言語料理
言葉味
『所さんのニッポンの出番!』の「世界の和食を大変身!ニッポンの味伝授ツアー」で絶対舌感をもつという有坂翔太さんが海外の人料理店に赴くというものがあったのですが、あれを見ていて思ったのは…情報社会に突入して久しいのに、番組に出ていた海外の料理人はなぜネットで調べないのでしょう?ということです。
独自の料理でもおいしければいいとおもいますが、そうでもないのに受け入れられてもいるというのが、お客さんの方も調べないのはなぜでしょう?とのおもいがつのるばかりでした。
「日本料理」「和食」というネーミングだけで成立してしまっているのかなぁ…。
すこしまえに『SWITCHインタビュー達人達』の厚切りジェイソン×金田一秀穂の回について触れましたが、そのことともむすびついて、言葉を食べて生きているんだなあとおもいました。
また、絶対舌感も絶対音感も、その開眼・発揮には、その味や音を以前に経験して記憶されていることが前提。そして絶対音感や絶対舌感も言葉のストックが多いということなのかもしれないなあ。と。
グルメリポーターはまさしく言葉の適用者ですしね。
それじゃあ食(欲)の探求者は言葉の探求者?
言葉食中毒
食を楽しむというのは味を楽しむということ以上に会話を楽しむことなのかもしれませんね。
この会話を楽しむと言うときの「会話」は他者との声による言葉のやりとりだけにとどまらず、味という言葉との言葉の応酬、その場の雰囲気という言語の解読なども含みます。
交渉や交際は会食からはじまり、会食の場でおこなわれることがおおいですし、食事のマナーが合わないと、とことん合わなかったりしますし、食べ物の恨みは恐ろしいですし。
食欲も性欲も報酬系はA10神経を共有しているそうですが、麻薬ほどの激烈さはないにしても、肥満はその軽度な中毒症状の現れのひとつなのではないかとおもいます。
ということは…これもまた言葉中毒ということなのかな?
まさか人類皆言葉中毒罹患者?
そこから離脱する方法が修行?
すすられるひと
映画『南極料理人』のきたろうさんがらーめんをすするシーン。
なにか食べるということの楽しみが伝わってくる映画でした。
なんということのない映画でしたが、なんとなくみていられる映画でした。
昨今のらーめんブームを見ておりますと、(映画でも気象(オーロラ)観測そっちのけでらーめんに没頭されていて)はたしてすすっているのは人間なのか?らーめんなのか?
らーめんという言葉にすすられているように麺といえばそばのわたしには感じられます。
わたしはわたしでそばという言葉にすすられているのかもしれませんけれどもね。
食の手
食べることばかりでなく、食べるものをつくるということに関してもひとつ思ったことがありまして、それは「手をかける」と「手がかかる」ということです。
「おいしいものをつくろうとおもうのなら手間暇かけなければならない」とおっしゃる方が多いかとおもいますが、それってほんとうにそう?
おいしいものをつくろうとすると「手間暇がかかる」、あるいはおいしいものをつくろうとした結果「手間暇がかかってしまった」ということだとおもうのです。
「素材の味を大切にする」ということであまり調理をしない場合でも、その素材をつくるのに他と比べて手がかかっていることとおもいます。
またお得意の微に入り細に入るちょっとした違い、一文字違いに気を取られてしまったのですが、手をかければなんでもかんでもおいしくなるわけではないでしょう?
手のかけ方も重要ですからね。
その料理ではたまたま手がかかってしまったぁというのが実情なのではないかとおもうのです。
これは料理に限らず「いいもの」にも言えることではないでしょうか?
削ぎ落として洗練し、手数をすくなくすることでうつくしくなる武道や茶道といった道、絵画、Less is more、いろいろございますでしょう?
「手がかかる」からといってよくなるとは言い切れないもののうちでその最たるもの。それは「ひと」…かな?
「手をかけ」たくなかったのに「手がかか」ってしまった子が洗練されるかどうかには博打のようなところがありますからね。
こちらもいかが?