢印は「現象して、現象するから存在」――図では下から上へと向かう矢印の通り「現象→存在」――、赤色の矢印は「存在するもの、実存するということは現象したから」――図で言えば上から下へと向かう「存在→現象」――、それぞれに現象と存在とで時間的先後関係があるようにみえ、また青と赤の矢印は逆向きで、先後関係も逆転するようにもみえるけれども、現象と存在とは同時的出来事であるばかりか、そもそも先後関係なんてないはず。
先の同質ということと同時的というこの合せ技で、「現象する」のヌゥーッと語感から抜け出せたのでした。
ちなみに、赤い矢印は「還元」(方向)なのかぁ?なんてことも考えていました。
文が文文と
初読時、読み進めていくとともに、その時々でどのようなことをおもっていたかと申しますと…ホワンホワンホワンホワワワワァ~ン
p.84の記述から「意味の場」は曖昧なもので「対象領域」は輪郭のはっきりしたものだと(短絡的に)認識したかとおもうと、すかさず…p.85参照
という記述から「意味の場」は曖昧なものかと思ったら実は精密なもので、かと思えば「意味の場」は「対象領域」でもあるんだよー…と、(これまた短絡的に)認識を改めさせられる状況に(勝手に)陥り、「いったい「意味の場」ってなんなんだよぉ~。「意味の場」は「意味の場」なのか?それとも「対象領域」なのか?どっちゃね~ん。」となります。
小説なんかでもそうですが、理解しづらい状況やわかりづらい表現というものは、さらに少し読み進めればわかるもの、言い換えられていたりするものだと思ってもう少し先へ進んでみると…p.87参照
何かしらんけど、「対象領域」は何かを捨てちゃうみたいだし…p.116参照
「対象領域」はハッキリとキリッとしたシャープなものかと思っていたのにどうもそうではなさそうで、「意味の場」はやはり「意味の場」であって「対象領域」ではないらしいし、……もぅ、わからん。違いがわからしまへん。
銘々明言
後によく読んでみると「意味の場は(略)規定不足であったりすることがありえます。これにたいして対象領域は、互いにはっきり区別された多数の可算的な対象からなっています。このようなことは、意味の場にたいしては無条件には言えません。」と、「対象領域」はきっちりとしたもので、「意味の場」はきっちりとしたものでも曖昧なものでもありえるけれども、きっちりとしたものであるときにはちゃんと条件があるよ、と、明言しています。
また、「意味の場は、可算的な対象の集まりという意味での対象領域や、数学的に記述できる集合といういっそう精密な意味での対象領域として姿を現わすこともありえますが、捉えどころのない多彩な表情をもつさまざまな現象からなることもありえます。」と、(「対象領域」とは、やはり、その範囲・領域がはっきりとしたものであることを間接的に示しつつ、)「意味の場」が状況によっては「対象領域」となることもあるし、「意味の場」がはっきりしたものとして現れる場合や、「対象領域」として現れる場合には、「対象領域」よりもさらに厳しい条件が課され、「対象領域」よりもよりくっきりはっきりとした輪郭線を描くこともあるよ。ということを明言しています。
そしてその条件というのは、その「意味の場」に現象する対象、さらにはその配置や秩序によるものであり、加えてその対象は「意味の場」の意味とかたく結びついているのだと明言されています。
このあたりの微細でセンシティブなところは、そうであるからこそ訳すのに苦労しただろうなぁと覗われ、またその労が実った絶妙な訳し方になっているなぁとおもうところです。はじめの一読目ではそんなことおもいもしなかったわぁ。
補遺ポイ
前回の『図解!マルクス・ガブリエル』の内容は、このような紆余曲折を経て…
↑こんなのとかできたのでした。
前回、書き終わった直後に、コラージュのような図のイメージが湧いてきたので、試しに上の図をそのようにリニューアルしてみたのがこちらです。
「ヴェズーヴィオ山」の図のリニューアル版も作ってみようかと思っておりましたが、上の図に比べれば一見華やかでいい感じに見えるのですが、わかりやすくなったかといえば、そんなことはなく、また、おもったほどおしゃれな感じにもならなかったのでやめておきます。
附録
理解不足や認識違いしているところもあるかもしれないので、今回のこの『新実在論図解化計画』が成功したかどうかはわかりませんが、しかしながら概ね満足です。
ただ、今にして思うのは、本書要約ぐらいにしておけばよかったかなぁ…と。
図示してしまうと実在(=事実存在)を実在(化)してしまい無限後退的な運動を駆動させてしまうきらいがあり好ましいものではないのでしょうが、それでも理解しやすくなり、また、問題点をより明確にする一助にはなるのではないかと思い今回のこの『新実在論』図解化計画に着手してみたのでした。
不正確さがつきまとうので、このような試みはアマチュアの領分、素人だからこそ恐れも恥も外聞も知らず、無邪気にできるものなのではないかな?それが門外漢の強みというものではないかな?とおもいます。
補足
前回、「「存在」という言葉は何を意味しているのか?ーー意味それ自体のこと」とあるとご紹介いたしましたが、これだけではまだわかりづらいのではないかと思いますのでちょっと補足です。
意味が変われば存在が変わる。現象の仕方が変われば存在が変わる。
存在が変われば意味が変わる。
つまり、意味それ自体というのは「存在の多様な現象の仕方」のことです。
ですから、「「存在」という言葉は何を意味しているのか」という問いには、「意味それ自体=存在の多様な現象の仕方」なのだと答えることができます。
以上がわたしの失敗の過程です。
2023年12月31日修正