言の葉の形代
言葉はものさし。
言葉は間仕切り。
言葉は箱。
言葉は限界。…
限界の形代
想像は規制という制限・限界によって可能になります。
つまり規制が想像を可能にします。
制限がなければ混沌であり無。
間仕切ることは、本来その空間が秘めていた多様な可能性、どのような使い方も可能としてきた潜在力を奪ってしまいます。
間仕切ることで失われる可能性を凌駕する利便性の創造が建築には求められているのではないでしょうか?
競合・共生・矛盾のせめぎあいから思想・言葉・…は生まれる。
書き残さないつよさ
文字に書かれるから消えることがある。
心に刻まれるから消えることがない。
不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏には、時代による解釈の歪曲も防ぐ作用があります。
映画『レッドドラゴン』より、ハンニバル・レクターのセリフ
創造力の代償は恐怖
想像ほど恐怖を与えるものはありません。
想像ほど感動を与えるものもありません。
文字と文字の間、行間を埋めて、ときにそこを飛び出す。
想像力に勝る力なし。
映画「ネロ」セネカの台詞
影は実物よりでかい。
退ける痛み
想像の痛みは死を退けて生に踏みとどまらせることがあります。
(長く続く)現実・実際の痛みは死に誘い生を諦めさせることがあります。
死にたいではなく消えたいと思うのは防衛本能なのかもしれない。
死ぬことと消えることとの認識の分水嶺が痛みだとするなら、痛みとはなにかを考えなければならない。
痛みの回避は死の回避?
言葉の延長。拡がる言葉。
身体は言語化・概念化によって新たに作られることがあります。
それが意識の延長、道具の身体化。
ひとやサルの実験でも、道具をもつと、道具に神経・意識が延長されることが知られています。
わたしは両足の母子球のつけねあたりを合わせてウトウトしてしまったり、眠ってしまうと、足が一本になってしまったのではないか、なくなってしまったのではないか、または二本あったことに驚いてしまう幻肢の反対のような体験をしばしばします。
(言語による芸術はありますが、)芸術は言語化できません。その点において目的をもたない真理と同じ。
生も言語化できない事実。
対して死は言語の内にしかありません。
だからといって生の意味とはならない?
事実は倫理となりえるか?
形代の習慣
人は習慣を愛します。それがどんなに無意味でくだらないものだとしても、それを意識しようとせざるとも、生きることは習慣の最たるものです。
意味などありません。あるのは習慣だけ。
習慣をより自然に強力に必然的に無批判に疑いなく愛せるように、巧みに陰湿に意識にのぼらないように考えずにすむように、意味を創出する。
習慣が意味をつくり意味が習慣を強化する。
人は習慣の奴隷。
習慣に縛られた生き物。
習慣という生活が道徳という論理を生み出す。
世界の数だけ道徳があるのではなく、道徳の数だけ世界がある。
ひとは唯一の意味創出装置。言語を発明して意味自体をつくった。
世界を意味のあるもので埋め立ててどうしようというの?
周りを意味で埋め尽くすと意味であふれて意味で窒息するから生きづらくなる。
意味のある世界で意味を継承し続けていく。
意味を求めず拒絶するひとには意味の短刀を突きつけ続ける世界。
そんな意味・物語を紡ぎ続けるのが社会。
形のなさかたなさず
形のないことに耐えきれず、何にでも言葉をあてがい、答えを得られたと安心するひとがいます。言葉にも形はないのに。
形のないものを形のない型枠に押し込んで形のない形に得心して安堵するひと。
意味が両手からこぼれ落ちていく。
パンドラの壺のように最後に希望が残ることもなく…。
すべての意味が、意味自体ですら無意味なのではなく、意味がない。意味の意味のなさ。
意味の無意味ではなく意味の不在。
歴史の言葉
生産と消費の繰り返しに意味があるのなら、その意味を生きればいい。
でも意味はない。
だから意味を積み上げて意味を創出する。これは意味がないからこそできること。
生きるとは生産と消費の繰り返し。
生産と消費の果てに…死がある。
「…」には何があり、死の先には何があるのでしょうか?
人の歴史は言葉の歴史?に縛られる歴史?
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