成長の足払い
『日経みんなの経済教室』「#126 日本は成長できるか?」において、早稲田大学ビジネススクール准教授・入山章栄さんは経済成長には…
経済の供給サイドを強化する必要がある。
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でも、少子化や製造業の減少がすすみ日本だけでなく先進国全般どこも資本蓄積ができなくなっている。
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それでも、経済成長には潜在成長率を高める3つの要素、「労働力」「資本(蓄積)」「生産性」を高める必要がある。
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そのためには効率をよくして生産性をあげなければならない。
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そこで必須なのがイノベーション!
と、まあこんな流れで話されまして、続いてこのようにおっしゃられました…
経営学ではある程度わかっていることがありまして、イノベーションというのはとにかく新しい知、アイデアを生み出す一番最初のスターティングポイントなわけですね。
そして新しい知を生み出すときというのは、これもうわかっている法則があって、常にそれは今ある既存の知と別の今ある既存の知の新しい組み合わせなんですね。
人間ってゼロから何も生み出せませんから。
と。以下お話はまだ続きましたが、この言葉を聞いてみなさんはどうおもいましたか?
認められなくなった「効果」
わたしは1から10までつっかかってしまって立ち上がるヒマがありませんでした。
揚げ足取りのようではありますが放縦します。
はじめのゼロを無視する経済信教
経済成長にはイノベーションが必要で、そのイノベーションは既存の知の邂逅・結合によるということですが…人間はこれまでもイノベーションを起こしてきたわけですが、そのイノベーションは既存の知によるものです。
でも人間ってゼロからは何も生み出せないのですよねぇ?
それじゃあ何と何を組み合わせてきたのでしょう?その知はどこからきたのでしょう?神様からの賜り物ですか?
ん~っん、とっても宗教的ぃ。
イノベーションのラグナログ
既存というのは有限ですよね?そしてまたこの有限な知の組み合わせでイノベーションが起きるということは、その運動は永遠無限には続かないということではないでしょうか?
するとイノベーションがすすむとトーナメントを勝ち上がっていくように(総当たり戦でもいいですけれども、いずれにしても)未知の組み合わせは既存の組み合わせへとかわっていき、未知の組み合わせは減っていく一方でしょ?
それでは畢竟イノベーションはなくなります。
でもでも経済成長にはイノベーションが必要らしい。
イノベーションに意志はありませんが、もしそれがあったとしたら、どうやらイノベーションくんはみずからの可能性をつぶしていきたがる縮小志向があるようですね。
するとイノベーションというのは退縮・退色がはじめから宿命づけられているものなのではないかとおもわれてきます。
そしてまたイノベーションの黄昏からは神々であっても逃れられないのではないかとさえ…。
今の「有効」
物が不足していた時代ならいざ知らず、物で溢れている時代で供給サイドのサプライ戦略の重要性を説くおかしさ。
過剰に過剰を加えるなんて火に油を注ぐようではありませんか?
未来がなくなり硬直化する現在
極限にまで高まった生産性や正確な予測なるものは異なる選択を可能にする一方で、あらゆる未来をつぶすこと、言葉が強ければ圧縮されることではないかとおもいます。
すると現在は濃密になります。身動き取れなくなるほどに…
「今を大切に」しすぎてしまい過保護になっていませんか?
圧縮されて硬化した“現在“の壁を抜けられなくなってしまいますよ。
アマに甘くない「技あり」判定。プロには「一本」進呈。
分業化の進展も多分に寄与しているのだとおもいますが、世にプロが多すぎるのではないかとおもいます。
プロフェッショナルの定義はひとまちまちだとおもいますが、ここでは“その仕事によってお金をいただくひと“のこととして話を進めますね。
プロ林(立)
稼ぐためには他者に承認・共感していただかなければなりません。
能力のある方はもちろんプロと呼ばれますが、先の定義ですと、他者に必要とされなければ稼ぐことができずプロと見なされないようなこともないとはいえません。そのときひとはそれを“趣味“とよぶかもしれません。
また他方で、“稼ぐ”者はそれほど能力はなくともプロと認められます。
プロとアマの違いはなんですか?
まだこれからもお金でわけるの?
なぜ言うほどに個性や独自性よりも大衆向けを重視しているの?
そんなに大衆ばかり気にして仕事してたら均質化しちゃうよ。
みんなプロになっちゃったらアマチュアがいなくなって、翻ってプロもいなくなっちゃうよ。
衰退成長
歳をとることを成長といいますが、それはなにも一方通行の向上だけを意味しているのではありません。歳をとれば衰えます。この衰えるということも成長です。
なのに経済成長は向上の一面しか成長とは呼ばないようなのです。
とってもプラス思考ですね。
減退する成長をマイナス成長と呼びますが、それとて向上を正順と措定した言い方ですから。
歳をとることを楽しめる方がおられますが、減退する経済“成長“も楽しめるようであるといいですね。
交換から配給へ。
お金は上限にまで引き上げる力は抜群でも、上限の拡張はできないのではないでしょうか?
人格の投影された道具だから人を超えることはないのかな?
いらない失敗のリスク
豊かになった世界で失敗は、なぜいまもってリスクをとらなければならないものなのでしょうか?一体それでなにが失われたというのでしょうか?お金の移動だけではないの?
たしかにだれかのお金・富を損ない機会を奪ったのかもしれません。
でもそれってお金に交換道具としての地位をほぼ独占させてしまっているからではないの?
交換信奉の夕暮れ時
ものの過剰のなかで交換の必要ある?
だれもなにもつくらなくなり生きていけなくなる?
じぶんも含めて困っているひとがあってもだれもなんにもしないでいるものなの?
ひとって誰しもそんなに無趣味なの?
なにもすることがなくヒマで怠惰ななか、さらにヒマで怠惰を望みますか?
暇すぎて死んでしまいかねませんよね?
飽和点を超えてもさらに生産供給する過剰世界は交換社会から分配社会を経過せずにひとっ飛びに配給社会(?)に相転移するのではないかとおもうのです。
ものが多い、あるいは適宜、過不足なく生産供給できるのなら“分ける“必要ないでしょう?
だからわたしは、問題は成長でも蓄積でも生産性でもなく、いよいよ“交換“を射程に捉えるようになったのではないかとおもうのです。
配給というとネガティブな感情を呼び起こしたり自立しない社会に依存・寄生した人間像を思い起こさせてしまいそうですけれども、そんなに忙しさが必要ですか?
それほど忙しいことが大切ですか?
「大切なこと」の大切な「こと」を見誤っていませんか?
機械技術の進展で仕事が減少していくなか、それと逆行するようにますます多忙で心を失っていくひともあり、機械の感情は豊かになっていき、ひとの感情は失われていく。
なんだか感情を機械に移譲しているみたい。
ビジネスからビジレスへ。
Businessの語源はbusy。
フランス語のtravailler(働く)の語源はtrepaliare(拷問する)。
日本語の忙しいは「心を失う」とは人口に膾炙した言いです。
なにをもって成長と呼ぶのかは判然としませんが、イノベーションを起こし続けて成長してきたのなら生産効率があがり、必然的に仕事はなくなっていくことでしょう。
それなのにbusyはおかしくない?
どんどん仕事をなくすこと、つぶすことを(無自覚無意識にも)目指してきたのに、仕事がないことをなげくおかしさ。
仕事がなくなってきたのに忙しい不可解不合理。
BusinessはBusilessになっていって風前の灯にしていくのが常道ではないの?
なぜにそれほど護摩を焚くかっ?
呪術かっ!
BusinessからBusilessへ。
源流のN
BusinessとBusilessはほんの1字違い。
アルファベット順でいってもとっても近く。
間にあるのはただmのみ。
Mの悲劇
…でもこの1文字を超えるには途方もない労力が必要みたい。
なにせmはめちゃくちゃで汚い混乱の窮地においこむから。
Mってカタチからして落ち窪んで剱岳になってるし。たちわるっ!
n越え、m越え。一山越え、二山越えた先には…絶壁ぃっ!
ひとは悲しくもlessには至らないものなのか?
Busiless ← Busimess ← Business
- ness:[語尾について性質や状態を表す(中性なもの)](小文字だからネス湖じゃないよ。)
- mess:乱雑、面倒、干渉、困惑
- less:より少ない
甘党なL
Lのために明日もなんとかMを越えて下さい。
(LMN…デスノートではないですよ。)
死ぬほど苦しいのなら逃げておしまいなさい。messの世界に罪悪感を感じなくていい。messにとどまらなくていいからlessしてしまいなさい。あまりにつらいのなら。
みなさんがMを越えられるように願うばかりです。
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