あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

わたしのいちご。

今週のお題「一番古い記憶」

 

 生後1歳。

 お正月に祖父の家に帰省。

 ひいおばあさんは旅好きで、元気。

 宴もたけなわ。

 

 ひいおばあさんが隣の部屋でそろそろ寝ようかと床につくと、酔った男衆が「ばあさんにイチゴやりな」と、私にヘタを下にしてイチゴを持たせて囃し立てる。

 (ばあちゃんもう寝たいだろうからほっとけばいいのに)と心の中でつぶやきながら、体をゆっくりおこしたひいばあちゃんにイチゴをさしだす。

 (心の声は、きっと後からつくった記憶なんだろうなぁ。なにせ私が話し始めたのは、両親が心配するほど遅かったというのだから。)ひとしきり儀式がすむと、各自各部屋に散り散りに散開し、電球から垂れ下がるヒモが各地で「カチッカチッカチッ」と小気味良い音とともにひっぱられて、いつもの恐ろしく暗い田舎の夜になる。

 

 翌日、ドタッドタッドタッと、慌ただしい足音で起こされる。

 正月の朝だというのに。

 赤ん坊に休日は関係ないけれど、生まれて間もないのだから、できるだけ寝ていたいのに。赤ん坊を起こしたところでどうということはないだろうに大人ときたら起こしにかかる。

 

 じゃまだから寝かしておきたいのか、かまってほしいから起きてほしいのか、大人の気まぐれにつきあうのが赤ん坊の最初の義務らしい。

 まだ一年ほどだけど、それでもなんだかいつもと違う。なにがなんでも起こしたいらしい。

 

 「ばあさんが死んだ。」

 

 私はまだ1歳。

 死がなにものか、なぜ大人があわてふためいているのかわからないし、その記憶はない。

 

 次の記憶は、なんだか怖くて嫌がって、その手から逃れたいのに、力強い父の左腕に抱えられてお骨を近づけたり遠ざけたり、また近づけたりと遊ばれている記憶。

 

 私のイチゴは末期のいちご。

 

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