あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

修行

 人はなぜ生きるのか。この問いを発する人はきっと不健康です。生者は生を意思しないと思うのです。生きることに喜びをもてる人、あるいは生きているということを意識しないで生きられる人は生の意味を問うことはないでしょう。なぜ生きているかを問われたとき、「~のため」と理由を答える人がいますが、理由は事実ではありません。生きてある事実を思考するのが生への問いです。「実存は本質に先立つ」と思うのです。理由は事実に先行しませんので、理由は常に後付けです。また、一には意味がなく、意味には意味がないため、生に意味はないのです。夜寝て朝目覚める。この生きようという意志を別段必要としない日常、当然のことと思われている習慣、これが生きるということです。つまり人は習慣で生きているということです。

 

 人は習慣を愛します。それがどんなに無意味でくだらないものだとしても。意識するともせざるとも、生きるということは習慣の最たるものです。習慣をより自然に強力に必然的に無批判に疑いなく愛せるように、巧みに陰湿に意識にのぼらないように考えずにすむように意味を創出したいものです。習慣が意味をつくり意味が習慣を強化します。人は習慣の奴隷です。習慣に縛られた生物が人です。

 

 「愛は盲目」は反応であることを言い表しているのかもしれません。愛が盲目であるとすると、愛の必要条件は盲目となります。盲目でなければ愛ではないのかもしれません。盲目は意思の欠如、感情表出の比喩です。つまり反応を表しているのではないでしょうか。だとすると愛は知性とすこぶる相性が悪い。そしてまた習慣を愛するというのは、習慣は知性ではなく反応であり、習慣という反応を無為に肯定・履行している状態のことなのではないでしょうか。愛の対象にならないのは知性の範疇にあるものではないでしょうか。たとえば、道徳を尊重するとはいっても愛するとはいいません。これは、道徳が愛からはできず、愛は道徳にならないからではないでしょうか。知を愛することを哲学といいますが、愛が盲目であるとすると、矛盾をはらんだ言葉に響きます。

 

 カミュは「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである。」といいますが、健康な人は生の意味を問いませんし、仮に問うたとしても、生に意味や価値を必要としないのではないかと思うのです。

 

 産業の機械化などによる余暇の拡大は思考時間を延長し無意味の知覚へと誘います。生を意味で囲い込み生の意味への問いを隠蔽することも社会の役割の一つです。なんのために。健康のために。また人に生の意味を用意してくれる宗教というのは、元来不健康な人のためのものであって、健康な人のためのものではないのではないかと思います。

 

 一方で、この生の習慣に反して生の意味を問う人がいます。生きることに無常観や無意味観、苦痛を感じる人たちです。こういった人たちにとって、本来無意味である世界で意味にとりつかれた現世を生きることは大変に苦しいものです。場合によっては絶望し、死に至る病となります。この問いは病です。したがって不健康です。生の意味を問わない生というのが健康で幸福な生なのですが、それができないのです。そして問うてしまう。なぜ生きるのか。

 

 おそらくすべての宗教において、この世は苦であると説かれています。さらにいくつかの宗教では、そのような苦である世界が何度もくり返されるというのです。これを輪廻といいますが、ヒンドゥー教においては神々でさえ輪廻からは逃れられないとされています。ギリシア神話のステュクスをも凌駕する力です。苦である世界がくり返すというのは、傷口に塩を塗り込むといった程度ではすまない非情な世界観です。そこで生み出されたのが天国と地獄なのでしょう。

 

 苦悩のない平安な世界を一般に天国と呼びますが、いずれの宗教においても最終にして最大の目的は、神の国である天国に至ること、あるいは神と一体となることです。天国への階段をのぼる前に誰しもが確認しておきたいと願うことは、天国はあるのかということです。すべてを犠牲にして修行に明け暮れたあげく、天国などなく地獄が待っていたというのでは救いがありませんから。

 

 しかし原始宗教にはこの世とあの世、ましてや天国と地獄という区別はありません。仏教に限らず、ヴェーダを源泉にもつ宗教が共通してもつ考えだと思います。また、聖書を源泉にもつキリスト教やイスラム教などにおいても、本来は天国と地獄というようなことは書かれていません。天国や地獄という考えは、後の世の人が、布教や組織の拡大、衆生に教理をわかりやすく伝えるために語るようになったことなのでしょう。

 

 では、天国と地獄、あの世とこの世、彼岸と此岸とはなんなのか。彼岸は此岸にあるのです。輪廻の輪の中にあろうと魂だけが回帰しようと、涅槃に至り解脱すれば、苦でもなければこの世でもありません。これがこの世をあの世とすること、この世とあの世は同じであるということです。

 

 如何に世界が多様に見え、個々に人格がありアートマンが宿っていようと、それらは本来ブラフマンという一であるので、世界はすべてでひとつ、ひとつですべてというあり方をしており、煩悩を捨ててすべてを空じたときに此岸が彼岸となるのです。

 

 人が生きる理由は人の社会の中にしかありません。救済の地・知であったはずのあの世がないのであれば、人はいかにして生きればいいのでしょうか。その方法はおおむね二通りあると私はみています。一つは意思を滅する方法、もう一つは自ら請け負う方法です。どちらにも共通する前提が、世界が無意味であり、無意味を見据えて無意味を生きることを示している点です。

 

 まず意思を滅する方法についてです。世界は無意味です。この無意味な世界が苦であるのは煩悩、つまり意思があるからです。したがって意思を滅してしまえばいいという考えです。

 

 仏教では四諦八苦を滅し、涅槃に至り、再びこの世に生まれないように解脱することが至高の境地であると説きます。涅槃に至るというのは、世界が無意味であると知ること、悟ること、目覚めることであり、解脱するというのは輪廻の輪から逃れることです。

 

 ゴータマは輪廻に対しいかに悩まないようにするかという方法を考えました。スッタニパータでは輪廻から抜け出るのではなく、輪廻の煩いから抜け出るという意味で、輪廻を超えると言っています。輪廻という事実は変わらずとも煩いのもととなる意識は変えられるので、何度生まれ変わろうとも空じてしまえば何度目の生であっても関係ないのです。ここに至り解脱は、輪廻の輪からのがれることだけではなく、根本的には空じるということになります。輪廻の有無にかかわらず、意思を滅してしまえば無意味となるのですから。意思を滅することが救いの道であるとすると知は弊害でしかありません。知は煩悩・魔力です。すでに知はもっていたのですが、あたかも旧約聖書「創世記」の蛇の誘惑により禁断の果実を口にし、善悪の知識と死とを得て楽園を追放されたアダムとイヴのようです。

 

 悟りと解脱には大きな隔たりがあります。悟りを得れば自動的に解脱できるというわけではどうやらなさそうなのです。つまり、教えを知るということと、教えを生きるということです。知っているからできるわけではなく、できるからといって理解しているというわけではない、という状況を体験したことがあると思いますが、まさしくそのような違いです。この違いの表れの一つとして、如来と菩薩の違いがあるのだと思います。また、ゴータマが身体があるために空じることができない煩いを患悩と呼び、患悩に支配されないように悟りを開いた後も修行を続けたのも、涅槃と解脱との違いによるものなのだと思います。生きている限り空じるというのはほぼ不可能事なのでしょう。悟りを開いたゴータマでさえできないのですから。

 

 今日一般的には亡くなることを成仏と言いますが、成仏とは仏に成ることです。死は強制的な空であり、強制的に一へと還元します。つまり智恵を得ることと、一と一体となることが同時に起こる現象が死であるので、成仏と呼ぶのだと思います。

 

 空じることは不可能で、成仏が無意味への還元であるとすると、意思を滅するには死ぬしかないと思われるかもしれませんが、そうではありません。仏典には過激な言葉が多くみられますが自殺を推奨しているわけではありません。なぜなら自殺によって空じるというのでは、死に目的や方法といった意味を与えてしまっていますので、自殺が反応ではなく意思によるものとなり、無意味ではなくなります。ではいかにして空じるか。その方法の一つを提示するのが宗教の役割であり、修行の効用なのだと思います。

 

 知っているということとできるということでは、明らかにできるということの方が有益です。ここでいうできるというのは、空じるということですが、空じるという智は大変にやっかいなものです。なぜなら智をもって知を捨て去れというのですから。空じること、知らないことが智恵を得るという特殊な知です。そこで考案されたのが修行なのではないでしょうか。

 

 修行にはなにか意味があるのかといえば、おそらく意味はないのでしょう。無意味を生きるための方法が意味をもっていては意味がありません。規律を守ることにしても、経を唱えるにしても、瞑想や座禅をくむにしても、善行をなすにしても、それがいったいなにになるというのでしょうか。それで空じることになるでしょうか。もちろんなりません。しかし空に近づきます。というのも、空じる、つまり意思しないことはほぼ不可能で、たとえ可能であったとしても一朝一夕ではできません。そこで次善の策として、一つ事に集中させる機構を用意したのだと思います。単調な作業を延々と続けていたり集中すると、あれこれ考えていたものが、これだけを考えるようになったり、あるいは考えていることを意思しなくなったり、体が思考とは関係なく反応で動いたり、没入して没我に至ることがあります。このような状態に引き込む方法が修行なのではないでしょうか。そしてこのとき、この境地のとき、過程即目的、即身成仏、入滅となります。ですから修行に意味はないのです。修行のなかには千日回峰行や水行など、命がけの荒行・苦行がありますが、それでもやはり意味はありません。命を懸けたからといって意味が強化されるわけではないのです。命がけで無意味・無明を生きることが修行です。修行は方法でも目的でもなく、方法であり目的でもあるのです。

 

 また家の鍵をかけたかどうかわからなくなったりすることがあると思いますが、これは習慣による没我です。修行による没我を習慣化することで没我が深化します。生の意味を問わないどころか何も問わない無為自然、悟りの境地、解脱、ただあるだけになります。

 

 これもまた習慣ですので、不健康を脱したといえるのかもしれません。もちろん不健康も健康も習慣もなにも意味をなしませんが。

 

 仏僧の得度をはかるものに、一般には禅問答といわれる公案というものがありますが、この公案には模範解答はありません。答えがあってないようなものなのです。ではなにをもってはかるのか。それは反応なのではないかと思うのです。どれほど法を得て知行合一に近づいたのか、それをはかるものなのだと思うのです。半眼のように、見るともなく見て、見ないともなく見るように、考えるともなく考え、考えないともなく考える、たんなる反応に近づくことなのではないでしょうか。

 

 智を得て習慣化する者と習慣化した後に智を得る者、つまり世界が無意味であることを知り無意味に近づく場合と、無意味に近づいたがために世界が無意味であることを感得する場合とがあると思いますが、どちらの場合にも修行は有効にはたらくものです。ちなみに、前者は物心がついた後に入院する人に多く、後者は物心がつく前に、なにかしらの事由により寺に預けられた人に多いと思います。

 

 修行はゴータマ以前からあります。ゴータマも苦行を経ており、古くからヨーガなどがありますから。いずれにしろ修行の本質は自己の救済にあります。小乗的ですが、一において小乗も大乗もありません。

 

 宗教と聞くと盲目的に神を信じることと解し、その言葉に受動的な印象を受けることが多いと思うのですが、宗教の要である信仰、そしてそれを体現した祈りや修行は、積極的に信じ受け入れるという意味において能動的です。

 

 次に自ら請け負う方法についてです。世界は無意味です。無意味ですがあります。あるものは否定できませんので、積極的に肯定し自ら請け負ってしまえばいいという考えです。

 

 美術用語の遠近法・パースペクティブという語によって、各人の視点の違いを表しています。固定観念やユクスキュルの環世界に通じるものです。ニーチェもゴータマ同様、遠近法を消し去ること、意思を滅すること、空じることは不可能であるとみます。そこで、回帰・輪廻を手段として利用することを思い立ちました。遠近法は消し去ることができず、永劫回帰するのであれば、すべてを肯定してしまえばいい。すべて自ら望んだのだと一瞬、一瞬を肯定し請け負う、これを運命愛と呼び、回帰を受け入れ、回帰を手段とすることで生に対して積極的な態度をとる自己超克方法を編み出しました。「私はいつかは、ただひたすら、肯定する者であるようになりたい」とニーチェは言います。

 

 すべての肯定というのは一つ一つを肯定していくことではなく、同時にすべてを肯定することです。すべてを同時に肯定するというのは、見えるものも見えないものも、矛盾していることも矛盾していないことも同時に肯定することです。つまり遠近法がありません。ゴータマは遠近法をなくすことでただある境地に至ることを目指したのに対し、ニーチェはすべての遠近法を持つことで遠近法をなくし、ただある境地に至ることを目指したのだと思います。方法に違いはありますが、到達する境地、目指す境地は同じです。

 

 変動する一の回帰という特性を利用し、現在は永劫に回帰することから、現在に永遠の重みを与えたのはニーチェでした。ニーチェはパースペクティズムを説いていますので、存在に意味がある、価値がある、重みがあると見たのではなく、重みを与えたのだと思います。なんのために。いわば人の尊厳のために。物理的な意味で世界が実際に永劫回帰しているのではないかとも探っていたようですが、それを証明する手立てがないために利用の範疇にとどめたのでしょう。そして人に尊厳を与えるための道具として永劫回帰を利用する手に思い至ったのだと思います。必然の一の変動が永劫回帰するのであれば、現在を肯定するしかないではないか、いわば「これでいいのだ」薄伽梵(バキャボン、バカボン、Bhagavad(ヴァガバッド))といった超人に導くために。

 

 一方で、現在の重要性、現在の重みを決めるのは、現在の選択による未来の重要度によって決まるのだから、未来を知らない現在は軽いのだと、現在に軽さを与えたのはクンデラでした。永劫回帰の円環のどの事象面・現在も始まりとなり、どの時間も均質で特別な時間はないので、現在は軽いのだという考えにも至っていたと思います。私は、クンデラは永遠不滅に関わらず、重さも軽さも、自分の生を自ら引き受けて生きればいいではないか、また、重さは生に意義を与え、軽さは自由を与えると言っているのだと『不滅』から読みとりました。このように言うとクンデラに「私を現代のゲーテに仕立てるつもりか」と非難されそうですが。

 

 ニーチェは永劫回帰を重みとみたのではなく、重みを与え、クンデラは永劫回帰を軽さとみたのではなく、軽みを与えたのだと思います。ニーチェは道徳のために、クンデラは自由のために。ニーチェは必然のくびきからの人間性の解放のために、クンデラは社会的な抑圧・規制・制限からの人間の開放のために。ただしこれもまた一つのパースペクティブにすぎませんが。

 

 私は世界各地の先住民族の多くも、無意味な世界を自ら請け負う方法をとっているとみています。ただし、回帰を利用しません。輪廻思想をもちますが、やはり輪廻よりは一を根底に据えて肯定していると思います。

 

 世界各地に通過儀礼・イニシエーションというものがありますが、古来のものは苛酷なものが多く、毒をもつ蟻に故意に噛ませたり、毒蛙などの危険生物のいる場所への侵入や宿泊、バンジージャンプなど、命を危機におとしめるものばかりです。これは不条理を強制的に肯定させる機構なのではないかと思います。

 

 通過儀礼の他にも儀式がありますが、そこでは薬物や音楽、踊りなどトランス状態に導く機構が組み込まれています。このトランスにより忘我の境地に至り一と融合します。儀式は神への捧げものですが、その意味するところは一との融合、一の礼賛なのではないでしょうか。

 

 無数の遠近法により遠近法を無くするのが、自ら請け負う方法には多く、修行とはまた違うのでしょうが、救済方法、自己超克方法として同質であるとみて、提示しました。

 

 自ら請け負う方法にはこのような考えもあります。意味がないのならつくってしまえばいい。むしろ意味がないからこそ肯定されるのです。もし意味があれば、真偽判定がついてしまいます。つくったもの、あるものは事実となりますので存在の場が与えられ肯定されます。無意味の中で意味をこしらえ、その無意味な意味を肯定する。すると肯定するという運動が、あるということを立証し生を礼賛する変動となります。自灯明・法灯明ともつながるのではないかと思います。

 

 遠近法をなくすというのは無垢に至ることだと思います。多くの教理において、神の他に、より身近で理想とされているのが赤ん坊です。晩年のピカソなど、芸術家の中にも赤ん坊を理想とする人がいます。赤ん坊は人という形を持ちながらすべてを否定するともなく否定し、肯定するともなく肯定し、生や死に煩わされない中道者であると見ているからでしょう。

 

 無意味な不条理・ニヒリズムの世界を生きるには、遠近法をなくし自己超克するしかないのではないでしょうか。

 

 幸せとは「幸せとは何か」を問わない人が得られるものです。私の願いは、みなさんが生きる意味を問わない生涯であるようにということです。残念ながら問うてしまった人には、嘘でも妄想でも、根拠がなくても独りよがりでも、なんでもいいので生きる意味を構築してほしい。そしてまたそれを盲信してほしい。あまりにも当然のこととして問うまでもないと問わずにすむほどに。それもできそうにないのなら修行も一考です。

 

 神との一体は一への還元であり、一に帰ることで苦悩も平安もなにもない、ただある事実になります。

 生に意味はありません。生は習慣です。しかし、知ることとそれを生きることとの間には隔たりがあります。この隔たりの超克方法の一つが修行です。修行は世界の実相を観想し、それを生きる機構です。