こちらから入ってみてはいかがでしょうか?
おそらく人類史上もっとも人々を幻惑し、また熱狂させるほど大きな影響を及ぼした大著マルクス『資本論』。
しかしその難解さと長大さとにより多くの人に足を踏み入れることを躊躇させ拒絶してもきました。
興味はあってもなかなか踏み出せない。そんな方に提案です。
いきなり『資本論』に攻め入ると返り討ちにあうそうですので、まずはその前言・序論の『経済学批判』から、あるいは『資本論』の入門書とも称される小冊の『賃金・価格および利潤』や『賃労働と資本』からはいるといいとはよく言われますが、それよりも短く文字数の少ない、わたしが『資本論』のプロレゴメナと勝手に目しております浅見克彦さんの『所有と物象化:資本論における所有論の展開』はいかがでしょうか。
最初の4ページほどは2回読まなければ使われている単語に慣れていなかったので(普段聞くことありませんし発語することもないんですもの)よくわからなかったのですが、すぐに慣れて5ページ目以降はそんなことはありませんでした。ときどきわかりづらいところがあったとしても、気にせずもう少し読み進めててみてください。たいていは、「つまり」で、言い換えてもう一度言ってくれていますので。
マルクスさんの『経済学批判』『賃金・価格および利潤』『賃労働と資本』などと同じように、『資本論』の全領域をカヴァーしているわけではありませんが、錯誤をおこしやすいポイント、経済は宗教(的)であること、転倒・遡及・自家撞着(自己撞着)・トートロジーによるシステムであることなどが観じられます。
と、おもいます…おそらく…たぶん…もしかしたら…。
Preゴメナ
Preプロレゴメナ、序文の前ってなに?というかんじですが、『所有と物象化』の前に渋谷謙次郎さんの『パシュカーニス法理論の再検討 -『法の一般理論とマルクス主義』をめぐって-』から入るのもよいかもしれません。
論題の射程が完全に一致するわけではありませんが、こちらの方が読みやすく、特に「法」という語は普段使う語用とは異なりますので、あらかじめこちらで多少慣らしておくと見通しが明るくなるのではないかとおもいましたものですから。
プレPreゴメナというわけではありませんけれども、そんなこともなくなくない、マルクスさんやパシュカーニスさんではなくヘーゲルさんの(承認論まわりの)プロレゴメナとして竹島あゆみさんはいかがでしょうか?(『法哲学講義』の「法哲学要綱(主文)」をプロレゴメナとみればいいのでしょうけれども…)竹島さんの書かれるものはどれも読みやすいので、どこから入られてもいいとおもいますが、まず『承認なき和解と和解なき承認 -『自然法論文』と『人倫の体系』におけるヘーゲルの社会哲学-』はいかがでしょう。
どんどんマルクスさんから遠ざかっていきますが…、共和主義について概観されたいのであれば、中谷猛さんの『近代のフランス政治思想における共和主義 - モンテスキュー、ルソーとトクヴィル -』、権威と政治ののっぴきならない結びつきや神話の政治面なんかを要覧されたいのであれば、桾沢栄一さんの『H.J.ラスキの政治哲学の一考察 -政治的権威についてR.M.マッキーヴァーとの比較・検討 -』はいかがでしょう。政治や法の原資はなんともつかまえづらくもろくあやうい倫理や道徳であることを観じられるのではないかとおもいます。
小姑かっ?!
ひとのことをいえませんが…こまかいことではございますが、小言を一つ。
上にあげました5本、文字数が多い順に『パシュカーニス法理論の再検討』『所有と物象化』『H.J.ラスキの政治哲学の一考察』『近代のフランス政治思想における共和主義』『承認なき和解と和解なき承認』になるかとおもうのですが、この順はほぼ誤字脱字の少ない順ともなっています。(ほぼというのは『承認なき和解と和解なき承認』では誤字脱字が見あたりませんでしたので。)
『所有と物象化(1)』の後半、消耗したのか、とくに助詞の誤字脱字が目立ってきます。
『H.J.ラスキの政治哲学の一考察』は漢字変換ミスと脱字が散見されます。
『近代のフランス政治思想における共和主義』は全体的に誤字脱字が多めです。
10年ほど前でしょうか、DeAGOSTINIの『Inside Human Body』を読んでいましたが、まぁ~まぁ~…、まあ誤字脱字の多いこと。リズムが崩れるのでイライラしながら読んでいたことを思い出してしまいました。
未年の鳥!?
今年一年を振り返りますと、親近効果(終末効果)の影響を存分に浴びて、下半期に聞いた2つの言葉が印象に残っております。
1つはTEDでのリカルド・セムラーさんの「お返しは取りすぎ」。
もう1つは『教科書が変わる!?日本人のルーツをさぐる旅』での小林達夫さんの「餓死者が出るのは農耕が始まってからです。農耕はごく限られた栽培作物に全部依存してますから、その作物がこけるともう餓死せざるをえないんですね。縄文は多種多様なものを利用してる(食べていた)からまったくそういう心配ない。」です。
28年間グアム島のジャングルで生きてこられた横井庄一さんをおもうと、たしかにとおもう反面、常に飢餓状態で、とくにグアム島を台風が襲い1年のあいだ食べ物がなく、野草で食いつなぐような状態にあっていることから、縄文でも餓えはまったくなかったとは言えないのではないのかとおもう、さらに反面、縄文人はあれほど行動範囲を制限されるような状態ではなかったとおもいますので、飢えて亡くなるということはなかったのかぁ、とおもいぐるぐるめぐりました。
「お返しは取りすぎ」は分配機能不全、「農耕の前に飢えはなかった」は特定あるいは単一栽培への依存と、また農耕がもたらした大量安定供給により実現した人口増加とのトレードオフな感じ、発展と呼ばれるものが必ずしも幸福を意味しないような感じ。
なにかずっとひっかかるものがあるのです。
政治や法や経済はトートロジー。
その権原は神や宗教や信仰、倫理や道徳や承認、言葉はなんでもいいですが、そういったものなのかぁと確認するだけで一歩も前にすすまない年でした。
ただ、政経においての神の立ちあがりや信仰の勃興場面をこれまで以上に鮮明に見られた気がします。
見られたといってもそれは世界情勢からではなく、書籍などの文章からですけれども。
なんのひねりもないですが、蓮如さんやプロテスタント周辺とかね。
オセアナでもナルニアでもシルバニアでもなんでもいいですけれど、とにかく平和な世界がやってきてほしいものです。
一年の締めくくり(トリ)だというのに、今日もくだらない妄想が、燃え尽きる直前の炭色の脳細胞を駆け巡るぅ~。
ひとからはよく「あなた占い師か新興宗教の教祖様にでもなったら?いやなれるってぇ~。」とおだてられますが、言葉に説得力があるからではなく、妄想の暴走を好意的に受け取られて神秘的と取り違えられているからなのかしら?
と思い至った大晦日。
今年の締めがこんななんて…なんて年だっ!