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あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

天才をつぶす大衆


 「はやすぎた天才」と言われるけれど、天才からしたら「時代も大衆も十分おそい、おそすぎる」。

 

 「世間知らずな天才科学者」と言うけれど、「大衆、世間が天才科学者を知らない」のであって、知らなければならないのは世間の方。

 

 「常識のない、常識の通じない天才科学者」と言ってしまうけれど、常識に染まっては大衆に同化して突出せず、天才とはなりづらい。

 

 また同様に「妥協しない天才、天才でも妥協が必要」と言っているけれど、妥協続きで天才を大衆化していたら、天才は出づらく、また生きづらい。

 

 「大衆も理解できるように、大衆の理解を得られるように」と数少ない天才に"降りてくる"ことをすすめるばかりで数の圧倒的に多い大衆に"登る"ことをあまり説かないのは大衆の怠慢。

 なぜ下に、なぜ後ろに合わせなければならないのか。

 

 時代を先駆ける天才は未来を見ていて、その夢想の未来に生きる、わたしたちとは相対的に時間経過のはやさの異なる、いわばタイムトラベラー。

 そんな未来人な天才に「降りてこい」と「大衆の理解を得られるように説明する必要がある」だとか「ゆっくり土台を固めてから」だとか言うのは「考えるな」と言っているようでもある。

 

 たしかに、危険な技術や知識はあります。高いモラルの要求される場面があります。

 また、「大衆の自力での理解」と「天才が降下して説明する」のとでは大衆が理解するまでの期間が後者の方が短く効率的でしょうが進歩は遅れるでしょう。天才・未来人の時間を奪って大衆・現代人になることを強いるのですから。

 

 生前名声を得た天才より、生前不遇であった天才により惹かれます。

 生前より名声を残せた者は近未来の見えていた天才・近未来人であって、生前は理解されず、死後、それもだいぶ後になって時代がやっと天才に追いつき、見直されてその功績が讃えられる(ゆえにあまり知られない、後世でも大衆の間での認知度が低い)天才・真(・進・深)未来人には遠い未来が見えていたのだとおもうから。

 

 また近未来人は真未来人よりはお金へのがめつさ、執着がつよく、癇癪持ちで性格がわるいひとが多い傾向があるようにおもう。

 反対に真未来人は近未来人よりお金に無頓着・無計画で金勘定が苦手、無邪気で性格のいいひとが多い傾向にあるようにおもう。

 

 スケールが大きく荒唐無稽に見えるのは、現在とその構想されている未来までの距離が遠いから。だからほんとは荒唐無稽なのではない。ただそれを聞かされたひとの思考がその未来にまで届かないだけ。

 

 未来までの距離が遠くスケールの大きな構想を抱いているから器が大きく、現代のお金のことにはあまり目が向かず、未来の世界、ひとの役に立つことをより優先するのでしょう。

 

 芸術の世界でもおなじような傾向がみられます。

 フェルメールやゴッホをおもってみて。

(ピカソとかは入れないで。話ややこしくなるから。)

 

 ということでわたしはエジソンやジョブズが苦手(というよりキライ)でテスラにより惹かれるのでした。

 

 というのが『フランケンシュタインの誘惑 闇の事件簿「ゆがめられた天才 幻の世界システム」』をみていておもったこと。