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あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

資源を局在させる市場機能 〜偏りのラプソディ〜


資源配分と市場原理

 ライオネル・チャールズ・ロビンズさんは経済学を「資源配分」の問題を解決することであると定義しました。

 

 最適な資源配分に導くのが市場であり、そのために市場を研究し必要かつ可能であれば調整しようというものです。

 

 時代を経ますとこの流れが逆流したような傾向がみられます。

 つまり市場を健全に保つことで効率的な資源配分を達成しようという流れです。

 

 流れが逆巻いたところで「最適な資源配分」という目指すところはおなじなのだからどちらも変わりないとおもわれるでしょう?

 はたしてそうでしょうか?ほんとうにそう?

 

最適な資源配分を求めて

 スタートが異なれば前提が異なります。

 「最適な資源配分→市場原理研究・調整」では最適な資源配分を目的とする前提ですから、極端なことを言えば、それを実現できるのであればなにも市場にまかせる必要はなく、今は市場の他にはないと信じられているというだけで、ただ今は市場に仮託されているのだということです。

 

効率的な市場原理を求めて

 一方「市場原理研究・調整→最適な資源配分」では市場原理研究・調整を条件とすることが前提ですから、極端なことを言えば、最適な資源配分が実現しなくともそれは不可避の事情によるもので致し方ないものだと、前提が疑われることなく、検証されることなく受容され、あたかも市場至上主義・市場不可避な私情な思考法に陥りやすくなります。

 これではどれほど問題が起きてもいつまでもフレームワーク内での解決をはかるばかりで、フレームワーク自体に重篤な欠陥があってもその危機が過ぎ去るように人智を超えたなにかにただ祈ること以外に為すべきことがなくなっていることでしょう。

 前提の置きどころによってはフレームワーク自体を変えようという発想の芽を摘む土壌が形成されやすくなるのです。

 

 現実的には今のところ市場以外に最適な資源配分を達成する場がみあたらないので正流も逆流も同等の流れにみえるのです。

 

経済指標を疑う

 とっても恣意的(で私自身まるっきりまるごと順当だと思うところはありませんが、)これまでに採用されてきた国力をはかる主要な経済指標の変遷を概観してみますと、初期はやはり軍事力でしょう。生産力がないために肥沃な土地を求め、生産力がなくとも奪取することで補うことができましたから。

 

 次には生産力でしょうか。軍事力といっても圧倒的な兵力差でもなければ常勝は難しく、戦乱の世では人心は荒び殺伐として安定しません。

 都市化の進展にともなう人口増加にまだ効率的でなく生産性が低いために不安定な生産力もあいまった供給力不足。人を養い大きくなっていく国の形を維持するのは生産力。

 慢性的な供給力不足で需要過多であったためにつくれば売れるので、生産力・供給力をベースにみても概ね実態をつかめたことでしょう。

 

 生産力が経済指標の主軸ですが、分業もすすみ生産力が向上すると生産過多となり、つくっても売れないという事態がやってきます。

 また、需要の落ち込みやブランド維持など、こういった種々の理由から製造量を調整するということもあり、生産力が経済の実態と乖離してきます。

 

消費ではかる経済状況

 そこでふと隣を見やれば生産にいつもよりそって動いているものがありました。

 それは消費。

 消費は需要があって消化されますので、ほどよく生産力を表しつつ経済情況も表し、生産力指標より実態を映しやすく、消費も経済指標としての地位を固めていきました。

 

 おなじころ腐敗しない貴金属、なかでも銀と金、後にカネで貯蓄され、明確な数字では表せない軍事力や生産力という"力"が正確な数字で表せるためにこのような指標に置き換わっていきました。

 

 アダム・スミスさんが貴金属という富の保有量を経済指標とする重金主義・重商主義を批判して、(消費に着目した)生産力を指標とする方へと揺り戻しました。

 これもまた消費スケールが頭角を現して生産スケールとともに双璧をなすようになる契機となったことでしょう。

 

経済指標の独断と偏見による変遷

 経済史音痴の経済学ド素人による単線で暴力的なまでに荒っぽい経済指標の遷移を示しますと…

軍事力(兵站)→生産力(生産量)→資金(保有量)→生産力(消費財)→資金(マネーストック)→生産力(付加価値)→資金(マネーフロー)→生産力(イノベーション?)→資金(??)→…

 こんな出自を一とする源平交代説といった感じでしょうかねぇ?

 

 現在は生産力をもととしてそれをカネで表す指標が主流でしょう。

 それで生産財や消費財、付加価値や貿易収支・差益・差損といったことが気になるGNPやGDP、GNIといった指標が使われています。

 

 カネにはもうすこし資源利用許可証のようなはたらきがあるとおもったのですが、それ以上に偏在促進作用の方が強く効いてしまうようですねぇ。

 

分配の健全性を示す指標ではない

 数値の移動や置換の効率化が目指されてきたのであって、資源配分の効率化や最適化が目指されてきたわけではないとおもいます。

 

 付加価値にしたってもそうでしょう?価値が付されたからといってこれまでより豊かで安寧なよりよい社会になったとは限りませんもの。ただ価格が付されただけ、ただ高値添加物を用いて着色したり健康より保存性を優先したりしているにすぎないということに気づいていないということもあるでしょう。

 

 『地球文明の危機(環境編)』に「1980年代の現代文明社会」と「アフリカ中央部のイトゥリ森という広い熱帯雨林に住む狩猟採集民ムブティ」の生活環境を比較したものがあります。

 現代文明社会イトゥリ森のムブティ
環境温度 23~27℃ 20~27℃
環境湿度 50~60% 65~75%
食種 211種類(植物63種、肉23種、125種) 306種(植物79種、207種、22種)
音楽形式 16ビート・ポリフォニックスタイル
観客が演者にお金を払って楽しむ
16ビート・ポリフォニックスタイル
演者と観客の別なく全員参加で楽しむ
労働時間 約5時間 約4時間
エネルギー消費量  推計約1,000,000kcal/人/日 以上
生産、移動、戦争 等
約3,000kcal/人/日
おもに1日の食べ物

 

 現代文明社会ではエアコンを利用して温度23〜27℃、湿度50〜60%くらいにしていますが、イトゥリ森にはエアコンはありませんから風通しや日陰などそういったものによって温度20〜27℃、湿度65〜75%というエアコンの初期設定に近い環境で快適に暮らしています。

 ちなみにムブティの衣服は温度調節用というよりはおしゃれなどの美的意味合いの強いもののようです。

 

 また、食種を比較しますとイトゥリ森の方がおよそ100種多く、「まるでレジのないコンビニのなかで住むようなもの」と、たとえられるほどその食生活の様子は豊かなようです。

 居住地を定期的に移す生活を送っているのは、居住地周辺の食材を取り尽くして生態系を破壊してしまわないようにと考えられた民族の叡智なのでしょうねぇ。

地球文明の危機(環境編) ―新たな文明原理をどう構築するのか

地球文明の危機(環境編) ―新たな文明原理をどう構築するのか

  • 作者: 松井孝典,石弘之,安田喜憲,稲盛和夫
  • 出版社/メーカー: 東洋経済新報社
  • 発売日: 2010/10/22
  • メディア: 単行本
 

 

分業コスト増量中

 現代文明社会ではどこもかしこもイニシアチブの綱引き合戦。

 分業は居住地を集約して都市化をすすめて人口の偏在。

 境界の線引きで住み分ける偏向。

 戦地に集められる人や物。そこで大量消費される資源や人材。

 貧者も富者も偏る局在の効率化。

 

 分業で効率化してコスト・熱量を削減していくはずがムダでもつくって売らなければならず、投機にしたっても仮想的なものなのにそれに熱中して(お)熱を上げる。

 そしてコスト・熱量はむしろ増大。

 なんのための分業か。

 分業のメリットでさえ喰っているような様相を呈しています。

 

偏りの"熱"狂詩曲

 ヒートアイランドで熱分布は偏り、同時刻始業-終業で通勤ラッシュに帰宅ラッシュ、人も車も渋滞してインフラもライフスタイルも偏り均質化(←偏る均質)。

 賢さは偏差値ではかられて、お受験熱はヒートアップ。

 水余り地域と水不足地域は偏り、地価も人口密度も偏り、人口爆発をおこす発展途上国と少子高齢化に歯止めのかからない先進国に偏り、飢餓にあえぐ国がある一方で年間食品廃棄量が2,000万トンに及ぼうかという国もある熱量・カロリーの偏り。

 ダイエット法もなにかを抜いてみたり、なにかばかり食べてみたり偏ったり。そもそも肥満もなにかの偏り(か?)。

 

 思想や感情も偏ってあの熱この熱どんな熱?いろんなお熱が片寄る偏る熱狂フィーバー確変中!フ〜っ!!

 

世界の食料事情 世界の飢餓と私の食 飢餓のない世界を創る国際協力NGOハンガー・フリー・ワールド

 

 偏りがまったくないというのも問題ですけれどもこのエネルギー消費量の大きさと偏りったら…。

 

 現代文明とイトゥリ森の生活環境を並べて比較して見ますと、これは果たして豊かになったといえるのか、豊かになったのは熱量・エネルギー消費量ばかりなのではないかと、すこしこれまでの認識が揺さぶられるようなおもいがいたします。

 

 もちろんこれほどの人口増加とその人口の扶養には相応のエネルギー消費をともなうことではありましょうが、それにしましても桁が違いすぎますから、効率的と言えるのかなぁ…と。

 

経済効果の偏諱を賜う

 いずれにせよ経済指標の中心に資源分配が据えられたことはないでしょう。

 経済指標のあれやこれ、分配ではなく流動性を指針としていませんか?

 

 流動性や流動率は、たとえそれが一部で大きく動いているだけのたいへん偏ったものであったとしても、その数値が高値で算出されれば"活発"にみえるものです。

 つまり数値が高くても分配範囲の"活発"さは反映されていないこともあるのです。

 

 これって(静止して安定するのを待たずして、)指針の幅が左右に等しく振れていればミクロを無視して均衡しているとみなす上皿天秤のよう?(←うん。あんまりうまくない喩えねぇ〜。)

 

 『統計数字を疑う?』でも触れられているように、経済効果が上がるところあればどこかで減じているところあり、「南ニ機会損失アレバ行テ向カウニ機会利益アルヨト言ウ」というように、対象エリアや対象期間といった対象範囲を限定してみれば偏りを計測しているようなもので、地域や期間を広くみればそれほどの効果はみられません。

 その多くは資源・資金・利得の移動といった意味合いの濃いものでしょう。

 

 景気は「気」によるものですから経済効果や波及効果を発表することで「気」の流れを変えようという目論見もあるのかもしれません。

 そうであるのならいかがわしい数字ではあっても、それで気分も景気も高揚するのならそれも一興、いいとおもいます。

 ですからそのことを悪しくおもうことはありません。そんな気はないのですがそれでも「イカサマサイコロで決める損得持ち回り景気だなぁ~」感を払拭することができません。

 

現代の経済指標から導かれる"真っ当な"経済感覚

 いみじくも『統計数字を疑う?』に…

地球温暖化の防止は、環境にとってはプラスであるが、経済にとってはマイナスだ。…(略)…電力消費量の抑制につながるから、GDPにとってはマイナスの作用になるわけだ。(p.127)

とありますが、これは経済学や経済学者の感覚や神経が疑わしいものであることを示すものではなく、カネ流れをもとにした指標を用いれば誰であっても行き着く当然の帰結、「経済にとってはマイナスだ」というのは現代における経済感覚としてはごく一般的で紛う事なき"常識"となっていることを示すものです。

統計数字を疑う?なぜ実感とズレるのか?

統計数字を疑う?なぜ実感とズレるのか?

  • 作者: 門倉貴史
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2011/11/04
  • メディア: Kindle版
 

 

 わたしは今の貨幣がやっぱりどうしても好きにはなれないので、それで多分にこういう偏った見方をしてしまうようです。

 そしてこのようなバイアスがわたしの経済感覚をおかしなものにしてしまっている主因なのだとおもいます。それを「分かっちゃいるけど やめられねぇ ア ホね」。

 といったところで、資源の分配より資源の偏りをこそより促してきたのではないかと狐疑していますよこんこ~ん。

 

主客転倒の分流点

 分配も流動も大差ないように感じられるかもしれませんが、これも前提と目的、前提と条件の主客の転倒のように見た目ほど凡庸な差ではないようにおもいます。

 それはあたかも単位の異なるもの同士の対比に見えるのです。

 分配は量を、流動は運動といったように。

 また分配は個々人、流動は全体といったように。

 

 「消費のための生産」が「生産のための消費」に首座をおわれ、経済成長・景気刺激のために欲望を喚起するように。

 

商魂清浄

 これほどまでの人口増加とオートメーション化、そして分業の効率性をも凌ぐ機械の効率性といったものは想定外だったのではないでしょうか。

 

 これほどまでの社会の進展がみられなかった頃では、人口増せばそれにともなって人力や雇用の需要が上がるから就業率を上げ失業率を下げるという方針は妥当なものであったことでしょう。

 

 しかし「どうやらそうでもなさそうだ」ということが見えてきた、あるいは見えてはいたけれど支配に便利だといったことで意図的に目隠しされていたところの覆いがチラチラと垣間見られるようになってきて、その妥当性に疑義が呈されるようになってきたようにおもわれます。

 

 しかしそれでも旧態依然の感覚を脱すること能わず、そうしてこれまで大きな声で「よりよい社会のために」「豊かな国づくりをめざして」「立ち上がれ」などのスローガンが訴えてこられたのは市民に闘魂を注入するためではなく、商魂を注入するためだったのではないかとさえおもいます。

 

 社会貢献を目的として自己犠牲もいとわず大成した商人もおりますから一概に商人が悪いというわけではありませんが、多くは過剰や不当な競争を是とする土壌作りに貢献させられてきたところがあるでしょう。

 歪んだ商人気質の広がりで倫理も品位も協調性も貶められて、たしかに身分間の弾力性は上がりましたが、経済格差だけでなく階層格差も広げてきたのではないかとおもいます。

 身分格差を希釈する一方で階層格差の進捗を隠すようにしてね。

 

承認補完計画

 近代化によって身分制度は解消されていき、皆が国民や平民といったように平等・公平・統一的に一括りにされたように見えて、その実みな商人になることを強いられてきたのではないかとさえ錯覚してしまいます。

 

 「それが仕事だからねぇ」と当然視されることがありますが、昔のバスや電車の駅員さんや運転手さんはそれはそれは無愛想で、なんならお客に向かって怒鳴りつけるなんてことの方が"日常"でした。今も昔も仕事なのにね。

 

 現代の方が他者を敬いモラルが向上したと見るのがふつうで正しい見方でしょうが、性根の悪いねじけた者の目にはお客の側にも商人化が浸透していき、人類商人化計画が広がった結果なのではないかともうつるのです。

 

 お客の側の商人化というのはどういうことかと申しますと、対価を払う・払っているのだからそれなりのサービスを受けることは当然のことであり、不文律として「上下関係」が発生するのは自然なことであるという考えや、常に「安いモノはどこか?安いのはどちらか?」と、損することを過剰に嫌忌しコスト計算に余念のない、あたかも利益第一とする守銭奴然とした「勝ち組」「日常の中の上下(労使)関係」「賢い消費者」なのだといったことを当然視する意識のことです。

 

 だってサーバントの前にヒトでしょ?ヒトを押しのけてサーバントという役柄や職業が前にきているでしょ?ヒト(ということヒトであること)を抑圧してでもサーバントに徹しなさいということではよもやないでしょう?

 よもやもはやの商人(としての承認)意識(の商用)称揚の結果が現代の「ブラック○○」の蔓延と延命を実現しているのではなくって?

 

皆商人承認制度

 普及率が高まれば需要が落ち込みそれにともなって生産が縮小します。

 生産が縮小すれば今よりもカネやモノの動きが鈍ります。

 そうしてさらに生産は縮小します。

 へ来て「需要創出」頼りはいかがなものでしょう?

 モノの需要ではなくサービスの需要を開拓するといわれるのかもしれませんが、みな誰しもがなにかを売らなければならないのでしょうか。

 皆保険制度ならぬ皆商人制度か?

 

 なにかを売らなければコミュニティからつまはじきにされて生きてはゆけない、生きづらい。

 売ることが生存許可証の発行される最低条件のようです。
 これは承認補完計画か?

 承認欲求も店頭に並ぶような時世のようです。

 

 商人~♪ 承認~♪

SHOW ME

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六根清浄、商魂清浄。どっこいしょ~、しょっこいしょ~。

 GDPや経済成長率といったものは今や金利や為替、株価を高めることが主眼におかれ、人を金融投棄に向かわせ人類皆商人化をうながすばかり。

 GDP・GNP・成長率・所得・失業率…etc は幸福度や文化水準、進化の度合いを表すとは限りません。現代のこういった指標はただ消費・熱量・過剰・支配欲を示すばかりのジャイアニズムなジャイアン指標。

 熱消費量の巨大さと強権的・暴力的・圧政を敷くジャイアンか。

 

 「売れる!」とわかれば特定品種・局所の保護・捕獲・乱獲・養殖・大量生産に偏る大歌舞伎。

 大見えきったトリクルダウンなんてあって雀の涙ほど。シャンパンタワーなんて夢のまた夢の幻想。こんなもん豪腕による見当違いな豪遊みたいなもん。こうしてまた片寄り偏見傾斜配点加点されてる。

 

 商売の成功や失敗により恨みまで売ったり買ったり輸入したり輸出したり貿易・交易したりするようなしくみってどうなのでしょう。

 経済は命の関わる商売を目指してきたのでしょうか。

 

 こんなんでは政治エリートや経済エリートなど、「エリート」という呼称がなにやら商売感覚の高さを示す指標・レッテルのような音色を含んで響くようではありませんか。

 

 これもそれも道徳と経済と政治が馴染まないからなのでしょうねぇ。

 この三つ巴の三竦み。うまいこと解けないでしょうかねぇ。