あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

 世界は一つの総体としてあります。量子の世界であっても、重ねあわせの世界であっても、多世界の世界であっても、それぞれを分立させて多を成り立たせる素地となる地平・背景・場と呼ばれるようななにかが必要です。量子も舞台や場がなければ踊れません。

 

 また、時間や空間が相対的であっても、同時性についてなにかが解明されたわけではありません。一に内も外もありませんが、便宜的に一の内と言ってしまいますが、一の内で時間や空間が相対的であっても、一においては一に対峙するものはないので、相対関係は成り立ちません。この意味において相対時間や相対空間を含んだ、絶対時間や絶対空間というようなものが想定できます。相対論の提出以前にニュートンが想定していた絶対時間や絶対空間というのはこのようなもので、アインシュタインが同時性について留保したのもこの点においてではないかと思うのです。このように考えると、アインシュタイン以前と以後で分けられる古典物理学と現代物理学の違いは、まだまだお釈迦さんの手の上のような気がしてきます。

 

 世界が一であるということは世界の変化が時間に従属するのではなく、世界の変化によって時間が生じるということです。なんの変化も起きない一の世界を考えてみると、現在・過去・未来の別はなくなります。また、一の世界が変化するということは、世界はなにかではなく、運動自体、変動そのものであるということです。なぜなら世界が静止した一というあり方をしているのであれば、世界の一を動かすなにものもないので、世界や時間は始まりも終わりもしないからです。

 

 加えて、世界がなにかであるとしたら、やはりそこにはその素地となる地平・背景・場と呼ばれるような、より根元的ななにかが必要となると考えられるのです。

 

 世界が一の変動そのものであるということは、未来は運命的・宿命的に定められた必然であるということです。ただし、一には未来や過去はありません。一の変動においてあるのは現在だけだからです。過去のあり方は一の変動そのものの現在というあり方ではなく、現在が辿り現在を形成した過程として保存されたエネルギーのようなもの、その痕跡として現在にあります。

 

 また、未来は現在が必ず辿る必然の可能性に開かれた偶然の可能体として保存された潜在としてあります。可能性として常に潜在的に変動の現在に含まれていると言ってもいいでしょう。情報分野におけるシャノンのエントロピーの考えでは、確率の一様分布は不確定さの最大を表しますが、一の現在は確定的ではあるけれど、次にどのような状態でもとりうるという可能性に開かれ続けている、ということに似ているように思います。

 

 ところで、世界のはじめである原初にはなにがあったのでしょう。原初になにかがあるというのは実に都合の悪いことです。というのも、原初になにかがあったのなら、それを原初と呼ぶことははばかられるからです。原初はなにもない無でありつつ、なにかがあって始まってほしいものです。現代物理学では虚時間やトンネル効果、真空においてゆらぎがあり対消滅の起きている場であるといったような考えを提示しています。思想的には、古くはインド哲学やヒンドゥー教、中でもヴェーダーンタ学派の書物ウパニシャッドなどにみられる梵我一如とも言い表されるブラフマン-アートマンの関係、宗教においても創造主・造物主など、哲学的にも古くはデモクリトス、あるいはその師であるといわれているレウキッポスや、さらにその師のパルメニデス、その同時代人のヘラクレイトスなどが「無いということも、あると同様に存在である」と言っているように、無をあるものとしています。また、そのあるものは一つのものであるともしています。

 

 ここから先が分岐点で、存在は変化するのかしないのかという問題です。しかしこれは存在の捉え方による差異であると思われます。存在は変化すると考えるのは、あるという一ことのあり方が変わることを表し、存在は変化しないと考えるのは、あるという一ことはあるままであり続けるという、在ることを表しているのではないかと思うのです。これはあるということに存在という語をあてると起きやすい差異であると思います。もう少し端的に言えば、この差異は存在をあるもの、あるものの存在の名称なのか、あること、あることの運動の名称なのかという差異だということです。この問題意識も洋の東西を問わず、言葉を変えて古くから言われていることです。火・水・一・多・神(々)・仏・ブラフマン・梵・生成・渾沌・物自体・存在・純粋経験・事象・純粋持続・絶対矛盾的自己同一・世界など。その人にとってあるという捉えがたいものについて考えやすい語が各自異なるということなのではないでしょうか。

 

 「無にはなにがあるのか」と問うたところで「なにもない」としか答えられずいっこうに話が進みませんので、「どのような状態であれば無であるといいうるか」と問いかえて考えてみます。

 

 話を進める前に前提を整理しておきます。第一に、あるということが前提となっています。ないということについては後ほど触れます。第二に、あるということは一というあり方をします。第三に、一は変動そのものです。これらの前提をもとに、ある世界の原初の無について考えてみます。

 

 無ではあるけれどなにかがあるというのは一様であると捉えます。これはガンツフェルトや静止網膜像について知ったときに思いついた発想です。ガンツフェルトとは全体野・一様視野を意味するドイツ語で、一様な光で満たされた状態のことです。また、静止網膜像とは網膜上の同じ位置に投影され続ける像のことです。ガンツフェルトや静止網膜像に対したとき、生物の視覚は機能しなくなるそうです。目が見えなくなるということではなく、見ているのに見えない、見えているのに見えない、あるのにないということです。このような状態を想像したときに感じたのが、デカルトの方法的懐疑でした。疑い得るものをすべて排していった極北を思考実験してみたあの日の感覚です。デカルトはこのまばゆい光に満たされた闇に神を据えたのかと思ったものでした。

 

 ガンツフェルトや静止網膜像を持ち出すと、空間的な意にとられてしまいますが、ここでいう一様は空間的な意味ではありません。ある世界の原初においては空間でさえまだ生じていませんから。重さも長さもなにもない、なにかが一様な状態です。ある世界の原初の無が一様であるとすると、世界は始まらないように思われますが、あるという一は変動ですので、自ずから始まります。先述してしまっているのですが、一様な無は状態です。実体とは言い難いのですが、実体は現在だけであるとすると、一様は現在の一状態を形容した言い方で、変動・運動の過程・途上であると捉えられます。ある世界の原初の一様になにか潜在力のようなものがあるとするのは、原初の要件を満たしていないように感じられますが、それはあるということの宿す膨大な潜在力だと誤魔化すことしかできません。

 

 原初ではありませんが、この潜在力の出自についてはこのような説明もできるのではないかと考えられます。一の変動は外力を一切受けない運動体が一つあるだけですから、回帰の可能性を示唆します。ある世界の原初以外に無、つまり、一様を要請するのが、世界の終わりである終極です。一において原初と終極とが同一であるということは、回帰するということです。一の変動が一様な状態に回帰するとしたら、一様な状態には終極よりくる潜在力が秘められます。これは、一様が停止なのではなく変動の一状態だということです。そしてまた、一が変動そのものであるということは、原初や終極はない、あるいは、すべてが原初であり終極であるということです。一という現在は始まりでもあり終わりでもあります。なぜなら、一においては先後関係も時間もない、始まりと終わりが一致する唯一の場が現在という一だからです。

 

 先に原初の一様の状態を除いたのは、原初の前にはなにもないので、潜在力のようなものを想定することができず、この説明は適用できないからです。

 

 世界が回帰するという考えは、シャンカラ、ゴータマ・シッダールタ、ヘラクレイトス、老子、ニーチェ、アインシュタイン、ペンローズらが、サイクリック宇宙論や永劫回帰などの命名をして、時代も場所も人種も学問も超えて、至る所でみられる考えで、別段目新しくも突拍子もないものでもありません。

 

 いずれにしろ、現に今ある世界、現に今あるからこそ始まることが必然であった世界における無は一様で、世界はこの一様の状態への回帰をくり返しているのではないかと考えられます。

 

 世界が回帰するのだとすると、一様であるかどうかに関わらず、始まりと終わりがつながった円環をなし、円環のどこもすべてが始めとも終わりともなり、始めとも終わりともなりません。

 

 ここで注意しなければならないことがあります。それは、回帰により原初のないを克服したことにはならないということです。ここで言いうることは、ある世界の始まりは無ではなくてもよいといった程度のものです。

 

 ここまであるということが前提の世界についてみてきましたが、ないということが前提となるとどうなるでしょうか。ないがあると言うことはできますが、それでないがあることにはなりません。ただし、仮にないがあるのだとしたら、それはやはり一というあり方をするでしょう。一のある世界においては、無は一様の一状態と言いうるのかもしれませんが、一のない世界のあり方は一状態であるとは言えません。表現しうるとしたら、一のない世界は不動の一というあり方をするというようなものでしょう。不動の一に状態はありません。不動しかなく、不動ですから。ここで不動を持ち出したのは、不動が単に変動の対義語だからではありません。不動でなければ潜在力のようなものを想定し、ない世界ではなく、ある世界の原初について考えていることになるからです。

 

 不動であっても時間があればいいではないかと思われるかもしれませんが、ここに時間をもってきてもいけません。時間は変動の別名でしかないからです。また、現に今あるのだからなければならなかったのだということもできません。なぜなら原初はないでもよかったのですから。

 

 ないということは自ずから隠れ、現に今あり、あるということ、始まることが必然であった世界においては、ないというのはあるということによって秘匿され続けます。あるにおいてはないはありえず、ないにおいてはあるはありえないのです。ないということは姿を現してはくれないのです。そしてまた、世界があるというのは謎のままです。ない世界というのはただの思考の産物に過ぎないのだとしても、原初が不動の一で、始まらない世界、世界と言うこともできない世界であったこともありえたからです。それでも、一の不動がありえないとしたら、一様が原初と終極の候補としてはもっともふさわしいと思います。

 

 ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』で「世界がどのようになっているか、でなく、世界があるということ、これが謎である。」と言っています。ウィトゲンシュタインに限らず、古来より多くの哲学者、思想家が同じような言葉を残しています。それもこれも、ないとあるとは量子の持つ特徴のように、地続きであるようには見えないけれど、それでも一つの関係を持つなにかであってほしい、でなければ謎は謎のままであるから、という一縷の願いも込められているように感じます。

 

 確かなことは一です。一はあり方です。あるというあり方は変動です。つまり一の変動は現在です。また、現在は必然です。唯一あるのは必然の現在です。

 ないも一というあり方をします。ないというあり方は一の不動です。一の不動はもうありえません。原初の謎を解くことはできません。