あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

初リジェクトされた3つ目のLINEスタンプの申請からリリースまでをちょいせつ(解説)

目安は1週間!

【LINEスタンプが承認されるまでの流れ】

  • 2017年4月19日水曜日14:00ごろ 申請する
  • 2017年4月21日金曜日16:00ごろ リジェクトされる
  •  2017年4月21日金曜20:00ごろ 画像を差し替え再申請する
  • 2017年4月26日水曜日19:00ごろ 承認される
  • 2017年4月27日木曜日21:00ごろ リリースする
  •  2017年4月27日木曜22:00ごろ LINE STOREに反映される

 

 リジェクトされたイラストについてはこちらをご参照ください。→「LINEスタンプの審査にかかる時間は今、結構そっこうコケコッコーなり。

 

 

 リジェクトされなければ申請出してから6日

(その根拠はこちら→「LINEスタンプ審査員に休みなし!?」)

 

 申請出してリジェクトされて再申請を要しても7日

 

 なのでLINEスタンプの申請からリリースまでにかかる期間の目安は1週間といったところでしょう。

 

 ただしこれはLINEスタンプとして申請した画像をすでにブログなどで公開し、LINEスタンプ申請画面で「作品が確認できるURL」のところに画像が確認できるURLを通知している場合の目安です。

 「画像の事前公開&URL通知」で著作権等の確認がしやすくなるため承認までの期間が短くなるのであって、そうでない場合はもう少し時間がかかるものと思われます。

 

色味が地味な鳥と昆虫たち

 では次に、今回リリースした3つ目のLINEスタンプ「小ジャレた鳥と昆虫館」の生き物たちのご紹介です。

小ジャレた鳥と昆虫たち

 さすがに色味が暗いねっ。

潜在的に「既存」?なデジタル著作物

 ここのところほぼ一日中イラストの着色作業に明け暮れているのですが、そのイラストを描いていて画像を拡大して修整するのにピクセルをみつめておりますと、こんなことをおもいます…

 

(わたしの場合はそのうちLINEスタンプ申請しようとおもっているのでW370px×H320px、余白をとるので実際の描画範囲は350×300を念頭に置いて考えてしまうのですが、)350×300だから10万5千ピクセル。

 このおよそ10万個ほどのドットの集まり一点一点に(24ビット1670万色だと数字があまりにも大きくなってしまうので)8ビット256色つけられるので256^105,000。

 輪郭線だけで考えるなら白黒二値なので2^105,000と、それでも膨大な可能性が考えられるのですが、ですがそれでも有限なわけで、おそろしい高速処理コンピュータを昼夜問わず走らせたら、(そんなコンピュータはまだありませんしいつかできるのかもわかりませんが、それでも)あらゆる絵が出力されうるのです。

 

 すると(デジタルなものに限って言えば)創造的な創作活動とおもわれていることもすべて機械的に再現されうるもので、また潜在的にすでにありうるものとなりますから、ある意味「既存」のものが毀損されたと著作権や使用料、権利や許諾ってなんなのでしょう?そんなことに目くじら立てて争うなんてなんかむなしいし、人間の奢りなのではないかとおもわれてきます。

 

 イノベーションというのは(なにもないところから)まったく新しいものを生み出すというよりも、既存のものを組み合わせた新しいものをつくるということです。

 

 デジタル画像であれば"選ぶ"または"発見する"こと、イノベーションであれば"組み合わせる"こと。

 いずれにせよ「(潜在的)既存」のもの、すでにあるものを利用した「創作物」。

 著作権というより先見権や先行権、先選権や先取権といった方が近いような気がする。

 

 デジタルな著作物は無劣化コピーが容易で(法的なこと等を除き)際限なくコピーを生成・出力できます。

 コピーの氾濫で(デジタル著作権、デジタルな著作物に関する著作権ということではなくって、)デジタル著作物の著作権も(デジタル管理といったようなことではなくって、コピーが容易で複製が増えるという意味で)デジタル化がすすんでいくのではなでしょうかね。

 

 著作物の著作権や使用料などでこれほどまでに目くじら立てていがみ合うことになる最大の要因はお金(富・財)の仕組みにあるのではないでしょうか。

 他の要因も考えられますが、他のものはお金のように生活がかかっているということもなく、生命に関わるということもありませんから。

止まない権利創造。止めない所有権創造。

めでたさのわからない「おめでとう」

 ご報告が遅れましたが、あの子は無事、高校入試合格しました。

(あの子ではなくわたしの奮闘記の一端はこちら→「数字で見る!これだけは覚えておきたい高校受験生391の英単語」)

 

 それで「合格報告」と称した集金にやってきたのですが、やっぱりわからない…入学や進学、あるいは入社が決まったとき、なぜ「おめでとう」と言うのでしょう?おめでたいことなのでしょうか?

 

 「こどもの成長を祝う」であったり、「努力が報われた」ということであれば「おめでとう」ですが、江戸、明治、大正、昭和と平均寿命はのび、こどもの死亡率が下さがっておおむね無事成長することが一般的にはフツーとなった平成、選ばなければ特段の努力もなく進学できるようになった昨今、入学や入社は「おめでたい」こと?

 

 形骸化したセレモニー。暦どおりのイベントにすぎないイニシエーション。めでたさがわっからないわぁ~。

 

 ということで、あの子が集金にやってきたときも「おめでとう」のかわりに「よかったねぇ」と言うことで「おめでとう」といったかのような雰囲気を終始醸し出し、さもすでに「おめでとう」といったかのようにふるまって、その実、言わない。言ってない。

 

 成長は喜ばしいことですが…だってあの子ぜんっぜん勉強してないのですもの。

 もってうまれた運をよろこび祝えというのでしょうか?

 いややわ~。

 だから言わない。

 

 あの子にはもうちょっと先の話だけれど、「入社・就職祝い」なんてもっと「めでたさ」がわからなくなってしまいましたね。

 昔なら成長を祝うということを抜きにすれば、「家族のため、お国のため、世のため人のため、これで晴れて社会の一員、仲間入りおめでとう」といったところでしょうが、現代ではねぇ…。

 物不足社会であればまだしも物余り社会ではわっけわからん。物余り社会では「世のため人のため」も過剰供給であまってしまうのではないでしょうかね。

 

 へんくつなことを申してきましたが、「おめでとう」はやはり一番には「(健やかな)成長」を祝うものですから素直に「おめでとう」と言えばいいのです。

 

 けど…やっぱり言わない。

 3年後か7年後か9年後か11年後か、あるいはもっと先のことになってしまうのかもしれませんが、もしあの子が「就職報告」(と称した集金)にやってきても、おそらく「おめでとう」とは言わないか、あるいは出来る限り言わないように努めているのだとおもいます。