お題「ブログをはじめたきっかけ」
今週のお題「マイベストエントリー」
ブログ契機
「自分の考えをまとめるためならいいけれど、ひとに伝えるなら、わかってもらおうとおもうのなら考えなければなりませんよ。お釈迦さんも教えを説くのにたとえ話を用いて話されたのですから。」と、幼き日、なにかのおりに読経の美しかった近所のぼんさんに諭されましたが省みず、今日も「自分のための、自分のためだけのメモ書き・端書きだ」と居直る始末。まいど読みづらい駄文の放縦に耐えて頂きまして、はや年の瀬、年のあらたまり。
今年限りと思いきや、残念ながら余命の自動更新を迎えてしまうようです。
言いたいことも書きたいこともなく、個人の日記のようなものを晒すなぞ狂気の沙汰、わたしには縁のないものと倦厭してきましたブログをまさかはじめようとは…。
お迎えの予感になにか残そうと囃し立てられてしまいました。
ながらく明日はいらないと願いつつもなんとか明日を許容してこられたのは、もうすこし考えたいという感情が残っていたからだとおもいます。
それは「~したい」といった願望というほど強い意思ではなく、もっと漫然とした怠惰のようなものですが、どちらでもいい、どちらに転んでも構わないという境界線上で今日を許すとてもちいさな決定打の役割を果たしていたのだとおもいます。
心境に変化はなく、いまこのとき消えたとしても歓喜することも口惜しくおもうこともなく、なんともおもわないのでしょうが、思考がわたしを歩かせている杖(車イス?)になっていることは、どうやら疑いないようです。
職人さんの道具にはその職人さんがあらわれます。
ひとが道具を使うのではなく、道具がひとを使っているような、ひとと道具とが融和して境界が曖昧になっているような。わたしは思考の機関にすぎないようです。
ブログ発願
わたしが残したいとおもったものははじめのころの記事の最後にほんの数行書かれたことだけです。
もっと言えば、このブログのアルファである『一』のオメガに太字で書かれたことだけ。なので『一』はこのブログの阿吽。はじめからおわっており、おわりからはじまっておりました。
あとは長々とした蛇足か注釈…のつもりが習慣化して日課のようになってしまいました。
確かなことは一です。一はあり方です。あるというあり方は変動です。つまり一の変動は現在です。また、現在は必然です。唯一あるのは必然の現在です。
ないも一というあり方をします。ないというあり方は一の不動です。一の不動はもうありえません。原初の謎を解くことはできません。
この言葉だけを残したいとおもいはじめたブログでしたが、読み返せば、考えはかわっていませんし、いまも常にわたしの通奏低音ではありますが、それでもなんともまあお粗末極まりないものかと呆れてしまいます。
いまはもう残したいとおもうものはありません。むしろ残ってしまったらどうしようというおそれから、写真や手紙やメモ書きなどを整理して、なにかあったときにはなにも残さないようにと遺言し、そこにはこの遺言も残さないようにと遺言?もはや消言?を書き置き何十回目かの新年を迎えます。
空海さんは「生まれ生まれ生まれ生まれて生のはじめに暗く 死に死に死に死んで死の終わりに冥し」とおっしゃっています(前回記事には、この文句の前にある「三界の狂人は狂せることを知らず 四生の盲者は盲なることを識らず」を送りたいとおもいます)。
意味合いは異なりますが、わたしの生涯はくらく、とくに今年はひどかったぁ…。
暦が変わったとてくらさが晴れるわけではないでしょうが、来年はすこしはまともになってくれないかなぁと、これまた願望ではなく漠然とおもうところです。
みなさまには来年はもっともっとよい年であるように、こちらは漠然とではなく願望から祈念致しております。