「人間の限界」ではなく「人間の徳性の限界」の現れ
資本主義であっても社会主義であってもその正否を分かつのは高い徳性です。
社会の行き詰まりは人間の限界ではなく、その社会の突端で帰結として顕現する人間の徳性の反映、その社会が要請する人間の徳性の限界
…なのではないかなぁ~とおもいます。
利益確保の後の安全第一
なにか事故が起きたときの報道ではきまって「安全を第一に」と提言されて、そのニュースが締められます。
それはまったく間違っていませんが「安全を第一に」できないシステムの見直しを迫らなければくり返したくなくてもくり返されてしまうでしょう。
安全第一が二番手以降にまわされる土壌
競争社会の中でいいものをつくってもコスト争いに巻き込まれて悪物に駆逐されてしまいます。
毎年毎年新作が発表されてラインで大量生産されますが昨年のものとたいしてかわりはしない。
それなのに毎年毎年暖房器具などのリコール。
(暖房器具などはテレビCMなどを流していますが、こちらはまぁお目にかからない)しれっとこっそり自動車のリコールもされています。
真に「安全を第一に」考えるのなら開発したものをすぐにはラインにのせず、市場には出さずに数年かけて耐久試験を経た後にリリースすればいいのですがそれができない。
「安全を第一に」考えていないからではなく、そんなことをしていたらいくらよいものをつくっていたとしても他社の安価なそこそこ品が市場を席巻し閉め出されてしまいますから。
全文トロ吐露
「安全を第一に」と言われるのはけっして方便ではありません。
しかし現代社会における「安全を第一に」には省略された言葉があります。その言葉がひそんでいるがために「安全を第一に」がきれいごとに堕してしまっています。
では省略された言葉とはなにか、それを補って言ってみますと…「コスト計算した上で最大限憂慮した安全を第一に考えています」(実施するかどうかはコストと相談してみます)。
この現実を否定できますか?
この暗黙の了解でひそませていた言葉なしに「安全を第一に」が現実味のある言葉として響いていますか?
コスト計算
コストが行動規範として採用されています。
それがいけないということではありませんが問題はそのコストがどこに向かっているのか、なにを対象としているのかということです。
一般にはコストが向かう先はお金であり数字です。
お金に向かうコスト計算の結果、戦争コストが下がれば戦争しやすくなります。
開戦コストもリスクヘッジの対象となって測られるでしょう。
このコストが世界平和や人類幸福に向かっているのならお金に向かうコストとは正反対の選択を下す項目が多いこととおもいます。
言葉の機微
日本語はとかく主語が省略されやすい曖昧な言語です。
そこが心情の機微を表す繊細な物語を紡ぐこともありますが、そこを巧みに利用して心理を操作する狡猾の温床となることもあります。
為政者はもみ消し隠蔽「記憶に御座いません」のにぎにぎをよーく覚えていらっしゃるようですので誤解の少ない答弁を心がけて頂きたいと願っております。
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はいっ!プレッシャー
一般には定年を過ぎて隠居の身でもおかしくない70代ドライバー。
80代でパートナーの介護をされている方。
60・70代が現役でがんばっているので手を抜けない40・50代。
40・50代が必死で余裕がないから20・30代が苛烈になる。
若者には負担もプレッシャーも大きくのしかかり圧迫しています。
こんな誰も休めない社会が幸福なわけはない。
流されるプール
「改革に待ったなし」に代表されるように、「~に待ったなし」という言葉もよく耳にしますが、はたしてこれまで立ち止まって振り返ったことがあるでしょうか。
常に待てない「待ったなし」の状態に追いつめられ続けてきませんでしたか?
人間の条件も法も押しのけてコストが優先されていては人権そっちのけで(お金で測られる)社会貢献や役に立つか立たないかということが基準となり、働けないひとや働くことが困難で稼ぎをだせない老人や障害者を卑下するような視線を育ててしまいます。
また働かなくとも稼いでいるひとや、不正であっても露見しない稼ぎをだしているひとの「信用」の方が高い錯視社会を存続させたままにしてしまいます。
教育の対象年齢
社会保障や公共サービス、薬や保険、こういったものは困難ななかにあり、助けを必要とするひとたちに施されることなのですが、これまた費用がかかる。何割か負担してくださいと。
そうでなければ制度の維持も設計もできないということは理解できますが、お金がなければなにもかもが止まってしまうお金の仕組みをとっていることは理解できません。
Yokohama National University Repository: 「国家の通貨発行権」の批判的検討
老人医療費を無料にしたら「タダなんだからいいでしょ」と、医療具を勝手に持っていってしまう高齢者やほんの些細なことでも「とりあえず病院」で、病院に入り浸り医師や看護師に大きな負担をかけるようになってしまいました。
「教育」が叫ばれるとき、それは未来世代の子どもたちに向けられますが、ほんとうに教育が必要なのは、まずは高齢者からなのかもしれません。
年長であることをいいことに若者の言うことを聞きやしない。
昔を懐かしんで「いい時代だったなぁ」と言われる方がおられますが、それは負の面が見えていないだけ。今も変わらず盲目なところ。
あぁ~だれかわたしに高度医療ではなく高度教育を施して後期高齢者から高貴高齢者へと育ててください。おねがいします。
カネ縛り
障害者や高齢者の社会保障政策を組み上げていくとき、このときお金によらない仕組み、意識改革について考えなければならなかったのです。
これを放置して予算問題だけできてしまったから、このいくつものプレートが交錯する上に築かれた地球・日本の地表で、今、その歪みに耐えられなくなり震撼しているので安心して暮らせないのではないでしょうか。
阪神・淡路大震災では電気の復旧によりおきてしまった通電火災による被害がおき(←これは電力会社の失火なのでは?東日本大震災のときもそうですが、電力会社の失態おおくないですか?補償しましたか?電気料金値上げしましたけれども)、その教訓として感震ブレーカーの取り付けを推奨してきましたが無料ではありません。
火災報知器の取り付け義務にしても個人の出費をともないます。
お金がないと動けないってなんか変。
善意、ボランティア、援助だより?
資源の利用は価値と破壊の対生成
企業においてはそれで手段を選んでいられないとなることもあるでしょう。
廃棄物の横流しで事業が成り立つほどの廃棄量を生産している産業っていったいなんなんでしょう。
みのりフーズ、ニチレイ商品も転売 ダイコーから入手 − 岐阜新聞 Web
資源を利用することで価値を生む。
たしかにその通りでしょう。
でもそのとき同時に破壊も生んでいるのですが、そのことへの思考は棄却してきました。
資源を利用することは価値と破壊の対生成をおこすこと。
対生成はおきても対消滅はおきないんですよね。
コストを抑えなければ事業が成り立たなくなり生き残れず、個人が生活できなくなってしまうから見て見ぬふり。
生産物などで価値は見えても破壊は見えない。
見えないものは無いものとして処理する。
語りえぬものは無いのではなく語れないだけなのにね。
それでもそれが累積して、いよいよ見えないままではいられなくなり、語られだす。機を失した頃に。
勤労導引
「大手企業が新規事業を始めます」というときは、たいがい他業種への参入であって新規性がない。
新規参入であって新規事業ではないことが多くないですか?
既存市場の横奪なのではないかと…開発費を抑えられるジェネリック事業?なんてね。
横綱が横綱相撲を取れないような横綱空位の角界を見せられているような…。
企業が吸収・集約されていき極端に数を減らしていくと多様性がなくなり競争も鈍化していきます。
すると経済システムや社会保障が現状のままであったとして、その企業へ就職できるかどうか、給与が得られるかどうかということが死活問題となり、労働が、それがいかに過酷な奴隷労働だったとしても(奴隷)労働を権利であると主張し、それに従事することが喜びであると錯誤を通り越して半回転、倒錯した社会・意識に導かれてしまうのではないかということです。
奴隷労働の秘匿
(奴隷)労働からの解放、習慣によって形成された盲目の隷従状態から脱するには、みずから引き受けること、そして労働意欲ではなく仕事意識をもつことなのではないかとおもいます。
どんな困難も、どんなに過酷なことであっても、それをみずから引き受けるのであれば主体的・自主的な行動となり奴隷とはなりません。
現代社会はここを利用されて、ほんとうは生活のためやむなくしているというだけのことであっても、主体的・自主的に仕事にたずさわっているのだと言わされ(「やるきあるのかぁ!」と怒鳴るひとが相手が「やるきありません!」と言わない、言えないことをわかっていて問いただすようなことにも似て)、非奴隷宣言をさせられているひとが少なくないとおもいます。
非奴隷宣言をしなければ「それなら辞めれば」と迫られておしまいですから。
選択肢がないのです。
やめれば隷従からは脱却できますが生活できなくなり、したがっていればなんとか生活はできても主体的な意志は奪われます。
社会の産業化の進展に比べるとおそろしく縮まないお金との距離感。顔なしの彷徨ところ。
労働意欲から人を解き放ち、仕事意識で奴隷状態から外脱して、政治参加による人間の条件を回復しましょう。
労働に対する認識差
一般に、日本人労働者は接客が丁寧であるのに対し、諸外国の接客は横柄であると言われます。また時間にルーズですきあらば休むとも。
これは勤勉さも関わっているのでしょうが、労働に対する認識の違いということの方が大きいとおもいます。
日本では労働は善とまでは言わないまでもよいものと考えられがちである一方、外国では労働は悪とまでは言わないまでも(思想・教理においてはありますけれども)避けるべきものと考えられがちでしょう。
自国人同士ではほぼ共通認識であるために「あの人はやりたくないことをしているのだから、あのような態度でも仕方がないよね。わたしもそうだもの」と思って許容できているのではないかとおもいます。
そんなところへ「お金をもらってやっている仕事なのだからきっちりこなすのが当然でしょ」と思っているひとが行けば「なんて不遜な」と思うことが当然でしょう。
店と客の関係に限定すると、許容できていない日本人は外国の方よりも狭量なのかもしれませんね。
- ボブ・ブラック『労働廃絶論』
- 勤勉革命 - Wikipedia
- 反社会学講座 第6回 日本人は勤勉ではない 本当に新しい歴史教科書
- 反社会学講座 第7回 続・日本人は勤勉ではない 本当に新しい歴史教科書
- 江戸時代までの日本人は勤勉ではなかった‼︎ - NAVER まとめ
- 「日本人が勤勉で責任感がある」というのは大嘘 : まだ東京で消耗してるの?
- 勤勉さだけでは改善できない日本の低い労働生産性 | ロッシェル・カップ
労働引き受け役者
しかし、日本においても諸外国においても丁寧な接客をする職業があります。
それはバトラーやメイドといった使用人。
相手が相手なだけに、また時代というものもあり、そうせざるを得ないというところもありますが、(行ったことがないので想像ですが)ホストやホステス、メイド喫茶では丁寧な接客を受けられます。
お金を頂いていて、またそういうお仕事だからと言えばそれまでですが、ここに労働からの解放のひとつの道が示されているのではないかとおもうのです。
つまり役を演じるということ。
コスプレや俳優というお仕事は役を演じて楽しみます。
主体的に丁寧な接客をする役を演じ、もっとうまく役になりきれるようにと自主的に自分に厳しく、また厳しく言われることも人格の否定ではなく演技指導の一環なのだと解釈できたりして、みずから引き受けることができるのではないかとおもいます。
でも…みずから役を引き受けることで労働からは解放されるかもしれませんが、パーソナリティ障害やゲシュタルト崩壊やらなにやらおこしやすそうですし、仮面社会化を推し進めるでしょうし、新たな支配システムを構築するといったより甚大な問題を発生させるでしょうからやめておきましょう。
競争社会から協奏社会へ
仕事は世のため人のための前に自分のためでもいいとおもいます。
ただし節度あるもので、なおかつコストが基準となっていなければ。
コストが基準だと、どうしても望ましくない競争が沸騰しがち。灰汁ばかり出てきちゃう。
これを漉しても悪性のろ過にしかならないでしょ。
目の細かいものにかえていくほどに純度を増す劇薬。
1つのみかん
個人の力はあなどれない。
個人の悪性が組織に及び、組織の腐敗がお国の文化にまで発展してしまうことがあります。
これを是正しようとするのもまた個人だったりするのですけれどもね。
お金が平穏になると怨恨による犯罪は減るでしょうが愉快犯は依然残るでしょうから、割合でいくと理由のない情動による犯罪の純度があがるでしょうね。
徳奏曲
社会主義の失敗は為政者の徳性の欠如。
資本主義の閉塞も徳性の欠損。
いずれにしても徳性なくしては失敗は不可避であるようです。
徳性を自発的に高めるために、競争社会から協奏社会へとシフトしてみるというのはどうでしょうか?