おばあさんはどうやら文盲だったみたい。ちいさい頃に一度だけそんなことを聞いた気がする。「おれは字ぃが読めねぇだぁ。」
そのときは世の中にそんなひとはいないだろうから、冗談を言っているのだと解釈した記憶があります。
いまおもえば、時代からいって文盲であっても不思議ではないんですよね。おじいさんが新聞や農業雑誌なんかを読んでいたり、人の名前や電話番号なんかを書いて襖に貼っていましたが、おばあさんの読み書きする姿は見たことがなかったなぁ。
お舅さんが寝たきりになって13年間介護をしたり、お姑さんに嫌がらせを受けてぺったんこの薄っぺらい布団しかあてがわれず寒い冬の夜々をすごしてきて、お舅さんとお姑が亡くなってからは、終生あったかい布団を求めて、あたたかい布団を用意してくれましたね。
苦しいことの方が圧倒的に多い人生だっただろうに、いつも笑顔を絶やさず、耳が遠くなってからは、聞こえてる風を装って聞き返すこともせず、みんながなぜ笑っているのかもわからないけれど、みんなが笑っているのが嬉しい、言葉から離れた、言葉の少ない世界を生きていたんだねぇ。
ハードパンチャーのパンチを受けても倒れないボクサーは、以前にそれより強いパンチを受けたことがあるからだと言われているようですが、苦難を乗り越えてきたひとの方が、「その苦はあの苦に比べたらたいしたことはない」と思えるのかもしれませんね。笑顔の絶えないひとは、それだけ泣いてきたひとなのかもしれませんね。苦しむほどに笑顔に近づいていくのかな?
おばあさんは、晩年ほうけてしまって、100歳を越えた赤の他人のおじいさんを、前年に亡くなった自分のパートナーと思い込んで(たしかに遠目には雰囲気あったけれど、近づいても見分けられなかったねぇ)、100歳おじいさんの90代の奥さんとの確執を呼びこむなんてこともしてましたね。不憫なのは100歳おじいさん。あっちからもこっちからもいわれのない疑いをかけられて責められっぱなし。自由に歩きまわるなんてことはできないから逃げ道なし。三人が三人とも理解できないけれど、傍目からは理解できる奇妙な三角関係。
はじめのころは、100歳おじいさんの姿が見えなくなったりすると「おじいさんはどこにいっただね?」なんて聞くから、「あれはおじいさんではないですよ。」とか「おじいさんは死んだだよ。」なんて言って、一度死んだおじいさんを何度も殺すわけにもいかないから「どこにいっただかねぇ?」と誤魔化させてもらいましたよ。
だれかはわからない、または、次の瞬間にはだれなのかを忘れてしまうことがある、自分は相手のことを知らないのに、相手は自分のことを知っている、そんなひとに声をかけられる、言葉はあっても脈絡のない、細切れな世界を生きていたんだねぇ。
ふたりが生きたその世界がどんな世界なのかは、いまはまだ想像もつかないけれど、陰鬱な性格でなくてよかったわぁ。
わたしが最期に生きる世界はどんな世界なのだろう?わたしの性格は残念ながら陰鬱だから、まわりのひとに疎まれそうだなぁ…。どんな世界を生きるにしても、演技であってもいいから愛嬌をふりまく自分であ~れっ。
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