あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

渾沌

 ある世界の原初の一様は変動であるので一様は崩れることが必然です。一様が崩れると、一様の内に疎密や濃淡、複雑さを生じます。この複雑さが如何に部分的なものであるようにみえても一なので、世界そのものの変化です。それでも依然として普遍に現在という一のままです。このような一の内に多を生じながら渾然一体の変化をする、一様ではない状態の現在を渾沌、あるいは複雑さと呼びます。渾沌は世界の始めに限ったものではなく、常に渾沌です。この渾沌には理由や意味はありません。ただあるものです。

 

 複雑さは、質量が複雑さの密度によるものであり、引力や斥力などの力は一の内に生じた複雑さ間の関係であることを示しています。複雑さ間の関係といっても世界は一の渾沌なので、その影響は複雑さ間にのみはたらくのではなく、その影響自体、その影響をも含めて一です。考えづらければ場やエーテルなどのようなものを思い浮かべて頂ければよいかと思います。

 

 一は多世界を否定するものではありません。一の内に相互に干渉しない世界があってもいいのです。また、同様に過去や未来もありえるのです。たとえば渾沌の内に世界Aと世界Bがあり、それぞれに現在Aと現在Bがあるとします。世界Aと世界Bは合同ではありますが、変化する速さ、つまり現在Aと現在Bが異なるため時間が異なります。すると相互の世界への移動が過去や未来への移動となります。さらにはコペンハーゲン解釈の極端な解釈によって考えられた、重ねあわせは分岐し相互に分立するという考えも、分岐に際して世界Cと世界Dが一の内につくられると考えてもよいのです。

 

 相対性理論では時間や空間が相対的に変化しますが、現在という同一事象面においては互いの変化速度が異なるだけです。

 

 このように一の変動、言い換えれば、あるということはすべてを肯定する考えです。しかし、すべてを肯定しうるという特性は、反面、なにも証明しはしないということでもあります。したがって、一という考えは、なにかを肯定し、なにかの根拠とし、なにかをつくるといった用向きには耐えるのですが、なにかを解明するといったようことには役立ちません。この点において、反証可能ではないので科学的ではなく、語の定義が錯綜しておりますので論理的でもありません。

 

 一の変動によるものなので事態と表現しますが、複雑さという事態の疎密化がすすむと、物質が形成されて反応が生まれます。この事態と反応も根は同じ一です。一の現在の側から見れば事態、一の現在の内側である複雑さ・疎密・物質の側から見れば反応ということです。

 

 反応から主体が生じるのは、複雑さが密となったところでは複雑さが増し、反応が生じる頻度が高くなるからです。つまり身体は反応が生じる頻度の高い場だということです。しかしそれでも、主体は観念でしかない事態のことです。

 

 このような反応の集積により生物が生まれ、その複雑化のすえに思考動物である人が生まれます。思考はあまりに曖昧で偶然的にみえますが、本質は反応の統合によるものなので必然です。そもそも思考形成の過程では観念化が必須であり、その観念は獲得されるものであり、もともと備わっているものではありません。観念の獲得にあたりそれを可能とする機能、つまり身体がなくてはなりませんが、それだけでは観念化は生じません。観念化は機能と刺激の相互関係によるものです。動植物だけでなく、物質も観念もすべて反応によってなりたっているため、あらゆるものは反応の産物にすぎません。この観念化により、一の内に生成された反応の産物を存在と呼びます。

 

 一の変動という渾沌は、これまで提出されてきた数多の世界観を否定するものでも、新たな世界観を建設するわけでもありません。なにもかえることはありませんが、すべての世界観の根拠の場とはなりえます。これまでも、これからも、すでにずっとそのようなものとなっています。それを観想するかしないかという差異にすぎません。

 

 過去や未来、精神や想像物などの存在は、そのような観念という複雑さがあるということにおいて存在するのであって、それそのものがあるということではありません。なぜなら、一においてあるのは一だけだからです。事実には真も偽もありません。

 

 渾沌は止むことのない変化であり、ある世界の原初より渾沌のままにあります。また、そのような渾沌は現在であり続けます。つまり、渾沌は始まりでも終わりでもなく常にそうある現在だということです。

 

 一の変動により現在は連続的に変化します。渾然一体の変動は、ただある理由のない渾沌です。一様も渾沌の一状態です。一様も一の変動の一状態であるので自発的に崩れ物質を生じます。つまり、一が一のままで一の内に部分をもつことで一の内に多を生じます。