あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

自由

 空を自在に飛ぶなどの不可能事の実現は、自由ではなく願望です。私たちにとっての自由は選択の自由でしかありません。あれかこれか。なにものも現在を生きることはできず、現在と想定している観念を生きています。観念の世界で観念をもっていると信じる自己がとりうる選択肢のうち、理由の如何によらず選択を行うことができるという可能性が自由です。不自由だと感じるのは選択肢がなく、それをするしかない、それを選ぶしかないという状況に陥っていると感じるからです。実際にそのような状況に陥っているかどうかは問題ではなく、そう感じているかどうかが問題です。選択肢が多いと選択できないとことがありますが、これは自由の有無ではなく、自由の行使の問題ですので、不自由ではありません。

 

 選択しなければならないというのは不自由の領分であるとも考えられます。つまり、知能があるために選択から逃れられず、選択に迫られた不自然に生きています。知性をもたない生物は選択することなく反応によって自然に生きていますので、選択の自由という不自由からも開放されています。人は知能を持つがゆえに無為自然悟りも解脱も梵我一如も体現することができません。生物の中で唯一それができないのが人なのかもしれません。この意味において自由は幸福であるとは限らないのです。

 

 私たちの生においては世界も自己もすべてが観念的であるため、倫理や道徳、自由といったものが進化します。ただし、進化というとよりよくなると考えがちですが、進化もただ生存に適していたということに過ぎず、よいわるいということはありません。倫理や道徳が進化するというのは社会構造の拡大と複雑化により、より多くの場合・場面が生まれ、それに伴ってその対処法も考案され観念化されるからです。端的に言えば、選択を続ける過程で新たな選択肢に出会うからです。また自由が進化するというのは、空を自在に飛ぶことは不可能でも、飛行機などの発明により間接的であれ飛ぶことが可能になり、選択肢が増えるということです。

 

 常人はあれかこれかで悩み、秀才はあれもこれもで悩みます。天才はあれでもこれでもない最適解をつくります。たいていの人は二者択一です。するかしないか、行くか行かないか。しかし秀才ともなると二者を充足する方法を選びます。たとえば人を使ったり、時間を調整したりして。そして天才は選ぶのではなく、新たな選択肢をつくります。意識的にしろ無意識的にしろ、よりよいと思われる解に対して鼻が効くようです。天才の天才性は自由度にあります。選択肢の創造により自由が拡張されています。天才という場では選択肢の創造と選択が同時におきています。天才において自由はより自由となります。天才は自由の解放者です。

 

 一は連続体なので機械論・必然ですが、一からすれば一自体に次はないので偶然です。現在は必然と偶然の折衷点です。必然は運動の、偶然は可能性の保存として潜在・内在しています。未来を変える可能性は有していますが、一つの運動体としては変わらないので未来は変わらない必然です。

 

 必然を肯定する決定論や運命論は自由意志の問題を立ち上がらせます。未来はあらかじめ定められていて、その未来からは決して逃れることはできないと言われれば、確かに自らの意志で行動しているのだとは考えづらいでしょう。

 

 私たちは必然を生きることも永劫回帰を生きることもできません。たとえそれを生きていたとしても、それを知覚する方法がなく、不可能だからです。これをもって自由意志を肯定する考え方があります。つまり不可知であるから自由であると。私にはこの考えが本質的ではないと思われて仕様がないのです。

 

 一の変動において、あるのは現在だけです。この現在は必然であり、まったく同じように回帰しているのかもしれませんが、それでも常に可能性に開かれています。したがって事象は必然に起こる偶然事です。現在は変えることのできない必然の未来に向かって普遍に可能性に開かれています。このような現在の特性により人間の自由意志は保証されます。 私たちは偶然の前では自由でも不自由です。私たちは必然の前では不自由でも自由です。前者は言葉に縛られているから、後者は未来が可能性に開かれているからです。

 

 自由意志の適用を人間に限定したのは、意味をもつのが人間だけだからです。生物や物質は反応による世界に生き、自由という概念も言葉も持たないため意思しないからです。言葉に縛られることによって反応による行動は意味づけ・理由づけられて意思を持ちます。たとえその意志も反応にすぎないものであったとしても。もちろん人間以外に知性をもち、意味をもつものがあれば、そこにも自由意志は適用されます。自由意志は知能・言語をもったものだけがもつ特権です。

 

 必然とは関係なく自由意志を否定する人もいます。たとえば私たちはなにものかに操られているだけであるだとか、プログラムに則って動いているだけであるだとか、そもそも自由も意志も知性も人も、すべて言葉により想定されている観念にすぎないのだから、もとから存在していないのだ、といった具合です。これらの考えに対しても自由意志はあると答えてもいいのではないでしょうか。私たちの背後に私たちを操るなにかがいたとしても、現在という事象面においてそれを含めた意志、つまり私を拡張することで私を操るものを含めたものを私とすることで、それは私の意志になると見なしてもよいのではないかということです。また、言葉に過ぎないという意見には、現在において存在しないものはないので、言葉にも自由意志にも存在の場が与えられます。仮に自由意志のない世界を想定してみます。そのような自由意志のない世界にも存在の場があたえられますが、自由意志を除いた世界という想定には、自由意志があるということが前提としてすでに組み込まれていますので自由意志をなくしたことにはなりません。つまり自由意志のない世界を想定している意思が存在するので、自由意志をなくしたことになはならないということです。

 

 自由意志のない世界を想定している自分には自由意志があっても、その世界に生きている人には自由意志がないのではないかと思われるかもしれませんが、それは自分がその人には自由意志がないと見なしているだけで、その人自身の自由意志とは関わりのないことです。ここでもないの絶対の隠匿性に出会います。ないものはなにがないかを想定したときあるものとなり、ないがあるに反転したときの痕跡、ないのなさの痕跡を消します。ないものはなくとも、ないは普遍にないのです。

 

 真に自由意志をなくすには、自由意志の概念・観念・言葉といったものすべてをなくさなければならず、そのような状態は自由意志について考えもしなかったような状態でなければなりません。ないということはなくすることではなく、そもそもないことです。したがって、先に自由意志はあるとみなすことができる、とやや濁した言い方をしましたが、これは自由意志の有無に関わることではなく、自由意志の意味に関わることだからです。つまり存在は認められても意味は認められないという、まさに有名無実の状態だからです。

 

 ただし、これだけは言っておかなければならいと思うのですが、決定論をもって罪の責任から逃れられると説く人がいますが、これは都合のよい中途半端な決定論の適用によるもので、責任逃れの方便にはならないということです。つまり行為者に責任はないという考えは、その行為により責任を追及される社会に属しているという必然を考慮していない、自分に都合の良いところで必然・運命の連鎖を断ち切って考えている中途半端な決定論を用いているということです。もちろんその行為の責任を問わない社会に属していた必然・運命であったのなら、その行為は必然に許されます。

 

 人間の自由意志が保証されているということは、自由意志による選択が可能だということです。また決定論的世界を悲観しても楽観しても、それさえも決まっていたことも決まっているような世界では、選択を自ら請け負うということが自由意志の行使となります。自由意志はあるものではなく、行使しあらしめるものがなければただの反応です。自由意志を否定したところで一つの意思表示・立場表明・決意表明・パースペクティブを示すにすぎません。

 

 自由について言及されるとき、責任とあわせて考えられます。これもまた、自由の有無ではなく、自由の行使のことです。したがって、正確に問い直すと、自由の行使と責任の問題です。自由の有無は個人に帰属するものですが、自由の行使は集団に帰属するものなので責任がともないます。

 

 言語ゲームに与することが人の本分です。かといって言語を理解できない人や未習熟者、障害者などは人ではないということではありません。なぜなら言語ゲームは関係により成りたつもので、相手の理解に関わらず、こちらが言語ゲーム内にあれば相手にも適用でき、またそうすることで異なる言語間でもゲームが成り立っているからです。関係ではありますが、各自の独自の単一のゲームです。私の赤とあなたの赤が違っていても、各自のゲームの接触によりゲームが似てきます。共通認識といったようなものはこの各自のゲームの改変・追加・創作などにより行われます。民族や国などの特定の集団はゲームの近似生の強度のことです。教育の第一はゲームのルールの伝授、あるいは独習のことなのかもしれません。各自のゲームのルールのすりあわせにより、善悪を規定し、年月を経るなどして、より強度を増していきます。その中で倫理を生み、倫理を遵守する人を人とみなすようにしました。倫理の遵守は自由ですが、その結果は不自由です。つまり、自らのルールに従っても、共通ルールに反するため、人と見なされないからです。連続殺人犯を怪物、化け物といったり、プロパガンダの面もありますが、戦時中の敵国者を蔑称で呼ぶのも、適用ルールが異なる異質な人ならざる者とみなすからではないでしょうか。

 

 私たちが守りたいのは自己ではなくゲームなのかもしれません。自己保存はゲーム保存のことなのかもしれません。なぜなら私たちが私たちであるのはゲームによるからです。私たちが次世代に継承しているのは形質ではなくゲーム形式なのかもしれません。私たちはすでに長らく言語に支配されています。ドーキンスのヴィークルのように、私たちが言語を保存しているのではなく、言語が私たちを保存しているのかもしれません。

 

 自由とは選択することです。選択肢の拡張は自由の拡張です。現在は普遍の可能性に開かれているので自由意志が保証されます。したがって必然であっても規則に縛られていても自由です。倫理の遵守も選択肢の一つです。選択は自由です。