あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

いみをもとめてさまようひと。

意味を授ける思想

 意味をもつのはひとだけだから、意味をもとめてさまようことはひとの業なのかもしれません。

 

 宗教は意味を提示してくれるから、意味をもとめてさまよい疲れたひとの安息の地になっているのかな?

 

 仏教は哲学でも宗教でもなく思想だと言われることがありますが、意味をくれずに意味探しの旅は諦めなさいと言っているから?

 

意味に意味はない?

 むか〜し、むかし。お釈迦さんとニーチェさんって親和性あるかも?と思い(ニーチェさんは仏教の影響直撃ショーペンハウエルさんに被弾してるから当然なんだろうけどね)比較というほどたいしたものではないけれど、流転してみました。

 

 お釈迦さんは「一切のものは虚妄である」と言ってみたり、ニーチェさんは「人間という動物は、これまでなんの意味ももたなかった。地上における人間の存在はなんの目的も含まなかった。「そもそも人間はなんのためにそんざいするのか」ーーこれは答えのない問であった」と言ってみたりして、ざっくり言うと、どちらも「意味なんかないよーだ。」って言っちゃってる。

 

 ここで話をやめちゃうとセイン・カミュさんの大おじさんのアルベール・カミュさんに「不条理を見つめていながら、それをつらぬこうとせず、ぎりぎりの段階で飛躍をとげてしまう思考」とか言われちゃうからってわけでは時系列から考えてもないけれど、「じゃあ、こうして生きていったら?」ってそれぞれ提示してくれています。

ブッダのことば―スッタニパータ

ブッダのことば―スッタニパータ

 

 

いきかたワン・ツー・スリー

 序破急とか守破離みたいに三段階。

 お釈迦さんは在俗者→修行者・出家者→覚者(ブッダ)。

 ニーチェさんは駱駝(未人)→獅子→幼児(超人スーパーマン、クラーク・ケント)。

  • 第一段階:意味を獲得していく段階。
  • 第二段階:方法的懐疑ばりに意味の棄却・全否定段階。
  • 第三段階:意味から離れて意味自体がないただ存在している段階。

 第二段階まではなれなくはないけれど、第二段階から第三段階への移行が、ラジオ体操も第三が今では幻と言われるほどだから、幻を追うようなむずかしさで「そうそうなれるもんじゃあないよ」と言われる。

 

 どちらもおなじ境地をめざしているのにその道順が真逆。背を合わせて歩き出したはずなのに「あらっ、こんにちわ」。

 

お釈迦さん「ぜんぶ捨てちゃえば?」

 お釈迦さんは「この世とかの世をともに捨て去る」とか「この世についてもかの世についてもとらわれることがない<全き人>(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい」とか言って、体があることも意識があることもぜーんぶ忘れて、空じて空じてぜんぶ捨てちゃえばいいじゃないという、生きるということに対しては消極的?な処方箋を自己超克方法としています。

 

 自己超克は「こうしたら生きていけるんじゃない?」「意味とは言えないけれど、生きる意味みたいなものとしてどう?」ということ。

 

ニーチェさん「 ぜんぶ拾ってしまえ!」

 「生をまるごと滅ぼす以外に、滅ぼす方法などない。諸仏の流動という真理は、血肉化の不能なものだ。われわれの器官(生のための)は、誤謬を掴むようにできている」と「空じるとかムリ〜」というニーチェさんは、「逆に〜ぜんぶ肯定しちゃえばいいんじゃないっ?」ということで「一切の<そうあった>を<そうあることをわたしは欲したのだ!>に根本からつくりかえることーーこれこそわたしは初めて救済の名でよびたい!」「私はいつかは、ただひたすら、肯定する者であるようになりたい」と、これを運命愛といって、生きるということに対しては積極的?な処方箋を自己超克方法としています。

 

つらい2.5段階!?

 お釈迦さんは身体があるために空じることができないわずらいを患悩と言っています。

 

 「そりゃ、空じるのはたいへんさっ。だから悟ったぼくも生涯入滅まで修行の日々よ。「悟る=解脱」でも「悟る=涅槃」でもないんだよなぁこれが。悟るまでもたいへんだったけどさ〜、悟ったあとはもっとたいへんだったんだから。ツァラトゥストラさんも山からおりたり登ったりでたいへんだったでしょう?」

ニーチェ全集ツァラトゥストラ

ニーチェ全集〈9〉ツァラトゥストラ 上

  • 作者: フリードリッヒニーチェ,Friedrich Nietzsche,吉沢伝三郎
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 1993/06
 

 

宗教な音楽 

 世界最古の預言者・宗教ザラスシュトラ(ツァラトゥストラ、ゾロアスター)

 『アヴェスター』『ゾロアスター教 神々の讃歌』 で大昔に読みましたが、原始経典って詩で繰り返しや変奏が多いからカノンだな〜………。

 

 んっ?

 

 逆か!

 カノンが宗教だな〜って思いました。

 哲学も音楽も数学も宗教ですもんねぇピュタゴラスさん。

 なんにしてもメタファーきつすぎて奥義書ですね。お経の読経のようにフシがないとおもしろくないしノレないねっ。

 

 『風姿花伝』『不動智神妙録』『兵法家伝書』『五輪書』なんかの奥義書に共通するのは、結局さいごは技より心。メタファーも心で突破しないとなのかなぁ?感情的なの苦手なんだよ〜。

(わたしなんでか抜刀は左利きみたい。みんな左帯刀だから時代劇みてるとなにかが変。って違和感あっていつもへんなかんじになる。)

 

二人の視線…の先

 ニーチェさんはひとが考えたり意味づけしたりするサガ・業を(訳し方がいろいろだけど…)パースペクティズム・遠近法・眼病固定病といいます。

 なので、お釈迦さんは遠近法を否定してなくすことで、ニーチェさんは遠近法を肯定してうけおうことで生きようとしたのかなぁと思いました。

 

 皮肉なのはその死に際。

 思想とうらはらにお釈迦さんは死期をさとって往かれ、ニーチェさんは忘我のなかで往かれました。

 

 270文字ほどの『般若心経』と比べるのはあれだけど、ニーチェさんもっとスッキリ!!いえなかったかなー。ズバッ!と辛辣なことはいってるのになぁ。

般若心経・金剛般若

般若心経・金剛般若経

  • 作者: 中村元,紀野一義
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1960/07/25
 

 

つづく。

 

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