あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

経済

現代の資本主義と資本の可能性

資本主義の定義

 資本主義はレヴィアタン(リヴァイアサン:海)でもベヒモス(ビヒモス:陸)でもない、神によりヒトに供されたのか、そもそも認知されていたのかも疑わしい、神話以上に抽象度の高い空想のような、なぜ創造されたのかわからない謎多きジズ(*バハムート:空)のようです。

 

 資本主義には、「前期資本主義」や「近代資本主義」など、資本主義の冠に時節を戴くことで、資本主義がその時々で変容してきたことを示していたり、「産業資本主義」「金融資本主義」「市場原理型資本主義」「修正資本主義」「福祉国家型資本主義」「社会主義的資本主義」など、資本主義とは異なるシステムを表す語を冠していたり、わざわざ資本主義の亜流、あるいは資本主義が徹底されていないことを示す語を戴いていて多種多様です。一律に資本主義の名を安売りしてよいものか訝しいものもあります。時代が下るにつれて諱(真名)を忌む意識(実名敬避俗)が薄れてきましたが、これもその延長にあるのかもしれません。

 

 資本主義は一つの体に八つの頭尾をもつヤマタノオロチのごとき異形を成しています。資本主義の出自はバビロニアの貨幣、部分準備(信用創造)、利息などのシステムがみられるバビロンシステムとも呼ばれる経済、同様の仕組みが見られるシュメールやアッシリアの経済、タレスのデリバティブの一種のオプション取引、シノペのディオゲネスの懸念した貨幣(ポリティコン・ノミスマ)経済、アリストテレスの名付けた取財術(クレマテスティケー)のひとつの商人術、十二世紀の利子率革命、十五世紀大航海時代の資本主義的世界経済、十六世紀の商業革命や重商主義あるいは価格革命、イマニュエル・ウォーラステインの近代世界システム、十七世紀イングランド銀行から始まった信用創造により民間が通貨発行権を手にした経済、十八世紀の産業革命からなど、人によって異なり錯綜しています。

 

 近代資本主義は産業革命以降のシステムであるといわれます。エリック・ユースタス・ウィリアムズは『資本主義と奴隷制』で、イギリス産業革命は「(英領西インド諸島の)奴隷貿易」によるとするテーゼをあげ、産業革命がなぜおき、またなぜイギリスでおきたのかを説明しています。しかしウィリアムズ・テーゼには、奴隷貿易がイギリス産業革命の原因となったとみる強いテーゼと、奴隷貿易がイギリス産業革命に寄与したとみる弱いテーゼとがみいだされており、賛否あり、グレゴリー・クラークの『10万年の世界経済史』にもあるように、結局のところ産業革命の出自は明らかではありません。

 

 このような多岐にわたる尾頭に共通する体、つまり資本主義の一般的な定義は、「資本主義は利潤を目的とした経済システムである」というものですが、「目的」という語が恣意的であまりに人間的ですし、利潤を目的としないこともありますし、利潤を「目的」としているとはいいづらい「福祉国家」や「社会主義」という語とは相性が悪く、また反対に、利潤を目的としたバーター(物々交換)社会はたいてい資本主義と名指されないので、やはり漫然としていてなにか釈然としません。この定義は資本主義の一側面に光を当てたもので、資本主義一般の定義ではないと思うのです。たとえば、十六世紀以降の資本主義は、技術革新と利子や信用創造が差異創出を活性化するシステムであるところに注目した定義なのではないかと思います。

 

 資本主義の出自が判然としないのは、資本の歴史が人類の歴史とともにあり、資本と資本主義とが混交しているからだといわれます。資本は古くから見出されており、人類と共に歩んできました。資本の歴史は人類史とおなじくらいのながさをもち、人類史に遜色なく比肩します。したがって、資本と資本主義の起源とをわけて資本主義を定義することは難かしいと思います。

 

 資本と資本主義の起源をわけることなく、多種多様で出生点が人により異なる資本主義の定義として、従来のものより包括的で、より一般理論だと思われるものが、岩井克人の「資本主義とは差異が利潤を生み出すシステムである」です。この定義では目的を利潤に限定することなく、システマチックで広範に適合し、鵺であろうとオロチであろうと、キーワードを差異と言い換えても妥当し、ねじ伏せられるように思います。たとえば、ヨーゼフ・アーロイス・シュンペーターは、資本主義の本質は革新(イノベーション)であるといいますが、この革新を差異と置換し、差異のシステムであるという定義に則ってシュンペーターの資本主義をなぞってみますと、差異・革新の創出が新たな利潤を生み出し、やがてその利潤は模倣により逓減するので、さらなる差異・革新、絶え間ない創造的破壊が求められ続けるシステムであると言い換えられるのではないかと思います。もちろん、言い換える必要性はまったくもってありません。

 

 差異の概念は資本の概念よりも古くからあると思いますが、近代に明文化された差異概念は、フェルディナン・ド・ソシュールに萌芽をもちジル・ドゥルーズで開花したとみられています。近代の差異概念で近代の資本主義をみるのは相性のよい組み合わせなのではないかと思います。

 

現代資本主義の現状

 商品ばかりか手段をも創造し、仕事や労働が過剰に至っても、「仕事をつくる」という言葉に象徴されるように、過剰生産を剰余価値の名の下に隠して、差異の創造は止むことなく続けられてきました。

 

 昔日より「近頃の若者は」と苦言されますが、これは情報を独占し、情報の非対称を固持した大人が、老婆心と称して吐露する欺瞞ではないでしょうか。タバコのポイ捨てやゴミの不法投棄、虐待や戦争、これらのほとんどが若者ではない大人によってなされることです。経験は重要な要因ではありますが、年齢は関係ないと思われます。競争や進歩、利益や富を肯定するのは、競争や進歩がなにを意味しているかを考えず棚上げした状態です。年長者は若年者の競争に対する後ろ向きな態度を、ときに「大人になれ」と諭すふりをして問いから遠ざけ、問いから遠ざかる詭弁を弄しているようにみえます。現代の大人は過去の遺産を掘削し、未来の遺産を先物取引して個人の現在の豊かさだけを追い求めています。以前より情報が取りやすくなった昨今、ここに至り史上はじめて「近頃の大人は」と揶揄される時代となってしまったのではないかと思います。

 

 社会全体でみたとき、組織や指針の透明化によってメッセージが明確かつ素直に伝わるため、衝突リスクが低減され無駄の少ない社会となるのですが、利益をあげなければ生き残れない社会では、利己心の衝突により、情報の秘匿や隠蔽が常態化して、類似品や便乗商品など、過剰がやみません。

 

 近現代で市場もモノも欲も飽和状態に至り、カネの行き着く場所がなくなると、カネがカネを生むゲームの世界・仮想世界・金融世界へと移行し、カネがその世界を逍遥するようになりました。そしてまた金融世界の市場もモノも欲も飽和し、再びカネが漂流しています。

 機械化やスリム化を高度に発達させてきた現代日本の資本主義は、国民の時間あたり生産量が低いという、効率化や合理化とは対極にある現象を引き起こしています。これには市場を抑圧するさまざまな規制があるためで、資本主義の本来の体をなしていないからだという意見もあるでしょう。たとえば、最低賃金が定められていることで給与算定のもととなる評価基準が、仕事の成果より時間拘束への対価という側面が優位となり、特に外回りの営業でみられる働いても働かなくても規定時間を労働力という名目で提供すればよいといった、極端にいえば社会主義的な特質が労働意欲を削ぎ、正社員も時給制労働のパートやアルバイトとの境界線が曖昧で、その主たる違いが仕事ではなく社会保障、企業ではなく国によるものとなっており、仕事の質を低下させているからだともいえるでしょう。しかしだからといって最低賃金を撤廃すべきだとは思えません。また八時間労働制も長時間労働を規制するために定められたものでしたが、制度疲労をおこして久しく、すでに制度腐朽しているのではないかと思われほどで、当初の狙いは転倒し、労賃を決める基準となる拘束時間の目安になってしまっているようです。経済学の両巨人、マルクスとケインズは、ともに労働時間の短縮、労働からの解放を唱えています。

 ケインズは『孫たちの経済的可能性』において、100年後には人の需要を満たし、経済問題が解消し、貨幣愛が悪徳であるという倫理観に変わって、労働から解放された人の新たな課題として、暇と退屈の問題が表出し、価値の再考に迫られるだろうと予測しています。そして、さしあたっての処方箋として、日に2・3時間の労働を課すことを提案しています。労働から解放されることを目指した先に労働の開放を求める社会があるというのは滑稽ですが、予言の年はもうすぐです。

 

 アダム・スミスの説く見えざる手を万能視する方がいらっしゃいますが、アダムの見えざる手が手を差し伸べるのを待っていたら、いまだに男女平等や貧困、公害や社会保障制度は是正されていなかったでしょう。これらの問題は、まだ未消化ですが、それでも以前よりはまともなものになりました。

 女性は30歳までには結婚して退職するのが当たり前であるから、30歳になったら依願退職することを記した念書を書かされたり、煙が立ち込め光化学スモッグ注意報が日常茶飯時に発令されたり、工業用水が川に垂れ流されて魚が腹を背にして浮かび上がり、過労死や自殺率が高まっても、時代背景に関係なく問題の根源が女性差別、公害、ブラック企業、いじめなど、誰の目にも、当事者でさえその地域でとれた魚を食べることはなかったというほど明らかであっても、経済成長を優先し、言い訳にもなっていない言い訳を弄して、問題を先送りしてきました。

 

 電子・金融空間への設備投資も縮小するなか、女性のさらなる社会進出と地位向上は目前だと思います。これは機械化や労働市場の縮小により労働力が不足している現状打破のための方策にすぎず、現状の資本主義体制を維持しようとする意思の現れの延長上にあるものです。男社会という温床のなかで男の乳離れが進むからではなく、むしろ今より甘えが強まるからです。ルイ・ボルクは人間の顔がチンパンジーの成体より幼児に似ていることから、人間はサルのネオテニー(neoteny:幼形成熟、幼態成熟)であると、人類ネオテニー説を説きます。人類がペドモルフォシス(paedomorphosis:幼形進化)したものであるとすると、いくつになっても幼いと言われる人類の男性はどれほど幼いのか。戦国期から平成にかけて強権を奮ってきた男社会の終焉は近いでしょう。

 

 これまでの「男性稼ぎ主義」は転覆しつつありますが、その主たる要因は男性が弱体化したからでも、女性理解が進んだからでもありません。労働の多様化に対応するために規制緩和が行われたのではありません。貧困を撲滅するために最低賃金制度が定められたのではありません。これは活動面の話ではなく、施行面での話です。問題を是正するために活動した人々は、その理念のために立ち上がりましたが、それは施行する権力者や有力者の意向にはほとんどといっていいほど関係ないということです。

 

 これらの問題の経過を観察すると、いくつかの共通点がみえます。それは、経世済民の名に反し、いずれも経済界が問題解消を阻んできたということです。そしてまた問題が解決の方向に動き出すのは、道徳心や倫理観からではなく、経済界の利潤に関わるときだということです。問題が解決に向かうのは、反対の声が広がって世論が高まり、反対の声に対抗することが損益分岐点において損失に傾いたときです。あるいは労働市場の縮小などにより、労働力を確保できなくなったなど、企業本位の状況変化への対応を迫られたときです。フォードを例に出すまでもなく、リコールのタイミングを利潤ではかっているようなものです。つまりは成長、つまるところは利潤です。

 

 マキャヴェリは『君主論』で、国の土台は徳ではなく、法律と武力だといいます。運命と力量によって導かれ、君主の如く振る舞う有力者の意向によって社会が動かされています。しかし実情は、利子や信用創造とむすびつき、企業者利潤が発展に従属し、発展が企業者利潤を強制する近代資本主義の中では、被支配者はいうまでもなく、支配者であっても資本に隷従し、富の奴隷となっています。

 

 economyの語源のオイコノミアは家政術のことで、漢字文化圏においては理財や食貨を意味するものです。対して経済は世あるいは国を治めて人を救済する「経世済民」「経国済民」からきています。この意味からすれば、経済大国とは、すぐれた統治により、より多くの民を救う国であるはずです。シュタイナーはフランス革命のスローガン「自由・平等・友愛」にも適う、「精神(自由)・法(平等)・経済(助け合いの力)」を柱とする社会三層論を説き、経済は助け合いであり、友愛は経済生活だといいます。パン屋がパンを、鍛冶屋が農具をつくることで、社会全体の効率化が図れて費用が抑えられますので経済的です。ここでいう経済的というのは多分に友愛的ということなのですが、いまや費用の圧縮という意味でしか経済的という言葉は使われていません。分業という経済生活が共生をより円滑にするはずでしたが、産業社会の発達により分業が利己心を促進してしまい、「時は金なり」「信用は金だ」と、働かなければ得られないばかりか潜在的対価を失っているということも含め、カネを中心に据えた勤勉の勧めやカネを基準とするベンジャミン・フランクリンの説くような道徳観が敷衍してしまいました。フォードもフランクリンも、カネや銀行家の醜怪さを語った言葉を残していますが、その軛から逃れることができませんでした。そしていまや経済は、いかに人を救済するかではなく、いかに成長するかと思案し数字を追いかけ、借金漬けで将来世代の富をも先食いし、国内に飢えた人が現れるような、呼称とかけ離れた姿をしています。現在使われている経済大国という語の意味は、成長率によって豊かさを測る、人ではなくシステムを守るための機械です。

 

過剰な現代資本主義

 経済成長を主眼に置く現代の資本主義は、利潤を追求し効率化や合理化、一般に経済発展といわれるものを飛躍的に高めることにかけては群を抜いています。なぜならこのシステムは、持続的な経済発展のための生産・利潤・差異・革新・競争を暴力的に強制するものだからです。強制するので畢竟、必然、過剰に至ります。

 

 現代の資本主義は、不必要なものも、役に立たないものも、利潤のためであれば生産します。下らないものであっても、広告など、ありとあらゆる手段を駆使して消費を煽ります。革新されるのは供給されるモノばかりではありません。ガルブレイスの説く依存効果もはたらきます。需要を求める「不足」の意識を創造し移植することで、欲望をも革新してきました。そしてまた過剰が生産されます。現代の資本主義は労働と革新を強いる船頭となり、過剰競争・過剰生産を先導して、大量生産・大量消費社会を招来しました。

 

 競争には革新・発展・成長を促す機能があります。この機能の効用は、劣悪品を市場から排除し、優良品を洗練させ、低価格・高品質をもたらします。反面、競争には、権謀術数を煽る機能もあります。この機能の効用は、一度だけでも購入してもらえれば利益がでるような、短期的な経営を設計するため、リピーターや評価、長期的展望を無視した投機を蔓延らせ、低価格・低品質を跋扈させます。このように競争には二面あり、競争のすべてが害悪なのではなく、過当競争が投資を投機にかえ、持続可能な社会の到来を牽制します。

 

 豊かさは過剰の一種です。足るを知る人は少ないので、擦り切り一杯では豊かさを感じられないでしょう。過剰によって不安を解消し、余裕を得てきました。こうして生存を前提にした豊かさが、いつしか転倒し、豊かさを前提とした生存を追求するようになっていきました。そして、1%のための、1%が生き残る、絶滅危惧の豊かさが希求される社会となっています。その結果、経済の飛躍的とも過剰ともいえる発展の代償として環境破壊がもたらされ、経済の飛躍的とも過剰ともいえる発展にも関わらず、これまで貧困がなくなることはありませんでした。

 

 それでも、この競争から降りれば、たちまち生存危機に陥り、「淘汰」という語ですまされてしまいます。ブレーキを踏みたくてもアクセルを踏み込まなければならないチキンレースになっています。資源を食い尽くそうとも、「生きるためには=稼ぐためには=売るためには」仕方がないという免罪符をもって正当化します。法がないので違法だと断罪することはできませんが、ノモスにおいては共同不法行為に手を染めていると思います。この命がけの度胸だめしをやめるには、申し合わせが必要です。一者でもレースを続けるのなら、その一者が一時、独走し独占することになります。そして再び過当な競争に急き立てられて、成長に掻き立てられます。この一者に対抗できるか、または一者が孤立し失速するのを、林や山の如く、じっと我慢して待っていられるかどうか、いずれにしろ協力が必要です。

 

 アリストテレスは『ニコマコス倫理学』で、ノモス(人為的)な申し合わせに基づくノミスマ(貨幣)は、ピュシス(自然的)ではないので、人によって変えることができる人意によるものだと強調しています。

 

 過当な競争や進歩は、過剰な結果を招きます。これまでのおよそ46億年の地球の歴史のなかで、生物種の大量絶滅期が5度ありました。これらの原因は火山活動や隕石の衝突など、いずれも天災でした。そして、地球はすでに6度目の大量絶滅期に突入しているといわれています。その原因は人間活動による人災です。

 

 これから人の居住地は、陸から海や空、地下や水中、さらにはサイバー空間や宇宙にまで拡張されます。人間活動のなかでも特に影響が大きいのは人口問題です。十八世紀の農業革命を経て人口革命がおきました。世界の人口増加率は下がってきていますが、世界人口は増え続けています。

 

 人口問題も環境問題も、無尽蔵な資源の発見、あるいは循環的な資源の開発により解消できると考えられています。マルサスの罠やリカードの罠を技術力や資源の一本槍で突破しようと考えているのでしょう。勇壮ではありますが、それだけでは福島正則のように、後の世を渡り歩くのは困難です。この勇猛さが正道にみせますが、資源が無限でリサイクルできるのであれば、過剰生産は問題ではないという考えにもつながり、過剰の問題に目をつぶり、先送りしています。人の数以上に欲が生まれます。リサイクルであっても熱は発生します。喫緊の問題にはみえないでしょうが、そろそろ過剰と対峙しなければならないのではないでしょうか。

 

 環境変動や太陽膨張などで、いずれは地球に住めなくなるのでしょうが、そうまる前に、人類は凶暴な資本主義を鎮める方途をとらずに人口問題を解消しようとして、アニメで描かれるようなスペースコロニーを形成し、問題を先送りし続けるのかもしれません。人の居住地の進展に資本主義も随伴しますが、これを意志しているのは、はたして人意でしょうか。資本がそれを望み、人が資本に動かされているのかもしれません。人は遺伝子ばかりか資本のビークルになって久しいのかもしれません。

 

自由貨幣の特徴

 西田正規は『人類史のなかの定住革命』で、農耕が行われるようになり定住するようになったという従来の考えに反し、定住革命の後に農耕革命が起きたのだと説きます。その説を裏付けるように、日本の三内丸山遺跡やトルコのギョベクリ・テペ遺跡など、中緯度地域のいくつかの諸民族では、信仰や定住の後に農耕が始まったことを示唆する文物が残されています。これは、地域によって、その発生の時系列はまちまちであったのだと思いますが、少なくとも定住革命の後に農耕革命が起きた地域もありうるという見地を加えるものです。常識は意外と常識ではないことがあるのです。

 

 現行の資本主義は利潤を追求し成長を強制しています。しかしだからといって、資本主義は必然に無尽蔵な過剰や高騰し沸騰する競争、人の命を左右するほどの暴力性を本義とし、宿命としているわけではありません。資本主義を怪物に変えたのは人心です。一般的な資本主義の定義が恣意的であるのは、システムを構築し運用するのが人だからなのかもしれません。人により人間的な性格を与えられて、人心があるかのように言い表されたのでしょう。不安や猜疑心から過剰に貯めこみ、簡便かつ堅実に利得を上げるために複利や信用創造を案出しました。この怪物の肝はアンチ・エイジング・マネー(減価しない貨幣)という血系にあるのではないかと思います。現代では、お金を借りれば利息がつくのが当然だと思われていますが、それは十二世紀以降の中世ヨーロッパから広まった、お金を使用する機会を我慢する手数料としての利息を求める節約説をもとにした常識です。

 

 常識に反し、古代エジプトで1000年ほど、中世ヨーロッパの一部の地域で300年ほど、エイジング・マネー(自由貨幣・減価貨幣)にあたるシステムが用いられた歴史があります。現在も地域通貨・LETS・補完通貨として運用している地域があります。『エンデの遺言』では、イサカアワーや交換リング、大恐慌時に威力を発揮したヴェーラやヴェルグル、WIR銀行などの例が挙げられています。

 

 貨幣経済と結びついた資本主義であっても、自由貨幣によって貨幣流通速度を高めて経済を回復しつつも、暴力性のない経済圏を築いた地域があるのです。

 

 自由貨幣の欠陥が指摘されないのは、単に経済規模や決済期・実行された期間が短期であったというだけで、このシステムも長期でみれば問題が浮上するのかもしれません。たとえば、ニューヨーク州のイサカでは、イサカアワーが頻繁に使われる商店と、そうではないは商店とが分極し、格差が生じているようです。しかしこれはイサカアワーでは税金などの支払いに制限があるなど、システム運用上の瑕疵・不備により貨幣流通に淀みが起きているからだと考えられます。老化・減価しない貨幣について、はじめて明文化し、それが問題であることを喝破したのはシルビオ・ゲゼルでした。そしてゲゼルはこのような事態をみこして、地域通貨ではなく国の管理による自由貨幣を説いています。ケインズは『雇用・利子および貨幣の一般理論』においてゲゼルを評価しつつ、ゲゼルが『自然的経済秩序』で提案しているスタンプ貨幣という自由貨幣では、貨幣の流動性が損なわれてしまい、流通しないだろうと指摘しています。しかし、電子マネーなどが普及した現代においては、この問題は解消されるでしょう。

 

 ベルナルド・リエターは、貨幣が交換の媒体、価値の尺度、価値の保存、投機的利益の道具、支配の道具といった複合的な役割をもつようになり、なかでも投機的利益の道具と支配の道具としての役割が問題を起こしているとみて、陰陽経済を太極図にあてはめ、協働と競争を促進する経済を調和させる方法として、法定通貨・国家貨幣と地域通貨・補完貨幣の併用を提案しています。リエターの構想する経済システムをゲゼルの目指した経済システムの過渡期とし、さらにゲゼル型の経済システムの先に貨幣のない世界を構想する方もおられます。お金のいらない世界の到来を想う考えに共通しているのは、そのような世界は人の倫理観によってもたらされるということです。環境が破壊され資源が枯渇し、社会システムの変革がおきた先に意識改革がおき、非貨幣経済が維持されるというものです。技術革新により生命維持のための労働が必要とされなくなり、それによって交換頻度が縮退し、カネが必要とされなくなるという、倫理観との関わりが薄い経過の方が、いくぶん現実的な過程だと思います。

 

 現行のアンチ・エイジング・マネー型資本主義では、利息分の利益を生産し続けなければなりません。たとえそれが公共の福祉に適うものであっても、利子を払うことのできる採算がとれるものでなければ施行されません。

 

 関野吉晴は原始的な農耕社会では土地が原因で戦争はおきないといいます。土地はグレートスピリットや精霊のものであって人間の所有できるものではないのです。狩猟採集生活であっても、定住や農耕がおこなわれていても、食物を貯蔵できないため、収穫したら所有しておかずにすぐに食べてしまいます。争いが話し合いや威嚇、儀式の範疇を超えて殺傷のともなう血なまぐさい戦争となったのは、貯蔵や所有ができるようになった集約的農業で穀物をつくるようになってからです。

 

 アンチ・エイジング・マネーは不滅なので待つことができ、エイジング・マネーは減衰するので待つことができません。この対立する立場の相違が不滅財であるカネと減価財であるモノの交換を不平等にしています。

 

 現行の資本主義は、利子を将来の時間・環境で先物として支払っている現状、問題の先送りで一向に解決に向かおうとしない現状、現在の余裕は失われ、そのことで生きる意味を失った現状を招きました。

 

自由貨幣導入の構想

 貨幣のエイジング・減価のための一つの方法として、スタンプ通貨があります。これは額面通り流通しますが、使用の際、スタンプが貼ってないと使えない通貨です。満期・寿命がくると発行元にかえります。スタンプ額は額面より少し多いですが、これは印刷費や管理のためのものであって収益のためのものではありません。額面の減額ではなく、スタンプ購入費や保増税として利子をマイナスにすることがエイジングです。

 

 エイジングにより流通速度が加速するのなら利子はマイナスでなくともよいのではないかと思われるかもしれませんが、不老不死のゼロ利子では貨幣が腐らず、加齢するモノに対して優位となり不平等です。また、減齢不死のプラス利子では貨幣が自己増殖し、利息分の搾取がおこなわれて不公正です。したがって、利子はほんのわずかであってもマイナスであった方が好ましいのです。

 

 自由貨幣は特に景気対策に効果覿面です。自由貨幣下では交換が促進され、モノとカネの流通速度が増し、不景気によるカネとモノの停滞が解消されるからです。利払回避のためにカネを貸す人が増え、モノが動き投資も促されるため、カネを借りる人も増え、さらに交換がすすむからです。

 

 自由貨幣は利子がマイナスになっていくという潜在的な負債を負っているので、貨幣の保有が借りの先物取引と捉えられ、その借りはペイフォワードによって返していくという相互扶助のシステムとなります。対してアンチ・エイジング・マネーは貸しの先物取引となっており、ペイバックによって返していくという相互侵食のシステムとなっています。

 

 自由貨幣がグローバルに普及した世界では、自由貨幣経済への離反者に対する罰則が身体刑などではなく、アンチ・エイジング・マネー社会への幽閉・隔離によって更正・再教育することとなるかもしれません。アンチ・エイジング・マネー社会では力の一極集中化がおき、自然発生的にヒエラルキーが形成されます。その頂点に立つ人は、その社会に居続けたいと思うかもしれませんが、下層にある人は、自由貨幣社会への復帰を望むでしょう。また、自由貨幣社会とアンチ・エイジング・マネー社会を併存させることにより、プラス利子社会で生きるという選択肢を残し、そのような自由も残存させることができます。なおかつ貨幣退蔵の罪に対する受刑が悪感情と結びつかなくなるでしょう。

 

 自由貨幣は価値の保存に適さないため、アンチ・エイジングなモノを求める動きが活発になります。富裕者は土地や金、美術品や骨董品、切手などの価値を保存、あるいは増加させるモノを蒐集して投機をすすめるでしょう。これらはアンチ・エイジングなので、ほとんどの場合マイナスとならず、プラスマイナスゼロで安定しやすいばかりか、時にはプラスになるからです。するとそれらの価値が高騰したり、貨幣に代わり交換媒体の主役となるかもしれません。モノは貨幣ほど流動性がないので交換が煩わしくなり、自由貨幣にかわる必ずしもプラス利子を伴うとは限らない、つまりゼロ利子貨幣であるかもしれないアンチ・エイジングな貨幣のようなものを鋳造して利用するようになるかもしれません。通貨の発行には制限がありますので、はじめは闇で流通するかもしれません。その貨幣を利用するのは富裕層なので、その貨幣の信用度が高まり、後に広く流通するようになるでしょう。この貨幣も規制された場合、プラス利子貨幣を発行する中央銀行をもつ国を建国し、その貨幣で財産を保有するようになります。現在、大企業がタックスヘイブンに少人数の社員で運営する支店を置き、そこを通して税逃れしているように、建国の際には実際に人を定住させる必要はなく、人の住めない無人島でもよいのです。それも規制されれば、月でも火星でもサイバー空間でも、とにかく数字を動かせればよいので、どこかでアンチ・エイジング・マネーは、その名の通り生き続けるでしょう。

 

 自由貨幣を導入した場合、貨幣に保蔵機能がなくなるので、国際為替市場での価値は下落するでしょう。世界で協力してはじめなければ、ひとり負けの状況を招きかねません。

 

 低成長、あるいはゼロ成長社会での問題は他国との関係です。自国だけであったり統一国家であれば問題ないのですが、隣国が資源や富、市場を得ようと侵攻してくる恐れがあるからです。そのとき防衛できるだけの国力・国富・人・気概などが残っているでしょうか。経済成長を否定しても、経済成長を肯定する国の方が力をもち、経済成長を否定する国を支配しようとするので、それに抵抗するために経済成長が肯定され、結局は経済成長を肯定する国だけとなります。主張を通すには相手と同等以上の力がなければ現実味のない話にとどまります。

 

 アンチ・エイジング・マネーの血が流れる資本主義のもつ凶暴性の原資は無限にあります。不換で複利を含み減価しない貨幣には有限性がなく、無限増殖します。

 

 ゲゼルは融資金利を否定していません。またエンデは、投資は環境保全活動など非営利の採算の取れない奉仕活動においても有効にはたらくので、成長とは投資だと述べ、投資を否定していません。つまり、ともにアンチ・エイジング・マネー社会を批判しているのであって、資本主義を否定しているのではありません。

 

ベーシック・インカム導入の試案

 ベーシックインカム(BI)に反対する声に、BIは計画経済のように労働意欲を削ぎ、経済破綻するというものがあります。しかし個人の労働意欲、個人の堕落は社会問題にはなりません。多くの人が堕落して働かなくなることが社会問題です。逆説的に言えば、社会がまわるのであれば個人の堕落は個別の問題であって、社会問題ではないのです。労働意欲の低下が社会問題となるのは、生産性の低下により生存が維持できなかったり、国力や国富が低下して外圧に抵抗できなくなったりするからです。BIは国内問題にとどまらず、対外関係を加味する必要があります。技術革新により現在では全員が働かなくとも生きていけるだけの生産力があります。技術がなかった過去においては考えられないことです。これは先達の恩恵です。だれも働かなくても社会がまわり、それが支配の構図を形成しないのであれば問題ではありません。堕落が問題なのは社会が回らなくなるからです。社会の富を吸い取るだけの堕落した生活を送るようになっても支障なく社会がまわるということは、それだけの余裕が生まれたということです。現状は、だれひとり働かなくともよいというわけではありませんので、誰がはたらき、誰がはたらかなくともよいのかという問題があります。

 

 貧困打開策のひとつの試案として、BIとデジタル・エイジング・マネー(減価する電子マネー:DAM)をあわせたシステムを設計してはいかかでしょうか。BIは一律給付なので、現状BIによってカネを供給したところで、タンス預金をしている人たちはさらに貨幣を退蔵するだけでしょう。そこで、新たに供給する貨幣をDAMにすることで、減価時の手間が導入の障害とはならず、流動性の問題にも配慮しながらカネの死蔵意欲を縮退させることができます。

 

 システム移行の足がかりとして、まずは生活保護費をデジタル・エイジング・マネーで支給してはどうでしょうか。地域通貨の最初の課題は協賛店の確保ですが、最初の一店、それも大企業が加われば二店目以降はそれにひきずられて増えていくでしょう。生活保護の支給なので、はじめは食料品などを扱っているスーパーや地域の食料品店など、生活必需品を取りそろえている店に限定します。住居費の支払いに使えるように不動産事業所を加えてもよいでしょう。なにはなくとも食と住をおさえて生存を守ります。

 

 協賛店の限定と確保の次は設備運営資金ですが、設備を揃える企業を協賛店として迎え、そこに地域通貨を振り出せば、事前に資金を用意する必要がありません。同様に、運営についても、毎月減価貨幣の減価分を支給すればよいのです。それでも資金に不安があるのなら、協賛店から設備の初期費用、あるいは管理運営費という名目で、導入時のみ徴収してもよいでしょう。地域通貨は消費が協賛店などに限定され域内の需要が上がりますので、地域の理解がすすむほどに地方再生にもつながります。

 

 DAMが12カ月まわり満期となったら、日本銀行券や政府発行硬貨などと両替できるようにします。その際、両替費として両替額の5%ほどを徴収してもよいでしょう。DAMはデジタルデータなので両替しない場合は無償で新たな12カ月DAMとして更新します。デジタル技術のなかったころの減価貨幣では12カ月後に回収し、現金との交換が必要でしたが、DAMであれば選択できます。DAMの流通が常態化すれば、DAMより流動性の低い現金との交換が縮減するでしょうから、交換のために多額の現金を用意し保管する必要がなくなっていきます。

 

 DAMの利点のひとつがカネの流れを追うことができることです。データ閲覧権限をもつ管理者の自制心とプライバシーの問題はありますが、公共事業をDAMにより決済すれば、資金の流れが透明になりますし、生活保護費をDAMで支給すれば、不適切な利用を防ぎ、指導することができます。

 

 DAMを迅速かつ確実に定着させる即効・特効薬は、地域通貨を発行する地方自治体の公務員や職員の給与の何割かをDAMで支給することです。島根県海士町では、町長をはじめ職員の給与が削減されましたが、DAMは給与の削減ではなく通貨の異同であるので、それに比べれば、いくぶんか抵抗感は小さいと思います。当の公務員からは自由の制限であるだとか不便であるといった反対の声が挙がるでしょうが、地域通貨を発行するときには、ある程度の協力者、つまり地域通貨を受け入れる地域の企業や商店があるわけですから、その地域内において不便であることはないはずです。それでも協賛店が少なく不便であるというのであれば、協力者を増やして使える商店を増やせばよいだけのことです。地域通貨の発行母体を、その職員の所属する自治体とすれば、地域通貨の普及と使用可能範囲の拡大を職員みずから自発的に画策するようになるでしょう。地方のために活動するのが公務ですし、地域通貨の発行元である地方自治体に勤める公務員が協力者を増やす努力を惜しみ反対するというのは公務に適わないと思うのです。貯蓄に適さないという反論に対しては、貨幣の交換媒体としての機能を損ねて流動性を貶め、公共の福祉に反していると一蹴すればよいでしょう。

 

 一般向けには、2015年日本各地でみられたプレミアム商品券と同様の手法で、20%ほどの付加価値をつけてDAMを現金と交換して普及させてもよいでしょう。生活保護を受けている人だけでなく、多くの人が使うことで、DAMを使用するスティグマや抵抗感、他者の眼差しなどの問題を回避できます。

 

 地域通貨が全国規模に波及した暁には、政府が自由貨幣を発行し、公務員給与の半分をそれで支給すればよいでしょう。公務員給与は原則現金支給と法で定められていますが、現在は振込が主流となっていますし、現金は一般的には強制通用力をもつ日本銀行券や政府発行の補助貨幣のことを指しますが、通貨の他に小切手や株式配当額領収書など、すぐに通貨に換えられる通貨代用証券も含まれるという捉え方もありますので、自由貨幣もそれに含まれると解釈できないことはなく、現金の解釈次第では法にも触れません。現行法の法解釈だけでは支障があるのであれば、法改正を検討してもいいでしょう。自由貨幣が十二分に浸透した頃には、米や小判が手形や証券での支給にかわったように、いつの間にか移行しているでしょう。

 

 DAMの運用上、最大の要諦は管理・運営です。フリーライダーやカネの保蔵・滞留の防止、不正の予防と対応策などが必要となります。bitcoinは流通過程を鎖のように延長し、その記録を全員で保持していくブロックチェーンにより不正を防ぐ、歴史・流通過程に価値を保証させる、いわば、貨幣の来歴が価値を担保、あるいは高めるシステムですが、管理が杜撰だとMt. Goxのように破綻し、それがひとつの取引所における問題であっても、風評によりシステム全体の欠陥かのように思われてしまいます。消えた年金問題もそうですが、これらは人災であって、システムに問題があったわけではありません。不安であればシステム管理者が一括で、あるいは個々が預金通帳のように定期的に外部出力、つまり物理的に印字して備えるという手もあります。

 

 自由貨幣が通貨の大勢を占めるほどに滲透し、信用創造の異様さを際立たせて、その思想が駆逐される日がくるといいのですが。

 

 BIにより人のやりたがらない、いわゆる3K労働の労賃が正当に高騰すると考えられますが、慢性的な人手不足に陥るでしょう。また無責任なスタンドプレーが増えることも懸念されます。

 BIの財源については、手続きの簡便化と、それに伴う公務員の削減、関連保障費の改廃、増税などにより十分賄えるという意見もありますが、社会保障費や自己負担額の増加などにより、賄うどころか今よりも悲惨な未来になるという意見もあります。

 

 BIでインフレに傾き、自由貨幣で貸出金利が上がるでしょう。自由貨幣を導入しても、その分、金利が上乗せされるだけかもしれません。多くの人が現行のプラス利子に疑義をもたないように、BIによって利息が上がることを疑問視しないのではないかと思います。導入時に金利を規制する必要があるのかもしれませんが、その必要性を理解する人は少なく、政治は有力者に握られて、このシステムが格差の促進剤にしかならないことも十分ありえます。

 

 貨幣に寿命を与えることで蓄財を防ぐことができますが、寿命を与えることで消費欲求を刺激し、散財の強迫観念を植え付けかねません。すると自由貨幣は環境破壊の抑止にはならないのかもしれません。

 

 プラス利子社会では利息分が価格に上乗せされています。プラス利子社会でなくとも原材料費や人件費の他に、広告宣伝費やブランド・ロイヤルティ(royalty)などが含まれていて、競争や過剰に導く要因があります。現代の過当競争社会は、プラス利子を母体とする信用創造機能が元凶なのでしょうが、これだけが『悪徳の栄え』だと断罪できません。

 

 現代では、お寺運営にもプラス利子が入りこみ、余剰価値の生産に荷担してしまっていますが、BI & DAMを採用する共同体は、余剰価値を生産し続けることを宿命とするプラス利子社会から解脱し、マイナス利子社会という涅槃を目指すサンガなのかもしれません。

 

 安定の前提は他のすべても安定していることです。自然は流動的なので安定は非現実的です。安寧をもたらすかにみえたシステムも、運用する人の思念によって、災禍を招くシステムへと廻転します。

 

 余剰価値を無限生産し、成長を強制する現行のプラス利子の資本主義と、資本を移動・流動・交換させて、成長を促す現行より健全であると思われるマイナス利子の資本主義。資本主義や貨幣経済のそれぞれに強制力や凶暴性があるのではないのです。どちらも資本主義にかわりないのですが、貨幣に担わせる役割によって性格がかわってしまうのです。

 

 自由貨幣に限らず、政策は多くの薬の処方箋のように、治療薬とその治療薬の副作用を抑える薬とを併用することで、効果が発揮されると思うのです。治療薬だけでは副作用のリスクを抑えられず、併用薬だけでは病を根治できず意味がないばかりか費用がかかり、薬の過剰摂取により健康を害し、さらに費用がかさむおそれがあります。薬価の問題が薬漬け社会を呼び込み、昨今ようやく潮流がかわりは始めてきたところですがTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)により薬価の上限が撤廃され、再び沈溺することになるかもしれません。飲みやすい薬だけ、実行しやすい政策だけを行うのでは禍根を残します。

 

 マーガレット・サッチャーやロナルド・レーガンが参考にした新自由主義者とも、より過激には経済的自由放任主義者ともいわれるミルトン・フリードマンでさえ、『資本主義と自由』や『選択の自由』において、市場と政府、規制緩和と負の所得税といった処方箋を提示し、ニクソン政権下では、当時の税法を負の所得税へと移換するために積極的に活動しました。

 

資本主義の式神

 名声や階級、派閥や権力、差別や偏向などにより、一般にアルフレッド・ラッセル・ウォレスはチャールズ・ダーウィンの、高木兼寛は森林太郎(鴎外)の、山極勝三郎はヨハネス・フィビゲルの影のようになっています。

 

 いいものであっても広告巧者によって市場から追い出されて消えてしまうことがあります。反対に、悪いモノも需要や広告しだいで存続することがあります。いいものであっても排除されうる例として、情報の非対称があげられます。例えばある商品について詳しくない人がいたとします。その人がなにかの拍子で、その商品に興味をもったとします。そして、その道に暗いので、とりあえず予算を5000円と決めて買い物に出かけます。するとこの人は、品質や価値に関わらず、5000円以下でその商品を買い求めます。だれしもはじめは無知ですので、低品質でも安いものの需要が高くなり、高品質で高価なものの需要が低下します。この流れを受けて、供給者は高品質で高価なものの仕入れを控えるようになり、市場からいいものが排斥されていきます。食の安全が叫ばれますが、農薬を過剰に使って急成長させ、収穫量をあげて低価格で提供するために、手間のかかる安全な食品が市場から追いやられてしまいます。その現れの結果のひとつとして、二極化が挙げられると思います。つまり、ブランド化して付加価値をつけて高値で売るか、品質を犠牲にした大量生産で安値で売るかという二択です。この両端の親和性は低く、時節を読んで他端に移行するということがありません。また中間が少なく極端です。いいものを残すには規制や保証が必要です。でなければ粗悪品が散開し、社会や人の安全を脅かします。西欧におけるワインやチーズなどは国が品質や価値を保証し、このような危機を回避しています。市場原理を過大評価するレッセフェール(自由放任主義)では、いいものであっても駆逐されてしまいます。自由放任主義は問題を解決しません。問題を先送りするのが関の山です。見えざる手は経済にのみはたらくのではなく、人々の徳にはたらくことが前提となっています。有力者は往々にして処方箋を書き換え、政策を骨抜きにし、見えざる手が自らにのみ差し伸べられるように設計します。

 

 「働かざるもの食うべからず」は、労働を至上のものと思い込んでもらった方が都合のよい資本家本意の倫理観でありながら、労働者の道義心に訴えかける、道徳的であると見せかけた罠です。経営者が発する淘汰や努力という言葉は運を過小評価した自負心・利己心・排他バイアスのかかったものです。

 

 報道機関・報道記者でしか暴けなかった企業や国の不正はありますが、報道機関による名誉毀損やプライバシーの侵害、実名報道などによる個人の権利の侵害に対する罰則は強化した方がいいのではないでしょうか。個人が裁判所に訴えたとしても、企業は裁判費用と、その報道による発行部数などによる利益とを天秤にかけ、利益が見込めるのであれば報道を断行してしまいます。対して個人の方は、賠償金や裁判費用、それに要した時間などを勘案すると損することの方が圧倒的に多く、泣き寝入りするしかないという風潮になっています。これでは過剰な報道を規制することも個人の権利を守ることもできません。せめて被害者への賠償金は、裁判費用などと慰謝料、およびその記事を掲載したときの、その媒体の売上の何割かの総計とした方がいいのではないでしょうか。でなければ今までどおり企業に有利な法であり続け、これまで通り記事に誤りがあったときなどの対応が、紙面などでの訂正、それも目立たないほど小さく、だれも責任をとらない現状が常体であり続けてしまいます。報道機関への規制を訴えると騒がれるのが「報道の自由」「表現の自由」ですが、それも公共の福祉に反しない限りでありますし、それをもって個人の権利を侵害しても許されるという免罪符でもないはずです。報道機関は中立中性であることが理想ですが、食品偽装事件が起きたとき、スポンサー企業を糾弾しなかったように、現実は利潤に隷従する一企業でしかなく、株主・スポンサーのスポークスマンにすぎず、公共性は絶対的なものではないのです。

 

 コンラート・ローレンツは『文明化した人間の八つの大罪』で、人間活動の弊害として、人口過剰(第2章)・生活空間の荒廃(第3章)・人間どうしの競争(第4章)・感性の衰微(第5章)・遺伝的な頽廃(第6章)・伝統の破壊(第7章)・教化されやすさ(第8章)・核兵器(第9章)の八つを章立てて提起しています。八岐大蛇は太古の氾濫する揖斐川の象徴であるといわれますが、暴食・色欲・強欲・憂鬱・憤怒・怠惰・虚飾・傲慢の八つの枢要罪(八つの大罪)が、人類というひとつの体で醸成されて世界経済が肥大化し、今まさに頭をもたげて氾濫しています。これを治める知恵・勇気・節制・正義の枢要徳(四元徳)、またはそれに敬虔(信仰)・希望・愛の対神徳を加えた七元徳をもった須佐之男命の登場がまたれます。もう櫛名田比売しか残されていないのです。奇稲田姫とともにある素戔男尊、つまりは男女、つまりは人類の力が試されているときなのかもしれません。

 

 マルクスは失敗により、シュンペーターは成功により資本主義は崩壊し社会主義が現前することを予見しています。資本主義が差異のシステムであるのなら、その歴史は人類史に匹敵するでしょう。そしてまた、人類は資本主義と切り離されることはないでしょう。しかし利子や信用創造とむすびつき、企業者利潤が発展を強制し、発展が企業者利潤を追求する近代資本主義を棄却することはできます。

 

失われた資本

 資本とはなんでしょうか。「資本(金)」capitalはラテン語の「(牛の)頭」caputを語源にもちます。これは印欧祖語の「つかむ」kapから「(牛の)頭」kaputを経て、ラテン語のcaputとなり、さらに「家畜」pecusから「貨幣・財産」pecuniaへと派生しています。資本は「頭」のように最も重要なものを表し、財産は家畜の「頭」から、家畜の頭数が財産であり、家畜が家畜を産み増殖する財産であることを想像させます。

 

 資本という語には最も重要なという意味があります。最も重要なものは個々異なると思いますが、それが重要であると認識し断定するためには最低限生きていなければなりません。個々異なりますが、それでも生を前提としていることから、万人に共通する重要なもの、つまり万人に共通する資本は生なのではないかと思うのです。

 

 今日ゴッホの絵画は高く評価され、投機対象の枠を超えて価値あるものとされていますが、生前売れたのは1枚だけで、生活はその才能を疑わなかった慧眼の弟の仕送りだけが頼りでした。当時のゴッホの仕事は弟以外の周囲の目からすれば道楽でしかなく、仕事に値しなかったでしょう。ゴッホに限らず、また芸術分野に限らず、このような例は枚挙にいとまがありません。

 

 現行の資本主義は、仕事・労働・働くということが利潤・価値・生産・成長を生むことであるとして、非効率・非生産的・怠惰・無駄であると切り捨ててきました。また、生産性の過剰な重視が、生産性が高いのであれば悪行すら仕事として黙認されてしまう世相を招きました。そのいくつかは悪習として現代にも残っています。

 

 生活に困窮し働いてもいない貧乏人には「働け」と言いますが、どんなに堕落していても、不労所得により余裕のある生活を送っている富裕者に「働け」と言う人はいません。また、宝くじが当たれば仕事を辞めて悠々自適に生活しようと考えている人は多いと思います。つまり「働け」と言う人の多くは人を見て言っているのです。いや、人を見ているのではなく資産を見て言っているのです。労働に価値をおかず資産に価値を、つまり価値自体に価値をおいているのです。価値は観念であり概念です。

 

 完全雇用の実現は大変に困難なものです。それだけの需要と供給、仕事がなければならないからです。経済モデルやその前提によっては完全雇用は不可能だと示されています。仮に完全雇用が達成されたとして、その仕事は必要でしょうか。働く必要のない人に働けというのは過剰でしかありません。仕事のための仕事、雇用拡大のために過剰に生み出された仕事になっていないでしょうか。人口増加率は減る一方で人口は増え続けていますので、高齢化の流れは止みません。また、人工知能(AI:Artificial Intelligence)や機械化の進展により、労働市場が縮小し、完全雇用はより不可能で無意味なユートピア的発想となっています。

 

 現在、食べ物が過剰な地域と不足する地域とがあります。先進国はもとより、途上国においても肥満がすすむ地域があります。先進国の富裕層では美意識の高まりにより肥満率が低下し、途上国の貧困層ではストレスの高まりにより肥満率が上昇するという逆転現象もみられます。貧困層でみられる肥満、つまり飽食の貧困とは奇怪な現象です。

 

 借りや負債に対して負い目を感じさせ、利払いのためには独占や出し抜こうという欲の亢進により過剰生産を昂進します。この負の連鎖を断ち切り抑止する方法として、自由貨幣は有効にはたらくのではないでしょうか。

 考え創造し革新しなければならないのは、利潤や商品や労働や仕事ではなく、生の意味です。それなくして雇用の拡充を促したところで、得られるのは労働機会ではなく労働機械です。福祉や保障のために若者人口を増やそうとすることは、人ではなく労働者を求めているにすぎません。社会を維持するために労働力を求めることは労働機械への需要訴求です。

 

 ヒトはなにをしなければ生きられないかを考えてみますと、食べることです。なぜ食べるかといえば生きるためです。つまり、生きるために食べるのです。なぜ働くかといえば食べるためであり、生きるためです。このように考えると「生きる=労働」という等式になっているように見えますが、不労所得だけで生活している人がいることから、この等式は自明でも当然でもありません。そうみえるのは、労働価値説をもととする資本主義社会を生きてきた習慣によるものです。働くことは食べるための手段の一つです。生きることは食べることであって、食物は採集や狩猟、または交換・互恵・略奪など、その方法は直接的でした。しかし集団や分業の進展が不労所得をうみ、食べるということに直接関わらないことも仕事として仕立ててきました。これは善悪ではなく功罪・トレードオフです。人類の生存率を高め豊かさを提供しましたが、食からは遠ざけました。また公共心を希釈し利己心に導きました。

 

 原始的な集団生活を送る原住民族であっても、誰でもとれる小さな食物は分ける必要がないため、みなで採集にでかけていても、各自でとって、各自で食べます。しかし貴重なタンパク源で取得の難しい大型動物は、精霊やハンター、獲物を讃える儀式や祭りをひらいて、みなで分けあって供食します。食は集団を維持し強化する要です。

 

 山極壽一はヒトを人たらしめるのは食の共有と共同保育、そしてまたその基礎となる共感力だといいます。乱交では家族・近隣関係を維持できないため規範が必要となります。法・規範・ノモスが集団生活を可能にし、言葉が法を強化し新たな法をつくります。

 

 岩井克人は、人間の自由には言語と法と貨幣の媒介が必要だといいます。言語も法も貨幣も、慈愛的にも無慈悲にもなります。どのような性格をもつかは人間活動・人間関係によります。

 

 「生存=労働」という錯覚を起こしている原因は、労働と生存を仲介する食を見過ごしているからです。つまり、副次的手段の労働を、主要手段の食と置換し、主題の生存をみているからです。このような誤認が食べるための方法は労働ただ一つであると錯覚させ、方法の多様さを覆い隠しています。

 

 今まさに死なんとする人に生存の至上性をもちだして、「生きろ」といいますが、労働が生存に勝る社会においては違和感があります。つまり、「生きろ」というのは「働け」と言うのと同義か、それ以上のものとなっており、生存の目的が失われているからです。「なんのため」が失われたままに生存が目的化しています。生ではなく、生きることを自己目的化しています。その帰結として「労働←→生存」という構図になっています。直接的には成立しないはずの労働と生存のトレードオフです。ただ生きることが至上命題となった状態では、なにをもって生きろと説得しているのか、また、働くために生きるのか、生きるために働くのか、その帰着点がないのです。「労働←→生存」あるいは「労働=生存」図式は、「…労働→生存→労働→生存→…」の自己循環に陥り、ここからは生きる意味もはたらく意味も汲み取れません。いつしかその意味をくみ取ることを諦め、問うことをやめたとき、やがて人は労働機械となります。

 

 習慣は普段意識にのぼりづらいものです。生きることも労働も、特異な状況に陥らなければ疑問視されず、問いとはならず、問われないものです。生も労働も食も習慣化することで透明になります。エティエンヌ・ド・ラ・ボエシは『自発的隷従論』で、「自発的隷従の第一の原因は、習慣である」といいます。

 

 ハンナ・アーレントは、人が労働labor、仕事work、活動actionの三つの条件のもとにあり、現代では仕事も活動も労働に抑えこまれているといいます。習慣により「労働=生存」のなかで喜びを感じて生きていける人もいます。芸術家や職人など、労働ではなく仕事に生き、意味を生きられる人がいます。労働が習慣となり意味となれば、意味を生きられるので、「労働=生存」であっても充足感をもった豊かな生を生きられます。でなければ「労働=生存」の無意味を生きることになり、徒労を生きることになります。アルベール・カミュは『シーシュポスの神話』で、人生は生きるに値するかを問いました。そして、人の生はシーシュポス(シジフォス)の受刑・神罰のような徒労ではありますが、この不条理な悩ましい幸福を生きられる人は、白い歯を見せて微笑むことができるのだといいます。収容所に収監される前に形成されたロゴセラピーが、意図せずそこで検証されましたが、ヴィクトール・エミール・フランクルは『夜と霧』で、状況からは逃れられなくとも、状況であっても不可侵の、意志による生を説きます。

 

 ヒトは生きるために食べ、ヒトがヒトとしてあるために思考します。貧困により思考できず食べられず、生きられないヒトがいることが問題です。富裕層による買い占めなど、物価を操作し支配体制を構築されるのは問題ですが、食べることができ思考でき、健康で文化的な生活を送ることができるのであれば、経済格差は社会問題ではありません。経済格差と貧困は同等に扱われることが多いのですが、経済格差と貧困とは別問題であり、問題なのは貧困です。0.01%の富裕層と99.99%の下位層のように、今よりも極端に経済格差が拡大したとしても、他の格差に影響せず、支配の構図につながらない経済格差は社会問題ではありません。技術が進歩した今、事象を問題とするのは人の欲です。影響力の強い権力者や富裕者が公共心を持ち寄れば、たいていの問題は解消します。

 

 習慣は、生活に不満のない人には幸福感をもたらし、生活に不満のある人には弊害となります。満足した生活を変えようとは思いませんから、それが公正や公共のためであると説得しても詮なきことです。

 

 南アジア地域協力連合(SAARC:サーク、サルク)の「理論的根拠」の章に「弱者が搾取されず強者が支配しない」とあります。南アジア情勢はインドが慈悲深い覇権国となれるかどうかにかかっています。平安は強者によって支配されています。強者には平和を志向する平和の支配者を目指してほしいものです。

 

 エントロピーは熱力学の第二法則で公式化されている物理現象です。エントロピーの局所的な低さは、エントロピー増大の法則に矛盾する現象ではなく、むしろエントロピーを最速で増大させるには、エントロピーの低い小さな秩序を局所的につくることが、全体においてはエントロピーの増大を加速させることに寄与するということが知られています。生物のなかでも特にエントロピーの低い人類は、資本を1%ないし0.1%に集中し、資源が有限な地球という閉じた系で、局所のなかに局所をつくり、破壊を加速させているようです。人は乱雑さを加速する局所であり、人間社会の格差は局所のなかの局所のようにみえます。

 

 格差是正や階層の流動性のために、所得や富の再分配の必要性が説かれます。なにを資本とし、徴収方法や課税対象、税率はどうするのかといった問題もありますが、まずは呼称を変えて意識の変革をうながした方がいいと思うのです。つまり、貨幣・カネは富ではなく交換手段であり、富の再配分ではなく、交換機会の再配分といったように。貨幣は価値の基準ではありますが、カネ自体は紙切れや安価な金属、ただの数字でしかなく、他になんの役にも立たない価値のないもので、富とはいえないものです。交換手段のカネは相対的に役に立たないものでなければ流通しないというのは、岩井克人が『経済学の宇宙』でも指摘する通りです。富の再配分といって数字だけが往来する光景は、バーチャルなゲームの世界のようです。しかもそのゲームが命賭けというのが、たちが悪い。心理実験などでも明らかなように、人は騙されやすく錯覚しやすいものです。富と手段、貧困と格差、貨幣経済と資本主義など、相似なものばかりか、対称的なものであっても混同してしまいがちです。貨幣経済が敷衍し、物々交換での生活が困難となった現代にあって、交換機会を占有し退蔵することは忌む行為ではないでしょうか。

 

 長い間、人間の欲と相俟った貨幣経済の暴力に翻弄されてきた現在では、信用や信頼という語はほとんど形骸化しています。モノとしての価値をもたない貨幣が流通するのは、信用あってのものです。ロックは労働labourで自然に働きかけ、固有性propertyを刻印することが所有propertyの起源であると、「労働=所有」を説きました。ここにカネが加わって、カネの所有は労働による正当なものであるという意識を移殖したのだと思います。富の表す主要なものがカネとなり、貯蓄できない信用を、カネを所有することで、信用の蓄積とみたい衝動なのではないかと思います。

 

 ピエール・ジョセフ・プルードンは、『所有とは何か』で、「私的財産=所有」であり、その所有の起源は収奪か徴収のどちらかであると看破します。交換機会を搾取される社会を生きてきて、今や信用を信用している人は少ないのではないでしょうか。現行の資本主義は金融恐慌ではなく、信用恐慌と環境破壊によって崩壊するのではないかと予測されている方もいらっしゃいます。

 

 トマ・ピケティは富裕層への資本課税・富裕税を提案しています。これに対してビル・ゲイツは、富裕層を十把一絡げにせず、慈善事業や企業投資をしている富裕者もいるのだからと、奢侈税を対案しています。しかし、慈善事業や企業投資は非課税とする場合、その投資先の選考方法が恣意的にすぎますし、節税対策に使われたりします。経済ではなく家政術(オイコノミア)、家政術ではなく経営(business)が進捗し、やった者勝ちの騙し合い、ペイするためのパイの取り合いに専心し、消費者のためという名の利己心の充足、利潤の奴隷となり特許や商標権で技術や発想や人を独占して囲い込み、発展を阻害し経営戦略と称した高値設定、明示しない個人情報の収集と利用、国際競争力の強化という名目のタックスヘイブン逍遥などなどをおこなって市場を硬直化させておきながらの主張にどれほどの説得力があるでしょうか。そしてなにより奢侈の線引きや手続きが煩雑です。したがって、奢侈税は富裕税に劣る案だと思います。唯一まさるのは実現性だけでしょう。富裕税より奢侈税の方が実現性が高いのは、富裕税よりは富裕層にとっての損が小さいという偏向した現実性が高いからです。

 

 「ウィンウィン」というのは多くの場合、交渉する二者間に限定した関係です。その交渉の場に招かず、想定していない関係第三者を含みません。害を被る排斥された第三者があって成り立ちます。二者間の妥結により、その割を食うのは、企業であれば下請け・孫請け会社、国であれば低賃金で人口過多の途上国や被植民国です。現在では未来世代の富をも先取りし、将来世代に負債を残しています。無自覚なので第三者の犠牲に気づかず安易に「ウィンウィン」といっていることが少なくありません。

 

 ボランティアは行為者の自己肯定感を高め幸福感をもたらします。一定以上の収入は幸福感とはあまり相関がないということが、リチャード・イースタリンの逆説やグレッグ・イースターブルックの進行逆説などで示されています。欲望充足の般化に関する心理実験だったと思うのですが、願望が概ね叶えられるような状況に被験者をおくと無気力になるそうです。職業別でみたとき、特に経営者にはサイコパスが多いようなので万人に妥当するとは思いませんが、これらの心理学の見地からしても、富を収集し欲望を満たしやすい富裕者がカネをもっても、カネを再分配したときほどの交換機会、つまり貨幣流通速度はあがらないのではないかと考えられます。富の蓄積が目的化し、浪費も消費もしない有閑階級が増えた現代にあっては、富裕者による消費が見込まれず、格差が拡大しても物価にそれほど影響を与えないでしょう。富の再配分ではなく、交換機会の再配分という視点からみると、交換機会を集約して公共の交流機会を滞留させて機会の不均衡に加担しながら、自己裁量の分配に満足しているようにみえます。だからといって国や企業であれば公正な分配ができると思っているわけではありません。交換機会の過剰な凝集と停滞を抑止し、アルフレッド・アドラーの説く共同体感覚を育成する機能をもつのは民主主義だと思うのですが、プラトンの洞窟の中で影に追従する人には、カネの威光があまりに眩しく、ジョン・ロールズの無知のヴェールが、ただのヴェールになって、イデアに触れないように帳として機能しているようにみえます。

 

可能性という資本

 善悪も評価も恣意的で、後に覆ることがあります。覆らないなにかを資本に据えなければ、後世に禍根を残すでしょう。変わらないなにかとは生です。恣意的なものも生から生まれます。生なくして事実以外のなにものもないのです。生存に価値を付与できなければすべてが破綻する実に不安定な土台であり続けます。

 

 ヒトは食べて進化してきました。そしてまた『ヒトは食べられて進化した』という忘れられた歴史ももちます。ここ何千年かは忘れられていますが、ヒトは被捕食者でもありました。生存を価値とすると動物も含まれ、境界線の曖昧な生物全般にまで広がり際限がありませんが、ヒトと動物は思考の可能性によって分かたれます。世界に意味をつけることができるのは思考をもつものだけです。世界はあるがままで意味をもちあわせていませんが、言語を獲得し、思考することができる特異な生物が誕生したことで、世界は意味をもちました。ここでは思考する生物をヒトと代表しますが、意味をもつのがヒトだけであるのなら、善悪も価値や利潤も、所得も財産も生産も、成長も労働も進歩も革新も、すべてヒトだけがもち、ヒトだけがそれを実現しえるものです。競争社会においては弱肉強食と説かれることがあります。たしかに弱肉強食は自然の摂理です。しかしそれは良し悪しではなく、自己保存を表す言葉であり、善悪をもたない動物の思考です。

 

 ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャンは、死に対面し、メメント・モリ(自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな、死を記憶せよ、死を想え)、『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』を描きあげました。生は普段意識すらされない忘却されたものです。生きてある事実は変えられません。人は言語により思考します。思考は生きる意味を見つけられないかもしれませんが、子どものため、遊ぶため、家を建てるため、生きるためといったような、いわば擬制意味を生きる意味として、時に生きる糧として生きています。これらがなぜ擬制であるかというと、それらは「なぜ生きているのか、あるいはなぜ生きたいのか」という問いの答えであって、「生きることに意味があるか」という問いの答えではないからです。「~のために生きている」というのは、生きるということがどういうことであり、どのような理由があるかに答えているわけではなく、生きるための目的や、死なない理由であって、生きるということに対する答えではありません。いったんこれを意味として措定すると、この目的を達するための方法として労働が当然視され、目的化されてしまいます。

 

 仕事や労働は人間活動、行為の別称にすぎないので、「労働=生存」の構図を「行為=生存」として、労働が価値を生むのではなく、行為が価値であるとして資本を取り戻すのです。労働と行為の違いが明確でないと思われるかもしれませんが、労働の目的は生産ですが、行為に目的はありません。動いている、息をしている、生きている、存在するというだけで価値があり尊重されます。

 

 資本主義社会において、ヒトを目的(テロス)と見ずに手段としてみると、ヒトであっても商品化されてしまいます。そして商品には価値が付与されます。価値基準が生産力や効能など、なにを基準としているにしても、その価値基準に照らし合わせた評価により優劣がつけられます。すると、このような価値基準においては低い評価しか得られない人、たとえば障害者や若年者の尊厳が軽視されます。障害を持つ人や生産性の低い人は価値の低い人、あるいは価値のない人となり、人の尊厳が損なわれます。これを是正するために保護したとしても、前提となっている価値基準や評価基準が改められたわけではありませんので、利潤を生み出す人が価値ある人となります。人格の尊敬と相互承認はヘーゲルも説くところです。人の商品化は人の尊厳を傷つけます。このようにいうと、労働と労働力を混同していると指摘されるかと思います。つまり、労働力が商品であって労働は商品ではないと。しかし、経済モデルと実経済とが乖離することがあるように、その認識も実経済と乖離しているように感じます。労働力と労働とは、いわばストックとフローの違いで、どちらも商品とみなされていると思うのです。

 

 商品は資本でもあり、資本主義は資本による価値・利潤の追求を謳った主義であるので、ヒトが商品化すると、ヒトが利潤を生む資本と見なされてしまいます。余暇ではなく労働にむけられた、「身体が資本」という言いは、みずからで自らの商品化を宣言し、労働価値説を肯定しているように感じます。

 

 聖痕のスティグマには聖性があります。アメリカ大陸の先住民、ネイティブ・アメリカンは、体の不自由な仲間や同性愛的傾向をもつ少数者を追放することなく、むしろその差異のスティグマの希少性に聖性を見出し、ダンサーやシャーマンなどの要職におき敬いました。ジャック・ランシエールの感性的なもののパルタージュ(分割)のようです。アーヴィング・ゴッフマンの説く、即自的アイデンティティと対他的アイデンティティの乖離に不寛容なスティグマを刻む現代社会の思考が、保護にスティグマを背負わせています。スティグマには正邪両面あり、共通して深い傷を刻み残します。人だけでなく、人が人とみなすスティグマに対する寛容も肝要です。現代のスティグマは、嫌悪を催させる、ただの痛々しい深い傷となっているようです。

 

 人には主観が思考しうるとみなすものに人間性を宿らせる特質があるように見受けられます。たとえば、ペットの動物と話をすることができるという飼い主がいますが、これはペットの動物を意思疎通が可能な、人間のような対象とみなしていると思われます。また、より極端な例では、飼っていたペットを殺傷した人を殺傷する人がいますが、このような報復行動は、愛着を超えた倫理観に後押しされているようにみえます。クジラやイルカは知能が高いため保護しようという動きが活発ですが、知能が高く同じクジラ目に属すシャチについては、そのような動きがみられません。集団内でいじめが確認されているのはヒトとサルとイルカの三種で、シャチほどではないのでしょうが、イルカにも凶暴性はあります。すると、人が人間性を加味する対象には、思考だけではなく、人にとって倫理観にみえるものもある程度は必要なようです。

 

 動物でなくとも、人形のように動かない対象であっても、愛玩という言葉では収まりきらない執着をみせる人もいます。ガラテアはピュグマリオンにより彫像され、アフロディーテから命と名を吹き込んでもらいましたが、もし生身の人間になる前の、彫像のガラテアを誰かが破壊したとしたら、ピュグマリオンの心痛は、人間に対するそれと等しいものだったのではないかと推察されます。したがって、対象が知性や倫理観をもっているかどうかではなく、主観がそうみなしうるかが、より優位なようです。

 

 貨幣が商品化し、利子が付加されるようになって、成長を強制する資本主義が起動し、無限後退する信用の先取りが価値を創出する資本となっていますが、友愛的な資本は無限後退するテロスの創出可能性に対する信用の先取りが価値を創出し、資本となるのではないでしょうか。

 

 人は何であるかというテロス(目的)を求めるテロス(完成)としてあり、それをもって人間の尊厳となっているのではないでしょうか。というのも、テロスを創出しうることが人間を他の生物と分け、人が人間性をもつ源泉となっているからです。人は常に、なにかになる過程におかれているのではなく、そのときどきで常にすでに完成している、完成した過程で、あるなにかとしてあるのではないでしょうか。ニーチェの超人は力への意志を要請するものでしたが、これはそれを要しません。稀有な超人ではなく、すべての凡人がいるだけです。ただあるだけで完成しているすべての凡人、いわば梵人がいるだけです。梵に隔たりも貴賎もありません。貴賎があるとしたら、すべてが高貴であるか、すべてが下賤ですので、その区別は意味をなしません。他がないので別段、他を尊重する必要がありません。

 

 認知症や植物状態など、障害をもつ人や赤子は思考できませんが人です。人体をどれだけ機械と置き換えれば人が機械となるのか、また人体をもたず電脳、あるいは脳すらもないサイバー空間に投影された人格はヒトであるかという問題もありますが、おそらく人と認められるでしょう。ヒトは生物学的な意味にのみ依拠して他の生物と分けられるものではなく、思考能力の可能性によっても分けられていると思うのです。ヒト固有の遺伝子や形質をもち、思考しうる生物であるという条件を有するのがヒトなのではないでしょうか。

 

 言語により想像し、概念を創出することで、人間は他の生物と分かたれました。そしてまた、その能力によって、他者の存在や能力の可能性を見晴るかし、思考できずテロスの創出が不可能に思われる人も、その可能性によって人間性が担保され尊重されます。ガンダムUCのなかでカーディアス・ビストは、「人間だけが神を持つ。今を超える力、可能性という内なる神を」「私のたったひとつの望み。可能性の獣。希望の象徴」という言葉を残していますが、これは創造し信じあう可能性を謳っているのではないでしょうか。保護や性格など、社会や人から付与される状況や性質によらず、人であるという、ただこのひとことにおいてのみ、人の尊厳が担保される相互承認が肝要です。人権は国家の支配下でも法治主義下でもなく、法の支配の庇護下にあります。ダルマ(法)はアートマン(人)を超えません。

 

 思考する動物がヒトなのではなく、思考しうる可能性をもつ動物がヒトです。可能性を思考しうるのはヒトだけであり、思考の可能性をもちうるのもヒトだけです。それは言語によってなされます。人はヒトを創造しうるのです。人だけがヒトを創造しうるのです。その可能性が人の資本ではないでしょうか。あるいは、無限後退する信用の先取りが資本なのではなく、無限後退する思考の可能性に対する信用が資本なのではないでしょうか。

 

暇と退屈

 人は暇と退屈を嫌います。そこには意味がないからです。習慣はそれ自体が意味へと転化することがあります。つまり手段から目的へ。意味はなければならないわけではありませんが、人は「なにも意思しないより、いっそ無を意思する」ように、自己の生存を意味で埋めたがり、生に「重し」を、生の「重し」を求めます。暇と退屈は意味創出の強迫観念を誘引し、無意味からの回避行動をうながします。それは、余暇がもたらす無意味の香り、生存が無意義であることを悟ってしまう畏れからの防衛本能のように、根深く暗々裏にはたらきます。これまで労働は暇と退屈を打ち消し、生きる意味を覆い隠す機構としての役割をも持っていました。仕事以外の暇と退屈への処方箋が必要となる人が現れるでしょう。そのとき人は、人を目的とすることができるでしょうか。手段とはしないでしょうが、機械と同じようなものとして見てしまうかもしれません。なぜなら、その人や社会がなくても生きられるからです。機械によって生かされるからです。このとき再び問われます。人はなぜ生きるのか。この問いが再び頭をもたげるのです。

 

 実際の痛みでなくても、想像でもかまわないのですが、苦痛は死を遠ざけ、ときに強力に作用して、人を生につなぎとめます。また、おまけに退屈を退けることもあります。

 

 人のもつ隠された需要は、人の生の意味です。人の生存価値の創出が人には必要です。それもゆるぎないほど強固な意味です。案出できないのであれば、暇と退屈を追い払う、ほどよい忙しさや労働を押しつけることです。そのとき、その労働が真理である必要はまったくありませんが、無意味からの忌避に無意味をあてれば、退けたい無意味がより近づいてしまうかもしれませんから、それらしい理由や意味をもっている方が望ましいものです。

 

 為政者や有力者にとって広く行き渡った暇と退屈は、人がなにをしでかすか予測がつきづらいものにします。減価貨幣や地域通貨、社会的共通資本など、冷徹な頭脳に暖かい心をもたらすためのさまざまな妙案がありますが、その一つとして採択されたことはなく、よくて骨抜きにされたものを副次的に適用されている程度です。統治のために不平等を静置しているのではないか、あるいは、資本主義が人には動かすことができないほど強大な力をもってしまったのではないかと思ってしまいます。

 

 価値の革新も労働からの解放も、尻尾が犬を振り回すのではなく、犬が尻尾を振れるようになる社会の兆しもまだまだ見えてきませんが、あらゆる問題の根源には人の思考があり、欲が渦巻いています。現実の中で理想をつくることは想像力を要します。理想を実現させる方策を考えることは、さらに想像力を要します。ジョン・ネースピッツは、他者や組織に行動させる動機づけの方法として、法による規制、教育や道徳に訴える、金銭的利害関係に訴える、の三つの方法をあげており、「規制するということは、そもそもの設計(デザイン)にミスがあることの証明だ」といいます。経済は環境や資源、人類の未来のためであるのだと教育と倫理を説き、人々の意識と行動を変革していくことも大切ですが、現実的な現状の変革を企図するのなら、権力者に規制をかけるのではなく、権力者にさらなる利益をもたらす、今以上に安定的かつ安全確実な利益が見込める制度設計をしなければならないでしょう。民主主義の国民国家において現実的な改革を設計するのなら、票を持つ現行の有力者や高齢者が、今より確実に得をするような制度でなければ、平和的な方法では実現しないでしょう。ジョン・フィッツジェラルド・ケネディやエイブラハム・リンカーンは、政府紙幣を発行し、通貨発行権を人民の手に戻すことを目指したために暗殺されたという説があります。ケネディは宇宙人について公表しようとしたから暗殺されたという都市伝説もありますが。教育は大衆より権力者にこそ必要なものですが、権力者は現状に不満がなく聞く耳をもちません。そしてその教育のベクトルはいつしか反転して拡散し、大衆に向かいます。社会構造の革新を革命といいますが、教化された大衆の訴えが聞き届けられないとき、革命がおきるのではないでしょうか。革命は方法であって目的ではありません。革命を心底望む人はいないでしょう。現代の光明の見えない社会は、革命前夜か崩壊の兆候、夜明けを予感させます。