あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

産業労働社会から広告至上主義社会へ。そして…

広告優位社会の導き

 あらゆるものに価値の値札をつける社会。

 資本主義にはそんな一面もあるのではないかとおもいます。

 いかに利用価値のなさそうなものも、アイデアや利用の仕方を抱き合わせ商品にして値をつけます。

 売り方や宣伝一つ。

 

 これは価値のないものなどないという一見、倫理的にみえる反面、すべては利用できるという、すべてを物化する反倫理的な面ももっています。

 そしてまた、ほぼ後者のことの方がおおい…ような……。

 

価値測定

 (価)値と物化が結びつくと消費過多になります。

 価値同士が天秤にかけられて短期的な価値を得るために片方が犠牲となることがあるからです。たとえ犠牲となるものに恒久的な価値があったとしても…。

 

 その時の、時代の価値観に先見の明はありません。

 流れに乗っているだけですから。

 

 流れの中で流れを外から見ることはできません。

 でも天文学において内部から銀河の形をみることができたように、流れの中にありながらも外を見る方法があるのではないかとおもいます。

 

 なんの話かといえば…ゆるがない価値のおはなし。

 

偉大?誇大?なる発明品

 産業革命前、おおくのモノは必要とされるから作られていました。オートクチュール、オーダーメイドが主流だったこととおもいます。

 大量生産・大量消費の時代になり、モノは売るために作られるようになりました。

 

 現代においてモノを売るコツは、より良いモノ、需要のあるモノを作ること以上に、作ったモノを売ること、そのために必要・需要・概念・価値・意味を創造することです。

 

 エジソンさんがトースターを発明したとき、それ以上の発明品を生み出しています。

 それが概念・価値・習慣。

 エジソンさんはトースターを売るために一日三食の習慣を発明しました。

 

 Apple Ⅰ・Ⅱは、ほぼウォズニアックさんによってつくられました。

 ジョブスさんはおもに広告や販路を発明しました。

 (お気づきのこととおもいますが、わたしはエジソンさんやジョブスさんを好きません。テスラさんやウォズニアックさんがいいです。)

 

そして広告至上主義へ

 産業労働社会は世相や教育によって身体の産業労働社会化をうながしました。

 

 産業労働者会による過剰の歪が消費の(質の)劣化と低下などのかたちをなし、需要縮小を受けて、いまやアイデアやセールスなど、かたちのないものが形ある製品を凌駕するほどの大きな価値をもつ広告至上主義社会へと移行しました。

 

 広告社会はすべてのモノの陳腐さを露呈して不義不信を敷衍してしまうのではないでしょうか。

電通の正体―マスコミ最大のタブー

電通の正体―マスコミ最大のタブー

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ひとに搭載された劣化指向性

産業社会の先食いを予防する劣悪税

 陶芸や彫像など、いい土やいい石など、すぐれた素材・マテリアルも利益重視の大量生産社会では技術のともなわないひとや機械に大量消費されてしまい、後世に現れるかもしれない優秀なひとに、その技術にみあった素材を残しておけないかもしれません。

 

 現に過度な森林伐採や焼き畑、ひとの生活圏の拡張などにより大木が育たず、大木にまで育つ環境が収縮しています。

 

 現在、開発が環境に与える影響をデータにもとづいてシミュレートして環境評価を行って、「環境に影響なしっ!」と言って環境に配慮している体を装って断定していますが、気象衛星の技術の向上によってみせつけられている影響、たとえば一地域の火災であっても地球レベルで大きな影響を与えていることなど、をみれば、これまでの人間の稚拙な環境評価がいかにいかがわしい狭量であることか…。

 

 将来によいものを残すため、資源を守るために、売ることが目的の劣悪低品質なしょうもないものをたくさんつくるんじゃないという規制のために、劣悪税みたいな過剰競争を抑制するようなものがあってもいいのではないかとおもいます。

 

チキチキチキンレース参加者

 競争社会でどれほど威勢のいいことを言って威張っていても、チキンレース社会にはチキンしかいません。

 このような、けっこう滑稽コケコッコーな社会では、三歩目までは耳を傾けてもらえるでしょう。でも、四歩目には耳をもつひともいないような、なにも残らない社会になってしまいませんか?

 

過剰競争の結果としての均質化

 過疎化によりケアするひとがいなくなり、地域・土着の仏像をはじめとする美術品や工芸品などの博物館への寄贈が増えているそうです。

 

 選択肢や多様性が収束・集約・縮小していくと結果として均質化していきます。

 すると全体主義を婉曲的に言い換えた大衆化や流行などが広まりやすくなるのではないかとおもわれます。

 

ハタラキビト

 全員が働いているような、働かなければ生きていけないような、少なくとも働かなければならないとされている社会に生きる生物は人間だけなのではないでしょうか。

 

 ひとが勝手に名付けたものですが、働きアリや働きバチでさえ8割程は働いていません。その方が生存に有利だからだそうです。

 

 天敵のいなくなった人間に生存に有利といったことは理由にはならないでしょうし、他の生物と異なり知能がありますので、(失業率20%と考えると5カ国ほどありますが、自責の念や羞恥心がひとにはありますから、生きづらさ・生きやすさが異なります。)条件は同じではないですが、それでも不自然で異常なのではないかとおもいます。

 

甘味な離乳食と嫉妬の呪詛

 そんな考えは「甘い!」と言うひともあるでしょう。

 

 「甘い!」という言葉は、わたしも苦しんできたのだからきみたちも苦しむべきだ、苦しむことが当たり前だと言っているように感じることがあります。

 

 ひとは砂糖を求めてきました。

 ひとは甘さを求めてきました。

 

 「子どもにいい暮らしをさせたい」と言って仕事に励んで稼いで子どもに甘さを与えて子どもの甘味受容レセプターを発達させておいて成人すると「甘い!」と言う。

 なんか変なの。

 

 「甘い!」と言うひとの大半のひとの生も、港川人や縄文人のような古代のひとからしたら「甘い!」と言われるかもしれないのに…なんか変なの。

 

やっぱり甘さもほしい

 近年では甘さによりすぎたせいか、その揺り返しか、辛さ・痛みを求めるひとも増えています。

 甘味受容レセプターが日常的に甘味を受け続けた結果、馴化・鈍化してしまって刺激を求めているのかもしれませんね。

 

 世界的には、辛さが主流の国(インドやパキスタンのカリィ、韓国のキムチ、ヒマラヤや南米など高山地帯のチリ・唐辛子などなど)の方がおおいですが、こういった国々でもイモ類や乳製品の甘さが求められているとおもいます。

エミール

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  • 作者: ルソー,今野一雄
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1962/05/16
 

 

違和感はあっても…自己弁護の決まり文句

 製品以上にゴミを生み出して地球環境を守ろうと呼びかけながら資本主義社会維持のためにはモノを作り続けます。

 「豊かさ」や「家族のため」、「食べるため」という言葉を贖宥状にして働くという行為自体を賛美してその内容を問いません。

 

 仕事には必ずしも正しいとは思われない、むしろ公共や未来において不利益を生じると思われることもありますが、仕事だから仕方がない、生きるためだから必要悪も行わなければならない。

 だからこそ普段、理性的で倫理的であることが求められると言ったように言い聞かせても論点がズレていく一方で釈然としません。

 

これも仕事。あれも仕事。

 仕事の定義が報酬を得るということであれば悪事も仕事に含まれます。

 実際、辞書にも記されていますし、悪事をはたらいているひとたちも仕事という言葉を使います。

 この点において人に「仕事しなさい」というのはいかがなものかと…。

 

 お金を得るためにはゴミを生産して、後の世の人の迷惑も省みないで、子どもたちのために働く…。

 

 矛盾が循環しています。

 この循環を個人でどうにかすることはできません。

 一国でも何も変わりません。

 

 資本主義より魅力的で経済効果もありつつゴミ生産効率を下げることのできるシステムが早急に考え出されて実施されなければ、知能がある分よりタチの悪いムシ以下の下等生物とおもわれても仕方ないのではないかとおもいます。

 

恩恵の効用かそれとも代償か

 自給自足の生活は生きることに精一杯で生で埋め尽くして、死を埋没させます。

 対して文明は生死への過剰な接近や極端な忌避に誘うのかもしれません。

 

 直接生に関わらないことにかかずらって生を見せないようにしたり、効率化の恩恵によって無遠慮に思考する余暇を得て死を引き寄せてしまったり(あまりにすることがない暇は死を思考させるそうです(『洞窟おじさん』など))。

 

 文明を賞賛して礼讃することは生を軽視すること、生を捨てるという一面があるのかもしれません。

 生も死も、お金も信念も過剰・極端には弊害があってほどほどの中道がよさそうですね。

 

不滅物の神格化

  貨幣は交換不可能だったものを交換可能にする価値の偏差値。

 貨幣は諸商品と交換されます。

 しかもそれ自身(お金)が前商品(的)。

 ゆえに近代の汎神論。

 

 現行で不滅なものは神とお金だけだとおもいます。

 お金の不死・等価・不偏・可変・平等などの特質が神の条件(?)に適うとおもうからです。

 しかしてお金は神となれり。

 ノンエイジング、アンチエイジングなお金をエイジングさせることで創造主から創造物へと還元して道具にもどす必要があるのではないでしょうか。

 

過剰はどれも弊害

 地域通貨がいきすぎればすべてが交換対象となる交換至上主義となるのでは?

 

 生誕時から交換が行われると、言葉を理解するまではマイナスだけが増えていきます。これは相互了解の上の交換ではなく一方的な強制供給で正当な交換が成り立っていません。

 

 マイナスからはじまるのはマイナスへの抵抗をなくして、プラスにできる年齢になったときに社会貢献意識が高まるかもしれません。

 (ラトゥさん的に?)強制的に借りをつくって、なおかつそれを数値化して明示できる社会共生感を高める効用はあるかもしれませんが。

 

経済の修正プログラム

権利は権威の廉価版?

 

名誉の代償は肥満と嫉妬の目?

 

権力者の論理

 自らの都合により法を前面に出せないときは道徳を、道徳を前面に出せないときは法を盾にする。

 法と道徳の二つの盾をもたないときには、激昂の槍一本で理屈抜きの一点突破をはかります。

 その無法性と道徳心のなさ。

 それができるのも力があるからなのですが…。

 

エリート教育

 政治を貧困者に任せても新たな富裕者を生むだけでしょう。

 また相続といったことをぬきにして、富裕者は賢く競争上手。

 貧困者は愚かで競争下手であることがすくなくありません。(教育の機会の差などにより、富裕者は賢くなりやすいということもありますが、賢いから富裕者となったということもあります。)

 

 古代国家の科挙のように、知的エリートを集めても知に偏りすぎて実戦では使えないことがあります。知と実とを兼ね備えた人材による政治が現実的で、その民族に安寧をもたらすでしょう。

 

 ただ…、実の方は往々にして経験から得られることなので、はじめ愚かで競争下手だったとしても、それを悪とは言いづらい…。

 でも、そこに留まって自覚していながら愚かなままであることは、すくなからずひとに災いをもたらし迷惑をかけるので、悪と断罪されても仕方のないところがあります。

 

 磯田さんは幕末以来の政治家を概観して知的エリートについて考察して、経験値をともなわない知に偏った指導者について危惧しています。

 

ひとにパッチファイル

 (現行の資本主義)経済社会を変革するシナリオはいくつも描けるでしょう。

 でも最も重要な1つのシナリオだけは描かれたことがありません。

 それは人類の啓蒙。

 より限定的にいえば富者の啓蒙。

 

 人類の大多数(99%)が一丸となって変革しようとすれば、少数(1%)の富者の抵抗にあいます。

 それでも推し進めるには強制的に排斥するか制限をかけたり無視・ネグレクトするなど、自由と多様性を否定する暴力に訴えなければならないでしょう。

 

 矛盾を乗り越えるのではなく(これは決して乗り越えてなどいないのですから…)矛盾を飲み込む覚悟や楽天さがなくてはならないのかもしれません。

 あるいは目をつぶって鼻もつまんで矛盾を噛みしめても味がわからないようにして暴力を飲み込み・飲み込ませる技術が求められているのかもしれません。

21世紀の資本

21世紀の資本

 

 

 映画『アラビアのロレンス』より記者の台詞

何も言わずに答えるのが政治のコツ

 

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