不要なき一つの扶養世界
原点はx、y、z軸の交錯点。
0はすべての次元の接合点。
ない・0は時間や空間が何もない状態ですが、その隠された力ははかりしれず、実はとても大きなエネルギーを内蔵した状態。
生じたものをなくすることはできません。
そのものはなくなったとしてもその影響・痕跡はなくなりません。
消せない痕跡
紙に線を引くとします。でもその線が気に入らずその紙を放棄して新たな紙に新たな線を描き出して作品を完成させたとします。
秀作やプロットとしてさえ形が残されていなかったとしても、放棄された線や紙は経験として、過去にあった事実として痕跡を残します。
ダ・ヴィンチさん『モナ=リザ(ラ・ジョコンダ)』の眉毛やミレーさん『晩鐘』の夫婦の足元に描かれていた何かのように。
ホイッスラーさんがラスキンさんとの裁判において
わたしは二日間の代償ではなく、これまでの全人生を通して得た知識の代償として、その金額を要求したのです。
と言うように。
(美術評論家としてのラスキンさんはちょっと…経済学者としてのラスキンさんおもしろい。)
奇跡だけの一
無音はすべての音を含みます。
無音はどんな音にでもなれるという可能性を秘めているのですから。
奇跡は特別な出来事ではありません。
一において最大の奇跡は始まったこと。
また一は分割不可能なので、すべてが奇跡だったことになります。
つまり何かを奇跡だというのなら、すべてが奇跡となります。
奇跡でないものはありません。
個体は一から関係性を排したものだから個体の総合、個体すべての総体が一ではありません。
過程からは1+1=2が導かれないのは+という関係性が失われて1は1でしかないから。
永遠の一
生成はあるものの生滅ではなく、あるものの変化そのもの。
変動そのものだから静止できないのではなく、静止できないから変動そのもの。
存在論を書き換えるなら渾沌論?
観察は変動の一瞬、変動から一瞬を切り取って静止させるため、それそのものを観察することはできません。
動力が自身の存在によって贖われる、おそらくは唯一の永久機関=世界。
閉じた宇宙だろうと開いた宇宙だろうと永久に繰り返すでしょうから。
支え合い溶け合い一つの愛
世界は(自身が)あることの意味を欲しているのかもしれません。
私があるのは世界があるから。
そして世界があるのはあるから。
私が他のありようをしないのは、私がこれであるのは、世界が他のありようをせず、あるがままであるから。
私が世界であるのなら、私が善であれば世界も善となる…という利己的な道徳論。
身体と心が一体だとか別々だとかそういったことが問題なのではなくて、私と世界とがどのように一体なのかが問題。
個々の存在は必要ではなくて必然。
必然を逃げ口上に使う気はさらさらありませんが、必然なのだから仕方がない。
あなたは私のために必要。
私はあなたのために必要。
支え合いではなく、ただひとつであり、それがすべてだから。