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あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

資本主義


 資本主義の一般的な定義は「利潤を目的とする経済システムである」というものですが、「目的」という語は恣意的ですし、利潤を目的としないこともありますので、なにか釈然としません。また、資本主義には、「前期資本主義」や「修正資本主義」、「福祉国家型資本主義」に「社会主義的資本主義」などがあり、多種多様です。近代資本主義は産業革命から起動したとするのが定石ですが、資本主義の出自となると、紀元前バビロニアのバビロンシステム、アリストテレスのいう商人術、十二世紀利子率革命、十五世紀大航海時代、十六世紀商業革命など、人により異なります。人類史には社会構造を劇的に変えた時期がいくつかありますが、この革命と呼ばれることもある時期のうち、資本の大きな移動がみられた最初の時期をどことするかで、資本主義の出生点が異なります。

 

 資本は古くから見出されており、人類と共に歩んできました。資本の歴史は人類史とおなじくらいのながさをもちます。

 

 一般には、資本と資本主義の起源はわけて考えられるのですが、資本と資本主義の起源をわけることなく、多種多様で出生点が人により異なる資本主義の定義として、従来のものより包括的で、より一般的だと思われるのが、岩井克人の「資本主義とは差異が利潤を生み出すシステムである」です。この定義では、目的を利潤に限定することなく、システマチックで広範に適合します。

 

 シュンペーターは資本主義の本質は革新であるといいますが、この革新を差異と置換し、差異のシステムであるという定義に則ってシュンペーターの資本主義をなぞってみますと、差異・革新の創出が新たな利潤を生み出し、やがてその利潤は模倣により逓減するので、さらなる差異・革新を求めて、絶え間ない創造的破壊が続けるシステムであると言い換えられるのではないかと思います。

 

 経済成長を主眼に置く現代の資本主義は、利潤を追求し、効率化や合理化、一般に経済発展といわれるものを飛躍的に高めることにかけては群を抜いています。なぜならこのシステムは持続的な経済発展のための生産・利潤・差異・革新・競争を暴力的に強制するものだからです。強制するので必然、過剰に至ります。

 

 経済は世、あるいは国を治めて人を救済する「経世済民」「経国済民」からきています。この意味からすれば、経済大国とは、すぐれた統治により、より多くの民を救う国であるはずです。分業という経済生活が共生をより円滑にするはずでしたが、産業社会の発達により、分業が利己心を促進してしまい、いかに人を救済するかではなく、いかに成長するかと思案し、数字を追いかけ、借金漬けで将来世代の富をも先食いし、国内に飢えた人が現れるような、呼称とかけ離れた姿をしています。現在使われている経済大国という語の意味は、成長率によって豊かさを測る、人ではなくシステムを守るための機械です。

 

 豊かさは過剰の一種です。足るを知る人は少ないので、擦り切り一杯では豊かさを感じられないでしょう。過剰によって不安を解消し、余裕を得てきました。こうして、生存を前提にした豊かさが、いつしか転倒し、豊かさを前提とした生存を追求する人が増えていきました。そしてその結果、経済の飛躍的とも過剰ともいえる発展の代償として、環境破壊がもたらされ、経済の飛躍的とも過剰ともいえる発展にも関わらず、これまで貧困がなくなることはありませんでした。

 

 それでも、この競争から降りれば、たちまち生存危機に陥り、「淘汰」という語ですまされてしまいます。ブレーキを踏みたくてもアクセルを踏み込まなければならないチキンレースになっています。資源を食い尽くそうとも、「生きるためには=稼ぐためには=売るためには」仕方がないという免罪符をもって正当化します。この命がけの度胸だめしをやめるには、申し合わせが必要です。一者でもレースを続けるのなら、その一者が一時、独走し独占することになります。そして再び競争に掻き立てられて、成長に急き立てられます。この一者に対抗できるか、または一者が孤立し失速するのをじっと我慢して待っていられるかどうか、いずれにしろ協力が必要です。

 

 現行の資本主義は利潤を追求し、成長を強制しています。しかしだからといって、資本主義は、必然に無尽蔵な過剰や沸騰する競争、人の命を左右するほどの暴力性を本義とし、宿命としているわけではありません。資本主義を怪物に仕立てたのは人心です。不安や猜疑心から過剰に貯めこみ、簡便かつ堅実に利得を上げるために、複利や信用創造を案出しました。

 

 貨幣経済と結びついた資本主義であっても、暴力性のない資本主義はあります。資本主義や貨幣経済のそれぞれに強制力や凶暴性があるのではないのです。貨幣に担わせる役割によって性格がかわってしまうのです。

 

 人は暇と退屈を嫌います。そこには意味がないからです。習慣はそれ自体が意味へと転化することがあります。つまり手段から目的へ。意味はなければならないわけではありませんが、自己の生存を意味で埋めたがり、生に重しを求めます。暇と退屈は意味創出の強迫観念を誘引し、無意味からの回避行動をうながします。それは、余暇がもたらす無意味の香り、生存が無意味であることを悟ってしまう畏れからの防衛本能のように、根深く暗々裏にはたらきます。これまで労働は暇と退屈を打ち消し、生きる意味を覆い隠す役割も持っていました。仕事以外の暇と退屈への処方箋が必要とされるでしょう。

 

 あらゆる問題の根源には人の思考があり、欲が渦巻いています。現実の中で理想をつくることは想像力を要します。理想を実現させる方策を考えることは、さらに想像力を要します。

 

 現実的に現行の変革を企図するのなら、権力者に規制をかけるのではなく、権力者にさらなる利益をもたらす、今以上に安定的かつ安全確実な利益が見込める制度設計をしなければならないでしょう。民主主義の国民国家において、現実的な改革を設計するのなら、票を持つ現行の有力者や高齢者が、今より確実に得をするような制度でなければ、平和的な方法では実現しないでしょう。

 

 資本主義は差異が利潤を生むシステムです。競争を強制するのは人心によるもので、必ずしも資本主義が本義とするところのものではありません。禁じられた利子や信用創造を組み込まれた資本主義が猛威を揮い席巻しています。